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『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(文春文庫)本日発売!


「美談」の裏に見えてくるもの

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 戦勢が決定的に日本に不利となった昭和19年、東京・有楽町の朝日講堂で行なわれた「血闘の前線に応えん」と題した講演で、海軍のある将官が、
 「美談のある戦争はいけない」
 という歴史観を披露している。

 『非常に勇ましい挿話がたくさんあるようなのはけっして戦いがうまくいっていないことを証明しているようなものなのである。
 たとえば、足利、北条が楠木正成に対して、事実は勝っていた場合の如きがそれである。あの場合、足利や北条のほうにはめざましい武勇伝なり、挿話なりというものはなくて、かえって楠木方に後世に伝わる数多い悲壮な武勇伝がある。
 だから、勇ましい新聞種がたくさんできるということは、戦局からいってけっして喜ぶべきことではない。
 この大東亜戦争(太平洋戦争)でも、はじめ戦いが非常にうまくいっていたときには、個人個人を採り上げて武勇伝にするようなことは現在に比べるとずっと数は少なかった。
 いまはそれだけ戦いが順調でない証拠だともいえるのである。状況かくのごとくなった原因は、航空兵力が残念ながら量においてはなはだしい劣勢にあり、制空権が多くの場合、敵の手にあるからである』

 その将官の名は、大西瀧治郎中将。・・・・・・というと、意外に思う人が多いかもしれない。
 現状を冷静に見つめた率直な言葉と、特攻隊を最初に出し、最後まで徹底抗戦を叫び続けた、巷間伝えられる猛将、暴将のイメージとはいささかのギャップがあるから。

 しかし、これは慧眼だと思う。

 「美談」が報じられる陰には、何か別の思惑が動いている例が多いのは、昔もいまも変わらないからだ。

 たとえば、2011年はじめに世を騒がせた「タイガーマスク」事件、最初に「伊達直人」名でランドセルを置き、「善意」を演じたのが、新台の話題づくりを目論んだパチンコ業界であったごときがそれである。
 やり方があまりにも巧みだったため、全国的に触発された「善意の輪」が広がり、しまいには「善意の愉快犯」とも呼ぶべき変なのまで現れた。「美談」に疑問を呈するようなことを言えば、まるで非国民のように言われた。

 いつしかパタッとメディアが報じなくなったのは、元のからくりがわかったからに他ならない。
 震災報道でも、あまり美談ばかりが報じられるようでは、かえって危ない。
 近くは佐村河内騒動、小保方騒動などもそうだろう。人々の「感動したい症候群」がおさまらない限り(おさまらないだろうけど)、似たような「美談の嘘」の種は尽きないだろう。

 「美談」を何でも疑ってかかるようなひねくれた目も困るが、しかし、それが続けば、「その裏に隠されたものが何かある」と考えたほうが自然であろう。

 ものごとを見る目の指針は、つねに先人の言葉のなかにある。

「兵士たち」という言葉の誤用について

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 最近、出版される本やテレビ番組などは、ノンフィクションを銘打っていても、取材不足、取材力不足、著者の基本的な無知による妙な記述が幅を利かせている。題名や題字の書体をパクるだけでなく、取材そのものが怪しいものも多いのだ。

 たとえばある本に、真珠湾雷撃隊搭乗員が、
 「太平洋艦隊旗艦ウエストバージニアに魚雷をぶちこんだ」
 という、誤りだということは誰にでもわかるような記述があったが、相手の年齢も考え、話の裏を取って、明らかな間違いに対しては訂正を加えるのが記者なりノンフィクション作家の務めであろう。

 (だいたい、門司親徳にも会わずに特攻を語るなんて、無謀である。)


 典型的な「変な」例は、旧軍人を総称するのに「兵士」という、その言葉の使い方。新聞広告の見出しや解説を見るたびにげんなりする。著者も出版社も、よくこの程度の取材と認識で本が出せるな、と驚く。
 ……戦後長い歳月がたって、注意してくれる人もいなくなったのだろうか。


 これが10数年前なら、戦場で戦った旧軍人を総称する意味合いでうっかり「兵士たち」などと書いたら、「『兵士』と書いてあるが、下士官兵だけでなく、我々もそうでしたよ」と注意してくれる元士官が必ずいた。つまり、「士官」は「兵士」ではないという、当たり前の事実である。

 登場人物に、正規将校であろうが予備士官であろうが士官がいた場合には、「兵士」ではなく「将兵」という言葉を使わなければならない(少尉でも「将」の端くれである)。兵だけでなく下士官が入った場合は、下士官兵としないといけない。これもちゃんとした日本語なのだから、作家が知らなかったでは済まないだろう。


 現場で戦った将兵をいわゆる軍の上層部と分けてみんな「兵士」と一括りにしてしまうのは、プロレタリアートな階級史観に基づく、左翼的な言葉の用法である。
 たまにちゃんと「将兵」としている文章があっても、「将兵」それ自体が複数形だと知らずに、「将兵たち」と妙ちくりんな言葉を使われることもあるから、気が抜けない。
 
 近頃は唯一、NHKが考証関係者に人を得ていることもあって(「兵士たちの戦争」というBS番組の番組名はさておき)、ドラマの台本やドキュメンタリー番組では不用意に「兵士」を使わず、「将兵」を使う方向になっている。ニュース原稿や地方局制作の番組までは目が届かないから時々ポカはあるけれど、いまもっとも時代考証がきちんと機能しているのはNHKだと思う。


 2011年に放送された「真珠湾からの帰還」は、そういう意味でもなかなか行き届いた内容だった。米軍による日本側捕虜虐待、そしてそれが米軍により裁判記録から抹消されたことなど、戦後日本で、NHKで、正面から取り上げたことはこれまでなかったのではないか。


 いっぽう、旧聞に属するが、映画の「聯合艦隊司令長官山本五十六」は、いろんな意味で残念な作品だった。ある番組の台本で、「ガダルカナル島」の略称である「ガ島」が現場で読めず、「がしま」か「がとう」かで混乱したという話も聞いている(「がとう」に決まっている!という常識はいまの若い制作スタッフには通じない)。


 「忘れない」ためにはその前提として「知る」ことが欠かせないはずだが、情報を発信する側がこれでは、どうも先が思いやられる。





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名将が戦国時代の名優なら、軍師は演出家!さて、今話題のあの人の順位は?!

8月10日産経新聞『新・仕事の周辺」に掲載いただきました。

8.15 靖国神社に行ってきました

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 8月15日。
 大東亜戦争の「終戦記念日」とされる日である。
 
 最後の御前会議で終戦のご聖断が下ったのは8月14日。玉音放送が15日。「自衛のためをのぞく」停戦命令が出たのが8月16日夕刻。支那方面艦隊を除く陸海軍全部隊に戦闘行動を停止する命令が出たのは19日でその刻限が22日午前0時。降伏調印式が9月2日。

 そんな流れがあるから、この日をもって「終戦」、しかも負けたのに「記念日」と呼ぶことに私は引っかかりを感じたままだ。(勝てば「記念日」と呼べるだろうが)



 昭和20年8月15日未明には熊谷がB-29による空襲を受け、260人の市民が犠牲になっている。

 熊谷空襲の後、8月15日午前には、房総沖の敵機動部隊艦上機による、大規模な空襲もあった。三〇二空、二五二空の戦闘機隊がそれを邀撃している。


 ポツダム宣言受諾は、即、停戦を意味しない。8月15日の玉音放送で戦争が終わったと、テレビなどではきれいに片づけたがるが、玉音放送は国民にポツダム宣言受諾を伝えるものではあっても、先に述べたように、陸海軍に対する停戦命令とは別である。
 現に、8月17、18日、関東上空では邀撃戦が行われている。
 しかも、北千島や満ソ国境では、ソ連軍がお構いなしに攻めてきている。


 私の経験では、テレビ局や映画関係の人のほとんどが、「玉音放送と停戦命令は別で、しかもタイムラグがある」ということを承知していないようで、だから、終戦前後の描写に違和感を感じることが多い。





 ・・・・・・それはさておき、今日は靖国神社にお参りに行ってきた。案の定、というべきか、変な右翼の街宣車や左翼のビラ撒き、軍装コスプレ、そしてどこの国のマスコミかわからないような報道をする新聞、テレビ……などにいつもながらうんざりした。

 数年前のこの日、一緒にお参りをした歴戦の元零戦搭乗員、原田要中尉、日高盛康少佐、土方敏夫大尉・・・・・・皆さん、軍装コスプレの集団を見て、
 「ああいうのがいるから、靖国神社が色眼鏡で見られるんだ。我々は戦友に会いにここに来ているのに」
 と、苦い顔をされていたのを思い出す。

 
 旧帝国海軍でも、巡洋艦以上の大艦にしかつけられなかった菊のご紋を、たかが街宣車ごときにつけて日の丸を汚す右翼も、集団的自衛権行使容認反対を叫んでビラを配る左翼も、どちらも同じくらい馬鹿だと思う。

 ここに集う人の大半は、心静かにお参りすることを望んでいるはずだし、日本の礎となられた先人たちへの鎮魂と感謝の思いなどそっちのけで、そして戦友やご遺族、当事者の思いを踏みにじってまで、靖国神社が政治的主張の場とされ具とされるのはおかしい。


 いっそ右翼も左翼もマスコミも立ち入り禁止にして、ほんとうにお参りする気持ちのある人だけが静謐のなかで戦没者を追悼できるようになればよいのに、といつも思う。


昭和20年8月16日、大西瀧治郎中将割腹

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 昭和20年8月16日未明、軍令部次長大西瀧治郎中将は、特攻で死なせた部下たちに謝し、世界平和を願い、次世代に後事を託す遺書を遺して自刃した。部下たちの苦悩、苦痛を思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと、介錯を断っての最期だった。

 2000万人特攻、本土決戦などと本気で考えていたのなら、遺書の後段のような言葉が出てくるはずがない。遺書は、あらかじめ用意されていたもので、割腹の直前に書かれたのではない。大西の徹底抗戦論は、まさに命を懸けた大芝居であったのだ。

       *

 八月十六日の未明、大西は畳の上にシーツを敷き、一人その上に座ると、日本刀を引き寄せた。古来の切腹の作法どおり腹を十文字にかき切り、返す刀で首と胸を突いた。

 発見したのは、官舎の管理人である。急報で、多田海軍次官が軍医をつれて駆けつけた。次いで、副官と児玉誉士夫も官舎に急行した。

 大西は、近寄ろうとする軍医を睨んで、
 「生きるようにはしてくれるな」
 と治療を拒み、多田と児玉に
 「介錯不要」
 と言った。
 大西は、自分の掌にぬくもりを残して飛び立っていった特攻隊の多くの若者たち、そしてフィリピンに置き去りにしてきた一万五千人の将兵のことを思い、なるべく苦しんで死ぬ道を選んだのだ。


 夕方六時頃、大西は、自らの血の海のなかで絶命した。享年五十四。腹を切って十五時間あまり、軍医も驚嘆する生命力だった。
 大西が遺した遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を強く主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙をいましめ、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれてあった。


〈特攻隊の英霊に曰す
 善く戦ひたり深謝す
 最後の勝利を信じつゝ肉
 彈として散華せり然れ
 共其の信念は遂に達
 成し得ざるに至れり
 吾死を以て旧部下の
 英霊とその遺族に謝せ
 んとす

 次に一般青壮年に告ぐ
 我が死にして軽挙は利
 敵行為なるを思ひ
 聖旨に副ひ奉り自
 重忍苦するの誡とも
 ならば幸なり
 隠忍するとも日本人た
 るの衿持を失ふ勿れ
 諸子は國の寶なり
 平時に處し猶ほ克く
 特攻精神を堅持し
 日本民族の福祉と世
 界人類の和平の為
 最善を盡せよ

   海軍中将大西瀧治郎〉



 「矜持」の「矜」の字が誤字になっている。
 そして、遺書の欄外には、

〈八月十六日
   富岡海軍少将閣下   大西中将
 御補佐に対し深謝す
 総長閣下にお詫び申し上げられたし
 別紙遺書青年将兵指導
 上の一助とならばご利用ありたし
             以上〉

 との添え書きが細い字で書き加えられている。
 淑惠に宛てた遺書は、

〈瀧治郎より
  淑惠殿へ
 吾亡き後に處する参考として書き遺す事次乃如し
 一、家系其の他家事一切は淑惠の所信に一任す
    淑惠を全幅信頼するものなるを以て近親者は同人の意思を尊重するを要す
 二、安逸を貪ることなく世乃為人の為につくし天寿を全くせよ
 三、大西本家との親睦を保続せよ
    但し必ずしも大西の家系より後継者を入るる必要なし
                       以上
 之でよし百萬年の仮寝かな〉


 と、丸みをおびたやさしい字で綴られていた。


 大西の自刃は、八月十七日午後四時、海軍省から遺書とともに発表された。富岡少将への添え書きどおり、「青年将兵指導上の一助」として利用されたのである。大西に面罵され、対立していたかに見えた富岡は、大西の遺志にしたがい、それを忠実に、しかも手回しよく実行に移したのだ。


 大西自刃の記事と遺書は、八月十八日の新聞に掲載された。
 副官だった門司親徳が、台湾の新聞でこの遺書を読んだのも、この日のことである。



 写真は、門司親徳さんから私が譲り受けた大西中将の書の掛け軸。

 





平成26年度 NPO法人零戦の会 慰霊祭

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去る9月13日、靖国神社で、恒例のNPO法人零戦の会慰霊祭を挙行しました。
元搭乗員とそのご家族、そしてご遺族、会の運営を手助けする若い世代など、合わせて90名ほどが参加しました。

今年は特に、横山保中佐の御嬢様、鈴木實中佐、山下政雄少佐、足立次郎少佐のそれぞれお孫さんなど、零戦および海軍航空隊ゆかりの方々のご遺族の姿が目につきました。


受付で、寄せ書きをする笠井智一上飛曹



靖国神社の計らいで特別に遊就館の扉を開けて記念撮影



零式艦上戦闘機が帝国海軍に制式採用され、支那大陸重慶上空で初めて空戦、一方的勝利を収めたのは昭和15年9月13日、74年前のその日のこと。

 「零戦搭乗員会」が解散し、若い世代が加わった「零戦の会」が発足して今年で12年、つまり十二支を一回りするほどの年月を重ね、その間、とにもかくにも、解散、縮小傾向が続く戦友会としては稀有な活動を維持してこられました。

近年の顕著な傾向として、20代、30代、つまり搭乗員の孫世代が、色眼鏡なしに祖父たちが生き、戦ってこられた軌跡を知りたい、という声が明らかに増えています。戦死した祖父、あるいは伯父のことが知りたい、とか、戦争のことは何も語らずに亡くなられた祖父の思いが知りたい、といった問い合わせもしばしばありますし、現にそういった孫世代の中から、進んで会の運営に協力してくださる若い世代が増えました。

もし、「零戦搭乗員会」の解散で全て雲散霧消していれば、こんな思いに応える糸口もなかったわけで、そういう意味でも、搭乗員の世代と孫の世代の橋渡しになり得る当会が存続していることには意義があると考えています。

実際、10代から90歳代までの幅広い年代が一堂に、しかもこのように和やかに集い、心を一つにして、日本のために戦ってくださった先人に対し、追悼と感謝の誠を捧げる会というのは、世界でも稀だと思います。

かつて、旧「零戦搭乗員会」解散に先立って、海の向こうでは第二次大戦中のアメリカ軍パイロットの集いであった「エースパイロット協会」が解散したとの知らせがありましたが、アメリカ人にできなかったことを我々は続けてゆく。そして、いつまでも慰霊と感謝の気持ちを持ち続けることが、日本の将来を信じ、雲染む屍となられた戦没搭乗員諸霊に対するせめてもの恩返しとなればと思います。


戦後も合わせた長い目で見て、最後は零戦隊が勝った、となるように、海軍戦闘機隊が最後まで編隊飛行を全うできるよう、そして末永く零戦の灯を消さぬよう、また栄誉を汚さぬよう、活動を続けてゆく所存です。



新幹線に生きた零戦の技術(新幹線開業50周年の日に、松平精さんを想う)

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 「夢の超特急」と呼ばれた東海道新幹線開業から、今日、10月1日でちょうど50年になるという。

 報道では、国鉄総裁だった十河信二と技師長だった島秀雄の名ばかりが取り上げられるが、私が忘れられないのは、松平精(まつだいら・ただし)さんのことである。


 松平精(1910-2000)。

 世界の「振動学」の草分けで、海軍航空技術廠技師として、零戦をはじめ飛行機の振動問題を解決、戦後は鉄道技術研究所に入り、「夢の超特急」と言われた0系新幹線の台車部分の設計を手がけた(のち、鉄道技術研究所長)。
 拙著『零戦最後の証言』(光人社)にご登場いただいている。


 松平さんは大分・杵築藩主で維新後は子爵の家柄で生まれ育った。

 東京帝大卒業後、海軍空技廠に入り、技師として主に航空機の振動問題を研究。
 十二試艦戦、零戦の空中分解事故でその原因を突き止め、以後の航空安全に大きな功績を残した。松平さんの研究は、当時の世界水準の先をいくものだった。高等官4等(中佐相当)。
 戦後は鉄道技術研究所で、やはり振動問題を研究。鉄道や自動車の乗り心地や安全面に大きく寄与したのみならず、新幹線の台車部分の設計にも参画し、当時世界一の高速運転の実現に貢献した。その業績は、最晩年に放送されたNHK「プロジェクトX」でも紹介されている。松平さんによると、飛行機も鉄道も、速度を上げると「自励振動」が起きるのは同じだという。
 松平さんは、
「零戦の技術は、新幹線で開花した」
 と述懐している。


 私は、松平さん晩年の5年間、取材を通じてずいぶんお世話になった。私を松平さんに引き合わせてくれたのが、元空技廠飛行実験部員(テストパイロット)で終戦時三四三空飛行長であった志賀淑雄少佐である。
 志賀さんにはいろんな方にご紹介いただいたが、その最初が松平さんであった。一ツ橋の学士会館で初めてお会いした時、いままで慣れ親しんだ戦闘機乗りの人たちと同年輩ながら、まったくタイプが異なる学究肌の人で、物理が大の苦手だった私は、質問一つするのにも大いに緊張したものだ。

 それでも、学士会館で何度かインタビューさせていただいた後は、中野区鷺宮のご自宅に上げてもらえるようになり、かなり足繁く通った。

 亡くなる年の春、ご自宅の前に咲いた桜を一緒に見て、「このところずいぶん弱られたな」と思ったのが最後であった。

 訃報は、奥様から電話で直接いただいた。2000年8月4日の晩であった。それで私から志賀さんにお知らせするという逆の話になった。通夜は8月7日、告別式は8日。

 暑い日中に行なわれる告別式は志賀さんのお体に障るといけないので、通夜に同行させてもらうことになった。夕方、練馬からタクシーで浅草のお寺へ。ここが杵築松平家の菩提寺らしい。

 この日は夕方から物凄い雷雨になった。ほうほうの態で焼香を終えると、志賀さんと私は、待たせていたタクシーに乗り込んだ。目の前を稲妻が走る。轟音とともに、雷がすぐ近くに続けて落ちる。まるで狙われているのではないかと思うぐらいだ。志賀さんに「ずいぶん鳴りますね」と話しかけたら、志賀さんはちょっと身を縮めて、「遠くでやってくれよ」と小声でつぶやいた。
 南太平洋海戦で敵機動部隊の弾幕をくぐった志賀さんが、雷は苦手にされていたのをそのとき初めて知った。

 「いくら車でも、こんな雷は閉口だ。晩飯食って帰ろう。どこか静かなところを知らないか」
 と仰るので、上野・池之端の「伊豆栄」に寄る。ここは元零戦搭乗員の桑原和臣さんや元空自F86Fパイロットの服部省吾さんたちとよく来た鰻の老舗である。運転手さんも一緒に、うな重をご馳走になる。

 そのときは、志賀さんともあと一年少々で会えなくなるなどとは思いもしなかった。

 東海道新幹線開業50年を寿ぎつつ、松平さんの思い出にふける雨の朝。

台湾沖航空戦第一日(昭和19年10月12日)から70年。

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 今日、10月12日は、「台湾沖航空戦」初日から70年の日である。
 このとき、日本側の挙げた戦果が「幻」でなかったなら、フィリピンでの特攻はなかったか、別の形になったにちがいない、と、拙著『特攻の真意』(文春文庫)の主人公の一人で渦中にいた元第一航空艦隊副官・門司親徳さんはいつもおっしゃっていた。
 例年この時期にお話をしたりお葉書をいただいたりすると、その都度、「今日は台湾沖航空戦の○日め」ということを話題にされた。
 門司さんを偲びつつ、台湾沖航空戦の概要を振り返る。


 昭和十九年夏、体当たり攻撃隊の編制開始と並行して、海軍軍令部は、来るべき日米決戦で敵機動部隊を撃滅するための新たな作戦を練っていた。全海軍から選抜した精鋭航空部隊と、臨時に海軍の指揮下に入る陸軍重爆隊で編制された「T攻撃部隊」による航空総攻撃である。
 「T」はTyphoonの頭文字をとったもので、敵戦闘機の発着艦が困難な悪天候を利用して、敵機動部隊を攻撃するというものである。
 ただ、精鋭部隊とはいえ、飛行機の性能、機数が敵より劣り、実戦経験のない搭乗員が多くを占める現状では、まともに考えれば敵が飛べないほどの荒天下で有効な攻撃ができるはずがない。
 この作戦を発案したのは、軍令部第一部第一課の部員・源田實中佐であり、採択したのは軍令部第一部長・中澤佑少将である。T攻撃部隊は、福留中将が率いる第二航空艦隊の指揮下に入ることになった。

 台湾が米機動部隊艦上機による大空襲を受けた昭和十九年十月十二日、福留中将はT攻撃部隊の発進を下令する。鹿屋基地を発進した索敵機が、夕方までに、台湾東方海域に三群の敵機動部隊を発見している。作戦にふさわしく、洋上には台風が発生していた。
 鹿屋から出撃した陸上爆撃機「銀河」、一式陸上攻撃機計五十六機、沖縄を発進した艦攻二十三機、陸軍重爆撃機二十二機が夜間攻撃を敢行し、
 「撃沈二隻、中破二隻、艦種不明なるも撃沈、中破各一は空母の算大」
 という戦果を報じた。
 十月十三日も、台湾は激しい空襲にさらされたが、T攻撃部隊は鹿屋から四十五機の攻撃隊を出して、薄暮攻撃を行なった。
 十月十四日、総力を挙げて攻撃隊を出すことになり、南九州各基地から新手の四百機とT攻撃部隊の残存兵力が、またフィリピンからは海軍、陸軍あわせて百七十機を攻撃に投入することとされたが、フィリピン近海には敵機動部隊がいることもあって、実際に攻撃に参加できたのは約四百五十機だった。
 十月十四日午後、T部隊指揮官・久野修三大佐は、十二、十三両日の総合戦果を、
 「十二日空母六乃至八隻轟撃沈(内正規空母二~三ヲ含ム)
 十三日空母三乃至五隻轟撃沈(内正規空母二~三ヲ含ム)
 と報告した。
 絶えて久しい敵空母撃沈の報に、
 〈多大の戦果を挙げつつあることは確実と思考し、海軍部の空気は興奮の坩堝と化した〉
 と、防衛庁戦史室『戦史叢書』(大本営海軍部・聯合艦隊<6>第三段作戦後期)は述べている。

 十四日には高雄、台南の基地が、中国大陸から発進した敵の新型爆撃機・B-29数十機の絨毯爆撃を受けたが、機動部隊艦上機による空襲はやんだ。十五日には、残敵掃討の攻撃隊が、台湾とフィリピンの各基地を飛び立った。
 この日、横山岳夫大尉率いる戦闘三一一飛行隊の爆装零戦六機が、戦闘三〇五飛行隊長・指宿正信大尉率いる零戦十九機に護衛され、マニラ東方二百浬の敵機動部隊攻撃に向かった。
 米側記録によると、空母「フランクリン」が、横山隊とおぼしき攻撃を受け、爆弾一発が命中、死傷者十五名を出している。


 十五日にはまた、フィリピン中部、北部の基地整備を担う第二十六航空戦隊司令官・有馬正文少将は、クラークから出撃する七六一空の一式陸攻に乗り込み、台湾東方の敵機動部隊を雷撃したのち、被弾、自爆したとの報がもたらされた。
 有馬は、万一、遺体が敵軍の手に渡ることを考え、少将の階級章をはずし、双眼鏡の「司令官」という文字を削り取って、覚悟の上での出撃であった。

 この有馬の陣頭指揮、自爆は、のちの特攻隊のさきがけと評価されることがあるが、門司親徳は「それは違う」と考えている。
 「本来、飛行機隊を指揮する立場にない乙航空戦隊の司令官が、陸攻に搭乗して行ったということに不思議な気がしました。有馬少将は、『ダバオ水鳥事件』で一時、一航艦の指揮を任されたときに『セブ事件』で大きな損害を出してしまい、非常な責任を感じておられるのは、傍で見てもわかりました。有馬少将は、その責任を、指揮官先頭の範を示したやり方でとられたのではないでしょうか。
 報道班員の新名丈夫さんによると、かつて有馬司令官に会ったとき、司令官は、『こんどの戦争では上に立つものが死なねばならぬ』と言われたとか。姿勢がよくて寡黙な人でしたが、内に秘めた責任感の強さは尋常ではなかったのでしょう」

 十月十六日にも、「明らかに敗走中」と海軍中央部が判断した敵機動部隊への攻撃は続けられ、報告された戦果はさらに拡大した。
 聯合艦隊の戦果報告では、空母だけで十隻を撃沈、八隻を撃破したことになっている。
 いっぽう、この日、鹿屋基地を発進した索敵機が、思いもよらない敵情を打電してきた。午前十時三十分、高雄の九十五度四百三十浬に、西に向かって航行中の敵空母七隻、巡洋艦十数隻からなる機動部隊を発見したのである。
 正午前に届いたこの報告は、撃滅したはずの敵機動部隊が健在であることを示している。祝勝ムードに浮かれていた大本営海軍部と聯合艦隊司令部にとって、これは晴天の霹靂であった。
 聯合艦隊司令部は戦果の判定に疑念を持ち、戦果の再検討を始めた。その結果、
 「確実な戦果は、空母四隻撃破程度」
 と判断が覆ったのは、十八日の午後以降だったといわれる。

 戦果判定の多くは、薄暮から夜間の攻撃で、味方機が自爆炎上するのを敵艦の火災と誤認したものと考えられた。
 十月十二日から十六日まで五日間にわたって続いた「台湾沖航空戦」と呼ばれる一連の戦闘で、日本側が四百機の飛行機を失ったのに対し、結局、撃沈した米軍艦艇は一隻もなく、八隻に損傷を与えただけだった。米軍の飛行機喪失は七十九機であった。
 だが、十八日には戦果の判定が訂正されたにも関わらず、大本営は十九日、訂正前の大戦果にさらに脚色を加える形で大々的な戦果発表を行なっている。

 日本海軍航空部隊が、台湾沖航空戦で受けた打撃はとてつもなく大きかった。
 フィリピンの航空兵力は、十八日現在の可動機数が、一航艦の三十五~四十機、陸軍の第四航空軍約七十機しかなく、台湾から二航艦の可動機二百三十機を派遣しても、あわせて約三百四十機に過ぎなかった。

 

 ・・・・・・そして、昨日、10月11日は、『特攻の真意』のもう一人の主人公で、残念ながら昨年2月に亡くなられた、敬愛する元零戦搭乗員・角田和男さん(乙5期・中尉)の、ご存命なら満96歳のお誕生日だった。

  
 (昭和18年はじめ頃、ラバウル基地で、左から角田さん(当時飛曹長)、大槻二飛曹、明慶飛長)


 角田さんは飛行時間、出撃回数ともにもっとも多いほうに数えられる、歴戦の零戦搭乗員だが、戦後は開拓農民となり、自衛隊からの再三の懇請にも応じず戦友たちの慰霊に生涯を捧げてこられた。
  
 一昨年のこの日、お誕生日祝いの電話を差し上げようと思っていた矢先、角田さん
から、角田さんの田んぼでその秋にとれた新米が、丁重なお手紙とともに届いた。
 


 その時点でのご体調では手紙をお書きになるのも大変なことを私はよく知っていたから、心のこもった贈り物に、涙が出るほど嬉しい、というよりもったいない思いでいっぱいだった。

 思えば、お付き合いいただいた17年余、角田さんにはお世話になりっぱなしだった

 取材の枠を超え、ほんとうにいろんなことがあった。
 門司親徳さんに引き合わせてくださったのも角田さんだった。


 私の零戦搭乗員や海軍ものの
ノンフィクション作品には必ずご登場いただいているが、今年の夏、文庫化されたた拙著『特攻の真意』(文春文庫)は、そんな歳月の集大成である。

72年前の今日、ガダルカナル島上空の空戦

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 72年前の今日、昭和17年10月17日、ガダルカナル島上空で日本海軍二航戦の空母「隼鷹」「飛鷹」を発艦した零戦18機、九七艦攻17機が、邀撃してきたグラマンF4Fと空戦、「隼鷹」艦攻隊がほとんど全滅する損害を出した。

 私は、「隼鷹」飛行隊長志賀大尉、「飛鷹」戦闘機隊原田一飛曹、同艦攻隊丸山一飛曹から、その日の模様を詳しく聞いた。



 〈十月十五日現在、ガ島の日本軍兵力は約二万近く、対する米軍は二万三千、その大部分は戦闘に疲れ、マラリアに悩まされた海兵隊であった。戦局は、ほぼ拮抗していた。

  日本軍の反撃を受けて、米軍も積極的な動きを見せていた。太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将は南太平洋部隊指揮官ゴームリー中将を解任し、その後任に勇猛果 敢で知られるハルゼー中将を任命した。同時に米機動部隊もガ島方面に出動、十六日には前日、ガ島北岸に日本軍が揚陸したばかりの食糧、弾薬が米駆逐艦二隻 の艦砲射撃で灰燼に帰した。


  敵の艦砲射撃を機に、聯合艦隊は、敵空母との激突に備えてソロモン群島北方にあった空母隼鷹、飛鷹の第二航空戦隊にガ島ルンガ泊地の敵輸送船団攻撃を命じ た。二航戦では、翌十七日、二隻の空母からそれぞれ零戦九機、艦攻九機、計三十六機を出撃させることになり、十六日の夜、搭乗員に命令が伝えられた。

  しかし、八十番(八百キロ)陸用爆弾を抱えた艦攻の水平爆撃では、スピードも遅い上に、「定針」といって目標に投弾するまでの数分間、水平直線飛行をしな ければならず、敵戦闘機がうようよいるばずのガ島上空では、それは自殺行為に等しかった。十六日の晩、無謀な命令に搭乗員室で荒れる隼鷹艦攻搭乗員たち に、翌日の戦闘機隊指揮官、飛行隊長・志賀淑雄大尉は、「われわれ戦闘機隊は、何があってもお前たちを守りきる」と大見得を切ってなだめた。しかし――。

  十月十七日午前三時三十分、総勢三十六機の攻撃隊は母艦を発進。途中、隼鷹の艦攻一機が故障で引き返す。こともあろうにこの一機は、爆撃のリーダーとなる べき嚮導機(機長・大多和達也飛曹長)であった。残る三十五機は、隼鷹艦攻隊(指揮官・伊東忠男大尉)、飛鷹戦闘機隊(兼子正大尉・六空の初代飛行隊 長)、飛鷹艦攻隊(入来院良秋大尉)、隼鷹戦闘機隊(志賀淑雄大尉)の順に編隊を組んで、一路ガ島に向かった。艦攻隊の伊東大尉と入来院大尉は、海兵六十 五期出身であった。

 ミッドウェー海戦の時に辛酸をなめた二航戦の母艦搭乗員が、大勢新しい二航戦に移ってきていた。その中の一人、飛鷹戦闘機隊の原田要一飛曹は、援護の対象を入れ替えるようなこの編隊の布陣が疑問に感じられたという。

 そのことについて志賀大尉は、
 「それまで、二航戦としての打ち合わせや合同訓練は一度もなかったですね。それと、源田参謀の発案で、飛行機隊は発艦したら艦長の指揮を離れ、二航戦としての序列に従って行動することになっていました。
 だから、大見得を切った手前もあって自分の艦の艦攻隊を直掩したかったんですが、戦闘機隊は六十期の兼子大尉の方が私より先任なので飛鷹が前、艦攻隊は同じ六十五期でも伊東大尉の方が入来院大尉より先任なので隼鷹が先、と順番が入れ替わってしまったんです」
 …と解説している。


  艦攻隊の高度は四千メートル、戦闘機隊はそれぞれ、その五百メートル後上方に位置していた。ソロモンの空と海はあくまで青く、太陽は強くまぶしかった。ガ 島上空に差しかかる頃、前方の左上方五百メートルほどのところに、断雲が近づいてきていた。「いやな雲だ」と、原田一飛曹の胸に不安がよぎった。

  その頃、隼鷹の志賀大尉は、高度六千メートル付近に出ていた層雲が気になって、その陰に敵戦闘機がいるのではないかと、列機を引きつれて雲の上に出てみた が、何も見つからなかった。その間に、嚮導機不在の隼鷹艦攻隊は定針を誤り、伊東大尉は敵地上空で爆撃のやり直しを決める。

 続いて入っ た飛鷹艦攻隊は、嚮導機がいるのでそのまま投弾する。隼鷹艦攻隊が大きく旋回してもとの爆撃針路に入った時、艦攻隊の側に戻ろうとした志賀大尉は、断雲の 影から、キラッキラッと太陽の光を反射させて、ずんぐりとした機体を身軽に切り返す数機のグラマンF4Fの姿を見た。あっと思う間もなく、敵機は、一目散 に艦攻隊に向けて突っ込んできた。


 志賀大尉の回想。
 「『しまった!』と見る間に、たちまち艦攻の二番機が左翼から火 を噴き、一番機(伊東大尉機)も右翼付け根から火焔を吐き出しました。しかし、艦攻隊は燃えながらも編隊を崩さない。私は何ともいえない気持で、それを目 で追っていきました。もしもあの時、グラマンが襲ってきたら、私もやられていたでしょう。艦攻隊はそのまま投弾して、先に二番機がグラッと傾いて、墜ちて いきました。グラマンは、確か九機ぐらいだったと思います(実際には二十八機が上がっていた)。一撃をかけて逃げていく敵機を追いかけて、いちばん後ろの やつに一撃しましたが、艦攻隊が気になって、最期を確認しないままに反転しました」

 先に投弾して敵戦闘機の奇襲をまぬがれた飛鷹艦攻隊の丸山泰輔一飛曹は、
  「帰投針路に入って後ろを振り返ったら、爆撃針路に入ろうとする隼鷹艦攻隊がグラマンにたかられて、次々に燃えて墜ちてゆくのが見えました。それが、昔の カメラの、マグネシウムのフラッシュを焚いた時のような閃光を発して燃えるんですよ。赤い炎じゃなくて、白く明るく輝いて、キラキラと粉を吹くよう に……。光と白煙を吐きながら、次から次へと墜ちてゆく。何とも悲壮な光景でした」
 と振り返る。


 飛鷹戦闘機隊先任搭乗員・原田要一飛曹は、一撃を終えて前方に急上昇するグラマンの中から、一機だけわが戦闘機隊の後方に回り込もうとする敵機を認めた。
  「私はしんがり小隊長ですから、『このヘナチョコになめた真似をされてたまるか』と、目もくらむばかりに操縦桿を引き、機首を向けたんですが、出港以来の 疲れのせいか、一瞬、失神してしまったんです。G(荷重)には強い方だったんですがね……。気がつくともう、目の前にグラマンが向かってきていました。私 はとっさにこの敵機と刺し違える決心をして、下腹にぐっと力をこめて、左手のスロットルレバーについた引き金(発射把柄)を握りました。互いの曳痕弾が交 錯し、あっと思った時にはガーンという衝撃とともに、左手が引き金からはじき飛ばされました。飛行服の左腕のところに卵大の穴が開き、風防や計器板に血し ぶきが飛び散りました」

 操縦桿を足にはさみ、右手と口でゴムの止血帯を巻きつけ、ふと見ると、敵機は白煙を引きながら、はるか下方の島 影に吸い込まれていくところであった。原田は不時着を決意し、眼下の椰子林にすべり込むが、椰子の木にぶつかって方翼が吹き飛び、墜落状態で転覆した操縦 席に閉じ込められる。やっとの思いで脱出した原田は、重傷で意識が朦朧とする中、不時着した隼鷹艦攻隊の生き残り、佐藤寿雄一飛曹とともにジャングルの中 をあてどもなくさまよい、奇跡的に友軍に救出される。傷は化膿して悪化の一途をたどり、マラリアやデング熱も併発して半死半生の状態で、舟艇に乗せられて ガ島を脱出したのが十一月五日、意識が戻ったのは約一週間後、トラック島の第四海軍病院であった。


 この日の攻撃で、隼鷹艦攻隊 六機が撃墜され、二機が不時着。飛鷹艦攻隊も対空砲火で一機自爆、一機が不時着。これほど大きな犠牲を出したにもかかわらず、爆撃による戦果はゼロであっ た。その後、飛鷹は機関故障で戦列を離れ、入来院大尉以下、飛鷹艦攻隊は隼鷹に洋上で乗り換え、二十六日の南太平洋海戦に参加することになる。〉




 この日、戦死した隼鷹艦攻隊指揮官伊東大尉の墓は、東京の雑司ヶ谷霊園の片隅にあり、小さな墓石がまさにひっそりと、という形容が相応しい佇まいで立っている。飛行機搭乗員の宿命として、遺骨はもちろん、ない。
 私は時おり、音羽の講談社から池袋まで歩くことがあって、その都度、雑司ヶ谷霊園の伊東大尉の墓前で足を止め、しばし頭を垂れている。

 直後の10月26日に南太平洋海戦が起こったこともあり、10月17日の空戦は戦史に埋没している感があるが、私には忘れたくない日だ。

光が丘公園(陸軍成増飛行場跡)に秋の色が

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練馬、光が丘公園の銀杏並木も、ほんのり色づいてきました。



この公園は、戦時中、帝都防空のため造られた陸軍成増飛行場の跡地で、南北にまっすぐ伸びる銀杏並木は、滑走路の名残です。
近隣の民家には、非公開の掩体がいまも残っているとか。

母校八尾高の旧制中学時代の大先輩(中41期)で、昭和20年4月29日、第19振武隊の一員として一式戦「隼」に搭乗、沖縄沖で特攻戦死した角谷隆正陸軍少尉(特別操縦見習士官1期)も、この滑走路をこの写真の向きと同じく、南から北に向かって離陸して、出撃基地である鹿児島県の知覧飛行場に向かったのでした。

角谷少尉は、私が中学時代、3年間お世話になった塾の角谷先生(旧制八尾中50期→京大)のお兄様でもあります


10月20日、神風特別攻撃隊編成から70年

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 ちょうど70年前の今日のことである。

 昭和19年10月20日の朝、比島・マバラカットの空は曇っている。士官室で朝食が終わると、玉井副長が大西中将のところにやってきて、
 「揃いました」
 と言った。決死隊が決まったのだ。大西に随って、門司副官は士官室を出た。午前10時。


 二〇一空本部の前庭の南側に、北に向かって20数人の搭乗員が並んでいる。関大尉と、昨夜、玉井の説得に手を挙げ、指名された甲飛十期の搭乗員12名、残りはこの朝になって搭乗割が発表された、体当り機を突入まで護衛し、戦果を確認する直掩機(ちょくえんき)13名である。

 関は、列の右側、指揮官の定位置に立っていた。
 搭乗員たちの正面に置かれた指揮台代わりの木箱の上に大西が立つと、玉井が「敬礼」と号令をかけた。飛行服、飛行帽姿に身を包んだ搭乗員たちが、いっせいに大西に注目し、右45度の海軍式の挙手の敬礼をした。猪口参謀、玉井副長、門司副官と「日本ニュース」の稲垣浩邦報道班員の4名が、大西の後ろで侍立している。

 大西は、きっちりと答礼を返すと、搭乗員たちを見回してから、重い口調で訓示を始めた。この訓示には原稿がなく、大西の言葉は空中に消えて正確な記録はないが、門司の記憶では次のようなものであった。

 「この体当り攻撃隊を神風(しんぷう)特別攻撃隊と命名し、四隊をそれぞれ敷島(しきしま)、大和、朝日、山櫻とよぶ。日本はまさに危機である。この危機を救いうるものは大臣でも、大将でも軍令部総長でもない。それは、若い君たちのような純真で気力に満ちた人である。みなはもう、命を捨てた神であるから、何の欲望もないであろう。ただ自分の体当りの戦果を知ることができないのが心残りであるに違いない。自分はかならずその戦果を上聞に達する。一億国民に代わって頼む、しっかりやってくれ」

 訓示が進むにつれ、大西の体が小刻みにふるえ、その顔が蒼白にひきつったようになるのが門司の目にもわかった。「死」を命じるのは、大西にとってももちろん初めてのことで、その姿はいつもの大西とは違う、尋常ではない雰囲気を発していた。整列した搭乗員たちの顔は年らしさを残していて、表情からその心中までうかがい知ることはできない。稲垣カメラマンも、撮影するのを忘れたかのように直立したまま、大西の言葉を聴いている。

 「私は、目の奥がうずくような感動を受けましたが、涙は出ませんでした。甘い感激ではなく感情がもっと行きつくところまで行ってしまったような心境。トラック空襲以来、これまで敵機動部隊攻撃に出撃した艦攻隊がほとんど全機還ってこなかったなどの現実を見てきたから、このときはひどいとも、残酷なことをするとも思いませんでした。最前線にいて、毎日何人かの仲間が戦死してゆく現実に直面していた彼らには、必死必中の体当り攻撃に手を挙げる精神的な下地があったのではないでしょうか」
 と、門司は回想する。


 最初の特攻隊は、次のような編成であった。

〈敷島隊〉
 関行男大尉 海兵七十期 戦闘三〇一飛行隊分隊長
 谷暢夫(のんぷ)一飛曹 甲飛十期 戦闘三〇五飛行隊
 中野磐雄一飛曹 甲飛十期 戦闘三〇一飛行隊
 山下憲行一飛曹 甲飛十期 戦闘三〇一飛行隊
〈大和隊〉
 中瀬清久一飛曹 甲飛十期 戦闘三〇六飛行隊
 塩田寛一飛曹 甲飛十期 戦闘三〇六飛行隊
 宮川正一飛曹 甲飛十期 戦闘三〇一飛行隊
〈朝日隊〉
 上野敬一一飛曹 甲飛十期 戦闘三〇一飛行隊
 崎田清一飛曹 甲飛十期 戦闘三〇一飛行隊
 磯川質男一飛曹 甲飛十期 戦闘三〇一飛行隊
〈山櫻隊〉
 宮原田賢一一飛曹 甲飛十期 戦闘三〇一飛行隊
 瀧澤光雄一飛曹 甲飛十期 戦闘三〇一飛行隊
 藤本寿一飛曹 甲飛十期 戦闘三一一飛行隊


 この13機の爆装特攻機に加え、敷島隊に4機、他の隊には3機ずつの直掩機が配された。最初の敷島隊の直掩機に選ばれたのは、真珠湾攻撃以来歴戦の戦闘三〇五飛行隊分隊士・谷口正夫飛曹長以下四機である。

 (注;この編制はわずか半日で変わり、10月25日、実際に突入に成功するまでに直掩機もふくめ相当な変遷がある。拙著『特攻の真意』(文春文庫)参照。)


 二〇一空の各飛行隊は「空地分離」にしたがい「特設飛行隊」と呼ばれる形になっている。戦闘や訓練の指揮は飛行隊長がとるが、飛行隊長に人事権はない。搭乗員の人事は航空隊司令が統括するが、実質的な人事権者は飛行長である。


 山本司令と中島飛行長が不在のため、この編制は玉井副長が決めた。爆装機の編成を見ると、関大尉が分隊長を務め、鈴木宇三郎大尉の戦死以降、飛行隊長が不在となっている戦闘三〇一飛行隊からの指名がもっとも多いのがわかる。

 「神風」の名の由来は、猪口参謀が、剣道に「神風(しんぷう)流」というのがあるのを思い出して着想し、大西の裁可を得たもの。「敷島」「大和」「朝日」「山櫻」の四隊の名前は、本居宣長の和歌、

 〈敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山櫻花〉

 から、大西自身が考えたものであると、門司はのちに猪口参謀から聞かされている。


 訓示を結ぶと大西は、台から降りて端から順に、時間をかけて一人一人の手を握った。搭乗員たちは、はにかんだような表情で手を出した。

 甲飛十期生は、昭和17年の秋、門司副官が土浦海軍航空隊の主計科分隊長として着任してから約半年、身近に接した予科練習生である。門司は、土空の練兵場で体操をし、マラソンをし、酒保(売店)の菓子を食べていた彼らの姿を思い出していた。そして、見覚えのある顔はないかと探してみたが、千名を超える大勢の少年たちだったから、知った顔を見つけ出すことはできなかった。
 門司は、 
 「そのとき私が思ったのは、大西中将が若ければ、特攻隊の隊長として真っ先に行かれるだろうな、ということ。この場にちぐはぐな違和感が感じられなかったのは、長官が、自分は生き残って特攻隊員だけを死なせる気持ちがなかったからに違いないと思います。その様子をじっと見ているうちに、大西中将と特攻隊員たちは、私にとって別世界の人間になったように思えてきました」
 と追想する。


 特攻隊は、すぐに飛行場で出撃待機に入った。関大尉以下、敷島隊、大和隊の7名はマバラカット西、朝日隊、山櫻隊はマバラカット東。
 大西は、彼らの出撃を見送るつもりで二〇一空本部で待つが、この日は、索敵機が敵艦隊を発見したものの、距離が遠すぎて出撃の機会はなかった。

 午後3時過ぎ、大西中将はマニラに帰ることになり、その前にみんなに会っていこうと、マバラカット西飛行場の滑走路のはずれ、うすい夕日が差すバンバン川の河原に待機中の、関大尉以下、敷島隊と大和隊の7名の搭乗員を訪ねた。搭乗員たちは車座になって座っていたが、大西中将の姿を認めるといっせいに立ち上がって敬礼した。

 2、30分、雑談を交わしたのち、
 「では、わしは帰る」
 と大西は腰を上げたが、ふと門司が肩から下げている水筒に目をとめると、
 「副官、水は入っているか」
 と訊(たず)ねた。門司は水筒を肩から外した。関大尉を右端に、7人の搭乗員が並んだ。門司は、白い湯飲み茶碗を関大尉にわたした。このとき、稲垣浩邦報道班員が撮影した別杯のシーンは、翌日以降の出撃シーンの映像と合わせて1日の出来事のように編集され、「日本ニュース」232号として、11月9日、内地の映画館で上映された。

 「別杯を終えて長官と車に乗ったのは、もう四時頃でした。夕暮れの道をマニラまで走る二時間あまりの間、大西中将は一言も口をきかれませんでした」
 と、門司は筆者に語っている。

 




「神風忌」に思う(神風特別攻撃隊初戦果から70年の日に)

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 ちょうど70年前の10月25日は、神風特別攻撃隊が初めて敵艦隊に突入に成功した日である。
 私は例年、この日は元一航艦副官門司親徳さんらと芝の某寺で営まれてきた「神風忌」慰霊法要に参列していた。その「神風忌」がなくなった残念ないきさつについては、拙著『特攻の真意』(文春文庫)に書いたとおり。

 4年前には関行男大尉の故郷・愛媛県西条市の楢本神社の慰霊祭に参列させていただいたが、3年前はドラマのロケが重なったので、遠くマッコイキャンプ(のオープンセット)から遥拝した。一昨年と昨年は次の著書の追い込み、今年は別用でどうしても出られず、東京より遥拝。

 特攻70年ということで、新聞各紙に関連記事が載っているけれど、なんというか記者が不勉強で、どうということもない記事が多かったように思う。
 ノンフィクションであれ小説であれ、「門司親徳にも角田和男にも会わずに特攻を語るのは僭越の沙汰」だと思うけれど、門司さんに会っていてもなお、変なことを言う人もいる。昨日、毎日新聞に掲載された『特攻70年:「特攻は日本の恥部、美化は怖い」 保阪正康さんインタビュー』と題する記事を読んで、「この人、いったい何を取材してきたのだろう」と率直に思った。
 歴史上の出来事を語るには、現代の高みから見下ろすだけでなく、まず当時の状況や価値観を俎上に乗せて、それと比較するのでなければ事実が真実から遊離してしまう。
 毎日の記事は、まさにその見本のようであった。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 さて、昭和19年10月25日、最初に米護衛空母「サンティ」に突入したのは、菊水隊の加藤一飛曹、宮川一飛曹のいずれかであることは確実である。直掩機の塩盛上飛曹がその突入を見届け、
 〈一機正規空母ノ艦尾命中 火炎停止スルヲ確認ス〉
 と報告している。

 次に「スワニー」に突入したのは、状況から朝日隊の上野一飛曹と思われるが、朝日隊は戦場上空で離れ離れになり、もう一機の爆装機・磯川一飛曹も直掩機・箕浦飛長も、それぞれルソン島南東部に不時着し、のちに別々にマバラカット基地に生還しているから、日本側で上野機の最期を確認したものはいない。

 朝日隊に続いて発進した山櫻隊は、少し遅れて戦場に到着し、海面に流れ出す重油と若干の小型艦を発見したものの、敵機動部隊の姿は見えなかった。一番機の宮原田一飛曹があきらめて帰投を決め、爆弾を投棄した直後、眼下に敵駆逐艦を発見した。早まって爆弾を投棄したのを後悔したに違いない。宮原田が敵艦に向かって銃撃を開始し、列機もそれに続く。

 結局、宮原田、瀧澤両一飛曹は対空砲火に撃墜されたものか、未帰還となった。直掩の二機は、ルソン島のレガスピー基地に不時着した。



 関大尉の率いる敷島隊が出撃したのは、10月25日午前7時25分のことである。前の三回の出撃はマバラカット西飛行場からだったが、四度めのこのときはマバラカット東飛行場を発進している。

 この出撃には、10月19日に不時着事故で左脚の骨を折った二〇一空司令・山本栄大佐も、マニラ海軍病院をむりやり退院して、車で駆けつけた。

 滑走路脇には多くの隊員たちが並び、力の限りに帽子を振って敷島隊を見送った。

 
 敷島隊は、指揮官関行男大尉以下、谷暢夫一飛曹、中野磐雄一飛曹、永峰肇飛長、大黒繁男上飛の爆装機五機に、西澤廣義飛曹長、本田慎吾上飛曹、菅川操飛長、馬場良治飛長の四機が直掩についている。

 幾度も出撃と帰還を繰り返すうちにメンバーが代わり、敷島隊編成時の搭乗員は、関と谷、中野の三名である。直掩隊は、最初についた谷口正夫飛曹長以下の小隊が、谷口の負傷により、二〇三空戦闘三〇三飛行隊の西澤飛曹長を長とする小隊に代わっている。


 関大尉以下五機の爆装機の後上方に、西澤が率いる直掩機四機がつく形で、フィリピン東海岸からレイテ島タクロバンに向け飛ぶこと2時間45分。午前10時10分、敷島隊は、針路東方のサマール島沖で、驟雨のなか、隊列のくずれた栗田艦隊がバラバラに航走するのを目撃している。

 艦隊上空には、グラマンF6F戦闘機二十五機。味方艦隊が敵機の空襲下で苦戦しているのは明白だが、この姿が関たちにどう映ったのかは、本人たちが全員戦死したから知るすべがない。このとき、栗田艦隊は、「タフィ・3」の護衛空母群の追撃を中止し、レイテ湾突入に向け、まさに態勢を立て直そうとしているところであった。

 続いて10時40分、タクロバンの東八十五度、距離九十浬の地点に、空母四隻、巡洋艦、駆逐艦六隻の敵艦隊を発見、
 〈一〇四五之ニ突撃セリ〉
 と、「第一神風特攻隊戦闘報告」に記されている。


 敷島隊が発見したのは、栗田艦隊の追撃から逃れたばかりの「タフィ・3」であった。
 各護衛空母では、栗田艦隊が見えなくなったのを機に、攻撃に放った艦上機の収容を始めていた。「ガンビア・ベイ」が撃沈されたので、残る空母は「キトカン・ベイ」「カリニン・ベイ」「セント・ロー」「ホワイト・プレーンズ」、そしてやや遅れて航行する「ファンショー・ベイ」の五隻。その周囲を囲むように、三隻が撃沈され残り四隻になった駆逐艦が護衛している。


 爆装機と直掩機、あわせて九機の零戦は、レーダーのおよばない超低空から、敵艦隊に突入した。米側記録によると、零戦は、海面スレスレから駆逐艦の輪形陣を突破すると、高度千五百~千八百メートルまで急上昇し、ほぼ同時に逆落としに突入した。

 二機は「ホワイト・プレーンズ」に向かったが、そのうち一機は対空砲火に被弾し、目標を「セント・ロー」に変えたと見るや、その飛行甲板に突入した。「セント・ロー」は、大爆発を起こし、11時23分、沈没した。

 「ホワイト・プレーンズ」に向かったもう一機は、対空砲火の直撃を受け、左舷艦尾すぐ近くの海面に突入。爆弾が爆発し、若干の損傷を与えた。
 もう一機は、「キトカン・ベイ」の頭上を交差すると急上昇し、反転するや機銃を撃ちながら突っ込んだ。左舷外側通路に衝突し、機体は近くの海に落ちたが、外れた爆弾は左舷側で大爆発し、火災を発生させた。
 ほかの三機は、「カリニン・ベイ」に突入しようとした。一機は飛行甲板左舷側に命中、機体はバラバラとなり火災を生じさせた。もう一機も左舷中央部に突入、さらにもう一機は同艦の左舷の海に墜落した。

 体当り機を六機と米側が判断したのは、対空砲火で撃墜された直掩隊三番機・菅川飛長機が含まれているからと思われる。


 米側からすれば、たった六機の零戦のために、護衛空母一隻が沈没、三隻が中、小破するという損害を出したのは、驚愕すべき事実であった。

 「タフィ・3」はこの直後にも、セブ基地を発進した大和隊(大坪一男一飛曹、荒木外義飛長、誘導機彗星一機・国原千里少尉、大西春雄飛曹長)と思われる隊による体当り攻撃を受け、「カリニン・ベイ」が二機の突入を受けた。


 特攻隊員たちの肉体は乗機とともに四散したけれども、この日、のべ十機の爆装零戦の体当り攻撃による戦果は、栗田艦隊による砲撃戦のそれを上回るものであった。

 十二時二十分分頃、セブ島の東方からあわただしく駆け込んできた零戦があった。
 二〇一空中島正少佐は、
 〈私はその飛行機を見た瞬間、何となく鮮血に彩られている様な感じがして、思わずハツとした。〉
 と、『神風特別攻撃隊』に記している。着陸した零戦は西澤廣義飛曹長以下、敷島隊の直掩機三機であった。西澤は零戦から降りると、緊張した面持ちで駆け足で指揮所にやってきた。指揮所に居合わせた士官たちも思わず総立ちになり、ドヤドヤと西澤の周囲を取り囲んだ。西澤のもたらしたのは、敷島隊突入成功の第一報だった。

 記録によると、西澤は、
〈中型空母一(二機命中)撃沈、中型空母一(一機命中)火災停止撃破、巡洋艦一(一機命中)轟沈、F6F二機撃墜〉
 と報告している。

 護衛空母を中型空母と誤認、また巡洋艦轟沈の事実はなかったが、襲いくるグラマンF6Fと空戦を繰り広げたにしては、歴戦の搭乗員だけあって正確な報告である。
 中島は、この報告をただちにマニラの司令部に打電した。


 マニラの第一航空艦隊司令部では、大西長官も、幕僚たちも、門司副官も、23日の晩からほとんど寝ずに作戦室に詰めていた。
 10月25日、夜が明けてから最初に入った電報は、サンベルナルジノ海峡を突破した栗田艦隊が、敵機動部隊と会敵した報せだった。

 次いで砲撃戦の模様が逐一入電し、一瞬、明るい希望が広がった。だが、その後の状況がはっきりしない。ほどなく、西村艦隊壊滅の電報が届くと、司令部はふたたび沈鬱な空気に包まれた。

 敷島隊の戦果がもたらされたのは、そんなときであった。

 二階作戦室のチャート(海図)テーブルから、少し離れた一人がけのソファに大西が座っている。一航艦と、間借りしている二航艦の参謀たちは、チャートのまわりに立って忙しく働いている。そのとき、電報取次の兵が、電信紙の入った電信箱を、大西に届けにきた。

 大西は木製の平らな電信箱の蓋をあけると、ゆっくりと黒縁のロイド眼鏡をかけて電文を読んだ。幾度か読み返したあと、電信箱にヒモで結んである鉛筆でサインをして、近くにいた門司に、黙って電信箱をわたした。電報は、セブの中島飛行長から打電されたものであった。

 〈神風特別攻撃隊敷島隊一〇四五スルアン島の北東三十浬にて空母四隻を基幹とする敵機動部隊に対し奇襲に成功、空母一に二機命中撃沈確実、空母一に一機命中大火災、巡洋艦一に一機命中撃沈〉


 電信箱は、参謀たちにも回覧された。作戦室にざわめきが広がった。
 耳慣れた「一発命中、二発命中」あるいは「命中弾一」といった報告ではなく、体当り、すなわち搭乗員の絶対の死とイコールである、
 「一機命中、二機命中」
 という言葉が、誰の目にも異様に感じられ、針で刺すような胸の痛みとともに不思議な高揚感を感じさせた。
 夕方になって、この日の朝、ダバオから出撃し、敷島隊に先駆けて体当り攻撃に成功した菊水隊の報告が入ってきた。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 ところで、3年前、10月25日付の産経新聞に、鎌倉時代に来襲した元寇の沈没船と見られる船体が長崎県の鷹島沖で見つかったという記事が出ていた。
 船の全長は20メートル以上とみられ、元軍のものとみられる「てつはう」なども見つかったと。

 弘安の役(1281年)では、鷹島周辺に集結していた元・高麗軍が、暴風により壊滅したとされ、日本を元の侵略から救った暴風は「神風」と呼ばれた。
 その「神風」による沈没船発見のニュースが、神風特攻隊が突入した日に掲載されたというのは、なかなか意味深長である。


 「元寇」は、多くの日本人を謂われなく殺戮した「元」による紛れもない侵略行為である。「元」は滅びて、以後支那大陸の支配者は幾度も替り、このことでいまの中華人民共和国を責めたり謝罪と反省を要求しても詮無いことだというのは、常識ある日本人なら誰にでもわかる。

 先の支那事変、大東亜戦争では、日本は蒋介石率いる国民政府の中華民国と戦った。戦火が拡大し米英はじめ聯合国を相手の大戦争となり、昭和20年、ポツダム宣言を受諾して降伏したとき、戦勝国の中に名を連ねたのも、中華民国である。
 ところが、共産軍との内戦で蒋介石は支那大陸から台湾に追われ、大陸は中国共産党が独裁体制を敷き中華人民共和国となった。
 戦後日本は愚かにも、中華人民共和国と国交を結ぶのと引き換えに、台湾に落ち延びた中華民国との国交を絶った。

 それで何が言いたいのかと言うと、要するに中華人民共和国(以下、中共)が先の大戦について日本に対して侵略呼ばわりをしたり、謝罪と反省を要求してきたり、いわんや靖国神社への閣僚参拝にケチをつけてくるなどというのは、お門違いである、ということである。

 人民共和国、などと大層な国号を名乗っているが、もとはと言えば共産匪、つまりゲリラに過ぎず、蒋介石の国民党にとっても敵であった八路軍である。

 内戦で数千万の支那人を殺戮して政権を奪った共産党の責任や非人道性には頬かむりして、すべての非を日本になすりつけるとは、何をふざけたことを言っているのか。

 中共が支那大陸での日本の侵略云々を言うのは、日本人が中共に元寇の侵略を云々するのとあまり違わないレベルの、筋の通らない勘違い、乃至は言い掛かりある。


 日本の過去の戦争を責め立てる中共政権のお偉いさんたちや官製マスメディアに、あんたたちもともと匪賊でしょ? と言える政治家がどうして日本に出てこないんだろう。

零戦隊指揮官・鈴木實中佐の13回目のご命日に。

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 今日、10月28日は拙著『祖父たちの零戦』(講談社文庫)の主人公の一人、鈴木實中佐のご命日だ。
 ちょうど13年前のこと。

 何年経っても、忘れられない人はやはり忘れられない。

 鈴木さんの勲章や勲記、感状、賞詞などは全て私の手元にあるので、じっと眺めてしばし感慨にふける。




中国大陸上空、胴体二本線が鈴木機



二〇二空指揮所。左、鈴木少佐。右、岡村中佐



大分空時代。



 ちょうど、13年前の2001年10月、ある掲示板に投稿した私の文章がまだ残っていた。
 以下、引用。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 海兵60期、オーストラリア方面でスピットファイア隊に対して一方的勝利を収め、零戦隊の名飛行隊長として知られる鈴木實中佐が、10月28日、亡くなりました。

 密葬は近親者のみで執り行い、故人の遺志で弔問等も一切ご遠慮いただきたいとのこと。

 91歳、お歳からいえば大往生ですが、最晩年の4年ちかくは、戦時中の負傷による後遺症で手足が麻痺して寝たきりになり、死なせた部下のことを思いながら辛く苦しい闘病生活に耐えておられました。

 鈴木氏は戦後、全く畑違いのレコード業界に身を投じ、辣腕の営業本部長兼洋楽本部長として、キングレコードの黄金時代を築いた人。
 大月みやこを発掘し、洋楽ではカーペンターズ、クインシー・ジョーンズ、トム・ジョーンズ、セルジオ・メンデス、リカルド・サントス、マントバーニ、レイモン・ルフェーブル等等を日本に紹介されました。
 しかし、そんな業績もさることながら、一人の人間として、実に魅力にあふれた、尊敬に値する人でした。

 志賀少佐のご紹介で、私が初めてお会いした時はすでに85歳になっておられましたが、当時家が近かったこともあり、鈴木さんご夫妻と、よく近くの公園で散歩をしたり花見をしたり、三原に移られて寝たきりになられてからも、遊びに行ったり、身内同様に親しくしていただきました。
 また、進藤三郎、山下政雄、高岡迪各氏ら同期生の方々との最晩年の交わりを身近に見させていただいて、「五省」などなかった古きよき時代の海軍兵学校の気風を実感させていただきました。
 思い出は尽きることなく、あまり長くなるとお見苦しいでしょうし、これぐらいにしておきます。

 これで、旧日本海軍の戦闘機搭乗員で、中佐以上の士官は一人もいなくなりました。

 ともかく(特攻で死んだ人の立場で見れば甘い考えかもしれませんが)、指揮官の苦悩、最期まで、この苦しみに耐えることが死なせた部下へのせめてもの償いと、激痛の伴う長い闘病生活を、愚痴ひとつこぼさず全うした空の武人がいたこと、多少ともご理解いただけましたら幸いです。



 また、中国戦線で南昌の敵飛行場に強行着陸し、ラバウル方面では夜間戦闘機「月光」に搭乗、敵B17爆撃機多数を撃墜、「夜の王者」といわれた小野了中尉も、この夏に亡くなっています。
 小野さんは、昨年坂井三郎氏のお別れ会でお会いしたのが最後でしたが、戦争の話をしたがらない、寡黙な人でした。(以上、2001年10月現在)




零戦搭乗員と留守番電話

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 留守番電話に入るメッセージには、その人の個性が現れる。

 留守番電話がめずらしくなくなった最近はそれほど感じなくなったが、30年前、私が初めて留守番電話を自室の電話に取り付けた(受話器と別の、Wカセットタイプの大きな機械だった)頃から15年ほど前、テープがICに変わるころまでは確かにそうであった。

 私が、零戦搭乗員を始めとする元海軍さんの取材を始めた頃は、個人の携帯電話を持ったばかりでそれには留守電機能がなく、取材相手との連絡手段としては自宅電話の留守番電話が頼りであった。だが、まだ留守番電話というものが世の中に浸透しきっていない。

...

 はじめは、歴戦の中攻搭乗員・畠山金太さんのように、
 「なんじゃこりゃ、あー、あー、何も言わんわ。おい婆さん、こりゃどうすりゃ・・・・・・」プープープー・・・・・・
 というのもあったし、進藤三郎少佐のように、
 「本日、貴信拝受。原案通りで異存なし。終り」ガチャリ
 とまさに海軍の電文調の人もいたし(話の最後を「終り」で〆るのは海軍士官に身についた特徴の一つである)、志賀淑雄少佐のように、かけてこられるたび、
 「海軍の志賀です」「志賀少佐です」「ハアイ神立さん、シ・ガ・です」「え、いつも部下たちがお世話になっております。飛行長の志賀少佐です」
 とバリエーション豊富な方もいた。

 シンプルでカッコよかったのが、
 「零戦の小町です。電話ください」ガチャリ、
 というメッセージ。小町定さんのキャラクターにピッタリであった。
 知らない人は知らないだろうが、元気な頃の小町さんの迫力は半端ではなかった。私が、過労や胃潰瘍でしばらく動けなかった時にそんなメッセージを頂き、恐る恐る電話をかけると、小町さんは、
「おう、あんた最近ちっとも顔出さないと思ったら体調崩してたんだって。大原から聞いたよ。若いんだから大事にしてくれよ。元気になったら顔出せよ」
 これには感激した。会えば文句ばかり言われるのに、時おり見せるこんな暖かさが、私が小町さんを敬愛してやまない理由であった。

 そんな、留守電のメッセージが楽しみであった頃が懐かしい。
 いまはどうして、どうでもいいような、できれば避けたい用件のメッセージしか入らないのだろうか。


再掲・ブナカナウ(ラバウル西)飛行場跡で「ベティ」(一式陸攻の米軍コードネーム)発見!

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 ふと思い出して、昨年4月9日の記事を再掲する。NHKの仕事で、パプアニューギニアのポートモレスビー、ラバウル、ブカ島を旅した時の一コマである。



 今回のラバウル行きで、驚いたことがある。

 一緒に驚いてくれる人は少ないかと思うけど、私にとっては印象的だった。
 かつて一式陸攻の基地だったブナカナウ飛行場(ラバウル西飛行場)跡で、なんと「生きた一式陸攻」と出会ったのだ。


 順を追って話すと、4月1日、まずココポのホテルからトベラ飛行場跡に向かった。
 トベラは、二五三空の小町定上飛曹や岩本徹三飛曹長がいたところだ。

 トベラ飛行場跡は椰子のプランテーションになっていて、飛行場は跡形もないが、滑走路のエンドだったところに零戦数機分の残骸がある。

  

  

  

 ちなみに、いまはプランテーションで戦後、入植した人たちが暮らしている。
 日本人が時々来るのか、子供たちが「コンニチワ」と寄ってくる。

 零戦が完全に生活の一部と言うか、私たちが子供の頃によくあった、広場に積まれた土管程度の扱いで、ここの人たちは皆、これら零戦が歴史遺産だという意識は微塵もない。だから、多くの部品が剥ぎ取られ、リサイクルに回されてしまっている。

 私は、形あるものはいつか滅びる、このまま土に還るのも悪くないと思うけれど、人によっては胸の痛む思いがするかも知れない。



 トベラからブナカナウまでは、こんな道の連続。

  
 
 トヨタのランドクルーザーでないと走れないそうだ。
 「TOYOTA IS GREAT!」とは、運転手のローレンスさんの弁。彼はこんな悪路をぶっ飛ばしながら、時々、ハンドルから手を離して身振り手振りを交えて熱弁をふるう。おいおい。



 そしてブナカナウ。通称、「ラバウル西飛行場」跡。
 ここはトベラと違って、飛行場がしっかりローラーでならされて地面が固められ、またコンクリート舗装も残っているので飛行場跡の主要部分には椰子の木が生えず、面影を空間にとどめている。

  
 

 ガイドのフレッドさんが、日本機の残骸があると言って連れて行ってくれた場所には人家があり、出てきた若い奥さんが、
 「ああ、あれね?リサイクルしちゃったわよ」
 と、屈託なく言う。

 それで、飛行場の反対側に引き込み線のコンクリート舗装を見に行ったところに、「一式陸攻」がいたのだ。

 我々が車を降りて、コンクリートに残る足あとなど、飛行場の痕跡の写真を撮ったりしていると、子供たちが大勢、もの珍しそうに寄ってくる。
 「あ!ガイジンや、ガイジンや!」と言った感じで、これは私が育った昭和40年代の大阪でもそんな感じだった。

 そんな子供たちが私を取り囲んで、写真を撮ってとせがむ。撮って、液晶モニターを見せてやると大盛り上がりでますます寄ってくる。南方の子供たちはほんとうに可愛い。

 すると、家のほうからお母さんが「ベティ!ベティ!」と呼ぶ声が聞こえた。

 ・・・え?ベティちゃん?ブナカナウにベティちゃん?・・・・・・私は驚いた。

 ここブナカナウは一式陸攻の基地であったことはすでに述べた。一式陸攻に、米軍が付けたコードネームは「ベティ」である。
 ブナカナウの飛行場跡に、いまも「ベティ」が住んでいるとは!

 思わず、「君、ベティちゃんって言うの?」「写真撮っていい?」と声を掛ける。
 お母さんに許可をもらい、パチリ。ベティちゃんは明るくてお行儀がよく、はにかみ屋の可愛い子だ。

  
 

 私と大島さんが、ベティちゃんにばかり興味を示すので、ベティちゃんの小さな弟が、我々を人さらいと勘違いして、
 「いやや~!ベティが日本に連れて行かれる~」
 と、地面にじたばたして泣いた。

 大島さんがすかさず、ここには戦争中、日本海軍の「ベティ・ボンバー」という飛行機がいて、そこに今もベティと言う名前の子が住んでいることに日本人の我々が感動したのだと伝えると、子供たちが大爆笑した。

 その瞬間から、ベティちゃんは「ベティ・ボンバー」の渾名で呼ばれることになり・・・。

 「大島さん、子供たちにそこまで説明しなくても。これから彼女、ずっとベティ・ボンバーと呼ばれますよ」
 「でもあの状況では・・・悪いことしちゃったかな?」


 しかし、現地に行ってみないとわからないことって、ほんとうにあるものですね。
 ブナカナウ飛行場跡に飛行機の残骸はなくなっていたが、小さなベティちゃんと会えて感慨無量だった。



真珠湾攻撃73年の日に。

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 12月8日は、言わずと知れた、開戦の日である。

 ちょうど73年前の今日、陸軍部隊はコタバルに上陸、また重爆をもってフィリピンを爆撃し、海軍機動部隊はハワイ真珠湾を奇襲、台湾の航空基地を出撃した零戦隊と陸攻隊はフィリピンの米軍基地を空襲した。


 私が零戦搭乗員の取材を始めた19年前には、真珠湾作戦の参加搭乗員が、零戦だけでも進藤三郎大尉、志賀淑雄大尉、藤田恰与蔵中尉ほか合わせて10名ほどがご存命、各機種合わせて50名以上がご健在だったし、フィリピン空襲組も、黒澤丈夫大尉、坂井三郎一飛曹、田中國義一飛曹、横川一男二飛曹、佐伯義道一飛曹、小池義男一飛曹・・・など多くがご健在であった。

 真珠湾攻撃については、60周年の記念セレモニーには「零戦搭乗員会」の一行としてハワイに赴いてきたが、この年に調査した時点で各機種合わせて30数名がご存命で、その多くの方々にインタビューをさせていただいた。
 それから13年が経ったいま、進藤さんも志賀さんも小町さんも佐々木原さんも、艦爆の阿部さんも大淵(本島)さんも、艦攻の森永さんも吉野さんも丸山さんも亡くなられて、現在ご存命なのは数名のみである。


 進藤大尉や志賀大尉をはじめ、真珠湾攻撃に参加した搭乗員が口を揃えるようにおっしゃるのが、
 「あれは『だまし討ち』ではない。米軍は完全に防御態勢を敷いていて、対空砲火の反撃は素早く、第一次からも犠牲が出た」
 ということである。

 だが、志賀さんは、
 「仮に米軍が知らなかったとして……通告の上、反撃準備の整った真珠湾にもう一度行っても、我々は同じ戦果を挙げることができたでしょう」
 ともおっしゃっていた。


 とはいえ、機動部隊各空母に搭載された零戦の20ミリ機銃弾は、一機あたり150発しか出撃までに準備できず、一度の出撃で110発を消費するから、各機一回半の出撃分しか搭載されていなかった。現に上空哨戒の零戦は7ミリ7機銃弾だけを搭載し、20ミリの弾倉は空の状態だったのだ。


 開戦早々、ウエーク島攻撃に参加した第六戦隊の巡洋艦では、「主砲弾の備蓄がトラック泊地にないので」、上陸部隊掩護のため砲門を陸上に向け艦砲射撃の姿勢をとっただけで主砲を一発も撃たなかったと、それは「古鷹」砲術士・竹内釼一少尉(のち大尉)の確かな証言がある。

 海軍の零戦も陸軍の隼も、開戦後しばらくは一線部隊全てには行き渡らなかったし、要するに、準備が出来ていないかギリギリの状態での開戦であったのだ。

 そのあたりのことは、各方面からもっと語られていいと思う。そんな状況で戦争の火蓋を切るほど、日本が追い詰められたのは何ゆえか。研究を待ちたいし、私自身も取材は続ける所存だ。


 戦争を、あたかも決まり文句のように、「この悲劇をけっして忘れてはならない」などと言う人たちが多いが、その人たちが、どれほどその悲劇や惨禍のことを筋道だてて理解しているかは、はなはだ疑わしい。
 「忘れない」ためにはその前提として「知る」ことが必須なのに、「知る」ことはすっとばし、あるいは理解を拒否し、また曲解したまま、まず「反戦」のメッセージありき、という例が多いように思う。 そんな簡単に言えるものか、と私は思う。



 戦争とは、壮大な人間の情念を否応なく、一瞬にして無にしてしまう、恐るべき愚行である。しかし同時に、その時代の渦中に生きている人間にとっては、やむにやまれぬ選択でもある。身命を賭して守らなければならないこともあるだろう。現在の視点で歴史上の事実を分析することは大切だが、それには常に、まず当時の価値観を俎上に乗せてこれと比較するのでなければ、事実が真実から遊離してしまう。

 現代の目でふり返れば、負けると決まった戦争だったであろう。しかし、そこで戦って死んだ人たちは、決して犬死などではない。少なくとも今、日本人が享受している平穏な暮らしは、彼ら無名戦士の犠牲の積み重ねの上にある。


 そんな思いで、先人たちの、日本人の魂と向き合っていきたいと思うのだ。



 以下は、真珠湾70周年に書いた、60周年、70周年の記事――。



真珠湾攻撃70周年に60周年を振り返る。


テーマ:
 明日は日本が米英相手の戦争を始めてちょうど70年の節目の日である。
 しかし、70年、という数字に何か意味があるのかと言えば、そんなものは何もない。

 ちょうど10年前、真珠湾攻撃60周年の日は、零戦搭乗員会の慰霊旅行に参加して、ハワイ真珠湾のセレモニー会場にいた。
 9.11テロの直後で警備は厳重を極め、われわれ一行のバスの前後には常にFBIの車が警護だか監視のためについていた。
 直前になって、参加予定だった志賀淑雄少佐が体調を崩され参加を取止められたのはかえすがえすも残念だったが、零戦の原田要中尉、艦攻の丸山泰輔少尉ら、真珠湾作戦に参加した元搭乗員をはじめ、50人近い関係者が集った。別の団体で、艦爆の阿部善次少佐、山口多聞二航戦司令官のご子息、宗敏さんも参加されていた。

 このとき、セレモニーに記者を派遣した日本のマスコミは一社もなく、現地の通信員からのレポートを数紙が掲載したのみである。
 フリーランスのジャーナリストとしても日本人でいたのは私だけ。記事をフライデーに掲載する予定だったが、誌面の都合で「航空ファン」になった。

 とにかく、そんなふうに「60周年」を黙殺していたマスコミ各社が、70周年で泡を食ったように騒いでいのは笑止であった

 よく、「NPO法人零戦の会で記念行事をやりますか?」との問い合わせをいただくが、そんなことはやらない。
 「記念」という言葉を使うには語感に違和感があるし、数少ない当事者の年齢を考えると、お祭り騒ぎなどやっている場合ではない。
 ただ静かに、往時に思いを馳せればよいと考えている。



 ということで、10年前の私のレポートをここに抜粋する。写真のクレジットのスペルが、kohdachiとなっているが、koudachiと併用しているので念のため。

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(2001年12月記)
 今年は、昭和16年(1941年)12月8日(米時間12月7日)に日本海軍機動部隊によるハワイ・真珠湾攻撃で太平洋戦争の火ぶたが切られてから、ちょうど60周年にあたる。

 この節目の12月、旧日本海軍の戦闘機搭乗員で構成する「零戦搭乗員会」の主催する、日米友好親善、戦没者慰霊ハワイの旅が行われ、ハワイ作戦参加者2名をふくむ元搭乗員ら50名が参加した。
 
 8日間の日程で真珠湾攻撃ゆかりの戦跡をめぐり、日米双方の戦没者を追悼し、また、互いに戦火を交えたアメリカのベテラン(退役軍人)たちとの交流や、双方の体験者があの戦争をふり返るシンポジウム、パネルディスカッションなどが活発に行われた。

 真珠湾と高台の国立太平洋墓地で12月7日(米時間)に行われた記念式典では、9月の同時多発テロの際に活躍したニューヨークの消防士や警官、犠牲者の遺族らも招かれ、計約5000人が参列する大規模な式となった。攻撃が開始された午前7時55分、参列者全員で、平和を願って黙祷が捧げられた。

 式典の前後には、日米の元パイロットが恩讐を超えて肩をたたきあう姿があちこちで見られた。

 長野市在住の元零戦搭乗員、原田要さん(85)は、空母「蒼龍」に乗組み、機動部隊の上空直衛として真珠湾作戦に参加。その後1942年6月のミッドウェー海戦では乗艦が撃沈され、九死に一生を得たが、式典会場で、ミッドウェー海戦で直接戦火を交えたアメリカ海軍の元雷撃機パイロット、ロバート・H・オーム氏(86)と奇跡的な再会を果たした。オーム氏は、真珠湾攻撃の当日は地上基地でその惨禍を目の当たりにし、ミッドウェー海戦では、オーム氏の乗った雷撃機は、原田さんらの零戦によって撃墜され、長時間海面を漂流したのちにようやく救助されたという。原田さんも、敵機5機を撃墜後、母艦が沈められたため海上に不時着、4時間にわたり漂流したのち救助される。戦場で直接、命のやりとりをした当事者同士の心情は想像するしかないが、似たような互いの境遇に親しみも増したのか、すっかり意気投合、「会えて本当によかった」「I like you!」と固い握手を交わした。

 原田さんは現在、幼稚園を経営、幼児教育に力を注いでいる。

「この子たちに戦争の悲惨さは二度と味わわせたくない、本当にそう思います。戦争で死んだ仲間たちも、平和を望んで国のためにと死んでいったんです。みんな、本当は死にたくなかったんだからね。新しい日本を担う子供たちが、社会の一員として幸せに活躍できる下地を作る、それが結局は平和につながっていくと自負しているし、戦友たちの遺志を受け継ぐことになるんじゃないかと思っています。それと、相手を倒さなければ自分がやられる戦争の宿命とはいえ、自分が殺した相手のことは一生背負って行かなきゃならない。まったく、戦争なんて、心底もうこりごりですよ」



 ウイラー(日本ではホイラーと発音するが通じない)基地に残る250kg爆弾のあと。

 


 日本海軍墓地参拝。手前は「飛龍」雷撃隊、丸山泰輔氏。
 


 カネオヘ基地、飯田房太大尉慰霊碑参拝。中央 岩下邦雄会長(海兵69期、大尉)。
 


 ヒッカム基地慰霊セレモニーにて。
 


 ヒッカム基地慰霊セレモニーにて献花する香取頴男(ひでお)氏(海兵70期、大尉)。
 


 ミッドウエーで対戦した(?)雷撃機パイロットと再会した原田要氏。
 





マレー沖海戦73年。沈めた敵艦に捧げた「戦士の花束」

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(昨年同日投稿の一文を、時制を直して再掲します)

12月10日は、大東亜戦争劈頭のマレー沖海戦で、日本海軍航空部隊が、英国東洋艦隊の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を撃沈した「マレー沖海戦」(昭和16年)の日である。73年前のこと。

私はこの戦いに参加した元陸上攻撃機搭乗員の幾人かにお会いしたが、もっともご縁が深かったのが、鹿屋海軍航空隊分隊長だった壹岐春記さんだった。私の敬愛する志賀淑雄さんと同期の海兵62期、3年前、99歳で亡くなられた。拙著『戦士の肖像』(文春文庫)にもご登場いただいた。

毎年、この日になると壹岐さんを思い出す。

以下、壹岐さんが亡くなられたときの記事を再録する。

 



 残念なお知らせが。
 拙著『戦士の肖像』(文春文庫)にもご登場いただいた、元海軍陸上攻撃機隊指揮官の壹岐春記少佐(戦後、航空自衛隊一等空佐)が、10月8日にお亡くなりになっていたと、奥様からお知らせいただいた。享年99。

 壹岐さんは明治45年、鹿児島県生まれ。満100歳の誕生日を目前に控えていた。

 
 (写真は昭和18年、九六陸攻の機内で)

 壹岐さんは、私が敬愛する戦闘機の志賀淑雄少佐と同期の海兵62期出身で、志賀さんと技術短現一期の風見博太郎造兵大尉(中島飛行機エンジン技術者、戦後日産プリンス大阪販売社長)とに御紹介いただいて、銀座でまだビルが建て替えられる前の交詢社でお目にかかったのが最初であった。16年前のこと。

 その後も、二ヵ月に一度の交詢社ネイビー会には数年前までご参加になり、お会いする機会は多かったし、早稲田のご自宅にお邪魔したこともあった。確か5年ほど前までは、電動自転車に自らまたがって、早稲田から原宿の東郷神社にも通っておられた。いつもニコニコと人に接し、会合などでは端然と座っているだけで一座の「華」になる、まさに将たる器を感じさせる人だった。


 壹岐さんは、支那事変での戦功により、尉官(大尉、中尉、少尉)としては異例の功四級金鵄勲章を授与されている(通常は功五級、昭和15年4月29日を最後に、生存者への金鵄勲章授与は行われなかった)。海軍の尉官で、昭和の戦争で生きながらにして功四級を授与されたのは、戦闘機の鈴木實大尉、兼子正大尉、陸攻の足立次郎大尉(以上、海兵60期)、そして壹岐大尉の4名だけである。


 しかし何よりも壹岐さんの名を歴史に刻んだのは、航空機が航行中の敵主力艦(英海軍の「プリンス・オブ・ウェールズ」、「レパルス」)を初めて撃沈した「マレー沖海戦」だろう。

 70年前、真珠湾攻撃から二日後の昭和16年12月10日のことである。鹿屋空第三中隊長として一式陸攻に搭乗、仏印(ベトナム)ツドーム基地を出撃した壹岐大尉は、猛烈な対空砲火を冒して「レパルス」に魚雷を命中させた。

 「雷撃高度は30メートル。距離700メートルまで肉薄して、魚雷を投下しました。そして『レパルス』の左舷(ひだりげん)から、機銃を撃ちまくりながらいっぱいに左旋回して回避、全速で高度をとりました。『レパルス』の甲板上で、雨衣を着た兵隊が伏せているのが見えました。そのうちに偵察員・前川保一飛曹が、『当りました!』と機内に響くような歓声を上げ、続いて『また当りました!』と大声を張り上げました。しかし次の瞬間、私の二番機が真赤な焔に包まれて『レパルス』の左舷正横300メートルの海面に墜ち、間もなく三番機が、その50メートルほど左に墜ちるのが見えました」

 「レパルス」は、雷撃開始からわずか10数分で沈み、「プリンス・オブ・ウェールズ」も、約1時間後、退艦を肯じない英国東洋艦隊司令長官・フィリップス提督を乗せたまま海中に消えた。両艦あわせて840名の英軍将兵が艦と運命をともにした。日本側の損害は被撃墜三機、戦死21名、多数機が被弾し、壹岐大尉のK-331号機の被弾も17発を数えた。

 壹岐さんの航空記録には、この日の飛行時間、10時間45分とある。これだけ飛んでなお、乗機の燃料には余裕があったという。

 


 マレー沖海戦から8日後の12月18日、鹿屋空はアナンバス島シアンタン電信所爆撃を命じられた。途中、英戦艦二隻を沈めた現場の上空を通るから、壹岐は前川一飛曹に、基地近くの花屋で花束を二つ買ってこさせた。

 「その日は波も穏やかで、沈んでいる艦影が黒くはっきり見えました。はじめに『レパルス』の近くに、戦死した部下、戦友の冥福を祈って花束を投下、さらに『プリンス・オブ・ウェールズ』の上空から花束を落し、イギリス海軍の将兵の霊に対して敬礼しました」

 この慰霊飛行は新聞にも報道され、武士道精神あふれる戦場美談として内外に知られることになった。戦時中のわずかな期間だったが、国民学校の修身の教科書にもこのエピソードが紹介されている。
 しかし、こうやって「美談の主」に祭り上げられることは壹岐さんの本意ではなく、戦後、そのことを人に訊ねられても、「誉めてもらおうと思ってやったことではありません」と、多くを語らないのが常であった。
 これは、戦を知り抜いた戦士として、己の任務を果たして斃れた戦士に対する哀悼の念の、ごく自然な表現だったのだ。そこには敵味方を超えた何かがあったに違いない――。



 
 (昭和19年暮、攻撃第四〇六飛行隊長の壹岐少佐)

 壹岐さんは昭和19年10月には陸上爆撃機「銀河」で編制された攻撃第四〇五飛行隊長としてフィリピンでの航空作戦に参加、10月24日の航空総攻撃の日は、シブヤン海上空で、戦艦「武蔵」とおぼしき巨大戦艦が米軍機の攻撃によってまさに沈まんとするところを目撃している。11月には攻撃第四〇六飛行隊長となり、なおも幾度かの死線を越えて、霞ヶ浦基地で本土決戦の準備中に終戦を迎えた。

 何度も乗機が被弾しながら、壹岐さんの飛行機では一人の戦死者も、負傷者も出さなかった。


 壹岐さんは言う。
 「戦争は二度とやっちゃいけない。戦争の悲劇を身をもって体験した世代として、若い皆さんに言っておきたいのは、いまのような平和な世の中を保っていくためにはどうすればいいのかという問題を研究して、戦争を起こさないための方策なり、技術を考えていただきたいということです。
 私は戦争をしませんよ、と言って、どこからも仕掛けられなければそれに越したことはありませんが、もしやられたらどうするか、どんな形で守れるか。平和憲法はすばらしいが、本当にそれだけで済むのか。それを研究して、現実に即して戦争を避ける努力をしてほしいと思います」

 明治、大正、昭和、平成、四代の世を生き抜き、命を賭して戦った先人からの、世紀を超えた遺言である。

零戦隊指揮官・故宮野善治郎大尉(戦死後中佐)生誕99年。

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 今日、12月29日は、我が母校・大阪府立八尾高校が旧制中学だった頃の大先輩で、日本海軍戦闘機隊を代表する指揮官、拙著『零戦隊長~二〇四空飛行隊長宮野善治郎の生涯』(光人社)の主人公・宮野善治郎海軍大尉(戦死後中佐)の誕生日である。(大正4年12月29日)

 もしご存命であれば満99歳だ。

 宮野大尉の誕生日について、なぜか大正6年3月生まれという資料が出回っているけど、のちに述べるがこれは完全に間違い。大正4年12月29日生まれが正しい。

  

 開戦劈頭のフィリピン・クラークフィールドの米軍基地空襲から、インドネシア、オーストラリア上空から北はアリューシャン列島まで、零戦隊を指揮して活躍し、昭和18年6月16日、ガダルカナル島の空で戦死した。享年27。

 いまも、90歳を超えた旧部下から敬愛されている人格者で、困難な任務を進んで引き受ける有能な指揮官だった。


 私は宮野大先輩のことを、高校一年の時、同じく旧制八尾中で宮野氏の先輩だった体育科の大木行徳先生(旧制八尾中~新制八尾高に、昭和18年から56年まで勤務)から聞かされた。

 同じ長瀬川の川筋に家があり、家紋も同じ剣カタバミ、齢は4回り違いの同じ卯年、学年も、旧制中学34期と新制高校34期……。運命を感じて11年がかりで伝記を書き上げた。

  

零戦隊長―二〇四空飛行隊長宮野善治郎の生涯/潮書房光人社
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 この季節、部屋での仕事中、私を温めてくれているのがこのちゃんちゃんこ。

 

 宮野大尉の6歳年上の御姉様で、5年前に百歳の天寿を全うされた宮崎そのさんが、88歳のときに縫ってくださったもの。
 そのさんが80歳の時、90歳までにちゃんちゃんこを1000枚縫って人に贈ろうと思い立ち、それを実行されたのだ。88歳で、「針に糸が通る」のを自慢にされていた。二〇四空で列機だった大原亮治さん(飛曹長)には、着物に使うような上等の絹で作ったものを贈られていた。


 幼い時にスペイン風邪で父親を亡くし、病弱な母と幼い兄弟姉妹を抱えて、そのさんはお茶の行商、お菓子の行商から始めて20歳前には長瀬川沿いに小さな和菓子屋を営むまでになった。ガダルカナル島上空で戦死した弟のことを殊のほか慈しんでおられ、よく私のうちに電話をかけてくださっては、
 「善治郎が子供の頃、こんな歌を歌ってくれましたんよ
 と、歌をフルコーラスを聴かせてくださったものだった。

 もったいなくて長らく箪笥にしまっていたのを、三年前の冬、ガス給湯器故障で思い出し、着てみたら暖かいこと!


 いろんな出会いがあって、人との縁に守られているということ、それと「歴史」は決して「出来事」だけではなく、人々の「思い」の集積であることを実感している。


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 ところで、宮野善治郎大尉誕生日で思い出したが、私が書いた本について、お決まりの問い合わせがある。もう10数年同じことの繰り返しだけど、年に2,3回はこの種の問い合わせがある。手紙を書く人も面倒だろうし、返事を書く私も面倒なので、ここでお答えする。


 Q.零戦隊長』(光人社)に、宮野善治郎大尉の生年月日について、「大正4年12月29日」と書いてあるが、Webやものの本には「大正6年3月」とある。間違っているのではないか?

 A.これはWebサイトや「ものの本」が間違っているので、大正4年12月29日で絶対に間違いありません。本人の奉職履歴、海軍兵学校関連、家族、出身中学すべて確認済みです。私ではなく「ものの本」の著者に訂正を呼びかけてください。(写真は奉職履歴)

 


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