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72年前のラバウルの正月 (五八二空司令・山本栄大佐日記より)

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 あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。


 さて。今年は戦後70年。
 70年前~78年前の今頃は何があったか・・・と考えるのが、半ば習慣と
なっている。


 海軍戦闘機隊司令としてソロモン、比島方面で活躍された山本栄
大佐の戦闘日誌が私の手元にある。山本大佐は二空~五八二空、大分空、二〇一空司令などを歴任、戦後はカトリックに帰依し、二宮の教会で若い人たちのよき相談相手になるなど非常に人望の厚かった方だ。

 時々、読み返してみるが、これが滅法面白い!!。

 詳細をここで披露するわけにはいかないけれど、ちょっとだけご
紹介。
 
 この日記、戦闘についての詳細な記述はもちろんのこと、なんでもないところが妙におかしかったりする。

 たとえば、指揮官が必ず読んだ進出予定の土地のデータの一覧表
があるが、人口、気候、飲料水、風土病、衛生状態などのデータにまじって「猛獣毒蛇」という欄があり、ラバウルやツラギには鰐、大蛇、毒蛇と並んで「食人種アリ」という記述が見える。
 「少シ山ニ入ルト鰐、毒蛇、食人種、野豚等アルモ港付近ナシ」といった具合。
 いまなら人種差別と言われそうだけれど、ソロモン諸島に20世紀はじめまで食人の習慣があったのは知られているし、不時着して食われてしまう危険があるなら、「食人種」は「人」よりも「猛獣」に近かったわけだ。

 それと、興趣を覚えたのが、地図や本文中の随所に出てくる、横
文字の地名を漢字に直した「ネイビー当て字」。

 当時の航空図など見ても、これらはカタカナ表記になっているこ
とが多いから、半分面白がって頭をひねったのかも知れないけれど…。

 とりあえず、順不同だが、並べてみる。

 羅春(ラバウル)、乳振点(ニューブリテン)、武加(ブカ)、
華美園(カビエン)、乳愛留蘭童(ニューアイルランド)、仙乗寺岬(セントジョージ岬)、防厳美留(ボーゲンビル)、部員、武允、武殷(いずれもブイン)、羅江(ラエ)、武奈(ブナ)、婆抜、晩愚奴(いずれもバングヌ)、学界、岳海(いずれもガッカイ)、羅美(ラビ)、猪威勢留(チョイセル)、部良良部良(ベララベラ)、古倫晩柄(コロンバンガラ)、乳情事屋、入城寺屋(ニュージョージヤ)、、伊佐辺留(イサベル)、俄儀(ガギ)、和義奈(ワギナ)、毛野(モノ)、都楽(トラック)、寝損岬(ネルソン岬)、漏須美(モレスビー)、我足可也(ガダルカナル)、・・・・・・といった具合。

 個人的には、乳振点、乳愛留蘭童、というのが好きだ(好き嫌い
の問題じゃないか)。

 その他、あちこちに狂歌や川柳が見られ、当時の雰囲気がうかが
える。

 元旦や 宿舎の庭に 蝉が鳴き
 元旦や 暁破る 弾丸の音
 元旦や 敵まで呉れる 落しだま


 ・・・これは、72年前の正月、昭和18年1月1日、
ラバウル基地が敵ボーイングB-17編隊の空襲を受けた時のもの。

 この日、我が零戦隊はこれを邀撃、一機に有効弾を与えた。
 司令部の敵信傍受によると、このB-17は、その後エンジン3基が停止したとの交信を最後に消息を絶ったそうだ。

 そこで1月3日の日記に書かれている、三和義勇大佐作の狂歌。

 落し弾 落したはづみに落されて ヘルプヘルプと泣く暴淫具(
ボーイング) 

 ・・・暴淫具、というのがなにやらネイビーらしくていい。

 1月9日にはエモ湾の敵輸送船団攻撃があったが、やはり三和大
佐作の狂歌。

 エモの海 無難とばかり 思ひしに など弾丸などの おちさわ
ぐらむ

 ・・・これは、有名な明治天皇御製、「四方の海 皆はらからと
 思う世に など波風の 立ち騒ぐらむ」のパロディ。

 まだこの頃には多少余裕があったのか、なんだか風流な匂いがす
る。


  
 (昭和18年7月、解隊される五八二空戦闘機隊の集合写真より抜粋。中列右から、司令山本大佐、飛行隊長進藤三郎少佐、分隊長鈴木宇三郎中尉。)


 ただ、前半は笑いあり、涙ありの人情時代劇の趣があるこの日記
も、最後は否応なしに特攻に集約されていく、悲劇の幕切れとなる
 搭乗員はもちろん、従兵や看護婦まで、世話になった人、一人一人の氏名本籍、感謝の気持ちを書き留めていて、部下を思う気持ちなど、読んでいてジーンとくることもしばしばである。





余話 『特攻の真意』(文春文庫) 山本大佐の部下への思い(再録)

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 昨年、文庫化された拙著『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(文春文庫)にも登場する、二〇一空司令・山本栄大佐という人が、私は大好きだ。
 二〇一空の前には二空・五八二空司令としてラバウル方面で苦しい戦いを一年以上も指揮し、半年強の短い間に大分空司令兼大村空司令、宇佐空司令、十三聯空附(高知空司令予定)を歴任して、昭和19年7月10日、二〇一空司令に発令され、同17日、二〇一空のいるダバオ基地に着任した。

 山本大佐は戦後、キリスト教に帰依し、フランシスコ・ザビエルの洗礼名で若い信者たちの崇敬を集めることになるが、戦時中につけていた日記を見ても、部下をはじめ人に対する情の深さが並々ならぬ人であったことがわかる。
 この司令が率いる航空隊が、最初に特攻隊を出すことになろうとは、と、なんともいえない気持ちになる。


 19年10月19日、大西瀧治郎中将がまさに特攻隊の編成を告げるためマバラカットの二〇一空本部に赴いたとき、大西中将と入れ違いにマニラの一航艦司令部に着いた山本大佐は、中島正少佐が操縦する零戦の胴体に同乗し、急ぎマバラカットへ戻ろうとしたところで不時着事故に遭い、左脚を骨折する重傷を負う。

 山本大佐はそこで、二〇一空の指揮を副長・玉井浅一中佐に委ねてマニラの海軍病院に入院するが、日記には、病院で世話になった軍医、従兵、婦長、看護婦らの名前と実家の住所が記され、それぞれへの感謝の言葉が綴られている。

 『癒えたると 祝ふが如く 敵機見舞ひぬ』
 『マニラの人間修理工場 白衣の天使田辺さん お陰で私もまた征ける 今度は修理が利くまいが 待ってて下さい大戦果
       片脚居士 山本栄(花押)』

 ・・・・・・といった具合である。


 特攻隊は、10月21日、初めて出撃し、この日、大和隊の久納好孚中尉が未帰還になり、23日には同じく大和隊の佐藤馨上飛曹が未帰還となっている。

 そして10月25日、時系列でいうと菊水隊、朝日隊、敷島隊、大和隊の順に敵艦に突入に成功するのだが、これら「第一神風(しんぷう)特別攻撃隊」指揮官・関行男大尉以下敷島隊の突入を見届けた直掩隊指揮官・西澤廣義飛曹長がセブ基地に着陸し、戦果を最初に報告する。
 セブ基地指揮官・中島正少佐は西澤飛曹長に、乗ってきた零戦を特攻隊に引き渡し、翌日、輸送機でマバラカットに戻ることを命じた。

 10月26日、西澤飛曹長は、列機の本田上飛曹、馬場飛長らとともに輸送機に便乗、マバラカットに向かうが、途中、敵戦闘機と遭遇、撃墜され、輸送機の搭乗員と便乗者は総員が戦死した。

 西澤飛曹長はその後、昭和20年8月15日付の「機密聯合艦隊告示(布)第172号」で、
 『協同戦果四百二十九機撃墜四十九機撃破、うち単独三十六機撃墜二機撃破の稀に見る赫々たる武勲を挙げた』
 と布告され、戦後もさまざまな書物で取り上げられているから、その非業の最期を知る人は多い。

 人の話題に上ることはまずないけれど、この同じ飛行機に、山本大佐の従兵・伊藤國雄一等整備兵が便乗、戦死した。
 一等整備兵ということは、戦地に出てきた兵隊のなかではもっとも下級の兵ということになるが、山本大佐の日記には、伊藤従兵を悼む気持ちが切々と綴られている。

 『一整伊藤國雄君を偲ぶ

 君は純真温順そのものだった。去る7月17日司令としてダバオに着任以来、司令従兵として公私共まことに気持ちよく誠心誠意やって呉れた。約二ヵ月、自分の様な短気者でさへ一度だって叱ったことがなかった。どの士官だって伊藤を叱った人は居るまい。

 飛行長に負けまいと思ってドミノの手入れを頼んだ時なんか終日磨いて呉れた。随分大工の手伝いもさせた。家庭の話を聞いたこともあった。洗濯もよくやって呉れた 身体も流して呉れた。我子の様に可愛かった。

 10月10日飛行機隊の進出と共に自分も一、二日の予定でマバラカットに進出した。これが最後の別れとは露知らなかった。
 19日自分は怪我をした。伊藤に世話して欲しいと思った。10月26日、伊藤一整は自分の荷物を全部持って輸送機に便乗、西澤飛曹長らと一緒にセブを出発した。
 ミンドロ島プエルト ガレラ附近で不幸G戦(グラマンF6F)二機と遭遇、恨みを呑んで猛火に包まれて撃墜されたのだった。

 伊藤!残念だったね! 』



 山本大佐は、戦後、戦友会や慰霊祭に出てきても、特攻の話は一切しなかった。自らの信仰についても誰にも言わなかったし、カトリックの信者たちにも、自分の過去を話さなかったという。

 昭和57年1月、85歳で死去。カトリック教会で行われた葬儀には、山本が元海軍大佐であったことを知らない若い信者が大勢集い、五八二空や二〇一空の元部下たちも駆けつけた。


 ある元部下の遺品のなかに、亡くなる数年前、五八二空の戦友会でカラオケを歌う山本栄氏の写真が残されていた。
 この人が、かの山本大佐だとは、もし、そのとき会ってもわからなかっただろうと思う。

  




 

昭和の終わった日(1月7日)

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 (写真は昭和61年4月29日、天皇誕生日の皇居一般参賀にて。)


 今日、1月7日は昭和が終わった日ですね。あれから26年。自民党の政権奪還、昨年の衆議院選大勝でやや希望が復活してきましたが、まだまだ、世の中よくなるには至っていませんね。


 さて。昭和天皇ご不例のニュースに、われわれ報道陣が皇居周辺に集結したのが昭和63年9月19日のこと。

 ……なぜそのように鮮明に覚えているかというと、その9日前の9月10日、軽井沢にご静養にいらしていた皇太子殿下ご夫妻(今上天皇、美智子皇后ご夫妻)がお忍びで軽井沢18号線バイパス沿いの作家・森村桂さん経営のティールームに森村さん夫妻との会食にいらして、森村さんに懇意にしてもらっていた私は、「記念写真係」と称して陪席の栄に浴したのでした。この日のために、給仕役に森村さんのお友達の参議院議員某女史の娘さんなど、マナーがしっかりしていて身元のはっきりした若い女性が数名、集められていました。

 当日は雨でしたが、予定時刻の2時間前にはSPが店の周囲の警護に入り、定刻の午後6時ちょうどに両殿下が侍従さんに先導されていらっしゃいました。
 侍従さんは、ベランダ席でコーヒー一杯。お気の毒にと思いましたが、食事は固辞されたので、そういうものなのでしょう。
 森村さんの手作りの巨大ハンバーグ、実演付きの巨大フーヨーハイ(かに玉)、などなどお食事はなごやかに進み、森村さんのご主人のM・一郎さんも、皇太子殿下(今上陛下)と、「女房の尻に敷かれた旦那の悲哀」などの話題で盛り上がっています。
 美智子様が、楽しいときは高いお声で少女のような笑い方をされる方だということも初めて知りました。

 やがて美智子様がそこにあったピアノを弾かれ、森村さんが曲に合わせて踊り、殿下と一郎さんがそれをニコニコ見ているという、じつにめずらしい光景が目の前で繰り広げられたのでした。2時間の予定が倍以上オーバーし、結局お開きになったのは10時半を回った頃だったと記憶します。

 もちろん、当時25歳の私などは、会話に加わるきっかけもありません。それでもお帰りになるとき、殿下が私ほか陪席者全員に声を掛けてくださいました。
 「君は、学生?」
 澄み切った瞳が印象的でした。
 しかし私は……侍従さんもいることだし、ここで、「週刊誌のカメラマンです」などと答えたらかえってややこしいことになるのではないかと思い(単に森村さんの関係者として出ただけで取材意図は全くありませんでしたし)、とっさに「ハイ、そうです」と答えてしまいました。
 「カメラが好きなの?」
 「ハイ」
 「そう、じゃあぜひいい写真を撮ってください」
 ……会話はこれだけでしたが、方便とはいえ、殿下に嘘をつき奉ったことで、冷や汗の流れる思いでした。


 わずか9日後、昭和天皇ご不例が報じられ、皇太子殿下が事実上天皇の国事行為を一身に背負われたとき、森村桂さんと、
 「あれが皇太子ご夫妻として最後の私的外出になられましたね」
 と話した覚えがあります。


 われわれ講談社のカメラマンは交替で、半蔵門、帝国ホテル、パレスホテル、フェアモントホテル(千鳥ヶ淵)に詰め、万一の事態に備えていましたが、私は、ちょうどその年の暮れからしばらく大阪に駐在することになり、年末大阪に引っ越し、翌昭和64年1月7日は、花園ラグビー場へ、高校ラグビー決勝戦(茗溪学園VS大阪工大高)の取材に行くことになっていました。


 昭和天皇崩御が報じられたのは、その日の朝のことでした。
 とるものもとりあえず花園へ行くと、決勝戦は中止され、両校優勝の措置がとられたとかで、複雑な面持ちの両校選手たち一緒の記念写真を撮り、それが次号の誌面を飾りました。

  


 敬愛する元零戦搭乗員・志賀淑雄少佐(ノーベル工業社長)、黒澤丈夫少佐(群馬県上野村村長)、内藤祐次中尉(エーザイ会長)が、昭和天皇の棺に最後のお別れをする「賓宮伺候」に参列され、志賀さんが全戦没戦闘機搭乗員の氏名を墨書した巻紙を懐に、万感の思いでお別れを告げられたことを知ったのは、それから6~7年後のこと。
 大喪の礼のときには、皇居から多摩御陵までの沿道を飾る菊の花の手配も、志賀さんの会社が引き受けたと聞いています。

 私にとっても、記憶に深く刻まれた、昭和最後の日々でした。


「桜花」は安全な乗り物だった…元隊員たちの声から

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 「桜花」という特攻機がある。1.2トンの爆弾に翼と操縦装置とロケットをつけた「人間爆弾」だ。今の価値観からすると非人道的極まりない。だが、人道的な兵器などそもそも存在しない。桜花搭乗員のプライドの高さと結束の固さを見れば、誰もが認識を改めざるを得ないだろう。

 桜花を主戦兵器とする第七二一海軍航空隊(神雷部隊)で、零戦の特攻機を出すことになった時も、搭乗員の多くは、桜花での出撃を強く望んだという。彼らには桜花に対して、それほど強い愛着があった。

 神雷部隊分隊長湯野川守正大尉は言う。
  「せめて負けっぷりをよくしようと。桜花を見たときは『これだ!』と思ったね。一つしかない命を有効に使うには、アメちゃんを一人でも多く道連れにすること。生意気だけど、本土決戦になったら私の隊で敵の一個師団を引き受けようと考えたこともありましたよ」

 「骨のない墓はいらない、遺書もいらない、私の仲間はそういう空気でしたね。特攻隊の指揮官になっても遺書を書き残そうと思ったことは一度もないね。出る時が来たら出る。与えられた任務に最善を尽くす、ただそれだけ」

 湯野川大尉の言葉は多くの桜花搭乗員の心情を代弁している。

 桜花搭乗員はK-1と称するほぼ同型の滑空機で訓練を行うが、零戦のような普通の戦闘機だと、高速で機首が浮き上がり、また舵も重くなって目標にぶつかるのが困難なのに対し、桜花は操縦安定性もよく、機首が浮くこともなく、思ったところに持って行ける。
  「操縦性は最高でした」
 と、何人もの元隊員は口を揃える。


 実際、桜花(K-1)の訓練中の事故は極めて少なかった。通算して死亡事故2件、重傷事故一件、しかしいずれも原因がはっきりしており、通常の航空隊と比べても殉職者は多くない。
  「逆説的だけど、桜花ほど安全な乗り物はなかった」
 という声もある。戦果は限定的だったが、それは桜花のせいではない。
 責められるべきは、護衛戦闘機が満足に付けられないまま出撃させたり、敵位置を70浬も間違って伝えたりした司令部の責任者であろう。


 終戦時、「3年後の3月21日(桜花隊初出撃の日)、靖国神社で会おう」と約束して、整然と復員した隊員たちは、まだ焼け跡も生々しい昭和23年3月21日、靖国神社に集合して以来、今日まで強い結束を保っている。

 そんな思いを理解することなしに、桜花も特攻も論じることはできないと思う。






忘れられない日。阪神淡路大震災から明日で20年。

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 明日、1月17日で阪神淡路大震災からちょうど20年になる。
 4年前の東日本大震災でやや過去の出来事のような感じになっているが、私の脳裏にはいまも生々しい記憶として残っている。 


 あの日、私は東京から駆けつけた報道カメラマンとしてはたぶん、いちばん早く、伊丹空港を経由して、昼頃には被災現場に入った。

 震災発生当日の朝、阪神地区への電話がほとんど通じず、したがって私からの電話もなく、自身も被災者でありながら、なじみのタクシー運転手の平良仁宏さんが、私が現場に飛ぶことを予期して伊丹空港で待っていてくれたのだ。平良さんは、関西での私の仕事で、さまざまな現場で苦楽をともにしてもらった日本一のプレスドライバーである。

 まず西宮を経て芦屋、それから神戸三宮、長田。大きなビルがたくさん倒壊し、非常ベルの鳴り響く三宮で夜を迎え、炎に包まれた長田で夜を明かした。以後一週間ほど現場に留まって、東京に戻ったときには、ビルがまっすぐ立っているのに違和感を感じたものだ。


 震災関連のニュースを見、あのとき出会った人々のことを思い出すと、いまも不覚にも涙が出てくる。
 私は当時31歳、雑誌の報道カメラマンとして9年目だったが、あれほど多くの生と死に向き合い、精根尽き果てるまで仕事をやったと思えたのは初めての経験であった。


 特に印象的だったこと。

 三宮の廃墟を煌々と照らす月明かり、無人の街に鳴り響く非常ベル。

 西の空が真っ赤なので長田に向かい、避難所かと思って途中で立ち寄った村野工業高校の講堂に毛布に包まれて並ぶ200名近い遺体。蝋燭の灯りに照らされて深々と冷えた沈黙の空間。

 長田の大火災、燃える自宅を呆然と眺める人々。大火災を前に、「水が出ない」と無念の表情を浮かべて立ち尽くす消防士の煤けた顔、顔。いろんなものの焼けるいやな臭い、崩れ落ちる建物。焼け落ちたアーケード、その前の路上になぜか放置されたピアノ、炎に立ちはだかるかのように両手を広げた教会のキリスト像。長田駅のトイレにあふれた糞尿の山。行方のわからない肉親を探す地元の人たち。


 二日目、私が取材中、燃料と体力の浪費を避けてエンジンを切った車で仮眠してくれていた運転手の平良さん、昨夜は建っていたビルが横倒しになった三宮。雑誌の締め切りに合わせて航空便に間に合うよう時間ピッタリに伊丹空港にフィルムを届けてくれた平良さんのプロ根性。瓦礫を歩くうち、ふと気がつけば自分の両足が血だらけになっていたこと。


 三日目、崩壊した新幹線の線路。避難所に新聞が届いた時の人々の笑顔。
 倒壊を免れた飲食店は、それぞれ工夫して、無料でラーメンやら鉄板焼きやら、熱いお茶やら、できるものを人々に提供している。
 南京街で、お茶を配っていたおばちゃんが、3歳ぐらいの子供の手を引き、赤ちゃんをおぶって呆然と歩く若いお母さんに「お茶、どうぞ」と声をかける。そのお母さんは一瞬、驚いたような顔をして立ち止まる。「いいんですか?いただいて・・・」お茶を一口飲んだとたん、ホッとしたのか泣き崩れる。
 長田にはまだ食糧が届かない。ようやく火事も収まり、焼け野原で肉親の骨を拾う人たちの姿。家族の骨を探す救急隊のそばにたたずむ女の子の姿。
 有馬温泉の老舗旅館の一部は被災者に宿を開放、カレーだけだが食事を出している。和室にひしめき合い、しかし譲り合い、不平のひとつももらさずに雑魚寝する人々。三日ぶりに入った風呂の湯の感触。


 四日目以後、食糧や生活必需品の買出しに、大阪までの線路を歩く大勢の人たちの列。


 鮮やかに印象的だったのは、人間の心の美しさである。あれだけの被災地で、被災者同士が助け合い、暴動も略奪行為も起こさないような国民が世界のどこにあるだろう。

 日本人だけではない。華僑の人たちはいち早く路上で携帯燃料とありあわせの食材を使って被災者に食事を提供し、朝鮮系の銀行でも被災者に無条件・無担保の5万円の貸付を行なった。暴力団の組本部でさえ炊き出しを行なったのだ。


 逆に、一介の報道カメラマンである私よりも初動が遅かった村山富市社会党連立内閣の情けなさは、非常に残念だった。 管内閣のときに起きた東日本大震災もそうだが、問題への対処能力に著しく欠ける左翼政権の時に大災害に見舞われるというのは、偶然の不幸と言うしかない(偶然ではないのかも、とさえ思う)。


 このときの私の仕事の掲載された「フライデー増刊・関西大震災」は、緊急増刊だったので印刷会社の紙の在庫が足りず、100万部刷りたかったのに40万部しか(それでも大変な数字だが)刷れなかったらしい。発売後、あっという間に完売し、編集部にも数冊しか残っていない。いまとなっては貴重品である。 (全くの私事だが、これは「零戦搭乗員会」の会長だった志賀さんがご購読になり、私を認めてくださるきっかけになった点でも忘れられない一冊である)

 (添付写真。表紙撮影も私)
 写真家「神立尚紀(こうだち・なおき)」のブログ


 写真家「神立尚紀(こうだち・なおき)」のブログ


 これは、その翌週の号に載ったもの。
 写真家「神立尚紀(こうだち・なおき)」のブログ


 同じ年の3月、東京では地下鉄サリン事件が起きた。5月の麻原逮捕まで、私も同僚先輩も、報道に携わる者はほとんど不眠不休だったのではないか。とにかく大変な一年だった。


 テレビで見る震災関連のニュースやドラマで、被災者を「撮ることの葛藤」とか、この悲劇を「忘れてはならない」とかしきりに言ってるが、そんな掛け声が空疎に感じられるほど、現場は冷厳である。私は撮ることに対して葛藤など、率直に言って感じない。私は報道カメラマンだからここへきた。撮るのが仕事だから、撮る。目の前の現実を記録し、伝えないといけないから、シャッターを切る。それだけだ。泣いたり悩んだり、そういう生ぬるく曖昧な次元の問題では決してない。
 ただ、人の痛みは、何年も何年も心の奥底に残り、ボディブローのように効いてくる。


 現場を見ていない人にあれこれ言っても、何がどう伝わるか。何事にも通じることだが、知らない人に「忘れるな」というのは無茶ではないかという気がしてならないのだ。

 だが少なくとも私は、忘れない。


    ※ ※ ※ ※ ※ ※ 


 ところで、17日は阪神淡路大震災の日だけど、姪の誕生日でもある。今年16歳。
 テレビをつければ震災の話題ばかり、みんなが重苦しく喪に服す誕生日というのは、あまりにも可哀相な気がいつもしている。
 こんな日にも、誕生の祝福を受けてしかるべき子供は大勢いるはずだ。

 私の母は、11月3日、昔は明治節、いまは文化の日で毎年この日は祝日。母は楽天家でいつも明るい人だが、毎年自分の誕生日が祝日であることと関係がありそうな、なさそうな。

 私は8月で夏休み中なので、小中学校の頃は友達に祝ってもらうことなどなかった。
 子供の頃は親か親戚のだれかが梅田の阪神百貨店に連れて行ってくれて、デパートの大食堂でお子様ランチを食べるという、昭和チックな誕生日だった。社会人になってからは、雑誌はお盆前の異常進行で忙しいことばかり。

 誕生日は選べないけど、日によってはその人の性格というか、幼いときの人格形成に影響することもあるかも知れないと思っている


 阪神大震災の追悼行事は、近年はニュースで見ているだけだが、毎年の追悼行事がなんとなくマンネリ化してるような気がする。マンネリと言ったら語弊があるのかもしれないけど、「ショー化」している「ヒロシマ」っぽい空気を感じるというか…。妙に格式化され、崇高なものとして取り上げられているような。


 私が現場で見て聴いて撮ったナマの震災と、人々が「忘れまい」「伝えよう」としている震災のイメージとの間に目に見えないズレが生じてきているような違和感は、年々強くなるばかりだ。





三回忌に再掲・訃報…元零戦搭乗員 角田和男氏(乙飛5期、中尉)

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今日、2月14日は、元零戦搭乗員・角田和男さんの三回忌のご命日。
なので二年前の記事を転載する。

※禁無断転載


 私がもっとも敬愛してやまない、元零戦搭乗員・角田和男中尉が、2月14日、2135、お亡くなりになりました。享年94。その直後、ご子息からお電話で知らせてくださったのですが、あまりに辛くて悲しくて、言葉も出てきません。

  


 通夜は2月17日、告別式は18日、いずれも無事に執り行われました。94歳ともなると、通常見送ってくれる同世代の友人がほとんどおらず、寂しいお別れになりがちですが、角田さんの御人徳ゆえか、斎場いっぱいに人があふれる盛式でした。ご家族、ご親族も皆様、じつに立派な方たちでした。

 角田さんはご生前、
 「部下だったのも次々亡くなって、私の時に見送ってくれるのは神立さんぐらいかなあ」
 とおっしゃっていたそうですが、とんでもない。交通不便な場所であるにもかかわらず、遠方から来られた人も多く、角田さんを慕う人はかくもいらっしゃるのだな、と実感しました。


 私は、15日、取り急ぎNPO法人「零戦の会」事務局長と弔問に行き、通夜、告別式ともに出席して、先ほど帰りました。

 通夜には、「零戦の会」役員など10数名が列席、告別式には「零戦の会」役員5名、第二〇五海軍航空隊・神風特攻大義隊の元搭乗員四名、同隊副長兼飛行長・鈴木實中佐御令孫、角田さんが出演されたNHKの番組スタッフなど大勢の方が、角田さんとの別れを惜しみました。


 告別式で私は、弔辞を読むという大役を仰せつかりました。

 私は、角田さん方にのべ80回は伺い、靖国神社はじめ慰霊祭などでも50~60回はご一緒しています。しかも、夏には角田さんの畑で採れたスイカ、秋には田んぼで収穫したお米をいただくなど、受けた御恩は枚挙にいとまがありません。もちろん、形あるものだけでなく、角田さんからは人生について多くのことを学ばせていただきました。

 これまでの大恩を思い、その万分の一でもご恩返しができればと思って、心を込めて「弔辞」ではなく「謝辞」として読ませていただきました。


  

  

  

 角田さんはほんとうに、誰よりも厳しい戦況の中を誰よりも勇敢に戦い、しかもそのお人柄で、上下の信頼の厚い人でした。

 ラバウル、ガダルカナル方面の戦いでは、飛行兵曹長の分隊士でありながら、実質的な空中指揮官として五八二空戦闘機隊を率いて獅子奮迅の働きをし、硫黄島でも戦い、大戦末期のフィリピンでは、特攻隊員に指名され、しかし、貴重なベテランだったがゆえに体当たり攻撃は認められず、味方特攻機を誘導し、突入を確認する辛く非情な任務に就かれました。特攻出撃20回。その間、若い隊員の操縦する特攻機が敵空母に突入するところを二度、確認しています。


 帝国海軍きってのベテラン搭乗員を戦後の航空界が放っておくはずもなく戦後は、民間航空会社や航空自衛隊から度重なるスカウトを受けたものの、
 「二度と戦争はやるまい、飛行機には乗るまい。万が一、一朝有事の際には志願して、特攻隊でまた往こう」という気持ちを60歳まで持ち続けながらスカウトは断り続け、苦行とも言える茨城県の開拓農家として、冬は東京に出稼ぎにも行きながら、そこで得たお金をほとんど戦友の慰霊行脚に費やし、同じ部隊で戦死した約170名のうち、一人をのぞいて全員の遺族を巡拝されました。


 その生き方たるや凄まじく、しかしご本人は澄んだ目が印象的な、気配りの人でした。自分の部下や上官が入院すれば、不自由な体を押してまで見舞いに駆けつけ、駆けつけるだけでなく、お世話までしてこられるのが常でした。


 角田さんの零戦搭乗員としての戦果は単独撃墜13機、協同撃墜約100機とのことですが、角田さんが、坂井三郎さんや岩本徹三さんのような御性格の方、あるいはそのような編集者が角田さんの手記『修羅の翼』を手がけたなら、「撃墜120余」と喧伝されているかも知れません。


 18年ものお付き合いの間にはいろんなことがありました。思い出は尽きないけれど、まずは角田さんはもうこの世の人ではないという厳然たる事実を、自分の中に落とし込んでいかなければなりません。

 角田さんは、菩薩様のような人でした。角田さんほどの日本人は、今後生まれてこないのではないかと思います。


 ただひたすらに、ご冥福をお祈り申し上げます。

 合掌――。


 
  
 (喪主の角田さんご子息を中心に、二〇五空大義隊隊員・荒井上飛曹、岩倉上飛曹、井上一飛曹、長田一飛曹らとともに)


三回忌に再掲・元零戦搭乗員 故角田和男さんへの弔辞(謝辞) 平成25年2月18日

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 三回忌に再掲――。


 2月18日、元零戦搭乗員、海軍中尉(乙飛5期) 故 角田和男さんの告別式で、私が読んだ弔辞(謝辞)――。


 〈謝辞〉

 私が、角田様とはじめてお会いしたのは、十八年前、戦後五十年の節目を迎えた平成七年八月のことでした。当時、角田様は七十六歳でいらっしゃいました。ご自宅の前に車を停めたとたん、
 「百姓のじじいを見にきてもしようがないでしょう」
 と、大きな声で仰ったのが、いまも心に残っています。その時はまさか、こうして角田様にお別れを申し上げる日が来ようとは、想像もしておりませんでした。


 角田様は大正七年十月十一日生まれ。昭和九年、海軍飛行予科練習生として海軍に入隊、その後戦闘機搭乗員となられ、大戦中は名機零戦を駆って、ラバウル、ソロモン、硫黄島、フィリピンと激戦をくぐり抜けられました。そこで特別攻撃隊に編入され、当時としては数少ない歴戦の搭乗員として爆装体当り機ではなく、それを掩護、戦果確認をする直掩機の任務を命ぜられ、多くの部下、同僚が敵艦隊に突入するのを見届ける、辛く非情な出撃を重ねられました。

 総飛行時間四〇〇〇時間、これは当時の戦闘機搭乗員としては異例に長い時間でございます。そして、ご本人はご自身の勲功を自ら語ることは決してなさいませんでしたが、実戦参加回数も誰よりも多く、撃墜した敵機は、味方機との協同撃墜を合わせて百機以上に上ります。

 間違いなく、全零戦搭乗員の中でも屈指の、いや別格の存在感をもって、かつての戦友たちの間で敬愛を集めておられました。


 同期生の八割が戦死する激戦を戦い抜き、終戦を迎えられた角田様は、ここ茨城県で開拓農家となられました。
 「二度と飛行機の操縦はやるまい、戦争はするまい」
 との思いで、航空自衛隊からの再三の勧誘にも頑として応じず、火山性灰土の酸性土壌との闘いを続けながら、かつての部下、戦友のご遺族をくまなく訪ね、慰霊の旅を続けられました。


 昭和五十年頃、日本で催された元零戦搭乗員の集いに、「エース」と称するアメリカ人元パイロットが来たとき、
 「エースだと? 貴様、俺の仲間を何人殺したんだ。何をのこのこ日本に来たんだ!」
 と詰め寄り、周囲をハラハラさせたというエピソードも漏れ聞いております。


 角田様は、定年のない農作業の傍ら五年にわたって手記を書き続け、平成元年、『修羅の翼』を刊行、その無理がたたったか、平成二年に脳梗塞で倒れられ、杖の手放せない身体になっておられました。

 それでも慰霊祭だけでなく、遺族を訪ねることもできる限り続けていらっしゃって、私がお会いした頃はまだ、戦没特攻隊員の母親たちの何人かが、百歳近くなってご存命でした。


 初めてお会いしたとき、角田様は、特攻隊で突入を見届けた隊員たちの姿を、自らが味方輸送船を守るため、身を捨てる覚悟で敵戦闘機群に突っ込んでいったときに感じられたという「胸のふくらむ思い」と重ね、涙をうかべて語ってくださいました。深い哀しみを秘めた澄んだ瞳が印象的でした。この瞳に、どれほど凄惨な戦いが映ってきたのだろうと、ふと考えたのを、昨日のことのように憶えております。

 帰り際、竜ヶ崎で撮ったばかりの零戦の里帰り飛行の写真をプレゼントしようとすると、角田様は写真に一瞥しただけで、
 「私はいいです。零戦を見るのはつらいですよ」
 と表情を曇らせておっしゃいました。
 「竜ヶ崎は同じ県内だから、誘ってくれる人はいましたが、行く気になれなかった。いま、それを見る人はカッコいいなあ、勇ましいなあ、というんですが、私にはそうは見られないんです。きっと、戦って戦って、傷だらけになって生き残った零戦でしょうね。それがあんなふうに見せ物になって。手を叩いて見られる心境じゃないんです」
 ……と。

 私は、胸を衝かれました。そうだ、この人は零戦に乗って実際に戦ってきたのだ。それは、戦後世代の私たちの想像を絶する苦難の日々だったに違いない。零戦に乗っていた人だから、零戦の写真を見れば喜んでもらえると、単純に考えていた自分の浅はかさが恥かしく思えました。それは、心の傷に塩を塗るような無神経な思いつきだったのです。


 虚飾のない、真情にあふれた角田様のお人柄に、私はしだいに心惹かれるようになっていきました。四季折々に違った表情を見せる茨城の広大な農地と、広く大きな空も、私の心を魅了しました。何度もインタビューに通ううち、やがて角田様から、慰霊祭に参加するたびに同行の誘いをいただくようになりました。

 世田谷の特攻観音慰霊法要にご一緒させていただいたとき、境内の観音像を見ながら角田様が、
 「あの観音様よりも、特攻隊で一緒だった尾辻中尉のほうがずっと観音様らしいお顔でしたよ」
 とおっしゃいました。私には、そうおっしゃる角田様のお顔が、菩薩様のように見えたものでございます。


 やがて、一本だった角田様の杖はいつしか二本になり、両手に杖をつかないと歩けなくなってこられて、靖国神社の本殿の階(きざはし)を上り下りするのも一苦労となりました。それでも角田様は、節目、節目の慰霊祭に靖国神社へ行くことをあきらめられませんでした。

 そのうち、角田様の慰霊祭参加には、ご家族様が付き添われるようになり、ご家族様がご同行になれないときは、角田様のご本を通じ、そのお姿に感銘を受けた戦後世代の人たちが、進んで付き添うようになりました。

 周囲の人たちに常に真心を以て接し、両手に杖をつきながら、黙々と、戦友たちの慰霊を続ける角田様のお姿は、万巻の書物よりも雄弁に、戦争の悲惨さや男の友情、人間の生き方といったことを若者たちに伝えたと存じます。


 外出が意のごとくならなくなった後も、角田様はご自宅で、亡き戦友たちを静かに弔い続けておられました。朝、起きれば般若心経を唱え、夜、眠る前には戦没した部下・戦友一人一人の名を「南無阿弥陀仏」とともに唱えられていたそうです。
 戦後六十八年を経てなお、かつての仲間から敬愛を集めてやまないのは、戦時中、つねにもっとも困難な任務を自ら買って出、戦後も身を削って慰霊行脚を続けた、誰にも真似のできない真摯な姿勢と、戦友への思いが伝わってくるからに他ならないと確信いたします。


 角田様が、最初に特攻隊を出した第一航空艦隊の小田原参謀長に当時聞かされた話によると、司令長官、大西瀧治郎中将が特攻を命じた真意は、
 「特攻は、講和のための最後の手段」
 だったとおっしゃいます。

 現に先の大戦は、日本から手を上げたのではなくて、逆に特攻隊が敵に与えた恐怖と、大西中将の唱える全軍特攻、徹底抗戦論が強烈なメッセージとなって、敵である聯合国からポツダム宣言という和平の申し出を引き出す結果になったのではないか。その条件がいかに過酷なものであっても、日本は東西に分断されることもなく、やがて戦後の復興を果たした。そんな「真意」を知っているか否か、あるいはこれをどう捉えるかで、特攻への見方が大きく違ってまいります。
 角田様の見るところ、大西中将は「徹底抗戦」の暴将を敵にも味方にも演じ、演じ切って最後は責任を一身にかぶって自決された、ということです。だとすれば特攻隊は無駄死にどころか、日本をぎりぎりのところで破滅から救い、再興につなげた尊い犠牲だったということになります。角田様はそのことを一人でも多くの人に知ってもらいたいと常々おっしゃっていました。


 角田様のお言葉で強く印象に残っていることがございます。

 「いまもよく夢に見ます。戦死した連中が出てきて、眠っていてもこれは夢だとわかるから、はじめのうちは、『お前たち、また出てきやがったか! 早く成仏しろ』と追い払うように無理やり目を覚ませたものですが、歳月が経てば経つほど、夢なら覚めないでほしい、もっとゆっくり会っていたいと思うようになりました。でも、そう思えば思うほど、夢ははかなくすぐに目が覚めてしまうんです」

 でも・・・・・・と、角田様はおっしゃいました。

 「特攻隊員が敵艦に向かって突入し、目を見開いて、これで命中する、とわかったとき、幸せに胸をふくらませたであろう気持ちは、自分の体験に照らして信じています。ただ、これを戦後世代の人に理解してもらうことはむずかしいでしょうね。ほんとうに胸をふくらませるような、幸せな気持ちになったことがある人が果たしているのかどうか・・・・・・」

 私は、これほど凄みと深みのある、含蓄に満ちたお言葉を他に存じません。


 角田様、『安らかに眠ってください』と申し上げたいところでございますが、角田様は特攻隊の慰霊祭の弔辞をいつも、
 「在天の英霊、以て瞑することなく、祖国の行方と親族の安泰とに加護を賜らんことを」
 と結んでいらっしゃいましたね。そこで角田様に倣って私も、
 「角田様、以て瞑することなく、在天の英霊たちとともに祖国の行方とご親族の安泰とにご加護を賜らんことを」
 と申し上げ、お別れの言葉とさせていただきます。


 角田様、長い間、お疲れ様でございました。日本のために戦ってくださり、また私たちを今日までお導きいただいて、ほんとうにありがとうございました。


      平成二十五年二月十八日
         NPO法人零戦の会 会長 神立尚紀


三回忌に再掲・角田和男さんの思い出

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三回忌の日(2月14日)に再掲(平成25年2月19日の記事)


 角田和男さんの告別式、納骨式は終わったが、喪失感は拭えないでいる。

 角田さんとの思い出は尽きないが、そのごく一部を振り返る。


 歴戦の戦闘機乗りでありながら、角田さんは、高いところの苦手な人であった。しかも、乗り物に酔うたちでもあった。最初に乙四期の予科練を受験した時は汽車に酔って力が出せず、翌年、五期を受験した時は自転車で試験会場に向かったという。ご自分で戦闘機の操縦桿を握るときは何ともないのに、「常磐線の千住大橋を渡るときは目をつぶる」「宿屋の二階に怖くて泊れない」というほどだった。

 不思議にかわいがっていただき、土浦の旅館で元一航艦副官の門司親徳さん、零戦搭乗員の角田さん、鈴村善一さん、作家の大野芳さんらと同室で宿泊し語り明かしたことがあるが、門司さんと角田さんとの会話は、これぞ歴史、といった迫力と臨場感に満ちていて、頭がクラクラするほどであった。


 角田さんにとって最愛の列機であった鈴村さんが亡くなったときには、門司さんから直々に私に電話があり、
 「角田さんが一人で行くのは心配だから、あなた、一緒に行ってやってくれ」
 と言われ、もちろん私に異存のあろうはずもなく、名古屋までご一緒して、
 「ちゃんとカーテンを閉めときますから。外を見なければ大丈夫ですよ」
 と、ツインルームに同宿し、私のいびきで角田さんを寝不足にしてしまったという、冷や汗ものの出来事もあった。


 ご自身、お体が不自由でありながら、黙々と戦友の慰霊祭やご遺族の元を巡拝し、誰にも真似のできないその姿勢と、何事もご自分のことは二の次に、人を思いやる真心のこもったお人柄ゆえ、周囲の人たちみんなに愛され、尊敬を集めておられた。


 以前、書いたことがあるけど、坂井三郎さんと、坂井さんにとって印象深い搭乗員仲間のことを話していて、

 坂 「誰よりもいちばん働いたのは角田和男さんじゃない?彼も亡くなったけどね」
 私 「えええ~、ホントですか?角田さんに私、先週会ったばかりなんですが」
 坂 「いや、亡くなったって聞いたよ」
 私 「そりゃ大変だ!ちょっと電話してみます」
 ・・・・・・・電話の呼び出し音・・・・・・「はいー、つのーだですが」
 私 「(よかった、角田さんの声だ)あ、こんにちは。神立です。お変わりございませんか?ご無事で何よりでした。いえ、ただお声が聞きたかったものですから。ではまた、失礼致します・・・・・・先生、角田さんちゃんと生きてらっしゃいましたよ」
 坂 「あ、そう?じゃあ人違いか。おかしいな、最近音沙汰がないから死んだと思ってた。この齢になるとね、一、二年音信がないと死んだことにされちゃうんだよ」
 神 「そんな無茶な・・・・・・」

 といった会話があったのも懐かしい思い出だ。

 本にはいまだ書けないいろんなお話も伺った。
 准士官学生も経験し、分隊士としての実務経験から制度上のことにも詳しく、何かわからないことがあって電話をかけると、生き字引のごとく、スラスラとお答えいただけて感激したものだった。たとえば、誰某少佐が中佐に進級したのはいつですか?と聞くと、年月日まですぐに出てきて、しかも後で辞令公報を見る機会があったら百発百中なので、少なくとも最晩年まで頭脳は非常にしっかりしておられたと思う。



 これからは、電話をしても訪ねて行っても、角田さんはいらっしゃらない。亡くなられた他の皆さんもそうだが、声がまだ耳に残っているのに、その声を二度と聴くことができないというのは、不思議と言うより理不尽な気がしている。


 94歳というご年齢、いわゆる御歳に不足はないけれど、寂しくて残念で、なんともやり切れない。


 以下、写真を何枚か。


  
 昭和18年はじめ頃、ラバウル基地で、左から角田さん(当時飛曹長)、大槻二飛曹、明慶飛長


  
 平成17年7月15日、二五二空慰霊祭の直会、九段の鮨屋で。左から日高盛康少佐、角田和男中尉


  
 海軍ラバウル方面会慰霊祭。前列左から私、門司親徳主計少佐、一人置いて角田和男中尉、一人置いて野口義一中尉ご妹様。
 


  
 平成22年8月、角田さんの畑でスイカ狩り。NHKの取材が入っている。



  
 同上、「零戦の会」井上副会長と。



  
 平成23年11月、元二〇五空飛行長の鈴木實中佐夫人隆子さんから贈られた手編みのマフラーとちゃんちゃんこを身に着け、「一緒に写りましょう」と言われて撮った写真。



  
 平成23年10月、東京のホテルで、鈴木中佐夫人主催の食事会で、ひさびさの再会を果たされた角田さんと隆子さん。




  
 2012年5月27日、阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊)で行われた慰霊祭に参加後、NPO法人「零戦の会」有志で角田さん方を訪問。



  
 同上。このときはとても喜んでくださったのだが・・・。この日からまだ9ヵ月も経っていない。


 

  
 「零戦の会」慰霊祭参加者の寄せ書き。その1


  
 同上。その2


  
 同上。その3

 

 ほんとうに、想い出は尽きない。合掌――。








2月22日、日本初の敵機撃墜と、生田乃木次さん(海兵52)ご命日、など。

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 2月22日は、恩師三木淳先生のご命日である。三木先生が亡くなられたのは23年前のこと。


 また、83年前の昭和7年2月22日、第一次上海事変の蘇州上空の空戦で、日本陸海軍を通じて初の敵機撃墜を果たした空戦の日であり、その空戦で敵機を撃墜した生田乃木次海軍大尉(海兵52期。のち予備役応召、終戦時少佐)が13年前にお亡くなりになったご命日でもある。


 生田さんにお会いしたのは、平成7年、当時零戦搭乗員会代表世話人(会長)だった志賀淑雄さんから、「日本で初めて敵戦闘機を撃墜しながら、その後すぐに海軍を辞めたこういう先輩がいる。どうしてそうなったのか、ぜひ聞いて残してもらいたい」と言われ、志賀さんのご紹介状を持って船橋のご自宅へ参上したのだ。
 生田さんの取材記は、零戦搭乗員会会報「零戦」に掲載され、のちに加筆修正したものを拙著『零戦最後の証言Ⅱ』(光人社)などに掲載した。
 志賀さんは、「海軍戦闘機隊のためにほんとうによいことをしてくれた」と、最後まで繰り返しおっしゃってくださった。


 生田大尉は、初撃墜の後、色々あって海軍を辞し、戦後は魚屋を経て、「国家のために自分がなすべきことは、次代を担う子供を育てること」と、保育園の園長になられた。
 奥さんとともに3つの保育園を経営し、子供たちに、「おとうさませんせい」と呼ばれて親しまれておられた。
 車で、生田さんと保育園に降り立った時、遊んでいた子供たちがいっせいに立ち上がって、「おとうさませんせい!」と駆け寄ってきたのが忘れられない。生田さんは、ニコニコと全員の頭をなでておられた。
 子供たちも、腰の曲がった生田さんに、一生懸命気を使って、転ばないように支えてみたり、本当に美しく微笑ましい光景だった。


 一方で、自分が撃墜した米人義勇飛行士、ロバート・ショートの菩提を弔い続け、毎年、2月22日のその日には、供養を欠かさなかった。


 その後も、経営されている保育園のクリスマスパーティーに招ばれて行ったり、保育園の給食を一緒にいただいたり、色々とお会いいただく機会があった。
 幼稚園を経営されている長野の原田要さん(操35)が、80歳を過ぎて園長を引退されるつもりだったところ、たまたま私が生田さんをご紹介して、羽切松雄さんのご葬儀の帰りに船橋へご一緒して、「自分よりひと回りも年長の人が現役で園長をされてるんなら、自分も頑張らなきゃ」・・・と、引退を撤回されたこともあった。内心、「海兵出」に負けてたまるかという、操練出身の意地に火がついたのだと思う。


 平成14年2月3日、生田さん97歳のお誕生日に、長寿の内祝いにと、ウェッジウッドの置時計を贈っていただいた。

 

 

 そして、お礼も兼ねて、ひさびさに船橋に会いに行こうと思っていた矢先――。



 平成14年2月22日、私は光人社の編集者坂梨さんと、『修羅の翼』の出版打ち合わせで角田和男さんの家にいた。そこに、生田さんのご家族から携帯電話に、その日、生田さんが亡くなられたとの知らせが届いた。

 生田さんが亡くなったのは、自らがロバート・ショートを撃墜してちょうど70年後の、まさにその日だった。
 生田さんのショートへの思いを知っていただけに、その日付の符合に気づいて、私は息が止まるほど驚いた。
 その日の朝も、お線香とお花を用意して、「今日もあの日がきたね」と話しておられたらしい。その後ほどなく容体が急変されたと。

 人の情念が寿命をコントロールする、ということがあるのかどうか。……生田さんの同期生の源田實大佐が、「昭和」に殉じるかのように平成元年の8月15日に松山で亡くなったとか、大西瀧治郎中将の副官で特攻作戦の語り部だった門司親徳主計少佐が、昭和と平成、元号は違えど大西中将が割腹自決したのと同じ「20年8月16日」に亡くなられたこととも思い合わせて、こういうことはあるのかも知れないな、と思ったりしている。

 近いところでは、一昨年お亡くなりになった角田和男さんのご命日、2月14日は、角田さんのお母様のご命日でもあったという。



 そんなこともあって私は、巷の戦記本で、誰某が何機撃墜のエースだとか、誰某を撃墜したのは誰某であるとか、興味本位の安っぽい、一人一人の命や情念をないがしろにした情報がもてはやされるのが、嫌で仕方がないのだ。



身近な人たちが見た二・二六事件2015

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 親しくお世話になっている予備学生13期の元零戦搭乗員・小野清紀中尉は、旧制九段中学2年生だった昭和11年(1936)2月26日、思わぬ形で二・二六事件に遭遇した。
 雪の朝、音羽の自宅から市電に乗って九段に着くと、軍人会館(現・九段会館。東日本大震災で死者が出て休館中)の前に高く土嚢が積まれ、重機関銃が目白通りを睨んでいたという。

 ものものしい雰囲気だが、誰も何も言わないので学校に向かって九段の坂を上がっていくと、坂の途中にあった偕行社前にはカーキ色に塗られた陸軍の乗用車がずらりと並び、それぞれのフロントガラスに、「陸軍大臣」「軍事参議官」などと書かれた紙が貼ってあった。
 一時間目の授業は通常通り終わり、二時間目の途中、学校に突然憲兵がやってきて、ほどなく生徒たちに帰宅が命じられる。
 そのとき初めて、陸軍の一部叛乱部隊によるクーデターが起きたことを知ったという。軍人会館には戒厳司令部が置かれていて、ものものしい土嚢と機関銃はそれを警護するためのものだった。

 小野さんが学校を出て、都電に乗ろうとふたたび九段の坂を下りると、靖国通りは当時ではめずらしい交通渋滞になって、自動車が列をなしていた。市電も、一部路線は迂回させられたものらしく、九段近辺では何両もの電車が溜まっていた。
 それでも市電に乗って音羽に帰ると、自宅あたりではこの日の騒ぎのことを誰もまだ知らないようで、いつも通りの日常生活だったという。

 今でいえば、地下鉄有楽町線護国寺駅から、江戸川橋、飯田橋、ここで東西線に乗り換えて一駅で九段下までだから、存外に近い距離である。わずか数キロ先に戒厳司令部が置かれているのに、それだけ情報の伝達の遅い時代だったのだろうか。



 二・二六事件の詳細には触れないけれど、軍の兵力を私兵化して重臣を殺した「青年将校」たちの行動について、私は一片の共感も抱いていない。どんな時代であれ、仮にも法治国家で、当時の立憲君主が任命した重臣たちを、天皇の股肱であるはずの、また国民の負託を受けて国を守るべきはずの軍人が、兵を率いて殺すようでは世も末である。

 なかでも岡田啓介総理、鈴木貫太郎侍従長が殺されていれば、のちの大東亜戦争の結末はどうなったか、考えただけで寒気がする。

 「憂国の士という者が出てきて国をつぶす」と、昔、勝海舟が言ったそうだが、まさにその通り。海兵69期で、ソロモンの陸戦隊で飢えと病とに苛まれながら終戦まで戦い、戦後は弁護士になった前田茂大尉は、二・二六を評して、
 「軍人の無知による視野狭窄ゆえに起きた事件。重臣を殺せばよくなるほど、世の中は単純なものではない。いま思えば昭和の軍人には世界観が欠けていた」
 と。
 ただ、元零戦搭乗員で敬愛する角田和男さんのように、農村での生活実態からずっと二・二六事件を支持していたという人もいて、実生活に裏打ちされたそんな観方は尊重せねばならないと思う。「支持する層も一定数いた」というのも、偽らざる歴史的事実だからだ。

 事件当時予科練習生だった角田さんは、陸軍蹶起部隊(支持する立場の人は叛乱軍とは言わない)の討伐に出動を命じられそうになった際、何人かの同期生と一緒に隊を飛び出して陸軍に合流しようと、本気で考えておられたという。


 ……だけど、いまの若い人の中に、ミーハー気分で叛乱将校たちに憧れを抱いている人がいるのはいかがなものかと思う。歴史に興味を持つのはいいけれど、衣食住に不自由せずにぬくぬくと育った人には、おそらく血を吐くような彼らの本心は絶対にわかるまい。もちろん、私にもわからない。ただ、両方の立場の人に取材してきているぶん、「現代の若者には絶対にわからない」ことだけは理解しているつもりだ。


 ところで私は、二・二六事件で命を狙われ、奇跡的に助かった時の総理大臣、岡田啓介海軍大将のご子息、岡田貞寛主計少佐と交詢社ネービー会で何度かお会いしたことがある。
 岡田貞寛さんもじつに素晴らしい方で、岡田さんを語りだすと長くなるから控えるけれど、岡田さんには『父と私の二・二六事件』(単行本・講談社1989/02、文庫・光人社NF文庫 1998/01)という名著がある。

 事件当時、貞寛さんは19歳の海軍経理学校生徒で、家族、しかも海軍に籍を置いた息子の目から見た事件の模様、真相は、まさに余人では語り得ないことである。しかもその文章たるやじつに明瞭にして品があり、読み応えがある。


 岡田さんは、限られた仲間内ではよく随筆を書いておられたりもしたが、ご本人はあまりご自分の体験や考えを世に出すことを好まない方だった。
 お亡くなりになる前、交詢社ネービー会に届いた最後の出欠ハガキには、
 「老兵は消えゆくのみ。死に方用意、帽振れ!」
 と書かれていた。おそらく、死後は本も絶版にするよう遺言があったのだと思う。

 『父と私の二・二六事件』、単行本も文庫本も、いまは絶版、品切れ状態で、古本を買うしか入手手段がないのが残念だが、昭和史の一端を知る上でぜひ一読を薦めたい好著である。


 戦後、ある慰霊祭で、角田和男さんと岡田貞寛さんが同席したことがあった。角田さんは、
 「かつて、本気で殺そうと思った総理大臣の息子さんですからね、挨拶の言葉に困りました」
 と率直におっしゃっていた。本音だと思う。岡田さんも角田さんも、いまやこの世にない。
 これも、歴史のひとコマだろう。





感状、賞詞、表彰。

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 日本海軍では、顕著な武勲を挙げた部隊を賞するのに、いくつかの方法があった。
 最終的に、個人の最高の栄誉は論功行賞による金鵄勲章の授与だが、これはそうしばしば行われるものではない。(旭日章、瑞宝章は一定資格を満たせば授与される)

 最後の生存者を対象にした論功行賞は、昭和15年4月29日付で行われたもので、つまり、真珠湾攻撃以後の大東亜戦争で、生きながらにして金鵄勲章を授与された軍人は一人もいなかった。時おり、金鵄勲章を持っている旧軍人がいらっしゃるが、それは全て、支那事変の功で与えられたものである。

 戦死者に対しては、その階級、功績に応じて終戦まで随時、金鵄勲章の授与は行われた。

 そんな、金鵄勲章の予約券、とも言えるのが、艦隊司令長官が出す「感状」、戦隊司令官が出す「賞詞」、下士官兵に対し、司令または艦長が出す「善行表彰」であった。


 その実例。

 昭和15年9月13日の重慶空襲、零戦初空戦で、「進藤海軍大尉指揮セシ第十二航空隊戦闘機隊」に与えられた感状。

 こういう場合、感状の原本は十二空司令に授与され、進藤大尉以下、参加搭乗員にはそれを複写して厚手の写真用印画紙にプリントしたものが授与される。

 拙著『祖父たちの零戦』(講談社)にもある通り、戦後、進藤さんが破り裂いたのを補修した跡がある。

  


 同じく、四川空襲作戦全般に関し、進藤さんたちが授与された感状。

  
 

 これも同様。

  


 これはそのあと、進藤大尉が十四空に移ってからのもの。

 

 同じく。

 


 ご覧いただければお分かりのように、進藤さんの感状は全て支那事変の論功行賞の後である。論功行賞が間に合っていれば、金鵄勲章も一級上がっていたと思われるが、進藤さん(最終階級少佐)の金鵄勲章は功五級である。



 いっぽう、進藤さんと海兵同期の鈴木實さん(最終階級中佐)の場合は、中尉で空母「龍驤」に乗組み、初陣だった支那事変初頭から感状を授与されている。

  

 これが効いて、鈴木さんの金鵄勲章は進藤さんより一つ上の功四級である。

  
 (鈴木さんの勲章。左から勲四等瑞宝章、功四級金鵄勲章、勲五等双光旭日章、勲六等単光旭日章。)

 このとき功四級に叙せられた尉官の軍人は、海軍全体で、戦闘機の鈴木實、兼子正、陸攻の足立次郎、壹岐春記、いずれも大尉、の四人だけだった。


 鈴木さんは昭和16年、十二空でも感状を授与され、 

  


 昭和18年には二〇二空零戦隊を率いてオーストラリア上空でスピットファイア隊に圧勝、石川信吾司令官より賞詞を受けている。これは印刷でも写真でもなく、石川少将の直筆である。

  


 以上、進藤さん、鈴木さんの感状、賞詞、鈴木さんの勲章は全て託されて私の手元にある。




 航空隊司令からの善行表彰の一例。
 鈴木實少佐の部下だった二〇二空伊藤清一飛曹のもの。撃墜破32機とあるが、これは部隊で記録した功績調査票によるもののはずである。伊藤一飛曹は、特別善行章一線を付与されている。

  


 そのほか、ラバウルでは独自に、南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将が、士気鼓舞の目的もあって、武勲顕著な搭乗員に、自ら「武功抜群」と墨書し紅白の水引を付けた白鞘の日本刀や短刀を授与している。

 写真は、草鹿中将から授与された日本刀を突いて立つ、二〇四空の渡辺秀夫上飛曹(のち飛曹長)の晩年のお姿。
 
  

 よく、ものの本に「軍刀を授与された」とあるが間違いで、軍刀の拵えも何もない、白鞘の日本刀である。
 ご本人にとってはこれが、戦後もずっと心の拠りどころであった。




 

『エース列伝』の不謹慎 2015

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 以下は再掲。


 またぞろ『エース列伝』を冠する本が出るらしいので、このさい立場をはっきりさせておく。


 「エース」という言葉。
 これほど端的な誤解はない。実際には、

 「日本海軍にエースという称号はない」
 のだ。

 「公認」とか「非公認」とかも、研究者が勝手に作った定義にすぎない。「エース列伝」なんて、存在自体がナンセンスだ。

 「誰某は○機撃墜のスコアをもつエース」

 なんて記述を見るたびに虫唾が走る、と志賀さん(少佐)も日高さん(少佐)も小町さん(飛曹長)も言っていた。

 エース? スコア?

 そんなアメ公みたいな気色のわるいこと、いいかげん、言うのやめましょうよ、日本人なら。

 ゲームではない、人の命がかかっているのだ。墜としたほうにも墜とされたほうにも家族がいるのだ。一人の「スコア」の陰には悲嘆の淵に追いやられた遺族がいる。

 それを英雄視するなんて、不謹慎きわまるとは思わないのだろうか。

 空戦は競技ではない。「個人対個人」の喧嘩ではなく、国と国との戦いなのだ。
 聞きかじり、読みかじりの半端な知識で軽々しく語れるようなことでは、本当はないはずだ。

 本を出すのは勝手だし、他人の本に私がケチをつける筋合いはないけれど、間違った前提でものごとを捉えられているのは、どうも看過できない。

 某エース列伝の某著者は、ある搭乗員に、所属部隊のことを、「○空の零戦隊は弱かったんだそうですね」なんてにわか信じがたい愚問をぶつけ、深く傷つけたとも聞く。
 本人は忘れているかも知れないが。


 志賀少佐ご生前の言葉をここで記しておく。志賀少佐の意見は、生き残り零戦搭乗員の総意である。

 「エースというのは欧州でもともと生まれた称号で、日本においてはない。
 なくさなければ、というより初めからあれはよその国の問題なんです。
 支那事変初頭、樫村とかエース的なものが出てきた。持ち上げられて中には天狗になるのもいる。
 これではいけないと14年度の航空本部が監督し、艦隊と大村空の合同で行なわれた『航空戦技』とその研究会で、海軍戦闘機隊は今後、編隊協同空戦を旨とすることが決められ、
 『エースという考え方は日本にはない』
 という意思統一が図られた。横空でもそのように研究、教育を図ることになった。

 それなのに、戦後、坂井三郎が世に出たあたりから、エースという言葉が広く使われるようになって歪曲してきた。
 あれはなんだ、『商売』で勝手にやっていることだ。そうしなければ本が売れないのだろうが、それではいけない。なかったことを、さもあったことであるかのように既成事実を作られると困る。こういう風潮は元に戻さねば。
 『エース列伝』のようなカタチで本が世に出るのは迷惑千万である。

 強いて言えばそういうものとは別の本を、あなた(=神立)に期待している。

 けっして、特定の搭乗員を特別視したり英雄視したりすることのないように。
 戦死した、本に載らないような搭乗員にも、立派な男が大勢いた。
 もし、われわれを英雄扱いされるようなことがあれば、あなたとはお付き合いできませんから、そのつもりで」

 ・・・・・・この見解は、志賀さんが亡くなり、「零戦搭乗員会」がNPO法人「零戦の会」になっても変わらない。譲れない一分である。

『エース列伝』の不謹慎、を突き抜けた一冊。赤松貞明『日本撃墜王』

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 4年前、東日本大震災の直前、3月9日に書いた記事に加筆して再アップする。

 欧米はともかく、日本において、ことに帝国海軍において、戦闘機搭乗員を「エース」呼ばわりすることの不謹慎さについてはこれまでも何度か書いている。

 志賀淑雄少佐がおっしゃっていたように、
 「日本海軍戦闘機隊にはエースはいない。そんな称号も制度もなかった。商売で『エース列伝』などという本を出されるのは迷惑千万」
 というのは、「零戦搭乗員会」の統一見解であったし、それを正統に引き継いだ「NPO法人零戦の会」でも同じである。

 少なくともこのブログをご覧になる一日2000人近い読者諸賢は、このようなものに惑わされないでいただきたい。

 本のなかで「エース」呼ばわりをされて偶像に祭り上げられ、その気になってしまったごく一握りの人たちは、かつての仲間から軽蔑されたものだ。
 まあ、いまどき、「エース」だ、「撃墜王」だといって喜ぶ読者も少数派なのだが。

 ところが、「撃墜王」を自称して、それが許された、いやむしろ愛されたキャラクターの元搭乗員が一人だけいる。
 赤松貞明中尉。(写真は昭和12年、下士官時代)
 

 明治43年生まれ、ということは海兵でいえば59期と同年ぐらいだが、昭和3年、佐世保海兵団に入団、四等水兵から叩き上げられ、昭和7年、17期操縦練習生を卒業、支那事変以来数々の戦場で名を馳せ、昭和55年、70歳で亡くなった。

 大言壮語(すごいのなんの、撃墜自称350機!)が憎めない人だったようで、部下の岩井勉さんの結婚式に全裸で乱入して踊り狂ったとか、どこかでもらってきた性病を奥さんにも伝染したとか、そういう逸話には事欠かないけれど、搭乗員としての実力もたいしたものだったらしい。

 黒澤丈夫少佐は、開戦直後、大尉だった三空時代、地上銃撃直後の不利な体勢で敵機に襲われ、絶体絶命のピンチを赤松飛曹長に助けられたというお話をよくされていた。

 で、法螺もここまでくると許される、というか、同じ法螺なら大きいほうがむしろいいかも、と私がひそかに思っているのがこの一冊。
 赤松氏の著書、というか語りおろしの『日本撃墜王』(今日の話題第三集臨時増刊号。昭和二十九年十一月)である。

 表紙。定価30円。
 写真家「神立尚紀(こうだち・なおき)」のブログ

 表紙のアップ
 写真家「神立尚紀(こうだち・なおき)」のブログ

 撃墜350機!のくだり
 写真家「神立尚紀(こうだち・なおき)」のブログ

 いたって大真面目に語りかつ書かれているのがおかしいが、昭和29年という時代だからこそ、この内容でもよかったのだろう。
 『坂井三郎空戦記録』もそうだが、敗戦コンプレックス、ガイジンコンプレックスが色濃く残る時代、人々はガイジンレスラーをなぎ倒す力道山の空手チョップに夢を託し、米英機をバタバタと撃ち落す零戦の活躍ぶりに、たとえそれが負け惜しみに過ぎなかったにしても、明日への希望を見出していたのだ。
 しかしこの本、撃墜機数はともかく中身はさほど奇想天外でもなく、戦闘機の操縦に関することなど「おっ」と思うような記述も随所にあって、意外に理知的な面もうかがえる。

 装丁がちゃちな雑誌なので、果たしてどれぐらいの数が現存しているか。入手は難しいかも知れないが、ご興味のある方は古書ででも探してみてはいかがだろうか。

 ついでながら、NHKアーカイブスのサイトで、「日本ニュース」が全巻、画面は小さいものの見られるようになったが、「日本ニュース」第254号(昭和二十年七月一日公開)の「海の荒鷲『雷電』戦闘機隊」で、厚木の三〇二空で若い搭乗員に身振り手振りで空戦の機動を教える赤松氏の姿を、肉声入りで見ることができる。
 その前に搭乗員を集めて訓示をしているのは、終戦後自決した飛行長・山田九七郎少佐(海兵64期)である。



 ここからが追記だけれど、赤松氏が「支那事変中、自分よりも撃墜機数の多いのが二人いた、一人は小泉という者で、もう一人の名前は忘れた」旨の発言があるが、その小泉藤一大尉(戦死後の進級)の写真が、何枚か手元にある。

 小泉藤一氏は、大正5年福井県生まれ、予科練(のちに乙種と呼ばれる)2期生として昭和6年に海軍に入った。
 写真は、撮影した戦友の履歴との照合から、おそらく、二点とも昭和12~13年、十二空か大村空時代のもの。

 善行章二線に、左マークは操練の鳶ではなく飛練の鷲の特技章。
 

 こちらは第一種軍装だが、古参の域に達した下士官らしく、軍帽の針金を抜いてクシャッとした形にしている。
  

 巷のエース本には目立った記述はないが、支那事変以来の古い搭乗員の誰もが、この人には一目置いていた。

 日米開戦時は飛曹長に進級していて、赤松貞明飛曹長と一緒に三空にいた。
 フィリピン空襲、インドネシア方面の航空戦、オーストラリア空襲などに参加し、開戦以来1年半にわたり前線で戦った。緒戦の「無敵零戦」神話の立役者の一人と言ってよかろう。

 昭和19年1月27日、二航戦の空母「飛鷹」分隊長として、ラバウル上空の邀撃戦で戦死。満27歳だった。
 二航戦戦闘機隊ということは、進藤三郎少佐が指揮官で、日高盛康大尉も一緒だったはずである。
 もし戦後までご存命だったら、ぜひともお話を聞いてみたかった人の一人である。



72年前の今日(昭和18年3月6日) 五八二空零戦隊・樫村寛一飛曹長戦死(ルッセル島上空)

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 72年前の今日、昭和18年3月6日、支那事変初頭の「片翼帰還」で知られる五八二空零戦隊の樫村寛一飛曹長が、ルッセル島上空の空戦で戦死した。

 樫村飛曹長は昭和八年の志願兵で、原田要さんや坂井三郎さんと同年兵になる。
 
 数年前までは奥さんが慰霊祭の折に毎年上京され、靖国神社で同じ五八二空の野口義一中尉の妹さんらとお参りされるのに同席させていただいていた。

 いろんな人からいろんなエピソードが聞かれる、海軍戦闘機隊の名士だった。


 五八二空でご一緒だった、一昨年亡くなられた角田和男さんからも、樫村飛曹長の思い出はずいぶん聞かされたものだ。

 今頃は彼岸で編隊飛行をされているのだろうか。


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 日本軍をガダルカナルから追い落として、勢いに乗る米軍は、昭和十八年二月二十一日、ガ島よりもラバウル、ブインに近いルッセル島に上陸を開始、またたく間に飛行場を作り上げた。

 二十六航戦では、高畑辰雄大尉率いる五八二空艦爆隊十二機をもってルッセル島の敵陸上施設を攻撃することとし、野口義一中尉の五八二空零戦十八機、宮野大尉の二〇四空零戦十七機がこれを護衛することになった。

 十一時四十分、攻撃開始。戦闘機隊は艦爆隊を覆うようにバリカン運動をしながら降下に入る。艦爆隊は、四機が二十五番(二百五十キロ)爆弾各一発、残る八機は六番(六十キロ)爆弾各二発を搭載していた。五八二空戦闘機隊の一部は、艦爆に呼応して、地上施設や海岸にあった舟艇を銃撃している。この銃爆撃で敵見張所ほかの陸上施設を炎上させ、相当数の舟艇に損害を与えたと認められた。

 攻撃が終わって避退するところに、グラマンF4FP-39混成の敵戦闘機十数機が襲いかかり、五八二空の艦爆一機(岩井田弘飛長、竹下薩男二飛曹)が撃墜される。二〇四空宮野隊は艦爆隊の直掩に徹し、空戦に入らなかったが、敵戦闘機にやられたものか、丙飛三期の加藤正男飛長がルッセル島付近に不時着、そのまま未帰還になった。加藤飛長は六空開隊以来の搭乗員の一人で、グラマン一機撃墜の功を持っていた。


 五八二空樫村寛一飛曹長は、なおも執拗に攻撃してくる敵機に単機、低高度で格闘戦を挑んだが、降爆のさいに振り放された二番機・福森大三二飛曹と明慶幡五郎飛長が駆けつけた時にはすでに遅く、衆寡敵せず樫村機は海中に突っ込んだ。支那事変「片翼帰還」の勇士の、あっけない最期であった。

 列機二機が最期を見届けているが、准士官以上の目撃者がいなければ自爆の現認証明書が出せない。未帰還の扱いでは遺族への公報も遅くなるからと、五八二空司令・山本大佐は、苦肉の策として、当日、搭乗割に入っていなかった角田飛曹長が出撃したことにして編成表を作り直し、角田に現認証明書を書かせた。しかし、この策はなぜか通らず、樫村飛曹長は未帰還と認定され、現在防衛庁に所収されている五八二空戦闘行動調書では、編成表はメイキングされたまま、樫村の欄には「未帰還」と朱字が入っている。


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「三大い人」と「三大奇人」。

テーマ:
 複数の操練出身(ということは古手の)搭乗員によると、坂井三郎、樫村寛一、岩本徹三の3氏を称して、「海軍戦闘機隊の三大“い”人」というそうだ。
  “い”人というのが「異人」なのか「偉人」なのかはわからない。共通していえるのは有言実行というか、口八丁手八丁の人たちで、腕も立つが口も立つ、ということのようだ。
 そして、そのルーツは、「源田サーカス」の、間瀬平一郎氏にあるそうだ。

 また、もう少し古い世代で、黒岩利雄、赤松貞明、虎熊正の3氏を「海軍戦闘機隊の三大奇人」と呼ぶ。
 この人たちはいずれも、腕がいい上に、軍隊社会でも独自のポジションを築き上げて下士官兵搭乗員のボスとして君臨し、上官を上官とも思わぬ振舞いながら上からも認められていたという点、そしてその奇行ぶりで、後の世代にはあまりないような存在感を示している。

 黒岩氏は、日本初の敵機撃墜を果たした生田乃木次大尉の二番機として知られるが、上官暴行等色々あって善行章を剥奪されたり、金鵄勲章を返上したり、結局は「不良満期」で海軍を去り、民間航空のパイロットとして殉職されたわけだが、戦後も懐かしむ人が多くおられた。

 赤松氏については、言わずもがなだが、岩井勉さんの結婚式に裸で乱入して踊り狂ったとか、まあ、書ききれないほどのエピソードがある。
 虎熊氏は、「虎熊豹象」と自称し、生きた蛇を生のまま、頭からバリバリ食うような人で、若い搭乗員はよく、炎天下の飛行場の草っ原で、蛇を捕まえさせられたそうだ。
 赤松氏は戦後病没、虎熊氏はテスト飛行中の殉職だから、そういえば、三大「奇人」のほうはどなたも敵機には墜とされていない。

 あと、准士官進級を拒んで下士官のまま戦死した菊池哲生氏、梅毒を自分でリンパ腺を切って海水で洗い、治してしまったS氏(割合早く戦死したので、本当に治ったかどうかはわからない)などなど、硬軟とりまぜて色んな「名士」がいる。


 福岡の知人Tさんのご親戚、岡部健二さんもそんな名士の一人である。

 二〇一、二〇五空搭乗員の方が集まった折、必ず岡部氏の思い出話に花が咲いていた。
 特攻反対を公言し、特攻隊員にも「特攻なんてやめてしまえ、ぶつかったら死ぬんだぞ、死んだら終わりだぞ」と説いていたという話。
 昭和20年初頭、フィリピンで飛行機を失い、転進するため搭乗員たちが山中を半月以上も行軍したとき、みんな疲れ果てて呆然としている中、岡部さんは大きな荷物をかつぎ、小休止のたびにその荷物を広げ、みんなに見せびらかしていた。
 荷物の中身は、シンガポールで買った婦人もののハイヒールやハンドバッグ、化粧品など。
 「俺は死なない、かあちゃんにこれを持って帰るんだから」
 と、奥さんののろけ話がはじまる……といった具合に。


 でも、いまや古い搭乗員のそんなエピソードを聞かせてくれる人も、ほんとうに少なくなってしまった。



海軍士官の考課表

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 私の本にはしばしば海軍士官が登場するし、海軍兵学校その他の卒業成績(俗にハンモックナンバーと呼ばれる)も出てくる。

 特に士官さんは、後世誰にでも検証可能な記録が残っているので、兵学校や機関学校、経理学校、予備学生、などなどの卒業席次はごまかしようがない。
 これは、ご本人たちにすると、はなはだ「いやなもの」のようだ。

 成績があまり上位だと、それを言うのは嫌味だし、下のほうでも複雑な思い。
 ちょうどいいのが、海兵六十六期の故・日高盛康少佐のように「上から三分の一」ぐらいのところか。

 海兵六十八期の故・松永市郎大尉は、いつも駄洒落や冗談ばかり言っていて、阿川弘之先生のご本にも、「あまり上のほうではなかったのでは」と書かれていらっしゃる。
 ご本人曰く、
 「私のハンモックナンバーは上からちょうど三分の一、クラスの三分の二は戦死したから、生き残った者のなかではビリ」
 ということだったので、ははあ、やっぱり松永師匠、ビリに近かったか、それにしても三分の二戦死されたから上から三分の一とはうまいことをおっしゃると思っていたが、調べてみると、ほんとうに、全体で上から三分の一の成績だった。意外に、と言っては失礼だが、優秀な成績でいらしたのだ。


 お会いしてみて、「こんなに頭のいい人がこの世にいるのか」と驚愕した門司親徳主計少佐(拙著『特攻の真意』文藝春秋・主人公の一人)が、主計科短現六期110名中20番で、まだ上に19人もいたのかと驚いた(ちなみにクラスヘッドは、鳩山威一郎元外務大臣。中曽根康弘首相は55番)こともあるし、敬愛する我らが分隊士・零戦搭乗員の土方敏夫大尉のように、身近な人が十三期飛行科予備学生約5000人中、20番の好成績だったことを知り、「へえ」と思ったこともある。

 ただし、この席次は、のちの勤務成績により大きく動くことがあるから、「ハンモックナンバーが一生を左右する」という俗説は、全く違うとは言えないまでも誤解である。
 拙著『祖父たちの零戦』(講談社)の主人公の一人、鈴木實中佐が、海兵卒業時の席次がビリから五分の一ぐらいだったのに、最終的に、海兵60期で11人しかなれなかった中佐に進級した(同期生で同書のもう一人の主人公、進藤三郎さんは少佐)のはその好例である。


 海軍では指揮権の継承順位が厳密に決められていて、同じ階級ならば席次の上のほうが戦場ではもちろん、食卓でも上席に座る。つまり、給仕をする従兵などにも、士官の席次は一目瞭然である。



 補足になるかどうかわからないが、私の手元に、ある士官搭乗員の考課表の原本のコピーがある。
 士官の考課表は、艦船乗組の場合は艦長、航空隊では司令が書いて、年に一度、海軍省人事局へ提出する。

 考課表の原本は本来、門外不出、本人が見ることのなかったものだが、私の見たものは、海軍省勤務であったある方が、終戦時、同期生の考課表をまとめて持ち出した、という謂れがある。


 海軍省人事局にあった考課表の原本は細い短冊状の厚めの紙で、一方に穴が開いていて、検索に便利なように番号順にファイルされていた。

 最上段左に縦書きで氏名、生年月日、本籍が書かれ、あとは本文は横書きで、その右に各階級への進級年月、出身中学その他雑記事項が記されている。

 その下には、左から各配置についた年月日、配置、評価の順に、当人のことが記載される。全体に、米粒より小さいような小さな字。

 評価については、「性行」「技能」「勤務」について、それぞれ甲、乙、丙、で記入されており、甲乙丙はまた、上、中、下に細分されている。それに、所轄長による評価が平易な表現で書かれている。


 手元にある考課表の主は、大変成績優秀な方であったようだが、一部を抜粋してみると、

 「真面目、熱心、挙措厳正、明朗快活ノシッカリ者、好感ヲ持テル 進取性確実性ニ富ム。誠心努力、積極的、人識共優秀。甲上、甲中、甲上 (八雲 近藤泰一郎)」

 「明晰、明朗、諸事極メテ熱心、理解力、判断力優。甲上上上 (霞空 竹中司令)」

 「明朗、活気旺溢、熱意ニ富ミ、積極研究的努力家。技倆ノ進歩著シク有為ノ偵察将校タリ得ヘシ。甲上上上 (赤城 長谷川)」

 「融和性ニ富ミ頭明研究心旺、粘リ強ク着々成果ヲ挙ゲツツアリ。甲上上上 (横空 草鹿龍之介)」


 ・・・・・・という具合である。
 行間に、感状授与の件や、母艦勤務を示すとおぼしきマークや、一線勤務をうかがわせる「18一線」の文字も入っている。
 しかし、このように「甲上」の評価が並ぶ人はきっと一握りだから、ここまで美辞麗句が並んだ考課表というのは、たぶん珍しい。この考課表の主は、実際、素晴らしい方であった。


 士官の考課表については、故・岡田貞寛さん(主少佐、岡田啓介大将ご子息)のお話を元に、阿川弘之先生が、「海軍こぼれ話」で考課表のことを書いておらるが、土方分隊士も、

 「海軍は転勤が多く、上司がいろいろに替わりますので、ある上司には良い評価をされても、別の上司には反対の評価ということもあります。これらの評価が積み重ねられてくると、ある程度客観的なものになるのではないでしょうか。1回で評価するのではなく、いろいろな立場から、回数を重ねたものが結局はその人の評価になるものであるように思います。」

 ・・・・・・とお書きになっている。

 それに加えて、たとえば甲が続いた士官の評価が突然、丙になったりすると、評価をくだす側の司令や艦長の書いた他の考課表が見直され、評価する側の人格識見まで、人事局がチェックできるという、なかなか優れた制度であったやに思われる。

 なお、兵学校出身士官は、原則として大尉までは同時に進級するが、病気や事故、不祥事等で遅れることはある。


 下士官兵については、転勤にあたっても、原則として指名ではなく「小隊長として使える者何名」といったくくりになるので、考課表にも、「小隊長トシテ適」とか、「指揮官列機トシテ最優秀」などと書かれていたと、当時実際に書いた別の分隊士の方が仰っていた。「技倆優秀ナルモ融和性ヲ欠ク」とか、「稍酒乱ノ癖アリ」「自尊心強ク融通ノ利カナイトコロアリ」などというのもあったそうだ。


 しかし、こんなものがいつまでも残って資料にされたのでは、海軍さんも大変だなあ。






開戦時の第三航空戦隊戦闘機隊について。

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 まずはじめに、今回はかなりディープな話題であることをお断りしておく。


 真珠湾攻撃に参加した空母部隊は、第一航空戦隊(赤城、加賀)、第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)、第五航空戦隊(翔鶴、瑞鶴)の三つの航空戦隊であることはよく知られている。


 第四航空戦隊(龍驤、春日丸)の空母龍驤は、真珠湾攻撃と同日、搭載機をもってダバオ空襲に参加(戦闘機は零戦が間に合わず九六戦)し、春日丸は南方へ飛行機の輸送に従事している。


 しかるに、第三航空戦隊(鳳翔、瑞鳳)は、開戦時、聯合艦隊の主力部隊と行動をともにし、「ハワイ作戦の支援」の名目で出港はしたが、目立った働きはしていない。

 そこで疑問になるのが、三航戦の開戦時の飛行機隊はどうであったか、ことに戦闘機隊はいたのかどうかということである。


 以前、このことを人に聞かれて、尤もと思い、ご存命であった日高盛康少佐(開戦時は中尉)に聞いてみたことがある。日高さんは、私と渡辺洋二さん以外、いわゆるプロの取材者に対しては一切インタビューに応じられなかった。鳳翔、瑞鳳、飛龍、瑞鶴、隼鷹など、さまざまな母艦に乗組経験のある珍しい経歴をお持ちの士官搭乗員だった。


 結論からいうと、昭和16年12月8日、開戦時には三航戦の戦闘機隊は「なかった」とのことだった。開戦時、鳳翔が搭載していたのは、哨戒用の、複葉の九六艦攻一個分隊(分隊長・清宮鋼大尉)のみ、瑞鳳は九七艦攻で、戦闘機は両艦とも、搭載どころか搭乗員もいなかったのだ。


 昭和16年9月、三航戦の飛行機隊は解隊され、搭乗員の多くは新しい五航戦に転勤、「瑞鳳」戦闘機分隊長、帆足工大尉も、喜びいさんで翔鶴に転出したそうだ。
 その時、なぜか瑞鳳戦闘機分隊士・日高中尉だけは大分空に転勤を命じられ、三十五期飛行学生(海兵67)指導官附となっている。


 ちなみに、開戦前の瑞鳳飛行機隊には、飛行長・所少佐、戦闘機分隊長・帆足大尉、分隊士・日高中尉、艦攻分隊長・牧大尉、分隊士に池田、葛城両名の名前がある。

 その(開戦前の)瑞鳳戦闘機隊は、瑞鳳の就役時に、それまでの飛龍戦闘機隊の帆足分隊が、そのまま一個分隊引っ張られる形で編成され、日高中尉も、帆足大尉に従って飛龍から瑞鳳に移ったものだ。
 飛龍戦闘機隊は、その直前に、高雄で零戦に転換したが、瑞鳳に移るとまた、九六戦に逆戻りしたという。


 それで、開戦時には三航戦の戦闘機隊はなく、開戦後に再編成、12月30日、日高中尉は「鳳翔」戦闘機分隊長に補せられ、岩国基地に着任したときには、搭乗員はすでに何人もいたが、当然ながら前任者との引き継ぎなどは「なかった」とのこと。


 鳳翔飛行長は、舟木少佐、飛行隊長は欠、戦闘機分隊長(九六戦)日高中尉、分隊士峰岸飛曹長、下士官兵搭乗員6名の計8名、九六戦の常用機数は6機。艦攻(九六艦攻。九七艦攻はリフトの幅の関係で搭載できなかった)分隊長は引き続き清宮鋼(せいみや・はがね)大尉。

 また、瑞鳳戦闘機分隊長には森茂大尉が補せられ、共に岩国基地で、激しい訓練をしていたそうだ。


 九六戦で、「鳳翔」への夜間着艦の訓練などもずいぶんやった、九六戦は、前下方が見にくく、機銃の穴を通して母艦を見ながらアプローチに入るそうだが、それでも艦尾をかわる一瞬、母艦が全く見えなくなるとのことだった。



 そして、17年4月の人事異動で、瑞鳳の森大尉は飛龍に転勤(栄転、という言い方で、やはり喜び勇んで出て行かれたそうだが、直後のミッドウェー海戦で戦死)、日高中尉(5月1日大尉)は瑞鳳に戻る。

 当時の瑞鳳戦闘機隊は九六戦12機だったところ、ミッドウェー作戦直前に、零戦が6機配備されることになり、中島に取りに行かれたそうだ。

 なので、ミッドウェー作戦時の瑞鳳戦闘機隊は零戦6、九六戦6、となる。なお、この時の瑞鳳艦攻分隊長は松尾大尉とのこと。




 ……以上、これを「ふむふむ」と読んだり、ツッコミを入れたくなる人は、たぶん病気だと思います。





山下政雄少佐(海兵60期)のこと。

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 不思議なもので、旧帝国海軍の元軍人の取材を重ねていて、なるべく偏りのないように心がけていても、縁の深いクラス、縁に恵まれないクラスがある。

 前者は、海兵60期、62期、65期、66期、69期、70期、71期、丙飛2期~4期など。後者では、海兵61期、甲飛7期、8期、9期、乙飛の多く、丙飛の真ん中あたり、など。「縁がなかった」クラスには、そもそもほとんどが戦死されている場合もあるから、やむを得ないのかも知れないが・・・。

 なかでも、縁が深かったのが、海兵60期、拙著『祖父たちの零戦』(講談社)の主人公、鈴木實中佐、進藤三郎少佐のクラスである。
 海兵60期とコレスの海機、海計を合わせた「昭八会」というクラス会には、鈴木、進藤両氏のほかにも、代々木練兵場で日本で初めて飛行機を飛ばせた日野熊蔵陸軍大尉の息子、日野虎雄さん、戦艦「大和」の副砲長、清水芳人さん、日本初のジェット機「橘花」を飛ばし、戦後も日本初の国産ジェット練習機T-1の初飛行をした高岡廸さんら、錚々たる顔ぶれが揃っていた。

 進藤さんや鈴木さんが亡くなった後も、クラス会の案内を出したり、東郷神社の「海の宮」に同期生全員を合祀してもらったりと、お手伝いをしていた。
 ただ、飛行機出身の方と大艦巨砲主義の人は、奥様方もふくめてなんとなく反りが合わないようだった。
 この会の幹事、石井稔さんが急逝され、積み立ててきた会費がすべて法定相続人(つまり親族)に渡り、解散を余儀なくされることになるという、「任意団体」であることの限界に直面したことが、「零戦の会」をNPO法人化する直接のきっかけとなった。

 ほんとうは、「祖父たちの零戦」で、もう一人、主人公に立てたかった人がいる。
 山下政雄少佐。
 進藤さん、鈴木さんとともに、「60期戦闘機三羽ガラス」と呼ばれていた人だ。

 私が取材を始めた当時は85歳、耳が全然聴こえなくなっておられ、何やら重篤なご病気のようで、病院をあちこちたらい回しにされている、とのことであった。
 『祖父たちの零戦』に、鈴木さんと進藤さんが、山下さんが入院中の横浜の病院に決死の覚悟で見舞いに行かれるシーンがあるが、そのとき、鈴木、進藤両ご夫妻をお乗せして車を運転したのは私である。

 ご本人への直接取材はかなわず、ディテールが描けないので山下さんを主人公に加えることはできなかったが、奥さんとはその後もずいぶん長く、お亡くなりになるまで親しくしていただいた。
 山下さんは同期生のなかではもっとも早く、昭和12年に結婚されている。奥さんは18歳だった。

 

 結婚当時、山下さん(中尉)は空母「加賀」乗組で、奥さんは横須賀港に在泊中の「加賀」ガンルーム(士官次室)にも面会に行ったことがあるという。
 「ガンルームに行ったら、朝香宮(音羽侯爵)が新聞を読んでました」
 などと、女性の立場から見る海軍は一味ちがう。

 のちに大村基地に面会に行ったときは、
 「主人は出張していなかったんですけど、進藤さんがいらして、奥さんにいいものを見せてあげましょうと、3機で飛び上がって、スタントっていうんですか、すごい宙返りやらを見せてくれました」
 という。

 山下さんが亡くなり、奥さんが北関東の小さなマンションで一人暮らしを始められるとき、山下さんの遺したアルバムやら写真を、処分されるというのでいただいてきた。中には、航空史研究家の渡辺洋二さんが借りて、丁重な手紙を添えて送り返された封筒に、そのまま入っているものもあった。
 いただいてきたのはいいが、ほとんどの写真に説明がなく、アルバムも順不同に貼られているようで、判読に難渋したままこんにちに至っている。

 支那大陸上空を飛ぶ九七艦攻。
 

 上に同じ。公表写真なら、抱いている爆弾は検閲で消されるか「不許可」になるが、個人蔵の写真にそんなものはない。(軍の写真は全部検閲されているように勘違いしている人もいるようですが)
 


 山下さんは、昭和17年2月から7月まで、台南空分隊長を務めている。

 以下は『祖父たちの零戦』草稿から、構成上の都合で削除した部分。

「 昭和十七年二月、ニューブリテン島ラバウル基地に進出した四空、四月にそれを引きついだ台南空の零戦隊は、ニューギニア・ラエ基地を前進基地として、ベルP-39エアラコブラ、カーチスP‐40をはじめとするポートモレスビーの連合軍機と熾烈な空戦を展開し、ここでも圧倒的な強さを発揮していた。


 台南空では、鈴木實、進藤三郎と海兵同期で親友の山下政雄大尉が、連日の空戦に指揮官として活躍している。山下の空戦の指揮は、有利な態勢からまず自らが敵の一番機を狙い、敵編隊を崩すのを常としていた。あとは逃げる敵機を、部下が一個小隊三機の小隊ごとに追いまわして撃墜する。敵機を撃墜するのは主に小隊長の役目で、列機はそれぞれの小隊長を後方から掩護する。山下は頃合いを見て、バンクを振る合図で部下たちを集合させ、連れて帰る。その戦いぶりは堂々としていて、いささかも敵につけ入る隙を与えなかった。

 しかし、日本軍が攻略作戦を断念したことで戦線は膠着状態に入り、ポートモレスビーは、連合軍の反攻拠点としての存在価値をますます高めた。飛行機、搭乗員の補充がままならない日本軍に対し、豪州本土からの補給路を確保している連合軍は、いくら飛行機を撃墜されてもすぐに戦力を立て直し、日本側基地に空襲をかけてくる。日本軍はそこから先へは一歩も進めなくなった。ラエからポートモレスビーまでは直線距離で百六十浬(約三百キロ)の道のりに過ぎなかったが、途中にオーエン・スタンレー山脈の最高峰、標高四千三十六メートルのビクトリア山が大きく立ちはだかる。ポートモレスビー攻撃で被弾した零戦の中には、空戦の帰途、山を越えることができず、熱帯のジャングルに屍をさらすものも少なからずいた。 」


 相当、戦っていらっしゃるにもかかわらず、奥さんには戦場での話を一切されなかったそうで、奥さんはずっと、
 「うちの主人は戦争に出なかった」
 と思い込んでおられた。

 山下さんの手元にあった、ニューギニアのラエ基地で撮ったとされる台南空下士官兵搭乗員の写真。
 坂井三郎、西澤廣義、太田敏夫、等々、よく知られている顔が並ぶ。このへんは私より詳しい人がいくらでもいる。
 

 
 こちらも台南空か?平林真一さんの顔はわかるが・・・。
 


 なぜ敵機B-26の写真が・・・・・・と思ったら、 
 

 裏にこのような説明書きが。撃墜したB-26搭乗員のポケットに入っていたものだという。
 


 山下さんが慢性気管支炎で内地転勤になった後の台南空の集合写真。
 見る人が見れば説明不要ですね。
 

 これは六五二空飛行長のとき、「龍鳳」で撮られたもののよう。2列目中央が山下少佐、その右に飛行隊長の日高盛康大尉の顔も見える。
 


 これは大戦末期か。
 

 おそらく三三二空飛行長の頃。
 


 山下さんは戦後、昭和27年10月、広島で「南日本航空」(のち東亜航空)という航空会社を興した。
 

 

 

 

 

 この会社は昭和31年、鹿児島―種子島間の定期便運航を開始してから徐々に事業を拡大、昭和46年、「日本国内航空」と合併して「東亜国内航空」(のち「日本エアシステム」と改名、平成16年日本航空と合併)となる。

 


 


 


 日本の民間航空にとっての功労者の一人でもある山下さんは、平成9年6月26日に亡くなられた。
 書きかけの手記があるが、面倒になったのか戦争が始まる頃で終わっている。あと、人が書いた本に書き添える形のメモがいくつか残されているが、山下さんの思いを直接たどることはもはや無理だろう。



 ふたたび、『祖父たちの零戦』の削った草稿より、山下さんの登場場面――。

 日航機墜落事故の起きた昭和六十年には、鈴木、進藤の海兵同期生たちは七十歳代半ばに差しかかっていた。彼ら海兵六十期は、百二十七名中五十八名が戦死、あるいは殉職し、戦争を生き抜いた同期生も、この時点ですでに二十二名が歿している。

 毎年四月、東京・原宿の東郷神社に隣接する水交会(海軍士官の親睦施設であった水交社の後身)で、同期生が集まって「昭八会」(昭和八年、遠洋航海に行ったクラスの意)という集いを開いていたが、
 「みんなそろそろ、お迎えも近いことだし、旅行でもしようや」
 と、中でも仲のよい鈴木實、進藤三郎、山下政雄の「六十期戦闘機三羽烏」に、聯合艦隊航空参謀を務めた多田篤次、艦船勤務だった豊島俊夫、砂田正二、鈴木敬弥(けいや)、斎藤英治の八名が語らって、「八千代会」と称して、年に一度、全員が夫婦揃っての旅行を始めることになった。
 八千代会の旅行は、昭和六十一年の台湾旅行に始まり、カナダ、沖縄、萩・岩国・秋芳洞、十和田と続く。

 青春の日、数年間を猛訓練の中でともに過ごし、同じ釜の飯を食い、同じものを見、同じ規律の中で暮らした同期生の絆の深さは兄弟以上で、そんな友情が老境に入ると格別に大切な、かけがえのないものに感じられた。鈴木姓の二人は、兵学校時代から、「ミノル」、「ケイヤ」と、下の名前で呼び分けられている。同期生が互いを呼び合うときは「俺」「貴様」のままである。
 旅行に行くと、夫人同士の女性陣は、朝から晩まで話題が途切れないかのように話がはずんでいる。男性陣は皆、機嫌がいいが、それほど口数は多くない。女性陣は、
 「男の人たちはあれで楽しいのかしら」
 といぶかしむが、男同士では、互いの顔を見ているだけで十分に気持ちが通じ合い、それで満足だったのだ。

 だがそんな時間も、それほど長くは続かなかった。はじめは皆がシャンと歩いていたのに、一人、二人とステッキを手放せない者が増えてくる。
 平成三年夏、鈴木の胃に癌が見つかった。少なくとも初期の癌ではないらしい。鈴木が意外に神経質でくよくよ悩むところがあるのを知っていた隆子の判断で、本人に告知はしないが、
 「手術前に、最後の思い出を作っていらっしゃい」
 という医師の勧めで、隆子は、
 「この夏、進藤さんと山下さん、敬弥さんを誘って小豆島に行きませんか」
 と、鈴木に提案した。鈴木の一家は東京都練馬区に暮らしているが、小豆島には、老後をそこで過ごすつもりで鈴木がキングレコード営業本部長だった頃に買った家がある。
 「いいね」
 鈴木は嬉しそうに賛成した。隆子は、進藤と鈴木敬弥、山下の妻・佐知に、鈴木の癌のことを告げた。だが、酒に酔うと何でもしゃべってしまう癖がある山下政雄には、そのことを伝えていない。
 小豆島では、広島県三原市に嫁いだ鈴木夫妻の娘、松尾礼子と孫娘の芽実(めみ)が、全員の食事の用意や世話をする。あるとき、昼食に鈴木の好物の讃岐うどんを出したら山下が、
 「讃岐うどんは入れ歯には固すぎて食えん。そうめんにしろ。鈴木がうどんを食いたければ、東京に帰ってから食えばよかろう」
 と不平を言った。もはや、男性で自分の歯が残っているのは鈴木だけだった。鈴木本人と山下以外の全員が、鈴木が癌で、これが最後の夏になるかもしれないことを知っている。だから鈴木の好物を選んで出しているのだが――。

 十日間、皆が機嫌よく過ごして、鈴木が自分の癌に気づかぬよう、いつものようにさりげなく別れた。進藤は、鈴木夫妻と別れて礼子の車で広島まで送られる道すがら、
 「絶対大丈夫だ。ミノルが死ぬもんか。また来年も来る。きっと来る」
 と、涙ぐみながら何度も言った。いっぽう、山下は、横浜へ帰る新幹線の車内で、佐知に事の真相を打ち明けられ、自分だけが鈴木の病気のことを知らず、讃岐うどんに文句を言ったことを悔いた。山下は、自宅に帰るまで一言も口を開かなかったという。

 鈴木の手術は、胃の三分の二を切除して、成功した。翌平成四年夏、こんどは鈴木、進藤、山下の三組の夫婦が小豆島に集った。今年も生きて会えたということに、進藤も山下も上機嫌だった。ところがここで、はしゃぎすぎたか進藤が怪我をする。
 家の近くを散策していると、小学校の校舎に竹馬が立てかけてあった。夏休みで門が開いていて、校内には誰でも入ることができる。八十一才の進藤は竹馬を見て、つい子供の頃の血が騒いだ。ステッキを置いて竹馬につかまり、ヒラリと乗ってみる。だが、ヒラリというのは自分の中のイメージだけで、やがて竹馬は進藤を乗せたままグラリと傾き、地面に倒れた。進藤はとっさに頭をかばったので大事には至らなかったが、
 「馬鹿、貴様。年を考えろ」
 と、鈴木と山下に怒られた。その数日後、進藤は何を思ったか、餌を食べている松尾家の飼い犬、雑種のジュンの口に右手を突っ込み、餌をとろうとして――犬好きならではのいたずらだが――噛まれ、指の腱が見えるほどの大怪我をして病院に運ばれた。
 「いいかげんにしろよ、もういい大人なんだから」
 と、また怒られた。


 ・・・・・・60期のクラス会で、こんな話を聞かされていた頃が懐かしいなあ。


初心。

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 4年前に書いたブログ。ちょうど『特攻の真意』(文藝春秋)の原稿と格闘していた頃のものである。
 自らへの戒めのためにここに再録。


初心


テーマ:
 なかばひっそりと、原稿を書く手休めに開設したこのブログだが、アクセスカウンターを見ると、大晦日から昨日までの一週間で3871件のアクセスがあったという。一日平均553。私たちが管理しているNPO法人「零戦の会」HPの二倍以上である。もっとも、「会」のほうは目下、いろいろ工事中で更新が完全に止まっているのだけれど。

 今日は、次の仕事に向け視界がちょっと開けた。
 ちなみに、今回もテーマは戦争ノンフィクション。
 これから集中して一気にやる。やらねばならない。

 初心に返るべく、この15年の蓄積を見直している。


 戦死した士官搭乗員(大野竹好中尉)が戦死間際まで書いていたこんな手記や、
 写真家「神立尚紀(こうだち・なおき)」のブログ

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 同じく戦死した下士官搭乗員(中澤政一二飛曹)が戦地で描いていたこんなスケッチ
 写真家「神立尚紀(こうだち・なおき)」のブログ

 ・・・・・・を見ると厳粛な気持ちになるし、

 
  拙著『零戦隊長』の主人公・二〇四空飛行隊長宮野善治郎大尉(戦死後中佐)が旧制八尾中学(現・府立八尾高校。私の母校だ)5年のとき使っていた手帳にはさまっていたこんなメモ

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 を見ると、あの時代を生きた人がじつに身近に感じられて不思議な気がする。しかし宮野大尉の奉職履歴を見ると時代の差は歴然で、またそれが不思議である。

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 また、鴛淵孝、林喜重、菅野直という三四三空の三人の飛行隊長が、それ以前に同じ航空隊にいた証のこんな現物の和紙に書かれた史料

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 や、「零戦の会」の仲間が偶然、骨董屋で見つけて送ってくれた、周防元成少佐から志賀淑雄少佐へ引き継がれた空技廠時代のこんなノート
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 そして、私以前にはいかなる取材にも応じなかった日高盛康少佐がご生前に送ってくださったこんな書類
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 など、縁あって私の手元に来た一次資料や、そこに込められた「思い」の重みを考えると、頑張らないわけにはいかない。


 そして、私がお守りとしていつも手帳にはさんで持ち歩いているのがこの名刺。
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 私が零戦搭乗員の取材を始めて間もない平成7年、志賀さんが零戦搭乗員会の事務局を預かっていた小町定飛曹長に、私のことをよろしくという添え書きを書いてくださったもの。小町さんにこれを見せて渡そうとしたら、
 「わかった。これは貴重なものだから、あんた持ってなさい」
 と言って返してくださった。この名刺の威光は、「葵の御紋」なみに歴然としたものであった。


 そして、平成9年に曲がりなりにも初めて出した著書『零戦の20世紀』(スコラ)のあとがきを書いてくださった志賀さんが、原稿の末尾に添え書きし、零戦搭乗員会の出身期別の各クラスに配布してくださったこの一文。

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 これはまさに、私が零戦搭乗員の取材をすることに対し、志賀会長が自らお墨付きをくださったということで、志賀さんが協力せよと仰ればみなさん協力しないわけにはいかないわけで、現に緊急クラス会を招集して誰を出すか、相談して決めてくださったという海兵某期の例もあるわけで・・・・・・ここまでお力をいただいていたということに、感謝を通り越して祈りを捧げたい気持ちになる。


 本を書くのは自分との戦いで、ときに心が折れそうになったりするけれど、そんなときはこれを読み返すと「初心」に返って、五里霧中のなか無我夢中で取材して回っていた頃の気持ちを思い出し、闘志が湧いてくる。心身ともにきつい。しかし、日本のために命を捧げたこの人たちの戦いを考えれば、私の苦労などいかほどのことがあろうか。

森光子の零戦隊慰問。(昭和18年秋)

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 以前、アップした鈴木實中佐のアルバムの、二〇二空での森光子さんの演芸会について興味をもたれた方がいらっしゃったようなので、ちょっと詳述する。


 

 (二〇二空の零戦搭乗員たち。クーパン基地にて)



 森光子らの慰問団がセレベス島ケンダリーの二〇二空で慰問演芸会を催したのは、昭和18年10月6日と11月22日の二回である。(チモール島クーパンでも11月21日に行っている)

 以下、『祖父たちの零戦』(講談社)未収録バージョンより。



 昭和十八年十月から十二月にかけて、海軍省恤兵部が派遣した慰問団が、ボルネオ、セレベス、チモール、ジャワ、バリを巡業している。慰問団は総勢二十四名で、その中に歌手として森光子が加わっていた。

 森光子著「人生はロングラン」(日本経済新聞社)によれば、このときのメンバーは、歌手・松平晃、林伊佐緒、松竹少女歌劇団の田村淑子、天草みどり、三田照子、浪曲の天中軒月子、太神楽の鏡味小鉄、それにコミックバンドの草分け・ハットボンボンズといった顔ぶれであった。慰問団はボルネオ島バリクパパンから船でセレベス島マカッサルに渡り、ここの富士ホテルをベースに海軍基地を回ったのである。

 二〇二空の本部が置かれたケンダリー基地には、設営隊員が作った「Ⅹ空常設劇場」と称する屋外舞台があった。「Ⅹ空」とは、二〇二空の尾翼記号がⅩであることからつけられた略称である。この年の五月には、歌手・藤山一郎もここで歌ったことがある。

 
 (昭和18年5月、ケンダリー基地。椅子列中央・藤山一郎。左端サングラスが飛行隊長・鈴木實少佐。前列右から二人目は戦闘機分隊長・山口定夫大尉)



 吉田一飛曹は、十月六日、進出していたラングールからケンダリーに移動を命じられ、ケンダリーに着いたその晩、慰問団の演芸会を見た。
 白い襟のついた紺のワンピースを着た森光子は、「愛国の花」「タイの娘」「ブンガワンソロ」を熱唱した。一曲が終わるたび、大喝采が起こった。続いて、森が、高峰三枝子の「湖畔の宿」を歌いだすと、観衆はみなシーンと静まり返った。内地では、感傷的すぎて戦時下にふさわしくないと歌うことを自粛させられた「湖畔の宿」だが、前線の将兵は、勇壮な歌よりもむしろ、こんな郷愁を誘う感傷的な歌のほうを好んだ。最後は慰問団全員で手拍子をとっての「撃滅ぶし」で締める。

 
 (左から3人目・森光子)

 

 いつの間にか、二〇二空零戦隊の戦いは、基地に来襲するB‐24に対する防戦一方になっていた。

 昭和十八年の終盤になると、二〇二空にも新型の零戦五二型の配備が始まっている。零戦五二型は、三二型、二二型と同じく二速過給器つきの「栄」二一型エンジンを搭載、三二型の短い角型翼端を丸く整形し、さらに集合排気管を推力式単排気管に変更することで、三二型の横転性能のよさを生かすとともに、さらなる高速化を狙ったものである。

 五二型の最高速力は三二型の時速二百九十四ノット(約五百四十四キロ)から十四ノット速い時速三百八ノット(約五百七十キロ)に向上した。これは、少しでも速度の速い戦闘機を欲していた第一線部隊の要求を、完全ではないまでも満足させるものであった。遅ればせながら、生産途中から燃料タンクの自動消火装置も装備されている。ただ、最初から機体上面がダークグリーンに塗られたその姿は、従来のライトグレーの零戦を見慣れた二〇二空の搭乗員たちには違和感があり、あまりよい印象を与えなかった。また単排気管によるバリバリと暴力的な排気音は、初めて操縦する搭乗員を驚かせた。


 太平洋で米軍による反攻が激しくなるにしたがい、インド洋方面では英軍の活動が活発化していた。昭和十八年十一月中旬、南西方面艦隊司令長官・高須四郎大将は、インド東部の英軍拠点、カルカッタへの陸海軍航空部隊協同による進攻作戦の実施を命ずる。

 「龍一号」作戦と名づけられたこの作戦には、海軍から二〇二空零戦隊、七五三空陸攻隊が全力で参加することになった。

 十一月二十二日、東南アジア、西部ニューギニアの各基地に展開していた零戦隊がケンダリーに呼び戻される。二〇二空の分隊長として着任してきたばかりの梅村武士大尉の回想によると、前日の晩、森光子たちの慰問団の演芸会をクーパン基地で見て、二十二日、慰問団を乗せた一式陸攻を護衛してケンダリーに帰ったという。

 この日、ケンダリー基地の指揮所前で、慰問団と二〇二空幹部たちが写った集合写真がある。飛行隊長の鈴木は、役得を生かして森光子を隣の椅子に座らせた。森光子は十八歳ですと、鈴木に自己紹介した。
 バックの指揮所に掲げられた木の看板は、通常、司令の名をとって「海軍内田部隊指揮所」(二〇二空司令は昭和十八年八月、岡村中佐から内田定五郎中佐に交替)と書かれているが、機密保持のため、記念撮影時には裏返して「海軍戦闘機隊指揮所」と書かれた面を写すことになっていた。

 
 (左から二人目・森光子、三人目・鈴木實少佐)



 二十二日、ケンダリー基地でふたたび行われた演芸会は、これまた大盛況であった。このとき、森光子は前回のワンピースの洋服ではなく、振袖の着物姿であった。小柄だが華のある森光子は隊員たちの人気を集め、内地から持ってきていたブロマイドは希望者が続出し、すでに底をついていたという。

 十一月二十三日、カルカッタ攻撃に向け、鈴木の率いる二〇二空零戦隊がケンダリー基地を発進する。慰問団は、基地の隊員たちにまじって、ちぎれんばかりにハンカチを振って零戦隊を見送った。

 東南アジア全域から一機も零戦がいなくなったことを敵に悟られては一大事である。この出撃は、特別に秘密を要求された。二〇二空の搭乗員は、ふだん白い防暑服の上に飛行服を着ているが、今回は外出しても戦闘機隊だとわからないよう、全員が草色の第三種軍装を着用することを指定された。
 「お前たち、こんどばかりは町で問題を起こしてくれるなよ」
 鈴木は部下たちに釘を刺した。

 零戦隊は、途中立ち寄ったバタビアで二泊、二十五日にシンガポールのテンガ飛行場に着陸し、そこで陸軍部隊との打ち合わせを行なった。ところが、ここまで来たのに、「龍一号」作戦はいったん中止されることになってしまう。
 これは、十一月二十一日、中部太平洋ギルバート諸島のマキン、タラワに米軍が上陸、日本軍守備隊が玉砕するなど、太平洋の戦況が緊迫化したためであった。七五三空の陸攻の大部分は、次に米軍が来るであろうマーシャル諸島にまわされることになり、二〇二空零戦隊は十一月三十日までシンガポールにいたものの、ふたたびバタビア経由でケンダリーに帰された。

 どうも、海軍上層部が米英両軍の動きに振り回されて、右往左往している感があった。
 「こんなに腰の定まらない指揮をされたのでは、勝てる戦も勝てなくなる」
 鈴木は憂鬱な気がした。

 カルカッタ攻撃は十二月に入って再開が決まり、こんどはスマトラ島北部のサバンに進駐していた新郷英城少佐の率いる三三一空零戦隊二十七機がビルマのダボイに進出し、十二月五日、陸軍の「隼」戦闘機七十四機と協同で海軍の陸攻八機、陸軍の重爆撃機十八機を護衛して出撃した。新郷隊はカルカッタ上空で英空軍のホーカー・ハリケーン八機と空戦、六機を撃墜している。だが、この攻撃は一度きりの単発で終わった。

 零戦にとって、ハリケーンやスピットファイアどころではない新たなる強敵が、太平洋に現れていたのである。



 鈴木さんたち二〇二空の生き残り搭乗員たちは、森光子、藤山一郎と、昭和52年8月13日、森光子が司会をしたNHKのテレビ番組、「第九回 思い出のメロディー」で再会を果たした。
 鈴木以下、塩水流俊夫、普川秀夫、吉田勝義、八木隆次、増山正男、長谷川信市、大久保理蔵の8名の元搭乗員が登場して森光子と再会、「同期の桜」を熱唱するときのテロップには、二〇二空の前称である「三空戦闘機隊」と出ていた。



 拙著『祖父たちの零戦』の単行本を講談社から上梓したとき、本を贈呈した、取材でお世話になった方のなかで、真っ先に安着のお葉書をいただいたのが、森光子さんだった。


操練出身搭乗員のエピソードに想う。

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 昔の海軍航空隊のことを書こうとして、何が困ると言って、名簿が完備していないのが最も困る。
 それでも大戦中期ぐらいまでの士官の場合は数も少なく、人事も海軍省の所管だから、ハンモックナンバーや経歴を調べることは比較的容易だが(それでも、鴛淵孝大尉が中尉時代に台南空にいたなどと適当なことを書く人もいる)、特准、下士官兵の場合は人数も多いし、各鎮守府ごとの話になるのでややこしい。
 搭乗員の場合、予科練出身者なら、甲飛会、雄飛会(乙飛)、丙飛会が相当調べ上げているものの履歴までは完備していない。それより、困るのは操縦練習生、偵察練習生出身者である。「操練会」や「偵練会」というのは戦中も戦後も存在しなかったのだ。(プロ野球でも南海ホークスなど、OB会のない球団があるのに似ている)
 特空会というのがあったが、これは搭乗員だけの会ではなかった。

 それで、証言や書類、写真などの状況証拠を積み重ねてゆくしかないのだが、本来、国がやるべき操練、偵練の名簿作りを、個人でやっている人が身近なところにいる。寸暇を惜しんで辞令公報をメモしたり資料を当たったりという努力にはほんとうに頭が下がる。



 いきなり話が変わるが、2009年、女優・森光子さんの舞台「放浪記」2000回記念のフジテレビの特番でお手伝いしたことがある。
 森光子さんの人生をたどってゆく上で、戦時中の南方戦線の慰問巡業は外せない。そして、昭和52年、森さんが司会を務めていたNHK「第9回思い出のメロディー」(8月13日放送)で、戦地で慰問した将兵と再会するサプライズの設定で登場した、8名の元零戦搭乗員にインタビューしたいというのである。
 登場したのは、二〇二空飛行隊長鈴木實中佐以下、分隊長塩水流俊夫大尉、普川秀夫、吉田勝義、八木隆次、増山正男、長谷川信市、大久保理蔵といった面々。
 だが、2009年時点でご存命だったのは吉田飛曹長だけで、フジテレビのスタッフは吉田さんにインタビューし、その映像が番組でチラッと流れた。吉田さんも、戦歴ではなく森光子のことだけ聞かれることには面食らわれたに違いない。

 それにしても、昭和52年にはこれだけの顔が揃ったというのは、まったく、時の流れの無情さを感じる。

 これだけ名前を挙げても知っている人はそう多くないと思うが、皆さん、ダーウィン空襲でスピットファイアを圧倒し、その後トラック邀撃戦、ビアク攻撃などを潜り抜けた歴戦の勇士ばかりである。


 操練33期のベテラン搭乗員、普川秀夫さんも、戦記にはまずお名前が出てこないが、昭和18年6月30日のブロックスクリーク空襲では指揮官鈴木少佐の第二小隊長を務めるなど、戦闘行動調書にはしばしば出撃記録が残っている。

 こんな、知られざる搭乗員について、別のところからエピソードが拾えた時の喜びは筆舌に尽くしがたい。
 海兵73期、三四三空戦闘四〇一飛行隊(極天隊)の外海信雄中尉の手記に、次のような記述がある。

 『地上でこそ幅をきかしていたが、空中ではベテランの少尉、飛曹長には一目置かざるを得ない。単機同士でスタント(巴戦)をやると何時の間にか後にくっつかれる。
 ある日松山上陸の帰りのバスのなかで、あとから乗ってきた眼光の鋭い少尉が上席に座ったのでその非礼を咎めたところ、じろりと我々を睨んで
 「勝負しますか?」
 その気迫に圧されて次の言葉がでなかったことがある。それが荒んでおり、若い実力のない中尉が何を言うかという気持ちもあったのだろう。』

 ・・・・・・ここで、気迫で若い中尉を黙らせてしまった特務士官のベテランの少尉こそが、普川さんである。こんなエピソードに出会うと、ああ、お会いできればよかったのになあ、と思うのだ。それにしても、こんなことを率直に書き残された外海さんも実にご立派であると思う。


 戦後の消息を存じ上げないが、二〇二空でしばしば小隊長を務めた操練28期(同期には羽切松雄さんがいる)樽井亀三上飛曹も、いわゆる戦記本には出てこないがその豪傑ぶりが語り継がれていて、気になる人である。

 『祖父たちの零戦』(講談社)で、編集の都合でカットしたなかに、次のような場面がある。

 『二〇二空隊員の中には、遊郭で酒に酔い、女の態度に腹を立てて石灯籠を蹴り倒し、そこに駆けつけた憲兵を殴り、そんなことを繰り返して、同年兵がみな准士官の飛行兵曹長になっているのに進級が止められ下士官のままでいる樽井亀三上飛曹のような豪の者もいた。海軍の下士官兵の軍服右腕には、官職区別章(階級章)の上に「善行章」と呼ばれる「へ」の字型のマークが入っている。これは、大過なく勤めていれば三年に一線が付与され、海軍でのメシの数を示す目安でもあるが、不祥事を起こすと剥奪される。海軍に入って十年を超える樽井の軍服の右腕には、本来なら三本の善行章が輝いているはずのところ、一本しかついていなかった。
 二〇二空の搭乗員は総じて気性が荒く、五十人以上が折り畳み式ベッドを並べる大部屋の搭乗員寝室では、
 「ヤアヤア、遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ、われこそは大日本帝国海軍の・・・・・・」
 などと大声で寝言を言う者もいる。』


 こんなエピソードを、一つ一つ丹念に拾っていく作業をしていると、たまに読む小説や映画の描写が薄っぺらく感じられて仕方がなかったりする。
 さりとて、これをどのように体系化し、カタチとして作っていくか、それが難しい。

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