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「元零戦搭乗員香川宏三さん(海兵73、中尉。谷田部空)を囲む会」のお知らせ(NPO法人零戦の会)

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前回からずいぶん開いてしまいましたが、NPO法人零戦の会では、「元零戦搭乗員を囲む会」を、来たる4月18日(土)に開催いたします。


今回、お話をお願いするのは久々の海軍兵学校ご出身、73期の香川宏三さんです。
香川さんは飛行学生では関行男中佐(戦死後の階級)の教え子でいらしたそうで、関中佐の思い出も語ってくださいます。

実施部隊である谷田部海軍航空隊では第一期予備生徒出身者の指導に当たり、彼等を特攻隊員として訓練中に終戦を迎えられました。出撃の命が下れば同期生3名と共に隊長として特攻隊を率いて突入することになっていたとのことです。

兵学校教育から谷田部空でのご経験、戦後の戦友会活動まで、興味深いお話が伺えることと思います。

開催要領は下記のとおり。奮ってのご参加をお待ちいたします。


日時:平成27年4月18日(土)午後1時30分~4時 場所:航空会館(東京都港区新橋1-18-1、地図は http://www.kokukaikan.com/tizu.htm

会費:3000円(会場費、飲み物代ふくむ※講演会形式で食事は出ません)当日、受付にて集金。 定員:20名・なお定員に達し次第締め切らせていただきます。
(皆様、くれぐれも遅刻なきよう、5分前までに集合でお願いします。念のため、服装は、男性の場合、なるべくネクタイ着用、女性もこれに準じた服装でお願いします。)

ご参加いただける方は、年齢・性別・会員であるなしを問いません。参加ご希望の方は、NPO法人「零戦の会」・「囲む会」専用メールアドレス

zerosennokai@yahoo.co.jp

(担当:井上副会長。「囲む会」以外のご用件については対応いたしかねます) に、ご参加ご希望の旨とともに、
①ご住所 ②お名前(フルネーム)③お電話番号(携帯もしくは固定)④ ご年齢・ご職業および⑤飲み物の希望(コーヒー・ミルク ティー・レモンティーいずれもホットのみ)
を明記の上、電子メールでお申し込みください。
(これまでにご参加いただいた方は、お名前とご住所だけで結構です)

折り返し、受付確認のメールを送らせていただくとともに、 ご案内ハガキ(概ね開催1週間前までに送付します)を郵送いたしますので、当日、このハガキを受付にお持ちください。 なお、同伴者がある場合は必ずその方の住所、氏名、電話番号、年齢・職業も明記してください。 飛び入りでのご参加はいかなる事情があっても不可ですのでご注意ください。

申込み受付期限・平成27年4月5日(日)※ただし定員に達し次第締め切らせていただきます。


※ご高齢ゆえ、不測の体調不良等による予定変更、あるいは中止もあり得ます。その場合はこのブログ、およびNPO法人零戦の会HP掲示板で随時お知らせいたします。
ご参加確定の方には当会よりご連絡差し上げますが、念のため当日お出かけの前に本ブログ、または掲示板をご確認ください。

※ただし、かつて当会とトラブルのあった方、(いわゆるオフ会ではありませんので)実名、住所、職業を明かさない方はお断りいたします。
大勢が参加予定の限られた時間ですので、あまりにもマニ アックなご期待にも沿いかねます。

「取材」を目的とされる方も、原則としてお断りいたします。 また、今後、年に一度の靖国神社における慰霊昇殿参拝や総会など、当会の各種活動のお手伝いをいただける若い世代の方は特に歓迎いたします。



予告『ゼロファイター列伝』(講談社)、『零戦~搭乗員たちが見つめた太平洋戦争』(講談社文庫)

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突然ですが、新刊の予告です。(発売日、価格は変更の場合があります)

1.『ゼロファイター列伝 零戦搭乗員たちの戦中、戦後』神立尚紀・講談社。
2015年7月中旬刊予定。単行本344ページ、予価1620円。


◆1997年に上梓した『零戦の20世紀』から18年、1999年に上梓した『零戦最後の証言』から16年――。その後判明した新たな事実や状況の変化を踏まえ、さらに新たな登場人物も加えての完成版の第一巻(予定)です。搭乗員一人一人の戦いや人生にスポットを当てています。

登場人物は三上一禧、羽切松雄、原田要、日高盛康、小町定、志賀淑雄、山田良市の各氏。
※講談社のインターネットマガジン(iPhone、iPad専用)「エイジ」で連載中。


2.『零戦~搭乗員たちが見つめた太平洋戦争』神立尚紀・大島隆之、講談社文庫。
2015年7月15日発売予定。予価1026円。


◆2013年、ATP賞グランプリ作品となったNHKの同名番組の単行本を文庫化。番組ディレクター・大島氏と監修者である私の共著です。ラバウルなどへ現地取材もしています。
零戦の通史や搭乗員の肉声を知るための入門書としていかがでしょう。



※それと、拙著『祖父たちの零戦』(講談社文庫)、12刷めの重版が決まり、今月中旬に出来です。いずれも生き残り搭乗員その他当事者への直接取材を重ね、一次資料を積み重ね、歳月をかけてつくった完全ノンフィクションです。皆さま、どうぞよろしくお願いいたします。


72年前の今日。昭和18年6月12日、第二次「ソ」作戦  野口義一中尉戦死。

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 72年前の今日――。

 昭和18年6月12日、 ルッセル島航空撃滅戦、第二次「ソ」作戦が実施された。
 ここで、五八二空戦闘機分隊長・野口義一中尉が戦死した。
 野口中尉の妹・千代さんとは、毎年靖国神社でお会いしていたが、ここ2年ばかりご無沙汰しているので気になっている。



 六月七日(第一次「ソ」作戦)の戦訓を受けて、戦闘機による航空撃滅戦、第二次「ソ」作戦が実施されたのは、六月十二日のことである。前日、二〇四空・宮野大尉以下零戦二十四機が、ラバウルからブインに進出している。
 十二日午前六時五十五分、宮野の率いる二〇四空の零戦二十四機は、五八二空鈴木宇三郎中尉以下二十一機とともにブイン基地を発進、ブカ基地より飛んできた大野竹好中尉以下三十二機(うち二機は途中不時着)と合同し、一路ルッセル島へ向かった。この日の総指揮官は宮野大尉、宮野の二番機は辻野上上飛曹、三番機・大原二飛曹、四番機中村二飛曹である。

 進撃高度八千メートル。八時二十五分、敵編隊発見、宮野は七十五機の零戦隊をリードして、有利な態勢で空戦に入るべく接敵行動に入る。敵は、七日の時と同じように、高度四千メートル、五千メートル、七千メートルと、三段構えで十数機ずつがガッチリと編隊を組んでいた。この時――。
 「突如、二〇四空の先頭、第一中隊二小隊の四機が右に急旋回すると、見る間に北方へ突っ込んでいった。これは誠にまずいことに違いなかった。なぜならこの予期せざる行動のため、戦闘隊形は非常に混乱し、この混乱は遂にもとの秩序に回復することができなかったのだ。我々は二〇四空ならびに五八二空の大部分と分離した。そうしてふたたび右に大きく旋回して、ルッセル島上空へ進入を開始した。午前八時三十分であった」(二五一空大野中尉手記)

 二〇四空一中隊二小隊、大正谷宗市一飛曹、坪屋八郎一飛曹、小林友一二飛曹、田中勝義二飛曹の四機が、迫る敵機を発見したか、何らかの理由で編隊を離れたことで、全体の態勢がくずれ、各隊ごとの空戦になった。この日の戦闘行動調書を見ると、大正谷小隊だけは機銃を一発も撃っておらず、空戦に入った形跡はないから、陽動の敵機を取り逃がし、機会を失ったものと思われる。

 八時三十分、五八二空がルッセル島西方海上で一つの敵編隊に突撃、三十五分、二五一空もルッセル島東方海上で空戦に入る。三十七分、宮野隊は別のF4F十二機編隊と出会うがこれをやりすごし、四十分、F4F、F4Uからなる敵編隊と空戦に入った。交戦した敵機の機数は、二〇四空の記録では七十機、二五一空では五十機、五八二空では「数不明」とある。

 〈戦闘は約二十分間続いて、海面には幾十と知れぬ撃墜された敵機の波紋と、燃え広がるガソリンの真赤な炎が海に漂っていた。〉(大野中尉手記)

 二〇四空は、宮野がF4F一機を撃墜したのを始め、田村和二飛曹がF4F一機、杉田庄一二飛曹がF4U二機(うち協同一)、日高鉄夫二飛曹がF4U一機(協同)、神田佐治二飛曹がF4F二機(うち協同一)、中澤政一二飛曹・F4U一機(協同)、鈴木博上飛曹と渡辺清三郎二飛曹が協同でF4U一機、計六機を撃墜、全機無事であった。

 空戦が終わる頃、宮野小隊がF4F二機とF4U四機と遭遇、めずらしい縦の巴戦に入っている。四番機・中村二飛曹の話。
 「この日の空戦は凄かった。帰りぎわ、約五百メートル後上方から敵の一機が宮野機に突っ込んできて、その後ろに私がついて、私の後ろにF4Uがついて、またその後ろに大原がついて、向こうの六機とこちらの三機が縦にグルグルと、高度千五百メートルぐらいまで回り続けました。高度は下ってくるし、逃げられないし、結局、どちらも一機も墜とせずに離れていきました。二番機はその時、分離していたように思います」


 二五一空は、十一機(うち不確実一)の撃墜を報じたが、松本勝次郎二飛曹(甲七期)、上月繁信二飛曹(丙七期)、末永博上飛がそれぞれ未帰還となり、小竹高吉二飛曹が海上に不時着水、他三機が被弾。五八二空は、十三機(うち不確実五)の撃墜を報じたが、野口義一中尉(兵六十八期)、沖繁國男二飛曹(丙三期)、藤岡宗一二飛曹(丙六期)が未帰還、他一機が被弾した。各隊の行動評点は、二〇四空・C、二五一空・B、五八二空・Bとなっている。


 この日、未帰還になった野口中尉は、分隊長クラスとすれば、二五一空の大野中尉と並んで、今やラバウル・ブイン方面の零戦隊を引っ張っているといって過言ではない、豪胆で行き足のある若手士官であった。

 五八二空庶務主任・守屋清主計中尉(東大法学部・主計科短期現役九期)の話。
 「搭乗員は、私のような主計科から見ると、威風堂々辺りを払う迫力があって、近寄りがたい雰囲気がありました。隊長の進藤少佐になると雲の上の人、という感じです。鈴木宇三郎中尉と野口義一中尉、二人の分隊長を比べると、鈴木中尉は戦闘機乗りにしては気の弱い、人のいいところがありましたが、野口中尉はとにかく向こう気の強い人でした。
 五八二空には、海兵七十一期の少尉候補生が三名、見習いで配属されていて、六月一日付で少尉に任官しましたが、その中の一人があんまり態度が大きくて仕事をしないもんだから、腹に据えかねて一発、殴ったことがありました。するとすぐに、野口中尉の従兵が呼びに来て、『主計中尉が海兵出の少尉を殴るとは生意気だ』と殴られたんです。
 野口中尉が帰ってこなかった日の夜、ガンルームで整備長が、『野口も、庶務を殴ったりするから死んだんだ』と、ボソリとつぶやきました」

6月16日 ルンガ沖航空戦72年(宮野善治郎大尉戦死)

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昨年の投稿を、若干修正して再掲します。

今日、6月16日は、昭和18年、ガダルカナル島上空で日米両軍の航空部隊が激戦を繰り広げた「ルンガ沖航空戦」から72年。

我が母校、大阪府立八尾高校の前身、八尾中34期の大先輩で二〇四空飛行隊長の宮野善治郎海軍大尉(戦死後中佐)が零戦隊を率い戦死した日です。

72年前のこの日、ガダルカナル島ルンガ泊地の敵艦船を攻撃するため、五八二空の艦爆24機(指揮官・江間保大尉)を二〇四空、二五一空、五八二空の戦闘機計70機が護衛して出撃しました。

総指揮官は拙著『祖父たちの零戦』(講談社文庫)の主人公の一人で五八二空飛行隊長、進藤三郎少佐。


戦闘の詳述は避けますが、この日は米軍も、104機もの戦闘機を迎撃に発進させており、彼我入り乱れての約30分におよぶ大空中戦の結果は、のちに大本営より、
『大型輸送船4隻、中型輸送船2隻、小型輸送船1隻、駆逐艦1隻、いずれも撃沈、大型輸送船1隻中破、飛行機34機以上を撃墜』

またこの戦闘を「ルンガ沖航空戦」と呼称する旨発表されましたが、実際の戦果は、米側記録によると輸送船1隻が大破、戦車揚陸艦1隻が火災、飛行機6機だけだったといいます。


一方、日本側の被害は深刻で、艦爆未帰還13、不時着2、戦闘機未帰還15、不時着4、大破2に及んでおり、戦死した15名の戦闘機搭乗員の中には、二〇四空飛行隊長宮野善治郎大尉(海兵65)や、昭和15年9月13日の零戦初空戦で、その時も指揮官であった進藤三郎大尉(当時)の三番機を務めた大木芳男飛曹長(操練37)など、日本海軍の至宝ともいえるベテラン搭乗員たちがいました。


宮野大尉(戦死後中佐)は、海軍戦闘機隊屈指の名指揮官として知られますが、私の母校、大阪府立八尾高校(旧制八尾中学)の先輩で、宮野氏が旧制中学34期 (同期生には、プロ野球巨人軍の永久欠番4の黒澤俊夫や、元祖甲子園アイドル、14歳エースの稲若博がおり、前後数年のクラスには、ゴジラ生みの親のプロデューサー、田中友幸や塩じいこと塩川正十郎元財務大臣などがいます)、私が新制高校34期、生まれ年が宮野氏が大正4年の卯年で私がその48年後の卯年、生家も徒歩15分ぐらいのところにあって(宮野大尉の家はまだあり、勉強机も残っています)、家紋も一緒という、不思議なご縁を感じています。

宮野大尉の御姉様によると、その日、神棚の護符が風もないのにパタリと落ち、母親が、 「あ、今善治郎の飛行機が落ちた!」と言ったそうです。


宮野大尉については、光人社から『零戦隊長~二〇四空飛行隊長宮野善治郎の生涯』という600頁近い本を上梓しましたが、これほど上下を問わず慕われた人もめずらしいと思います。

部下の上官を見る目は厳しくて、多くの方のお話を聞いているとどこかで必ず悪口が聞こえてくるものですが、宮野大尉についていえば、元搭乗員はもちろん、整備科や看護科、主計科の人まで、ひとしく今も敬愛の念を持っておられるようです。


ある人の名前を出したときの相手の表情で、その人がどう思っているかというのは大体わかるものですが、「宮野大尉の後輩」というだけで、皆さん実になつかしそうに相好をくずされ、いかに慕われていたかが見て取れます。おかげでずいぶん得をさせていただきました。


宮野大尉が戦死した翌年に発行されたある雑誌に、「海軍戦闘機隊座談會」という16ページの大特集があります。出席者は、斎藤正久大佐、八木勝利中佐、中島正少佐、小福田租少佐、塚本祐造大尉、山口定夫大尉。そのなかで、
 小福田「宮野君が戦死した時はみんな泣いたさうだね」
 中島 「いゝ隊長だつたものね」
というくだりがあって、宮野大尉の戦死がいかに惜しまれていたかが窺えます。



この空戦を境にして、以後ソロモンの制空権は完全に敵手にわたることとなります。
私が零戦搭乗員の取材を始めた約20年前には、この日の空戦の総指揮官、進藤三郎少佐をはじめ、渡辺秀夫上飛曹、中村佳雄二飛曹など、何人もの当事者がご存命でしたが、空戦そのものに参加された方は、少なくとも二〇四空ではいらっしゃらなくなりました。



以下、補足。



宮野善治郎大尉の生年月日について、取材をしない著者による「大正6年3月2日」説がまかり通っているようですが、これは完全なる間違い。そんなものを鵜呑みにしてはいけません。宮野善治郎の生年月日は大正4年(1915)12月29日。本人の奉職履歴、海軍兵学校関連、家族、出身中学すべてにおいて確認できることです。念のため。(写真は奉職履歴)

 


「忘れない」ということ

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 戦後70年。最近、気になってしようがないこと。

 たとえば、原爆などの慰霊式典で、年端も行かない子どもたちに、「この(または戦争の)悲劇を(または惨禍を)けっして忘れてはならないと思います」などと言わせること。
 子どもたちはもちろんだが、言わせる大人たちがどれほどその悲劇、または惨禍のことを筋道だてて理解しているのか。

 「忘れない」というからには、その前提として「知る」ことが必須だと思うが、肝心の「知る」ことはすっ飛ばして、あるいは特定の思想信条で曲解したまま知ったかぶりをして、とにかく先に「忘れない」のメッセージありき、という例が多いように思う。
 この夏もテレビを見て感じたことだが、「戦争体験者」と呼ばれる人のハードルも、戦後70年もたてばやむを得ないとはいえ、かなり下がってしまっている。
 これが10数年前なら、「戦争体験者」といえば少なくとも軍人経験者か、勤労動員など何らかの事情で戦争そのものに関わった人たちを指していたと思うが、近ごろ「戦争体験者」と称してテレビカメラの前に立つ人の多くは、戦時中まだ子どもだった人である。
 「疎開先でおなかいっぱいご飯が食べられなくてひもじい思いをした。だから戦争は悪い」
 というのをニュースの街頭インタビューで聞いたが、それは戦争の一断面ではあっても、一断面だけで全体を語ることなどできるはずがない。ましてやそれが「戦争」だと決め付けるのはいささか乱暴なように思う。

 それというのも、姪が修学旅行で広島に行くことになり、事前の「平和学習」とやらで、日教組のセンセイ方に反戦教育を叩き込まれ、その成果をみんなの前で発表させられたと聞いたから。
 「じゃあ、戦争はどうして起こったと思う?」
 と聞いても答えられない。原爆の前段階としては、ただひたすら「日本軍は悪かった、日本はアジアで悪いことをしてきた」という偏向したあらすじを教えられるだけで、これで子供たちにほんとうに戦争の惨禍を理解させるのは無理だと思うし、「忘れない」のも、「繰り返してはならない」のも、単に即物的な嫌悪感からくる底の浅い理解にとどまってしまうだろう。
 これが行き着けば、自衛隊を「暴力装置」ととらえる、民主党政権時の仙石官房長官のような馬鹿が出てきても仕方がない。


 ひるがえって、日教組とかサヨク系の皆さんとは逆の立場で、戦争を語る人たちはどうだろう。
 じつはこれも、似たり寄ったりだと思う。
 あるミリタリーマニアの人が、「兵器のマニアはつねに戦争のことを考えているから、マニアでない人よりも平和のことをきちんと捉えている」と言ったが、一般論としてそれはないでしょう、と思う。
 旧陸海軍のファンの人(意外に多い。とくに近年、女性の台頭がいちじるしい)が、ネット上などで、
 「この人たちのことを忘れてはならない」「こんな人がいたことを一人でも多くの人に知ってもらいたい」
 とよく書いているが、「忘れない」「知って欲しい」というからには、本人がそのことをよく知る、理解する、というのが第一にくるべきはずなのに、「勉強したい」「もっと知りたい」という殊勝な心がけが文面に表れていることは稀である。


 だいたい、「忘れてはならない」とか、「知ってもらいたい」とか、自分がそう思うのは勝手だけれど、人に言うのは押し付けがましいというか、不遜な感じが鼻につく。
 自分で関係者を直接取材したわけでも、一次資料をつぶさに調べたわけでもない人が、受身・受け売りの知識を偉そうに開陳するだけでは、たぶん、にわか仕込みの偏向教育で「戦争は悪い」と言わされる小学生と大差ないだろう。

 少なくともそういうことを言ったり書いたりするためには、市販の本をただ読むだけでなく、直接、人を探して会ったり足を運んだり、然るべき場所で資料を探したり、自分の身を削って勉強する謙虚な覚悟が必要なのではなかろうか。


 昔の軍隊や軍人にイリュージョンを持つ人たちの拠りどころになる本の多くも、別の意味で偏向していることが多く、当事者の名前で出ているからといって、それが本人の真情を正直に伝えたものであるとは限らない。たとえば、累計150万部のロングベストセラー「大空のサムライ」(坂井三郎著)を実際に書いた高城肇氏によると、このシリーズで坂井さん本人が書いた原稿は「一行もない」そうだ。
 実際に元軍人の書いた原稿を編纂する立場でいうと、たとえご本人が書いた原稿でも、それをそのまま本や記事にできるほどの完成原稿が書ける人はきわめて限られているから、必ずといっていいほど編集者やプロの作家による大幅な修正が入る。それが本の価値を貶めるものではないにしても、多少の脚色は避けられないと思ったほうが自然だろう。

 ともかく、自分自身で情報の発信をしたいなら、自分で材料を集め、吟味するという、ジャーナリスティックな作業は不可欠だろうと思う。私が本を「読み物」ではなく「資料」としたい場合は、実際に書いた人は誰であるかをふくめ、極力、一次資料の裏付けをとって咀嚼するよう心がけている。
 それと、いくらデータ的な記述が正しくても、たとえば零戦搭乗員を「何機撃墜のスコアをもつエース」などというように、まるでゲーム感覚の無神経さで当事者の真情と大きく乖離した内容で書かれているものもあるから、要注意である。総じて、当事者以外の本では、著者のジャーナリズム経験のあるなしで信憑性が大きく変わる。
 「軍神」とか「エース」とか「○○の神様」とか「○○の貴公子」とか、形容詞や修飾語、感情の表出ばかり多くてファクトのない文章を書きたがる人の本は信用しないほうが無難である。


 ・・・・・・とまあ、偉そうに書いたけど、ほんとうに「知る」ということは奥が深い。私も日々勉強しながら、より正しい事実を、ネットではなく書籍を通じて人に知ってもらうべく、がんばろうと思う。


7年前のタイムリミット

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  「いま思えば」ということはよくあるが、いま思えば、おもだった元零戦搭乗員をふくむ戦争体験者の人たちに、新規に一から筋道立ててインタビューし、それを一冊の本、あるいは一本の番組にまとめるということについて、タイムリミットは、はっきり言ってすでに過ぎている。

 これから先の取材者や著者にできるのは、ピンポイントの記憶と既成の記録の切り貼りぐらいではないだろうか。

 たとえば真珠湾攻撃。
 4年前、70周年で盛り上がろうとメディアが仕組んだ割に盛り上がらなかったのは、真珠湾攻撃に実際に参加し、しかもカメラの前で話ができる人がいないに等しいからだと思う。

 60周年の時は、それが30人いた。55周年の時には50人ぐらいいたはずだ。10年、15年とはそんな時間である。

 
 現在、攻撃隊でご存命の方もいるにはいるが、10年前と言うことがずいぶん違っていたりして、もはや責任ある発言、証言は無理だと思う。お元気な人がいらっしゃるのは知っているが、ご本人があまり表に出たがられないのと、メディアが押し寄せ寿命を縮めるようなことになっては困るので、私は黙っている。

 基地航空隊も同様。開戦70年の年、台湾の実業家の方から、開戦初日のクラーク空襲に出撃した台南空、三空の搭乗員を招いて、いまも残る台南飛行場で大々的にセレモニーをやりたい、という話があったし、同様の相談は他にもあったが、いずれも「Too late」であると断った。


 私が、これはもう、新規に取材を起こすのは無理だな、と感じたのは、昭和18年4月18日、山本五十六聯合艦隊司令長官が戦死した、いわゆる「海軍甲事件」の直接の当事者が一人もいなくなってしまった7年前(平成20年)である。同じ年、フィリピン、台湾での特攻の一部始終を知る立場にあった門司親徳さん(大西瀧治郎中将副官)も亡くなっている。


 幸い、それ以前の膨大な取材記録と資料があるから、ご存命の方を訪ねるのと合わせてあと数冊分、本を書くだけの材料はあるけれど。



 以下、7年前、私が「零戦の会」掲示板(旧)に書いた、柳谷謙治さん、谷水竹雄さんの訃報記事。



 残念なお知らせです。
 丙飛三期出身の歴戦の元搭乗員が、相次いでお亡くなりになりました。

 柳谷謙治氏(十五徴・丙飛三期)平成20年2月29日
 谷水竹雄氏(十五徴・丙飛三期)平成20年3月12日

 御両名とも大正八年のお生まれでお誕生日もひと月違い、満八十九歳を目前にしてのご逝去でした。
 在りし日の勇姿を偲び、謹んでご冥福をお祈りいたします。
 柳谷さん、谷水さんのご逝去の報に、謹んで哀悼の念を捧げます。

 お二人とも、昭和十五年一月の徴兵で海軍に入り、ともに丙種飛行予科練習生三期生を経て、戦闘機搭乗員となられました。
 ともに、六空(のち二〇四空)の隊員でいらっしゃいました。
 柳谷さんとは、十数年前より二〇四空会でご一緒させていただいたり、何度かご自宅にインタビューに伺ったりして、貴重なお話を聞かせていただきました。
 その一端は、拙著「零戦隊長~二〇四空飛行隊長宮野善治郎の生涯」(光人社)にも反映させていただいています。柳谷さんは周知の通り「海軍甲事件」六機の護衛戦闘機中ただ一人、戦争を生き抜かれた方ですが、私はむしろ、ガ島攻撃で被弾、右手を失った後の再起の軌跡に心惹かれるものがありました。
 宇垣参謀長機の主操縦員、林浩さん(十四志・丙飛三期)も一昨年亡くなって、これで甲事件の直接の当事者はどなたもいらっしゃらなくなりました。

 谷水さんには、写真のご提供をいただいたことがあります。柳谷さん、谷水さんとも、「零戦最後の証言」などにご登場いただかなかったのは、すでに著作、あるいはご本人を主人公にした小説などがあったからですが、それも、今となっては残念に思えます。

 谷水さんのご逝去で、宮野大尉の指揮下、空母隼鷹に便乗してアリューシャン作戦に参加された六空の搭乗員は一人もいらっしゃらなくなりました。
 隼鷹飛行隊長志賀淑雄大尉、臨時隼鷹乗組(本籍は翔鶴)で参加された佐々木原正夫、河野茂両氏もここ数年で相次いで亡くなって、AL作戦の臨時乗組を含む隼鷹戦闘機隊もまた、全滅です。ある事柄を語れる、あるいは体験した人がいなくなると、急に歴史が遠くなったような気がしますね。


 このところ掲示板への訃報掲載を見合わせていましたが、昨年、二〇一空分隊長(のち戦闘三〇六飛行隊長)中島大八さん(大尉・海兵六十八期)、二五三空分隊士・中島三教さん(飛曹長・八志、操練29期)の二人のラバウル・ソロモン方面経験者も亡くなっています。ご縁のあった方ばかりですので、本当に辛いですね。特に中島三教さんは、捕虜になって生還されたわけですが、戦後出された本の中で、「不時着水してその後、フカに食われた」ことにされてしまい、著者も出版社も訂正の意思はないようで、気の毒でなりません。


再掲:未完の手記~レンドバ島上空空中戦、大野竹好中尉戦死から72年。

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 昭和十八年六月三十日は、レンドバ島上空で大規模な空戦があった日である。今日、平成二十七年六月三十日で七十二年になる。


 昭和十八年六月三十日、米軍は、日本海軍が飛行場を置くニュージョージア島ムンダの対岸のレンドバ島、ニューギニア東方のウッドラーク、トロブリアン両島、ラエ南方のナッソウ湾に同時上陸、続いてニュージョージア島のビル港、バングヌ島にも上陸を開始した。
 南東方面部隊指揮官・草鹿仁一中将は、レンドバ方面の敵艦船攻撃を命じるとともに、マリアナで再建中の二十一航戦(二五三空、七五一空、七月十五日二〇一空が加わる)に、作戦可能兵力をラバウルに進出させることを命じた。さらに聯合艦隊は、二航戦(隼鷹、龍鳳)飛行機隊を南東方面に投入することにした。


 六月三十日、レンドバ島への攻撃は全力を挙げて三回にわたって行われた。戦闘機はのべ二〇四空二十四機、二五一空二十四機、五八二空二十八機で出撃。

 二〇四空では、六月後半、海兵六十九期出身で、飛行学生三十七期を二月末に卒えたばかりの越田喜佐久中尉、島田正男中尉が着任したものの、いずれも実戦の経験が皆無であったため、このたびの出撃(十二機ずつ二次)の指揮は、二十三歳の渡辺秀夫上飛曹(丙二期、十二志)がとった。二〇四空零戦隊は、十八機(うち不確実四)の撃墜を報じ、全機が無事に帰還している。

 五八二空戦闘機隊は、一次、竹中義彦飛曹長以下十六機、二次、鈴木宇三郎中尉以下十二機が出撃、十二機(うち不確実二)撃墜の戦果を報じたが、藤井信雄上飛が自爆、八並信孝一飛曹(丙三期)、笹本孝道二飛曹(丙三期)が未帰還。

 二五一空は、九機(うち不確実一)の撃墜を報じたものの、飛行隊長・向井一郎大尉(兵六十三期)が自爆、分隊長・大野竹好中尉(同六十八期)、分隊士・橋本光輝中尉(同六十九期)、安藤宇一郎二飛曹(丙三期)、村上幸男二飛曹(丙十期)、福井一雄二飛曹(丙七期)、広森春一二飛曹(乙十二期)、岩野広二飛曹(甲七期)、小西信雄二飛曹(甲七期)が未帰還、他、不時着大破二機という大きな損害を出した。

 陸攻隊は二十六機が雷装して出撃、十七機が未帰還、艦爆隊は十機出撃、被弾四機、水上機隊零観十三機は敵戦闘機約三十機と交戦、未帰還七機。


 中でも、隊長、分隊長、分隊士を一挙に失った二五一空の受けた痛手は大きかった。五月の進出時にいた分隊長以上五名のうち四名、分隊士六名のうち三名を、初陣から一ヶ月半ほどの間に失い、残る分隊長は鴛淵孝中尉ただ一人、分隊士も林喜重中尉、磯崎千利少尉、近藤任飛曹長の三名を残すのみになったのである。大野中尉がラバウル進出以来、折に触れ書いていた手記は未完に終わった。





 ・・・・・・大野竹好中尉の絶筆となった未完の手記の、現物コピーを私は持っている。
 


 現物は、海兵六十八期のクラス会が保管していると聞いていたが、どうなっただろうか。
 この、文章が途中で終わっているのが痛ましい。


 この日、ムンダから空戦の模様を見上げていた、呉鎮守府第六特別陸戦隊の伊藤安一少尉にお話をうかがったが、
 「墜ちてゆくのはみな、友軍機ばかり。かわいそうでしたよ」
 とおっしゃっていた。


 これまで、大野中尉のこの手記はいくつもの書籍で紹介されてきたが、仮名遣いなどもふくめて編集部の手が加えられていることが多い。

 もっとも原文に近いのは、『零戦、かく戦えり!』(零戦搭乗員会編・文春ネスコ)に収載されているもの。この本は、文春ネスコ(当時)の小林昇さんと私が二人でつくった本だが、零戦搭乗員会の会報「零戦」に掲載された当事者の手記を集めたものだから、資料としても貴重な本である。
 在庫、まだあるのだろうか。


 大野中尉以下、レンドバ島上空で散華した英霊の冥福を祈りつつ。


 
 (大野中尉、大分空にて。)


七夕に想う~日本初のロケット戦闘機「秋水」2015

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 (写真は三菱重工業株式会社名古屋航空宇宙システム製作所史料館で、復元された秋水を2002年に私が撮影し、航空雑誌「Schneider7」に掲載したもの。奥に零戦五二型が見える)


 七夕の今日は、日本初のロケット戦闘機「秋水」が、昭和20年、横須賀基地で初飛行に失敗してからちょうど70年にあたる。テストパイロットの三一二空分隊長・犬塚豊彦大尉(23歳)は、瀕死の状態で助け出されたが、翌8日午前2時に息をひき取った。

 このテスト飛行、どうして横空審査部ではなくいきなり実戦部隊の分隊長がやることになったのか、戦後も関係者の多くは首をひねっている。不思議と言えば不思議なことだ。

 わがNPO法人「零戦の会」のおもだった元搭乗員のなかでは、横空分隊長・岩下邦雄大尉、同先任搭乗員・大原亮治上飛曹(のち飛曹長)がこの時の一部始終を横須賀基地で目撃されている。


 2003年、文藝春秋の小林昇さん、「零戦の会」高橋事務局長とともに、大原さんのご案内で、横須賀海軍航空史跡めぐりをしたことがある。
 横須賀は、その気で見ると、防空壕が民間の倉庫に使われていたり、当時の建物も多く残っていて、史跡の宝庫だ。
 航空隊の隊門のところに、ずっと隊門を守ってきた先任衛兵伍長が家を立てて住み着き、今もそのご家族が住んでおられるという話には感動を覚えたものだ。

 午後、秋水の墜落地点の川のところに案内していただいた。天気は良好だった。
 「ちょうどあのあたりだ」
 大原さんが指を指される方向を見ながら、その時の状況を詳しくお聞きした。
 そして、大原さんが、
 「犬塚さんには気の毒だけど、あれは(飛行場に戻ろうとしたのは)搭乗員の判断ミス。バタコック、直進(離陸直後バタっとエンジンが止まればすぐに燃料コックを切り換えて、直進する)というのは搭乗員の鉄則です」
 ・・・・・・とおっしゃった途端、一天にわかに掻き曇り、真っ暗になったと思ったら、雷と共に大粒の雨が激しく降ってきたのだ。

 ほんの十数メートル離れたところに止めた車まで戻るのに、四人ともずぶ濡れになってしまった。
 前も見えない、滝のような雨。この日、この豪雨で、横須賀線の電車も止まったそうだ。

 大原さんは車の中で、「こりゃ、犬塚さん怒ったかな」とおっしゃっていたが、まさに「秋水一閃」・・・・・忘れられない夏の思い出となった。





 大原さんの回想――。

 「ちょうど秋水を左後ろから見る位置に陣取った。滑走路の脇には、大勢の人がいた。陸海共同開発だから、陸軍の人も並んでいた。

 いよいよ離陸、というときは、ロケット噴射をするからみんな機体の後ろからよけました。するとノズルから、ホヤホヤホヤっという感じで白煙が出て、間もなく轟音を上げて離陸滑走を始めた。
 滑走路の半分ほどのところで離陸、車輪を落とすと見る間にグゥーンと背中を見せて急上昇、45度ぐらいでしょうか、すごい角度だと思いましたね。見守る関係者がいっせいに拍手するのが見えました。
 ところが、高度4~500メートルに上がったと思われたときに、ババッバッバッという音がしてロケットが停止、秋水はすぐ右に急反転しました。

 急反転してしばらく戻って、それから旋回して飛行場に戻ろうとしたんでしょう。垂直旋回でずっと同じ調子で引っ張ってきたんですよ。貝山の手前、格納庫群の上を飛んだように思います。
 飛行機を低速で、垂直旋回で引っ張りすぎるとステップターンストールといって、失速してストーンとひっくり返っちゃう。
 だから私はそれを見ながら、あ、これはだめだ、だめだ、近すぎると思いました。

 いまで言うダウンウインド、風下のほうへ行くコースね、当時はこれを第三コースと言ったんですが、それがあまりにも滑走路から近かった。スピードのわりにね。
 そして飛行場の端まできたときに、ついに失速してバーンと、横になったまま飛行場の外堀に墜落、ものすごい飛沫が上がりました。

 しかし、飛行場に戻らずにそのまままっすぐ行っていれば助かったでしょう。その先は東京湾で、障害物は何もないんですから。
 事故教訓というのがあって、飛行機を助けて自分が死ぬようなことをしてはいけないと、常々言われているわけですよ。
 バタコックという言葉があって、バタッとエンジンが止まったら燃料コックを切り換えなさい、それから直進。これが常道なんです。

 エンジンが止まって、あんな狭い飛行場に戻ってくるのは通常では考えられません。予期しない事態が起きて、慌ててしまったんでしょうかね。

 犬塚大尉は重傷で救出されましたが、その日の夕方、入湯上陸の整列時に、当直将校が、
 『輸血の急を要する。O型の者は残れ』
 と。私はB型なのでそのまま外出しましたが・・・・・・。
 しかし、陸海軍期待の秋水の事故は、いまも目に焼きついていますよ」


 犬塚大尉のみたま安かれと七夕の星に祈りつつ。



新刊『ゼロファイター列伝』、文庫『零戦』(いずれも講談社)7月15日発売です!

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戦後70年と零戦制式採用75年の節目に、私の新刊がいよいよ発売になります!

 
 

1.『ゼロファイター列伝 零戦搭乗員たちの戦中、戦後』神立尚紀・講談社。
2015年7月14日(Amazonでは15日)発売。単行本344ページ、予価格1500円+税(1620円)

ゼロファイター列伝 零戦搭乗員たちの戦中、戦後/講談社

¥1,620
Amazon.co.jp


 


◆1997年に上梓した『零戦の20世紀』から18年、1999年に上梓した『零戦最後の証言』から16年――。その後判明した新たな事実や状況の変化を踏まえ、さらに新たな登場人物も加えての完成版の第一巻の(予定)です。搭乗員一人一人の戦いや人生にスポットを当てています。

登場人物は三上一禧、羽切松雄、原田要、日高盛康、小町定、志賀淑雄、山田良市の各氏。
※講談社のインターネットマガジン(iPhone、iPad専用)「エイジ」で連載中。



2.『零戦~搭乗員たちが見つめた太平洋戦争』神立尚紀・大島隆之、講談社文庫。
2015年7月15日発売。価格950円+税(1026円)


◆2013年、ATP賞グランプリ作品となったNHKの同名番組の単行本を文庫化。番組ディレクター・大島氏と監修者である私の共著です。ラバウルなどへ現地取材もしています。
零戦の通史や搭乗員の肉声を知るための入門書としていかがでしょう。

 

 
零戦 搭乗員たちが見つめた太平洋戦争 (講談社文庫)/講談社
¥1,026
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さらに、講談社の月刊文庫情報誌「IN POCKET」7月号には、
「文庫版『零戦 搭乗員たちが見つめた太平洋戦争』刊行記念
神立尚紀インタビュー『残された時間のなかで』
~ゼロファイターへの取材 20年の軌跡~」

と題した22ページに及ぶ記事が掲載されています。

↓こんな感じです。

 
IN★POCKET 2015年 7月号/講談社
¥200
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――― 新刊ここまで―――


※既刊ですが、拙著『祖父たちの零戦』(講談社文庫)も、おかげさまで版を重ねています。
 
祖父たちの零戦 Zero Fighters of Our Grandfathers (講談社文庫)/講談社
¥853
Amazon.co.jp


夏には、こちらもいかがでしょうか。これも渾身の作です。
特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか (文春文庫)/文藝春秋
¥896
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渾身の作といえばこの本も・・・。

零戦隊長―二〇四空飛行隊長宮野善治郎の生涯/潮書房光人社
¥2,916
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いずれも生き残り搭乗員その他、当事者への直接取材を重ね、一次資料を積み重ね、歳月をかけてつくった完全ノンフィクションです。皆さま、どうぞよろしくお願いいたします。





※今月7月15日発売の、戦記ノンフィクションの古典的名作
『ガダルカナル戦記』(亀井宏氏著、講談社文庫)の第四巻に、解説も書いています。
こちらもぜひご覧ください!

ガダルカナル戦記(四) (講談社文庫)/講談社

¥1,134
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みたま祭りの靖国神社に(二五二空舟木部隊慰霊昇殿参拝)

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 今日は、昭和19年6月から7月にかけ、硫黄島上空の空戦で壊滅した第二五二海軍航空隊舟木部隊(司令・舟木忠夫中佐、飛行隊長・粟信夫大尉)の、毎年恒例の慰霊昇殿参拝のため、みたま祭りの靖国神社へ。

 

「7月15日、令なくして靖国神社舟木部隊提灯下に集合」

 

 と、何十年も前から決まっているが、寄る年波で参列者は漸減し、今日は、海軍戦闘機隊きっての歴戦の搭乗員だった故・角田和男さん(中尉・拙著『特攻の真意』文春文庫の主人公の一人)の次男・照実氏と、角田さんの三番機でニューギニアのブナで戦死した井原大三二飛曹の弟様ご夫婦、高橋「NPO法人零戦の会」事務局長と私、それに、本来来るべきでない搭乗員ストーカー夫婦二人という、小ぢんまりした集いになった。

 
(零戦搭乗員会の提灯も。)

 
 とはいえ、20年前から角田さんに同行し、角田さんから託された立場とすれば、この日の慰霊昇殿参拝は続けないわけにはいかない。

 今年の「みたま祭り」は、露天全廃という思い切った方針転換をしたので、境内はじつに静かだった。
 こんな静かなみたま祭りは、初めてだ。

 

 集合時間前に、境内の売店で肉うどん。灼熱のなか食べる熱いうどんが思いのほか美味だった。
 大阪人の私だけど、じつは靖国神社の味の濃いうどんは好物である。

 

 

 

 
 参拝終了後は、角田さん、井原さん夫妻、事務局長と神社近くの魚料理の名店「宮」で、さわらの照り焼き。これも美味。それからしばらく話し込む。

 

 帰りは角田照実さんと駅まで一緒だったが、だんだん父親に似てこられたようで、声も話し方もそっくり。つい故・和男中尉と話しているような錯覚を感じ、思わず涙ぐんだ。

 井原さんの弟様もそうだが、境内には暑いなか、戦没した英霊に命がけで会いにくる高齢のご遺族や戦友の姿が多くみられる。

 こんな姿に接していたら、A級戦犯がどうのこうのとか、「近隣諸国」(じつは中韓だけ)に気兼ねして、首相をはじめとする日本の政治家が靖国神社に参ってよいとか悪いとか、論じること自体がおかしいと思うし、少なくとも私は、生ある限り靖国神社にお参りすることをやめる気はない。これは、右とか左とかの問題じゃない。

新刊文庫『零戦 搭乗員たちが見つめた太平洋戦争』で、「現代ビジネス」にインタビュー記事掲載。

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零式艦上戦闘機、通称零戦(れいせん)が、海軍に制式採用されたのが、ちょうど75年前の今日、7月24日のこと。

新刊文庫『零戦 搭乗員たちが見つめた太平洋戦争』(NHK取材班・大島隆之さんと共著)、単行本『ゼロファイター列伝~零戦搭乗員たちの戦中、戦後』が講談社から刊行されたのを機に、インタビュー記事を「現代ビジネス」に掲載いただきました。

ネットで無料で読めます。前後編に分かれています。

【戦後70年特別企画】
元零戦搭乗員たちが見つめ続けた「己」と「戦争」【前編】

『零戦 搭乗員たちが見つめた太平洋戦争』著・神立尚紀インタビュー

 

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44279


【戦後70年特別企画】
元零戦搭乗員たちが見つめ続けた「己」と「戦争」【後編】

『零戦 搭乗員たちが見つめた太平洋戦争』著・神立尚紀インタビュー

 

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44283


皆さん!ぜひご覧ください。

『零戦 搭乗員たちが見つめた太平洋戦争』(講談社文庫)
『ゼロファイター列伝 零戦搭乗員の戦中、戦後』(講談社)

いずれも、まだお求めでない人はぜひ書店へ。

どうぞよろしくお願いいたします。


 
 

1.『ゼロファイター列伝 零戦搭乗員たちの戦中、戦後』神立尚紀・講談社。
2015年7月14日(Amazonでは15日)発売。単行本344ページ、予価格1500円+税(1620円)

ゼロファイター列伝 零戦搭乗員たちの戦中、戦後/講談社

¥1,620
Amazon.co.jp


 


◆1997年に上梓した『零戦の20世紀』から18年、1999年に上梓した『零戦最後の証言』から16年――。その後判明した新たな事実や状況の変化を踏まえ、さらに新たな登場人物も加えての完成版の第一巻の(予定)です。搭乗員一人一人の戦いや人生にスポットを当てています。

登場人物は三上一禧、羽切松雄、原田要、日高盛康、小町定、志賀淑雄、山田良市の各氏。
※講談社のインターネットマガジン(iPhone、iPad専用)「エイジ」で連載中。



2.『零戦~搭乗員たちが見つめた太平洋戦争』神立尚紀・大島隆之、講談社文庫。
2015年7月15日発売。価格950円+税(1026円)


◆2013年、ATP賞グランプリ作品となったNHKの同名番組の単行本を文庫化。番組ディレクター・大島氏と監修者である私の共著です。ラバウルなどへ現地取材もしています。
零戦の通史や搭乗員の肉声を知るための入門書としていかがでしょう。

 

 

 
零戦 搭乗員たちが見つめた太平洋戦争 (講談社文庫)/講談社

 

¥1,026
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70年前の今日…昭和20年7月24日、豊後水道上空の空戦

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 7月24日。
 昭和20年、終戦を3週間後に控えた70年前の今日、豊後水道上空で、戦闘七〇一飛行隊長・鴛淵孝大尉率いる三四三空戦闘七〇一、三〇一(松村正二大尉)、四〇七(光本卓雄大尉)の紫電改21機が敵艦上機の大編隊と空戦、鴛淵大尉以下6機が未帰還になった。

 戦闘七〇一飛行隊分隊長・山田良市大尉は、
 「朝、出撃前に整列、敬礼して飛行機に乗る前に、いつもと同じ隊長の白いマフラーが、やけに印象に残った。べつに悲壮な顔もしてないし、いつもと変わらない様子ですが、ありゃ、この人死ぬんじゃないかな、とふと思った」
 ……と、語っている。

「佐田岬上空へ出たときに、呉方面から引き揚げてくる敵の大編隊、200機いたか300機いたかわかりませんが、延々続く大編隊を発見、その最後尾の編隊に突入しました。
 ぼくは4機を率いて、500メートルから千メートル離れて、鴛淵隊4機についていました。二撃めまでは一緒でしたが、しかしなにしろ敵機の数が多すぎる。ぼくも4~5機の敵機に取り囲まれて、撃つには撃ちましたが戦果はわかりません。
 空戦しながら、隊長機は?と見ると、いつもついている二番機の初島上飛曹機と2機で、敵の2機を追っているところでした。
 『あ、深追いしなきゃいいけどな』と思ったんですが、これが隊長機を見た最後になりました」


 鴛淵大尉は大正8年生まれでこのとき満25歳。長崎県出身、海兵68期。飛行学生卒業後、大分空教官となり(このへんの鴛淵大尉の履歴が、坂井三郎氏の誤った記憶でおかしな俗説を生んでいる)、昭和18年5月、二五一空分隊長としてラバウルに進出したのを皮切りに、翌19年には二〇三空戦闘三〇四飛行隊長としてフィリピンで、それぞれ激戦を戦い抜いた。
 鴛淵大尉の昭和19年初頭における飛行時間は約1000時間あり、同期の戦闘機搭乗員としては飛びぬけて多い。

 鴛淵大尉の人物像は、のちに鴛淵の妹・光子さんと結婚する山田大尉(のち航空幕僚長)によると、
 「地上では温厚明朗、私と4つしか年が違わないのに、こうまで人間ができるのかと驚くような人物でした。品行方正だけど堅苦しくなく、特に目がきれいでした。ところが、いったん空中に上がると勇猛果敢、じつに負けず嫌いでした。本当によくできた、誰もが理想とする官軍士官像で、でもそういう人が早く死んでしまうんですね」
 ということである。


 70年前の今日、三四三空で未帰還になったのは、鴛淵大尉、ベテランの武藤金義少尉、初島二郎上飛曹、米田伸也上飛曹、溝口憲心一飛曹、今井進二飛曹。
 武藤少尉は、三四三空で部下たちの猛反発を食って、しかも負傷のため空戦に使えない坂井三郎少尉の面子をつぶさないよう海軍航空隊のメッカである横空に転勤させ、代わりに2対1のトレードでようやく三四三空に引っ張ってきたばかりであった。



 昭和53年、この日に未帰還になったうちの一機と思われる紫電改が、愛媛県城辺町沖の海底で発見され、翌54年、引き上げられた。だが、操縦席の中には遺骨はおろか何の遺留品もなく、機番号も消え、搭乗員を特定する何の手がかりも残されていなかった。
 そこで、三四三空の元戦友たちは、この機が誰の乗機であるかの詮索は、遺族の感情を乱すことにもなることから、これ以上しないことにした。

 のちに、研究者が特定を試みて書物に書いたり、それをもとに昨年にはNHKがドラマを作ったりもしているが、あくまでそれは勝手な憶測である。


 機体引き揚げのときの模様はNHKスペシャルにもなったが、戦闘三〇一飛行隊の元整備員だったアマチュア写真家の方が、機体の引き揚げ作業に同行し、その一部始終をカメラに収め、「カメラ毎日」の口絵ページに作品を発表している。だがなぜか、その人の名前は三四三空剣会の名簿には見えない。ほどなく亡くなられたのかもしれない。

  

 

 


 ともあれ、68年前の夏の日、豊後水道上空に散った鴛淵大尉以下6名の若者のみたま安かれと願うのみである。





作家・阿川弘之先生ご逝去の報に

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作家・阿川弘之氏死去のニュースが。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150805-00000582-san-cul

〈小説「雲の墓標」や評伝「山本五十六」など数々の戦争文学で知られる作家で、文化勲章受章者の阿川弘之(あがわ・ひろゆき)氏が3日、老衰のため死去した。94歳。葬儀・告別式は近親者で行う。後日、しのぶ会を開く。〉

とのことです。

お具合がすぐれないと聞いていたので、いつかこの時がくることは覚悟していましたが、ショックで言葉が出ません。

阿川先生は、私が最も好きな作家であり、私淑する方でした。

敬愛する元零戦隊指揮官・進藤三郎少佐の奥様が阿川先生の幼馴染の妹でお親しかったこともあり、進藤さんが亡くなられた時には文藝春秋の巻頭随筆で、私のことを書いてくださったことがありました(『葭の髄から』文春文庫刊に所収)。

このとき、阿川先生は、私の書いた本の、進藤少佐の記述(戦中は英雄扱いだったのが、戦後は地元の子供たちに石を投げられたなど)を引用させて頂きたいと、出版社に問い合わせたり手を尽くして、態々電話番号を調べてご連絡くださいました。
人の書いた文章を黙って剽窃する書き手が多い中、やはり偉い人は違うな、きちんと筋を通されるんだな、と思ったのを鮮明に憶えています。

 

また拙著『祖父たちの零戦』の推薦文を頂きにご自宅にお邪魔したこともありました。

『祖父たちの零戦』をお届けしたとき、
「本ができておめでとうございます。夢中で読ませていただいてます。評判になるといいですね」
とのお言葉に胸がいっぱいになったのを思い出します。

本を出すたび、しばしばお電話やお手紙をいただき、励ましていただきました。


小学校5年生の頃、初めて阿川作品と出会って40年以上。出版された作品はおそらく全部読んでいますが、それぞれに思い出は尽きません。晩年、ふとしたご縁から謦咳に接することができたのは人生の宝だと思っています。


『軍艦長門の生涯』『春の城』は、特に好きな作品で、それこそ何十回読んだかわかりません。昨今のベストセラー作家なぞ足元にも及ばない美しい日本語、品格ある文体、真似はできないまでもかくありたいと、いまも目標にさせていただいています。

 

心よりご冥福をお祈りいたします。

零戦初空戦75周年の日に、慰霊祭を挙行しました。(NPO法人零戦の会)

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昭和15年9月13日、中国大陸重慶上空で、海軍に制式採用されたばかりの零戦13機(第十二航空隊進藤三郎大尉指揮)が、中華民国空軍のソ連製戦闘機33機と空戦、日本側記録で27機撃墜、空戦による損失0(中国側記録では、被撃墜13機、被弾損傷10機)の一方的勝利を収めた初空戦からちょうど75年の9月13日、靖国神社で、戦後70年の節目となる、戦没搭乗員4330柱の慰霊祭を挙行いたしました。

参加者は、歴戦の搭乗員10数名をふくむ90名弱。

慰霊祭では 私が祭文を読みました。
いつもの講義や講演は、相手が人なので緊張しませんが、今日は相手が神様なので緊張しました。


以下、NPO法人零戦の会慰霊祭で読んだ祭文です。


祭文


  謹みて大東亜戦争中に散華されました四千三百三十余柱の海軍戦闘機隊搭乗員諸士の御霊に申し上げます。

 皆様方が護国の大任を承けて、東はハワイ真珠湾から西は印度洋まで、北はアリューシャン列島から南はソロモン、ニューギニア、そして豪州まで、広範な戦場に身を挺して史上空前の長期に亘る苛烈な激戦に身命を捧げられましてから概ね七十年もの星霜を数うるに至りました。私どもはここに皆様方の御霊を拝し誠に感慨に堪えないものがございます。ましてや戦陣に斃れられた方の多くは二十歳前後の若桜であったことを思えば、哀惜の念が沸々と湧いてくると同時に、その献身、その勇気に襟を正さざるを得ません。
 戦後日本の繁栄と平穏は、皆様方の文字通り命を賭した戦いの上にこそあると、改めて心より感謝と哀悼の念を捧げます。

 戦場における生死は紙一重と存じますが、生きて戦いを全うされた皆様方の戦友は、それぞれ文字通りゼロからのスタートで戦後日本の復興に貢献されました。そして、全国の戦友が一同団結して「零戦搭乗員会」を組織し、英霊となった皆様方の顕彰と記録の継承に努めて来られました。
 こうして戦後半世紀以上の月日がたち、皆様と同じく零戦の操縦桿を握って戦われた戦友たちも齢八十になんなんとする頃、平成十四年をもって「零戦搭乗員会」は解散することになりました。
 ここで新たに、若い世代が事務局運営を担い、搭乗員の皆様をお手伝いして海軍戦闘機隊の灯をともし続けるべく、同じ年に発足したのがわれわれ「零戦の会」でございます。私どもは、海軍戦闘機隊奮戦の記録を後の世代にまで末永く継承すると同時に、戦友の皆様が編隊飛行を全うされますよう、誠心誠意尽くしてゆく決意でございます。

 しかしながら、日本の現況を鑑みるに、近隣諸国との領土問題における紛争はなお解決の糸口をも見いだせず、皆様方が身命を賭した先の大戦をあたかも我が国による侵略戦争であったかのように決めつけたがる風潮は依然として根強いものがございます。国内に目を転じても、犯罪の増加、治安の悪化、親が子を殺め子が親を殺めるような、皆様がご在世中には考えられなかったであろう荒んだ世の中になっております。おそらく、皆様が現在の日本をご覧になられれば、「こんな国にするために俺たちは戦ったのか」とがっかりされることでありましょう。このことは、今を生きる日本人として、皆様に対し慙愧に堪えず、心よりお詫び申し上げる次第でございます。

 私たちが皆様方のご加護を得て、当時の体験や精神を語り継ぐことで、皆様が身命を賭して守ってくださった美しい日本を再び取り戻すための一助とすべく、今後とも元戦闘機搭乗員と若い世代が相携えて、もって将来の日本のために尽くすことが皆様方に報ゆる道であると存じます。
 願わくば皆様方の御霊の永久に安からんことを。


    平成二十七年九月十三日
    特定非営利活動法人「零戦の会」会長 神立尚紀

NPO法人零戦の会慰霊祭点描。

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9月13日、靖国神社で挙行したNPO法人零戦の会慰霊祭の日。

 
 
奏上、奉納した祭文の一部。甲飛15期津島裕さんの手による達筆です。

 


 慰霊祭を終え、総会に移る間に、遊就館の零戦前で撮影した記念写真。
役員各位、元搭乗員およびご遺族をはじめ、ご参加の皆様、お疲れ様でした。

  


懇親会で、甲種予科練10期、マリアナ、フィリピン、本土上空で空戦に明け暮れた歴戦の搭乗員、笠井智一上飛曹による、対B-29の「直上方背面急降下攻撃」の解説。

 

 
 
 
 笠井さんは、紫電改で編成された第三四三海軍航空隊戦闘三◯一飛行隊、終戦時は満19歳でした。



 参列者最年長の柳井和臣さん(予備学生14期、慶大。神風特攻筑波隊、93歳)と、最年少の濱田航君(1歳)。

 

こうやって、記憶が繋がれていくといいな、と思います。
白黒写真は、70年前、昭和20年の春、鹿屋基地から出撃直前の柳井少尉、当時23歳。

 

柳井さんは、沖縄沖の敵機動部隊を求めて爆装出撃(索敵攻撃)しましたが、索敵コースに敵を見ず帰投。隣の索敵線の富安中尉が敵艦隊と遭遇、米空母「エンタープライズ」に突入しました。



アメリカでは、第二次大戦で活躍した戦闘機パイロットで組織する「エースパイロット協会」というのがありましたが、とっくに解散しました。
戦中戦後、世代を超えてなごやかに、心を一つにして慰霊祭に集える戦友会というのは、世界広しといえども我がNPO法人零戦の会だけだと思いますし、アメリカ人にできなかったことを我々が続けて行くことで、最後まで結束を保ち、編隊飛行を全うしたのは零戦隊、となるようにしたいと思っています。


取材の合間に、京急旧平沼駅跡を訪ねる。

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先日、横浜で取材があったのですが、約束の時間より少し早く着いたので、以前から興味があった京浜急行の旧「平沼駅」跡を見てきました。

京急平沼駅は、昭和6年、現在の横浜駅と戸部駅の間に、地元平沼商店街の要望で開業し、大戦中の昭和18年に営業終了、19年に廃駅、20年には2度にわたる空襲で壊滅的な被害を受け、以後、復旧することなく放置されています。

 

現在、ホームや階段は見てとれます。

 
京急は、空襲被害モニュメントと言ってるようですが、その割には周囲に鉄塀をめぐらせ人が立ち入れないようにしていて、内部の見学は受け付けないようです。
今後どうするかも、何も決めていないとのこと。

 
(高架のふくらんだ部分が駅のホーム)


 
 (上に同じ)


 
 (よく見ると、ホームへ上がる階段が)


 
(階段を逆から見る。橋脚がこんなにボロくて大丈夫なのかな)
 

 
 平沼駅跡は鉄塀に囲まれているけど、ここが駅であったことは一目瞭然)


 
(駅の入り口の向かいには老舗の蕎麦屋「角平」が。ここの天ざる蕎麦は絶品である)
 
 

しかし、横浜駅からわずか695メートル、戸部駅から435メートルという、絶妙に中途半端な位置にかつて高架駅があり、それが空襲被害を受けながらも、形だけは残っているということに興味を覚えます。

毎年、横浜空襲のあった5月29日には、京急本社と労働組合代表による慰霊祭が、この地で営まれているそうです。

昨日の取材は、平沼駅跡とは全く関係ありません。その中身については、10月20日発売のフォトコン11月号で!

元零戦搭乗員・中島又雄さん(海兵73期・中尉)を囲む会のお知らせ(NPO法人零戦の会)

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以下、NPO法人零戦の会からのお知らせです。


元零戦搭乗員を囲む会を来たる11月15日(日)に開催いたします。

この度お話をお願いするのは前回の香川さんと同期、海軍兵学校73期出身の中島又雄さんです。中島さんは昭和19年3月に兵学校を卒業後に飛行学生となられ、霞ヶ浦航空隊での中練課程につづき同年9月から筑波海軍航空隊での実用機教程を経て、20年2月に兵庫県鳴尾の第三三二海軍航空隊に配属になられます。

中島さんは同隊で終戦までの半年間をB-29、B-24等を相手の迎撃戦に従事されました。終戦時には八木勝利司令の徹底抗戦方針に従い、敵機動部隊接近の報により特攻出撃を準備されますが、結局機動部隊の来襲のないまま部隊は解散されます。


戦後は海上自衛隊に入られ、海幕監部技術部長、技術研究本部技術開発官等を経て昭和57年に海将として退官されるまで国防の任に当たられました。

兵学校入学以降の海軍時代のご経験に加え、自衛隊勤務についても大変興味深いお話が伺えることと思います。 開催要領は下記のとおり。奮ってのご参加をお待ちいたします。


日時:平成27年11月15日(日)午後1時30分~4時

場所:航空会館(東京都港区新橋1-18-1、地図はhttp://kokukaikan.com/about/access

会費:3000円(会場費、飲み物代ふくむ※講演会形式で食事は出ません)当日、受付にて集金。

定員:30名程度・なお定員に達し次第締め切らせていただきます。
(皆様、くれぐれも遅刻なきよう、5分前までに集合でお願いします。念のため、服装は、男性の場合、なるべくネクタイ着用、女性もこれに準じた服装でお願いします。)


ご参加いただける方は、年齢・性別・会員であるなしを問いません。参加ご希望の方は、NPO法人「零戦の会」・「囲む会」専用メールアドレス
 zerosennokai@yahoo.co.jp (担当:井上。「囲む会」以外のご用件については対応いたしかねます)
に、ご参加ご希望の旨とともに、①ご住所 ②お名前(フルネーム)③お電話番号(携帯もしくは固定)④ ご年齢・ご職業および⑤飲み物の希望(コーヒー・ミルクティー・レモンティーいずれもホットのみ)を明記の上、電子メールでお申し込みください。
 (これまでにご参加いただいた方は、お名前とご住所だけで結構です)

折り返し、受付確認のメールを送らせていただくとともに、ご案内ハガキ(概ね開催1週間前までに送付します)を郵送いたしますので、当日、このハガキを受付にお持ちください。 なお、ご家族以外の同伴者がある場合は、ご面倒ながら個別にお申込みください。飛び入りでのご参加はいかなる事情があっても不可ですのでご注意ください。


申込み受付期限・平成27年11月7日(土)
※ただし定員に達し次第締め切らせていただきます。
※ご高齢ゆえ、不測の体調不良等による予定変更、あるいは中止もあり得ます。その場合は、当ブログ、および零戦の会HP掲示板で随時お知らせいたします。


以上です。どうぞよろしくお願いいたします。


2015/11/15

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NPO法人零戦の会主催「元零戦搭乗員中島又雄さんを囲む会」、本日、東京新橋の航空会館で盛況裏に無事終了しました。

中島さんは元海軍中尉、第三三二海軍航空隊で鳴尾基地を拠点に阪神地区の防空戦に従事。
戦後は九州大学を卒業後、海上自衛隊に入り海将。大戦末期の対B-29戦闘や、終戦後の特攻命令など、興味深いお話を伺うことができました。

最近は更新をサボっていますが、このブログをご覧になって来られた方も多く、また、拙著を携えて遠路はるばるいらした方もいて、著者冥利に尽きる思いがしました。

またの機会にもよろしくお願いいたします。
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「兵士たち」という言葉の誤用について

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 このことはこれまでにも何度か取り上げているが、最近、またテレビの人と話す機会があったので、加筆修正して再度。

 その前に…12月2日に放送されたNHK「歴史秘話ヒストリア」、海軍給糧艦「間宮」、着眼点もふくめて面白かった。ただ、ラムネ製造機ぐらいは、大型艦にも装備されていたわけで、「羊羹が作れる」のと「ラムネが作れる」は同等ではない、というのはまあ、いいとして、再現ドラマの士官の第三種軍装の襟章のつけ方が間違っているのは、NHK考証大森さんも、完成版を見せられて気づいたが遅かったとのことで、画竜点睛を欠き、残念だった。

 せっかくの着眼や取材を、決して出来の良くない再現映像で台無しにしてしまうのは、一昨年、私が監修に参加させてもらった「零戦 搭乗員たちが見つめた太平洋戦争」もふくめ、最近のNHKの悪いクセである。一目でわかるミスが多くて、それを現場レベルでチェックできていないということ。
 その点、たまに見るBBCのドキュメンタリーなどは総じて、決して大仕掛けなこともせず、それでいて一目でわかるアラを見せない、うまい作り方をしていると思う。

 とはいえ、民放の、たとえばアイドルタレントをラバウルにまで行かせた終戦70年番組などは、内容も無理くりなら協力者に対するフォローなどもふくめて酷いものだったから、NHKはまだいいほうである。


 さて、そんなわけで。
 最近、出版される本や放送されるテレビ番組などは、ノンフィクションを銘打っていても、取材不足、取材力不足、著者、ディレクターの基本的な無知による妙な記述が幅を利かせている。題名や題字の書体、内容までをパクるだけでなく、取材そのものが怪しいものも多いのだ。

 たとえばある本に、真珠湾雷撃隊搭乗員が、
 「太平洋艦隊旗艦ウエストバージニアに魚雷をぶちこんだ」
 という、誤りだということは誰にでもわかるような記述があったが(太平洋艦隊旗艦はペンシルバニアで、ドックに入っていたから雷撃は受けていない)、相手の年齢も考え、話の裏を取って、明らかな間違いに対しては訂正を加えるのが記者なりノンフィクション作家の務めであろう。

 門司親徳にも会わずに特攻を語り、大西瀧治郎を語るような本や番組なども同様。取材せずに予断で書くのなら、架空戦記小説とそれほど変わらない。
 なかには、大西瀧治郎の、「棺を覆いて定まらず、百年の後に知己を得ず」との、門司副官しか聞いていない有名な言葉を、文脈を無視して引用し、「妄言」と断じて大西批判の具にした馬鹿もいる。


 よくある典型的な「変な」例は、旧軍人を総称するのに「兵士」という、その言葉の使い方。新聞広告の見出しや解説を見るたびにげんなりする。著者も出版社もテレビ局も、よくこの程度の取材と認識で本や番組が出せるな、と驚く。
 ……戦後長い歳月がたって、注意してくれる人もいなくなったのだろうか。


 これは著者であるご子息の責任ではなく出版社が悪いのだろうけど(タイトルは編集権の範疇)、神雷部隊桜花隊分隊長だった林富士夫大尉(NPO法人零戦の会にも、最後までおいでくださっていた)のことを書いた『父は、特攻を命じた兵士だった』(岩波書店)という本のタイトルを見たときはびっくりした。日本語になっていないからだ。
 海軍兵学校出身の海軍大尉である林さんは、「兵士」ではなく「士官」。それも、軍隊指揮権を有するバリバリの正規将校である。そもそも「兵士」は、特攻など命じませんから……。


 これが10数年前なら、戦場で戦った旧軍人を総称する意味合いでうっかり「兵士たち」などと書いたら、
「ここには『兵士』と書いてあるが、下士官兵だけでなく、我々もそうでしたよ」
 などと注意してくれる元士官が必ずいた。つまり、「士官」は「兵士」ではないという、当たり前の事実である。

 登場人物に、正規将校であろうが予備士官であろうが士官がいた場合には、「兵士」ではなく「将兵」という言葉を使わなければならない(少尉でも「将」のはしくれである)。兵だけでなく下士官が入った場合は、下士官兵としないといけない。これもちゃんとした日本語なのだから、出版社やテレビ局が知らなかったでは済まないだろう。

 冒頭に紹介した「歴史秘話ヒストリア」では、文脈に応じてきちんと「将兵」と言っていた。


 現場で戦った将兵をいわゆる軍の上層部と分けてみんな「兵士」と一括りにしてしまうのは、プロレタリアートな階級史観に基づく、左翼的な言葉の用法である。
 だから、岩波書店が「兵士」と言いたがるのはわからないではない。
 しかしこれは、たとえば民間企業の平社員から管理職、取締役までを等しく「平社員」、警察官なら巡査から警視総監までを等しく「巡査」と呼ぶのと同じくらいおかしなことで、明らかな日本語の誤用である。
 たまにちゃんと「将兵」としている文章があっても、「将兵」それ自体が複数形だと知らずに、「将兵たち」と妙ちくりんな言葉を使われることもあるから、気が抜けない。

 
 近頃は唯一、NHKが考証関係者に人を得ていることもあって(「兵士たちの戦争」というBS番組の番組名はさておき)、ドラマの台本やドキュメンタリー番組では不用意に「兵士」を使わず、状況に応じて「将兵」を使う方向になっている。ニュース原稿や地方局制作の番組までは目が届かないから時々ポカはあるけれど、いまもっとも時代考証がきちんと機能しているのはNHKだと思う。


 2011年に放送された「真珠湾からの帰還」は、そういう意味でもなかなか行き届いた内容だった。米軍による日本側捕虜虐待、そしてそれが米軍により裁判記録から抹消されたことなど、戦後日本で、NHKで、正面から取り上げたことはこれまでなかったのではないか。


 いっぽう、旧聞に属するが、映画の「聯合艦隊司令長官山本五十六」は、いろんな意味で残念な作品だった。ある番組の台本で、「ガダルカナル島」の略称である「ガ島」が現場で読めず、「がしま」か「がとう」かで混乱したという話も聞いている(「がとう」に決まっている!という常識はいまの若い制作スタッフには通じない)。
 私もある歴史雑誌の編集者との打ち合わせで、米内光政海軍大臣(海相)のことを「ヨネウチカイショウ」と言われ、一瞬、意味が解らず困惑したことがある。一般の人ならいい。でも、特攻や終戦工作の記事を担当する専門誌の人がヨナイ海相の名前が読めないのは困るでしょう。でも、こういうことはめずらしいことではない。


 「忘れない」ためにはその前提として「知る」ことが欠かせないはずだが、情報を発信する側がこれでは、どうも先が思いやられる。




真珠湾攻撃74年

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今日は真珠湾攻撃から74年。

終戦の8月15日は大騒ぎなのに、開戦の12月8日は、各メディアとも殆ど報じないのは何故だろう。

14年前の今日、ハワイで行われた真珠湾攻撃60周年記念式典に、参加搭乗員らと出席した時も、日本から来たジャーナリストは私だけだった。

これはその時の写真。
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カネオヘ基地、飯田房太大尉慰霊碑。弔辞を読む岩下邦雄氏(元大尉、平成13年当時零戦搭乗員会会長)。
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爆弾の痕。
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原田要氏と、アメリカの元搭乗員。
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この作戦に参加した搭乗員は、零戦、九九艦爆、九七艦攻合わせて777名。そのうち終戦まで生き残ったのは約150名。

60周年の平成13年にはそれが30数名になり、この10数年で、殆どが鬼籍に入られた。

写真は、第二次発進部隊制空隊指揮官・進藤三郎大尉(のち少佐、戦後山口マツダ常務取締役)が保管していた、真珠湾作戦の軍機書類。

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進藤さんは赤城第八分隊長(戦闘機)。


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拙著『祖父たちの零戦』(講談社文庫)の冒頭に出てくる書類です。

進藤さんが亡くなり、ほどなくご長男も病没され、いまは託されて私の手元にあります。
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