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「忘れない」ということ

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 戦後70年。最近、気になってしようがないこと。

 たとえば、原爆などの慰霊式典で、年端も行かない子どもたちに、「この(または戦争の)悲劇を(または惨禍を)けっして忘れてはならないと思います」などと言わせること。
 子どもたちはもちろんだが、言わせる大人たちがどれほどその悲劇、または惨禍のことを筋道だてて理解しているのか。

 「忘れない」というからには、その前提として「知る」ことが必須だと思うが、肝心の「知る」ことはすっ飛ばして、あるいは特定の思想信条で曲解したまま知ったかぶりをして、とにかく先に「忘れない」のメッセージありき、という例が多いように思う。
 この夏もテレビを見て感じたことだが、「戦争体験者」と呼ばれる人のハードルも、戦後70年もたてばやむを得ないとはいえ、かなり下がってしまっている。
 これが10数年前なら、「戦争体験者」といえば少なくとも軍人経験者か、勤労動員など何らかの事情で戦争そのものに関わった人たちを指していたと思うが、近ごろ「戦争体験者」と称してテレビカメラの前に立つ人の多くは、戦時中まだ子どもだった人である。
 「疎開先でおなかいっぱいご飯が食べられなくてひもじい思いをした。だから戦争は悪い」
 というのをニュースの街頭インタビューで聞いたが、それは戦争の一断面ではあっても、一断面だけで全体を語ることなどできるはずがない。ましてやそれが「戦争」だと決め付けるのはいささか乱暴なように思う。

 それというのも、姪が修学旅行で広島に行くことになり、事前の「平和学習」とやらで、日教組のセンセイ方に反戦教育を叩き込まれ、その成果をみんなの前で発表させられたと聞いたから。
 「じゃあ、戦争はどうして起こったと思う?」
 と聞いても答えられない。原爆の前段階としては、ただひたすら「日本軍は悪かった、日本はアジアで悪いことをしてきた」という偏向したあらすじを教えられるだけで、これで子供たちにほんとうに戦争の惨禍を理解させるのは無理だと思うし、「忘れない」のも、「繰り返してはならない」のも、単に即物的な嫌悪感からくる底の浅い理解にとどまってしまうだろう。
 これが行き着けば、自衛隊を「暴力装置」ととらえる、民主党政権時の仙石官房長官のような馬鹿が出てきても仕方がない。


 ひるがえって、日教組とかサヨク系の皆さんとは逆の立場で、戦争を語る人たちはどうだろう。
 じつはこれも、似たり寄ったりだと思う。
 あるミリタリーマニアの人が、「兵器のマニアはつねに戦争のことを考えているから、マニアでない人よりも平和のことをきちんと捉えている」と言ったが、一般論としてそれはないでしょう、と思う。
 旧陸海軍のファンの人(意外に多い。とくに近年、女性の台頭がいちじるしい)が、ネット上などで、
 「この人たちのことを忘れてはならない」「こんな人がいたことを一人でも多くの人に知ってもらいたい」
 とよく書いているが、「忘れない」「知って欲しい」というからには、本人がそのことをよく知る、理解する、というのが第一にくるべきはずなのに、「勉強したい」「もっと知りたい」という殊勝な心がけが文面に表れていることは稀である。


 だいたい、「忘れてはならない」とか、「知ってもらいたい」とか、自分がそう思うのは勝手だけれど、人に言うのは押し付けがましいというか、不遜な感じが鼻につく。
 自分で関係者を直接取材したわけでも、一次資料をつぶさに調べたわけでもない人が、受身・受け売りの知識を偉そうに開陳するだけでは、たぶん、にわか仕込みの偏向教育で「戦争は悪い」と言わされる小学生と大差ないだろう。

 少なくともそういうことを言ったり書いたりするためには、市販の本をただ読むだけでなく、直接、人を探して会ったり足を運んだり、然るべき場所で資料を探したり、自分の身を削って勉強する謙虚な覚悟が必要なのではなかろうか。


 昔の軍隊や軍人にイリュージョンを持つ人たちの拠りどころになる本の多くも、別の意味で偏向していることが多く、当事者の名前で出ているからといって、それが本人の真情を正直に伝えたものであるとは限らない。たとえば、累計150万部のロングベストセラー「大空のサムライ」(坂井三郎著)を実際に書いた高城肇氏によると、このシリーズで坂井さん本人が書いた原稿は「一行もない」そうだ。
 実際に元軍人の書いた原稿を編纂する立場でいうと、たとえご本人が書いた原稿でも、それをそのまま本や記事にできるほどの完成原稿が書ける人はきわめて限られているから、必ずといっていいほど編集者やプロの作家による大幅な修正が入る。それが本の価値を貶めるものではないにしても、多少の脚色は避けられないと思ったほうが自然だろう。

 ともかく、自分自身で情報の発信をしたいなら、自分で材料を集め、吟味するという、ジャーナリスティックな作業は不可欠だろうと思う。私が本を「読み物」ではなく「資料」としたい場合は、実際に書いた人は誰であるかをふくめ、極力、一次資料の裏付けをとって咀嚼するよう心がけている。
 それと、いくらデータ的な記述が正しくても、たとえば零戦搭乗員を「何機撃墜のスコアをもつエース」などというように、まるでゲーム感覚の無神経さで当事者の真情と大きく乖離した内容で書かれているものもあるから、要注意である。総じて、当事者以外の本では、著者のジャーナリズム経験のあるなしで信憑性が大きく変わる。
 「軍神」とか「エース」とか「○○の神様」とか「○○の貴公子」とか、形容詞や修飾語、感情の表出ばかり多くてファクトのない文章を書きたがる人の本は信用しないほうが無難である。


 ・・・・・・とまあ、偉そうに書いたけど、ほんとうに「知る」ということは奥が深い。私も日々勉強しながら、より正しい事実を、ネットではなく書籍を通じて人に知ってもらうべく、がんばろうと思う。



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