「いま思えば」ということはよくあるが、いま思えば、おもだった元零戦搭乗員をふくむ戦争体験者の人たちに、新規に一から筋道立ててインタビューし、それを一冊の本、あるいは一本の番組にまとめるということについて、タイムリミットは、はっきり言ってすでに過ぎている。
これから先の取材者や著者にできるのは、ピンポイントの記憶と既成の記録の切り貼りぐらいではないだろうか。
たとえば真珠湾攻撃。
4年前、70周年で盛り上がろうとメディアが仕組んだ割に盛り上がらなかったのは、真珠湾攻撃に実際に参加し、しかもカメラの前で話ができる人がいないに等しいからだと思う。
60周年の時は、それが30人いた。55周年の時には50人ぐらいいたはずだ。10年、15年とはそんな時間である。
現在、攻撃隊でご存命の方もいるにはいるが、10年前と言うことがずいぶん違っていたりして、もはや責任ある発言、証言は無理だと思う。お元気な人がいらっしゃるのは知っているが、ご本人があまり表に出たがられないのと、メディアが押し寄せ寿命を縮めるようなことになっては困るので、私は黙っている。
基地航空隊も同様。開戦70年の年、台湾の実業家の方から、開戦初日のクラーク空襲に出撃した台南空、三空の搭乗員を招いて、いまも残る台南飛行場で大々的にセレモニーをやりたい、という話があったし、同様の相談は他にもあったが、いずれも「Too late」であると断った。
私が、これはもう、新規に取材を起こすのは無理だな、と感じたのは、昭和18年4月18日、山本五十六聯合艦隊司令長官が戦死した、いわゆる「海軍甲事件」の直接の当事者が一人もいなくなってしまった7年前(平成20年)である。同じ年、フィリピン、台湾での特攻の一部始終を知る立場にあった門司親徳さん(大西瀧治郎中将副官)も亡くなっている。
幸い、それ以前の膨大な取材記録と資料があるから、ご存命の方を訪ねるのと合わせてあと数冊分、本を書くだけの材料はあるけれど。
以下、7年前、私が「零戦の会」掲示板(旧)に書いた、柳谷謙治さん、谷水竹雄さんの訃報記事。
残念なお知らせです。
丙飛三期出身の歴戦の元搭乗員が、相次いでお亡くなりになりました。
柳谷謙治氏(十五徴・丙飛三期)平成20年2月29日
谷水竹雄氏(十五徴・丙飛三期)平成20年3月12日
御両名とも大正八年のお生まれでお誕生日もひと月違い、満八十九歳を目前にしてのご逝去でした。
在りし日の勇姿を偲び、謹んでご冥福をお祈りいたします。
柳谷さん、谷水さんのご逝去の報に、謹んで哀悼の念を捧げます。
お二人とも、昭和十五年一月の徴兵で海軍に入り、ともに丙種飛行予科練習生三期生を経て、戦闘機搭乗員となられました。
ともに、六空(のち二〇四空)の隊員でいらっしゃいました。
柳谷さんとは、十数年前より二〇四空会でご一緒させていただいたり、何度かご自宅にインタビューに伺ったりして、貴重なお話を聞かせていただきました。
その一端は、拙著「零戦隊長~二〇四空飛行隊長宮野善治郎の生涯」(光人社)にも反映させていただいています。柳谷さんは周知の通り「海軍甲事件」六機の護衛戦闘機中ただ一人、戦争を生き抜かれた方ですが、私はむしろ、ガ島攻撃で被弾、右手を失った後の再起の軌跡に心惹かれるものがありました。
宇垣参謀長機の主操縦員、林浩さん(十四志・丙飛三期)も一昨年亡くなって、これで甲事件の直接の当事者はどなたもいらっしゃらなくなりました。
谷水さんには、写真のご提供をいただいたことがあります。柳谷さん、谷水さんとも、「零戦最後の証言」などにご登場いただかなかったのは、すでに著作、あるいはご本人を主人公にした小説などがあったからですが、それも、今となっては残念に思えます。
谷水さんのご逝去で、宮野大尉の指揮下、空母隼鷹に便乗してアリューシャン作戦に参加された六空の搭乗員は一人もいらっしゃらなくなりました。
隼鷹飛行隊長志賀淑雄大尉、臨時隼鷹乗組(本籍は翔鶴)で参加された佐々木原正夫、河野茂両氏もここ数年で相次いで亡くなって、AL作戦の臨時乗組を含む隼鷹戦闘機隊もまた、全滅です。ある事柄を語れる、あるいは体験した人がいなくなると、急に歴史が遠くなったような気がしますね。
このところ掲示板への訃報掲載を見合わせていましたが、昨年、二〇一空分隊長(のち戦闘三〇六飛行隊長)中島大八さん(大尉・海兵六十八期)、二五三空分隊士・中島三教さん(飛曹長・八志、操練29期)の二人のラバウル・ソロモン方面経験者も亡くなっています。ご縁のあった方ばかりですので、本当に辛いですね。特に中島三教さんは、捕虜になって生還されたわけですが、戦後出された本の中で、「不時着水してその後、フカに食われた」ことにされてしまい、著者も出版社も訂正の意思はないようで、気の毒でなりません。
これから先の取材者や著者にできるのは、ピンポイントの記憶と既成の記録の切り貼りぐらいではないだろうか。
たとえば真珠湾攻撃。
4年前、70周年で盛り上がろうとメディアが仕組んだ割に盛り上がらなかったのは、真珠湾攻撃に実際に参加し、しかもカメラの前で話ができる人がいないに等しいからだと思う。
60周年の時は、それが30人いた。55周年の時には50人ぐらいいたはずだ。10年、15年とはそんな時間である。
現在、攻撃隊でご存命の方もいるにはいるが、10年前と言うことがずいぶん違っていたりして、もはや責任ある発言、証言は無理だと思う。お元気な人がいらっしゃるのは知っているが、ご本人があまり表に出たがられないのと、メディアが押し寄せ寿命を縮めるようなことになっては困るので、私は黙っている。
基地航空隊も同様。開戦70年の年、台湾の実業家の方から、開戦初日のクラーク空襲に出撃した台南空、三空の搭乗員を招いて、いまも残る台南飛行場で大々的にセレモニーをやりたい、という話があったし、同様の相談は他にもあったが、いずれも「Too late」であると断った。
私が、これはもう、新規に取材を起こすのは無理だな、と感じたのは、昭和18年4月18日、山本五十六聯合艦隊司令長官が戦死した、いわゆる「海軍甲事件」の直接の当事者が一人もいなくなってしまった7年前(平成20年)である。同じ年、フィリピン、台湾での特攻の一部始終を知る立場にあった門司親徳さん(大西瀧治郎中将副官)も亡くなっている。
幸い、それ以前の膨大な取材記録と資料があるから、ご存命の方を訪ねるのと合わせてあと数冊分、本を書くだけの材料はあるけれど。
以下、7年前、私が「零戦の会」掲示板(旧)に書いた、柳谷謙治さん、谷水竹雄さんの訃報記事。
残念なお知らせです。
丙飛三期出身の歴戦の元搭乗員が、相次いでお亡くなりになりました。
柳谷謙治氏(十五徴・丙飛三期)平成20年2月29日
谷水竹雄氏(十五徴・丙飛三期)平成20年3月12日
御両名とも大正八年のお生まれでお誕生日もひと月違い、満八十九歳を目前にしてのご逝去でした。
在りし日の勇姿を偲び、謹んでご冥福をお祈りいたします。
柳谷さん、谷水さんのご逝去の報に、謹んで哀悼の念を捧げます。
お二人とも、昭和十五年一月の徴兵で海軍に入り、ともに丙種飛行予科練習生三期生を経て、戦闘機搭乗員となられました。
ともに、六空(のち二〇四空)の隊員でいらっしゃいました。
柳谷さんとは、十数年前より二〇四空会でご一緒させていただいたり、何度かご自宅にインタビューに伺ったりして、貴重なお話を聞かせていただきました。
その一端は、拙著「零戦隊長~二〇四空飛行隊長宮野善治郎の生涯」(光人社)にも反映させていただいています。柳谷さんは周知の通り「海軍甲事件」六機の護衛戦闘機中ただ一人、戦争を生き抜かれた方ですが、私はむしろ、ガ島攻撃で被弾、右手を失った後の再起の軌跡に心惹かれるものがありました。
宇垣参謀長機の主操縦員、林浩さん(十四志・丙飛三期)も一昨年亡くなって、これで甲事件の直接の当事者はどなたもいらっしゃらなくなりました。
谷水さんには、写真のご提供をいただいたことがあります。柳谷さん、谷水さんとも、「零戦最後の証言」などにご登場いただかなかったのは、すでに著作、あるいはご本人を主人公にした小説などがあったからですが、それも、今となっては残念に思えます。
谷水さんのご逝去で、宮野大尉の指揮下、空母隼鷹に便乗してアリューシャン作戦に参加された六空の搭乗員は一人もいらっしゃらなくなりました。
隼鷹飛行隊長志賀淑雄大尉、臨時隼鷹乗組(本籍は翔鶴)で参加された佐々木原正夫、河野茂両氏もここ数年で相次いで亡くなって、AL作戦の臨時乗組を含む隼鷹戦闘機隊もまた、全滅です。ある事柄を語れる、あるいは体験した人がいなくなると、急に歴史が遠くなったような気がしますね。
このところ掲示板への訃報掲載を見合わせていましたが、昨年、二〇一空分隊長(のち戦闘三〇六飛行隊長)中島大八さん(大尉・海兵六十八期)、二五三空分隊士・中島三教さん(飛曹長・八志、操練29期)の二人のラバウル・ソロモン方面経験者も亡くなっています。ご縁のあった方ばかりですので、本当に辛いですね。特に中島三教さんは、捕虜になって生還されたわけですが、戦後出された本の中で、「不時着水してその後、フカに食われた」ことにされてしまい、著者も出版社も訂正の意思はないようで、気の毒でなりません。