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- 特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか (文春文庫)/文藝春秋
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戦勢が決定的に日本に不利となった昭和19年、東京・有楽町の朝日講堂で行なわれた「血闘の前線に応えん」と題した講演で、海軍のある将官が、
「美談のある戦争はいけない」
という歴史観を披露している。
『非常に勇ましい挿話がたくさんあるようなのはけっして戦いがうまくいっていないことを証明しているようなものなのである。
たとえば、足利、北条が楠木正成に対して、事実は勝っていた場合の如きがそれである。あの場合、足利や北条のほうにはめざましい武勇伝なり、挿話なりというものはなくて、かえって楠木方に後世に伝わる数多い悲壮な武勇伝がある。
だから、勇ましい新聞種がたくさんできるということは、戦局からいってけっして喜ぶべきことではない。
この大東亜戦争(太平洋戦争)でも、はじめ戦いが非常にうまくいっていたときには、個人個人を採り上げて武勇伝にするようなことは現在に比べるとずっと数は少なかった。
いまはそれだけ戦いが順調でない証拠だともいえるのである。状況かくのごとくなった原因は、航空兵力が残念ながら量においてはなはだしい劣勢にあり、制空権が多くの場合、敵の手にあるからである』
その将官の名は、大西瀧治郎中将。・・・・・・というと、意外に思う人が多いかもしれない。
現状を冷静に見つめた率直な言葉と、特攻隊を最初に出し、最後まで徹底抗戦を叫び続けた、巷間伝えられる猛将、暴将のイメージとはいささかのギャップがあるから。
しかし、これは慧眼だと思う。
「美談」が報じられる陰には、何か別の思惑が動いている例が多いのは、昔もいまも変わらないからだ。
たとえば、2011年はじめに世を騒がせた「タイガーマスク」事件、最初に「伊達直人」名でランドセルを置き、「善意」を演じたのが、新台の話題づくりを目論んだパチンコ業界であったごときがそれである。
やり方があまりにも巧みだったため、全国的に触発された「善意の輪」が広がり、しまいには「善意の愉快犯」とも呼ぶべき変なのまで現れた。「美談」に疑問を呈するようなことを言えば、まるで非国民のように言われた。
いつしかパタッとメディアが報じなくなったのは、元のからくりがわかったからに他ならない。
震災報道でも、あまり美談ばかりが報じられるようでは、かえって危ない。
近くは佐村河内騒動、小保方騒動などもそうだろう。人々の「感動したい症候群」がおさまらない限り(おさまらないだろうけど)、似たような「美談の嘘」の種は尽きないだろう。
「美談」を何でも疑ってかかるようなひねくれた目も困るが、しかし、それが続けば、「その裏に隠されたものが何かある」と考えたほうが自然であろう。
ものごとを見る目の指針は、つねに先人の言葉のなかにある。
最近、出版される本やテレビ番組などは、ノンフィクションを銘打っていても、取材不足、取材力不足、著者の基本的な無知による妙な記述が幅を利かせている。題名や題字の書体をパクるだけでなく、取材そのものが怪しいものも多いのだ。
たとえばある本に、真珠湾雷撃隊搭乗員が、
「太平洋艦隊旗艦ウエストバージニアに魚雷をぶちこんだ」
という、誤りだということは誰にでもわかるような記述があったが、相手の年齢も考え、話の裏を取って、明らかな間違いに対しては訂正を加えるのが記者なりノンフィクション作家の務めであろう。
(だいたい、門司親徳にも会わずに特攻を語るなんて、無謀である。)
典型的な「変な」例は、旧軍人を総称するのに「兵士」という、その言葉の使い方。新聞広告の見出しや解説を見るたびにげんなりする。著者も出版社も、よくこの程度の取材と認識で本が出せるな、と驚く。
……戦後長い歳月がたって、注意してくれる人もいなくなったのだろうか。
これが10数年前なら、戦場で戦った旧軍人を総称する意味合いでうっかり「兵士たち」などと書いたら、「『兵士』と書いてあるが、下士官兵だけでなく、我々もそうでしたよ」と注意してくれる元士官が必ずいた。つまり、「士官」は「兵士」ではないという、当たり前の事実である。
登場人物に、正規将校であろうが予備士官であろうが士官がいた場合には、「兵士」ではなく「将兵」という言葉を使わなければならない(少尉でも「将」の端くれである)。兵だけでなく下士官が入った場合は、下士官兵としないといけない。これもちゃんとした日本語なのだから、作家が知らなかったでは済まないだろう。
現場で戦った将兵をいわゆる軍の上層部と分けてみんな「兵士」と一括りにしてしまうのは、プロレタリアートな階級史観に基づく、左翼的な言葉の用法である。
たまにちゃんと「将兵」としている文章があっても、「将兵」それ自体が複数形だと知らずに、「将兵たち」と妙ちくりんな言葉を使われることもあるから、気が抜けない。
近頃は唯一、NHKが考証関係者に人を得ていることもあって(「兵士たちの戦争」というBS番組の番組名はさておき)、ドラマの台本やドキュメンタリー番組では不用意に「兵士」を使わず、「将兵」を使う方向になっている。ニュース原稿や地方局制作の番組までは目が届かないから時々ポカはあるけれど、いまもっとも時代考証がきちんと機能しているのはNHKだと思う。
2011年に放送された「真珠湾からの帰還」は、そういう意味でもなかなか行き届いた内容だった。米軍による日本側捕虜虐待、そしてそれが米軍により裁判記録から抹消されたことなど、戦後日本で、NHKで、正面から取り上げたことはこれまでなかったのではないか。
いっぽう、旧聞に属するが、映画の「聯合艦隊司令長官山本五十六」は、いろんな意味で残念な作品だった。ある番組の台本で、「ガダルカナル島」の略称である「ガ島」が現場で読めず、「がしま」か「がとう」かで混乱したという話も聞いている(「がとう」に決まっている!という常識はいまの若い制作スタッフには通じない)。
「忘れない」ためにはその前提として「知る」ことが欠かせないはずだが、情報を発信する側がこれでは、どうも先が思いやられる。
8月10日の産経新聞、「新・仕事の周辺」で、私の書いた記事が掲載されました。
『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(文春文庫)にまつわる一文です。
産経Webにて公開されています。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140810/bks14081009190001-n1.htm
8月15日。
大東亜戦争の「終戦記念日」とされる日である。
最後の御前会議で終戦のご聖断が下ったのは8月14日。玉音放送が15日。「自衛のためをのぞく」停戦命令が出たのが8月16日夕刻。支那方面艦隊を除く陸海軍全部隊に戦闘行動を停止する命令が出たのは19日でその刻限が22日午前0時。降伏調印式が9月2日。
そんな流れがあるから、この日をもって「終戦」、しかも負けたのに「記念日」と呼ぶことに私は引っかかりを感じたままだ。(勝てば「記念日」と呼べるだろうが)
昭和20年8月15日未明には熊谷がB-29による空襲を受け、260人の市民が犠牲になっている。
熊谷空襲の後、8月15日午前には、房総沖の敵機動部隊艦上機による、大規模な空襲もあった。三〇二空、二五二空の戦闘機隊がそれを邀撃している。
ポツダム宣言受諾は、即、停戦を意味しない。8月15日の玉音放送で戦争が終わったと、テレビなどではきれいに片づけたがるが、玉音放送は国民にポツダム宣言受諾を伝えるものではあっても、先に述べたように、陸海軍に対する停戦命令とは別である。
現に、8月17、18日、関東上空では邀撃戦が行われている。
しかも、北千島や満ソ国境では、ソ連軍がお構いなしに攻めてきている。
私の経験では、テレビ局や映画関係の人のほとんどが、「玉音放送と停戦命令は別で、しかもタイムラグがある」ということを承知していないようで、だから、終戦前後の描写に違和感を感じることが多い。
昭和20年8月16日未明、軍令部次長大西瀧治郎中将は、特攻で死なせた部下たちに謝し、世界平和を願い、次世代に後事を託す遺書を遺して自刃した。部下たちの苦悩、苦痛を思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと、介錯を断っての最期だった。
2000万人特攻、本土決戦などと本気で考えていたのなら、遺書の後段のような言葉が出てくるはずがない。遺書は、あらかじめ用意されていたもので、割腹の直前に書かれたのではない。大西の徹底抗戦論は、まさに命を懸けた大芝居であったのだ。
*
八月十六日の未明、大西は畳の上にシーツを敷き、一人その上に座ると、日本刀を引き寄せた。古来の切腹の作法どおり腹を十文字にかき切り、返す刀で首と胸を突いた。
発見したのは、官舎の管理人である。急報で、多田海軍次官が軍医をつれて駆けつけた。次いで、副官と児玉誉士夫も官舎に急行した。
大西は、近寄ろうとする軍医を睨んで、
「生きるようにはしてくれるな」
と治療を拒み、多田と児玉に
「介錯不要」
と言った。
大西は、自分の掌にぬくもりを残して飛び立っていった特攻隊の多くの若者たち、そしてフィリピンに置き去りにしてきた一万五千人の将兵のことを思い、なるべく苦しんで死ぬ道を選んだのだ。
夕方六時頃、大西は、自らの血の海のなかで絶命した。享年五十四。腹を切って十五時間あまり、軍医も驚嘆する生命力だった。
大西が遺した遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を強く主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙をいましめ、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれてあった。
〈特攻隊の英霊に曰す
善く戦ひたり深謝す
最後の勝利を信じつゝ肉
彈として散華せり然れ
共其の信念は遂に達
成し得ざるに至れり
吾死を以て旧部下の
英霊とその遺族に謝せ
んとす
次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利
敵行為なるを思ひ
聖旨に副ひ奉り自
重忍苦するの誡とも
ならば幸なり
隠忍するとも日本人た
るの衿持を失ふ勿れ
諸子は國の寶なり
平時に處し猶ほ克く
特攻精神を堅持し
日本民族の福祉と世
界人類の和平の為
最善を盡せよ
海軍中将大西瀧治郎〉
「矜持」の「矜」の字が誤字になっている。
そして、遺書の欄外には、
〈八月十六日
富岡海軍少将閣下 大西中将
御補佐に対し深謝す
総長閣下にお詫び申し上げられたし
別紙遺書青年将兵指導
上の一助とならばご利用ありたし
以上〉
との添え書きが細い字で書き加えられている。
淑惠に宛てた遺書は、
〈瀧治郎より
淑惠殿へ
吾亡き後に處する参考として書き遺す事次乃如し
一、家系其の他家事一切は淑惠の所信に一任す
淑惠を全幅信頼するものなるを以て近親者は同人の意思を尊重するを要す
二、安逸を貪ることなく世乃為人の為につくし天寿を全くせよ
三、大西本家との親睦を保続せよ
但し必ずしも大西の家系より後継者を入るる必要なし
以上
之でよし百萬年の仮寝かな〉
と、丸みをおびたやさしい字で綴られていた。
大西の自刃は、八月十七日午後四時、海軍省から遺書とともに発表された。富岡少将への添え書きどおり、「青年将兵指導上の一助」として利用されたのである。大西に面罵され、対立していたかに見えた富岡は、大西の遺志にしたがい、それを忠実に、しかも手回しよく実行に移したのだ。
大西自刃の記事と遺書は、八月十八日の新聞に掲載された。
副官だった門司親徳が、台湾の新聞でこの遺書を読んだのも、この日のことである。
写真は、門司親徳さんから私が譲り受けた大西中将の書の掛け軸。
去る9月13日、靖国神社で、恒例のNPO法人零戦の会慰霊祭を挙行しました。
元搭乗員とそのご家族、そしてご遺族、会の運営を手助けする若い世代など、合わせて90名ほどが参加しました。
今年は特に、横山保中佐の御嬢様、鈴木實中佐、山下政雄少佐、足立次郎少佐のそれぞれお孫さんなど、零戦および海軍航空隊ゆかりの方々のご遺族の姿が目につきました。
「夢の超特急」と呼ばれた東海道新幹線開業から、今日、10月1日でちょうど50年になるという。
報道では、国鉄総裁だった十河信二と技師長だった島秀雄の名ばかりが取り上げられるが、私が忘れられないのは、松平精(まつだいら・ただし)さんのことである。
松平精(1910-2000)。
世界の「振動学」の草分けで、海軍航空技術廠技師として、零戦をはじめ飛行機の振動問題を解決、戦後は鉄道技術研究所に入り、「夢の超特急」と言われた0系新幹線の台車部分の設計を手がけた(のち、鉄道技術研究所長)。
拙著『零戦最後の証言』(光人社)にご登場いただいている。
松平さんは大分・杵築藩主で維新後は子爵の家柄で生まれ育った。
東京帝大卒業後、海軍空技廠に入り、技師として主に航空機の振動問題を研究。
十二試艦戦、零戦の空中分解事故でその原因を突き止め、以後の航空安全に大きな功績を残した。松平さんの研究は、当時の世界水準の先をいくものだった。高等官4等(中佐相当)。
戦後は鉄道技術研究所で、やはり振動問題を研究。鉄道や自動車の乗り心地や安全面に大きく寄与したのみならず、新幹線の台車部分の設計にも参画し、当時世界一の高速運転の実現に貢献した。その業績は、最晩年に放送されたNHK「プロジェクトX」でも紹介されている。松平さんによると、飛行機も鉄道も、速度を上げると「自励振動」が起きるのは同じだという。
松平さんは、
「零戦の技術は、新幹線で開花した」
と述懐している。
私は、松平さん晩年の5年間、取材を通じてずいぶんお世話になった。私を松平さんに引き合わせてくれたのが、元空技廠飛行実験部員(テストパイロット)で終戦時三四三空飛行長であった志賀淑雄少佐である。
志賀さんにはいろんな方にご紹介いただいたが、その最初が松平さんであった。一ツ橋の学士会館で初めてお会いした時、いままで慣れ親しんだ戦闘機乗りの人たちと同年輩ながら、まったくタイプが異なる学究肌の人で、物理が大の苦手だった私は、質問一つするのにも大いに緊張したものだ。
それでも、学士会館で何度かインタビューさせていただいた後は、中野区鷺宮のご自宅に上げてもらえるようになり、かなり足繁く通った。
亡くなる年の春、ご自宅の前に咲いた桜を一緒に見て、「このところずいぶん弱られたな」と思ったのが最後であった。
訃報は、奥様から電話で直接いただいた。2000年8月4日の晩であった。それで私から志賀さんにお知らせするという逆の話になった。通夜は8月7日、告別式は8日。
暑い日中に行なわれる告別式は志賀さんのお体に障るといけないので、通夜に同行させてもらうことになった。夕方、練馬からタクシーで浅草のお寺へ。ここが杵築松平家の菩提寺らしい。
この日は夕方から物凄い雷雨になった。ほうほうの態で焼香を終えると、志賀さんと私は、待たせていたタクシーに乗り込んだ。目の前を稲妻が走る。轟音とともに、雷がすぐ近くに続けて落ちる。まるで狙われているのではないかと思うぐらいだ。志賀さんに「ずいぶん鳴りますね」と話しかけたら、志賀さんはちょっと身を縮めて、「遠くでやってくれよ」と小声でつぶやいた。
南太平洋海戦で敵機動部隊の弾幕をくぐった志賀さんが、雷は苦手にされていたのをそのとき初めて知った。
「いくら車でも、こんな雷は閉口だ。晩飯食って帰ろう。どこか静かなところを知らないか」
と仰るので、上野・池之端の「伊豆栄」に寄る。ここは元零戦搭乗員の桑原和臣さんや元空自F86Fパイロットの服部省吾さんたちとよく来た鰻の老舗である。運転手さんも一緒に、うな重をご馳走になる。
そのときは、志賀さんともあと一年少々で会えなくなるなどとは思いもしなかった。
東海道新幹線開業50年を寿ぎつつ、松平さんの思い出にふける雨の朝。
今日、10月12日は、「台湾沖航空戦」初日から70年の日である。
このとき、日本側の挙げた戦果が「幻」でなかったなら、フィリピンでの特攻はなかったか、別の形になったにちがいない、と、拙著『特攻の真意』(文春文庫)の主人公の一人で渦中にいた元第一航空艦隊副官・門司親徳さんはいつもおっしゃっていた。
例年この時期にお話をしたりお葉書をいただいたりすると、その都度、「今日は台湾沖航空戦の○日め」ということを話題にされた。
門司さんを偲びつつ、台湾沖航空戦の概要を振り返る。
昭和十九年夏、体当たり攻撃隊の編制開始と並行して、海軍軍令部は、来るべき日米決戦で敵機動部隊を撃滅するための新たな作戦を練っていた。全海軍から選抜した精鋭航空部隊と、臨時に海軍の指揮下に入る陸軍重爆隊で編制された「T攻撃部隊」による航空総攻撃である。
「T」はTyphoonの頭文字をとったもので、敵戦闘機の発着艦が困難な悪天候を利用して、敵機動部隊を攻撃するというものである。
ただ、精鋭部隊とはいえ、飛行機の性能、機数が敵より劣り、実戦経験のない搭乗員が多くを占める現状では、まともに考えれば敵が飛べないほどの荒天下で有効な攻撃ができるはずがない。
この作戦を発案したのは、軍令部第一部第一課の部員・源田實中佐であり、採択したのは軍令部第一部長・中澤佑少将である。T攻撃部隊は、福留中将が率いる第二航空艦隊の指揮下に入ることになった。
台湾が米機動部隊艦上機による大空襲を受けた昭和十九年十月十二日、福留中将はT攻撃部隊の発進を下令する。鹿屋基地を発進した索敵機が、夕方までに、台湾東方海域に三群の敵機動部隊を発見している。作戦にふさわしく、洋上には台風が発生していた。
鹿屋から出撃した陸上爆撃機「銀河」、一式陸上攻撃機計五十六機、沖縄を発進した艦攻二十三機、陸軍重爆撃機二十二機が夜間攻撃を敢行し、
「撃沈二隻、中破二隻、艦種不明なるも撃沈、中破各一は空母の算大」
という戦果を報じた。
十月十三日も、台湾は激しい空襲にさらされたが、T攻撃部隊は鹿屋から四十五機の攻撃隊を出して、薄暮攻撃を行なった。
十月十四日、総力を挙げて攻撃隊を出すことになり、南九州各基地から新手の四百機とT攻撃部隊の残存兵力が、またフィリピンからは海軍、陸軍あわせて百七十機を攻撃に投入することとされたが、フィリピン近海には敵機動部隊がいることもあって、実際に攻撃に参加できたのは約四百五十機だった。
十月十四日午後、T部隊指揮官・久野修三大佐は、十二、十三両日の総合戦果を、
「十二日空母六乃至八隻轟撃沈(内正規空母二~三ヲ含ム)
十三日空母三乃至五隻轟撃沈(内正規空母二~三ヲ含ム)
と報告した。
絶えて久しい敵空母撃沈の報に、
〈多大の戦果を挙げつつあることは確実と思考し、海軍部の空気は興奮の坩堝と化した〉
と、防衛庁戦史室『戦史叢書』(大本営海軍部・聯合艦隊<6>第三段作戦後期)は述べている。
十四日には高雄、台南の基地が、中国大陸から発進した敵の新型爆撃機・B-29数十機の絨毯爆撃を受けたが、機動部隊艦上機による空襲はやんだ。十五日には、残敵掃討の攻撃隊が、台湾とフィリピンの各基地を飛び立った。
この日、横山岳夫大尉率いる戦闘三一一飛行隊の爆装零戦六機が、戦闘三〇五飛行隊長・指宿正信大尉率いる零戦十九機に護衛され、マニラ東方二百浬の敵機動部隊攻撃に向かった。
米側記録によると、空母「フランクリン」が、横山隊とおぼしき攻撃を受け、爆弾一発が命中、死傷者十五名を出している。
十五日にはまた、フィリピン中部、北部の基地整備を担う第二十六航空戦隊司令官・有馬正文少将は、クラークから出撃する七六一空の一式陸攻に乗り込み、台湾東方の敵機動部隊を雷撃したのち、被弾、自爆したとの報がもたらされた。
有馬は、万一、遺体が敵軍の手に渡ることを考え、少将の階級章をはずし、双眼鏡の「司令官」という文字を削り取って、覚悟の上での出撃であった。
この有馬の陣頭指揮、自爆は、のちの特攻隊のさきがけと評価されることがあるが、門司親徳は「それは違う」と考えている。
「本来、飛行機隊を指揮する立場にない乙航空戦隊の司令官が、陸攻に搭乗して行ったということに不思議な気がしました。有馬少将は、『ダバオ水鳥事件』で一時、一航艦の指揮を任されたときに『セブ事件』で大きな損害を出してしまい、非常な責任を感じておられるのは、傍で見てもわかりました。有馬少将は、その責任を、指揮官先頭の範を示したやり方でとられたのではないでしょうか。
報道班員の新名丈夫さんによると、かつて有馬司令官に会ったとき、司令官は、『こんどの戦争では上に立つものが死なねばならぬ』と言われたとか。姿勢がよくて寡黙な人でしたが、内に秘めた責任感の強さは尋常ではなかったのでしょう」
十月十六日にも、「明らかに敗走中」と海軍中央部が判断した敵機動部隊への攻撃は続けられ、報告された戦果はさらに拡大した。
聯合艦隊の戦果報告では、空母だけで十隻を撃沈、八隻を撃破したことになっている。
いっぽう、この日、鹿屋基地を発進した索敵機が、思いもよらない敵情を打電してきた。午前十時三十分、高雄の九十五度四百三十浬に、西に向かって航行中の敵空母七隻、巡洋艦十数隻からなる機動部隊を発見したのである。
正午前に届いたこの報告は、撃滅したはずの敵機動部隊が健在であることを示している。祝勝ムードに浮かれていた大本営海軍部と聯合艦隊司令部にとって、これは晴天の霹靂であった。
聯合艦隊司令部は戦果の判定に疑念を持ち、戦果の再検討を始めた。その結果、
「確実な戦果は、空母四隻撃破程度」
と判断が覆ったのは、十八日の午後以降だったといわれる。
戦果判定の多くは、薄暮から夜間の攻撃で、味方機が自爆炎上するのを敵艦の火災と誤認したものと考えられた。
十月十二日から十六日まで五日間にわたって続いた「台湾沖航空戦」と呼ばれる一連の戦闘で、日本側が四百機の飛行機を失ったのに対し、結局、撃沈した米軍艦艇は一隻もなく、八隻に損傷を与えただけだった。米軍の飛行機喪失は七十九機であった。
だが、十八日には戦果の判定が訂正されたにも関わらず、大本営は十九日、訂正前の大戦果にさらに脚色を加える形で大々的な戦果発表を行なっている。
日本海軍航空部隊が、台湾沖航空戦で受けた打撃はとてつもなく大きかった。
フィリピンの航空兵力は、十八日現在の可動機数が、一航艦の三十五~四十機、陸軍の第四航空軍約七十機しかなく、台湾から二航艦の可動機二百三十機を派遣しても、あわせて約三百四十機に過ぎなかった。
72年前の今日、昭和17年10月17日、ガダルカナル島上空で日本海軍二航戦の空母「隼鷹」「飛鷹」を発艦した零戦18機、九七艦攻17機が、邀撃してきたグラマンF4Fと空戦、「隼鷹」艦攻隊がほとんど全滅する損害を出した。
私は、「隼鷹」飛行隊長志賀大尉、「飛鷹」戦闘機隊原田一飛曹、同艦攻隊丸山一飛曹から、その日の模様を詳しく聞いた。
〈十月十五日現在、ガ島の日本軍兵力は約二万近く、対する米軍は二万三千、その大部分は戦闘に疲れ、マラリアに悩まされた海兵隊であった。戦局は、ほぼ拮抗していた。
日本軍の反撃を受けて、米軍も積極的な動きを見せていた。太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将は南太平洋部隊指揮官ゴームリー中将を解任し、その後任に勇猛果
敢で知られるハルゼー中将を任命した。同時に米機動部隊もガ島方面に出動、十六日には前日、ガ島北岸に日本軍が揚陸したばかりの食糧、弾薬が米駆逐艦二隻
の艦砲射撃で灰燼に帰した。
敵の艦砲射撃を機に、聯合艦隊は、敵空母との激突に備えてソロモン群島北方にあった空母隼鷹、飛鷹の第二航空戦隊にガ島ルンガ泊地の敵輸送船団攻撃を命じ
た。二航戦では、翌十七日、二隻の空母からそれぞれ零戦九機、艦攻九機、計三十六機を出撃させることになり、十六日の夜、搭乗員に命令が伝えられた。
しかし、八十番(八百キロ)陸用爆弾を抱えた艦攻の水平爆撃では、スピードも遅い上に、「定針」といって目標に投弾するまでの数分間、水平直線飛行をしな
ければならず、敵戦闘機がうようよいるばずのガ島上空では、それは自殺行為に等しかった。十六日の晩、無謀な命令に搭乗員室で荒れる隼鷹艦攻搭乗員たち
に、翌日の戦闘機隊指揮官、飛行隊長・志賀淑雄大尉は、「われわれ戦闘機隊は、何があってもお前たちを守りきる」と大見得を切ってなだめた。しかし――。
十月十七日午前三時三十分、総勢三十六機の攻撃隊は母艦を発進。途中、隼鷹の艦攻一機が故障で引き返す。こともあろうにこの一機は、爆撃のリーダーとなる
べき嚮導機(機長・大多和達也飛曹長)であった。残る三十五機は、隼鷹艦攻隊(指揮官・伊東忠男大尉)、飛鷹戦闘機隊(兼子正大尉・六空の初代飛行隊
長)、飛鷹艦攻隊(入来院良秋大尉)、隼鷹戦闘機隊(志賀淑雄大尉)の順に編隊を組んで、一路ガ島に向かった。艦攻隊の伊東大尉と入来院大尉は、海兵六十
五期出身であった。
ミッドウェー海戦の時に辛酸をなめた二航戦の母艦搭乗員が、大勢新しい二航戦に移ってきていた。その中の一人、飛鷹戦闘機隊の原田要一飛曹は、援護の対象を入れ替えるようなこの編隊の布陣が疑問に感じられたという。
そのことについて志賀大尉は、
「それまで、二航戦としての打ち合わせや合同訓練は一度もなかったですね。それと、源田参謀の発案で、飛行機隊は発艦したら艦長の指揮を離れ、二航戦としての序列に従って行動することになっていました。
だから、大見得を切った手前もあって自分の艦の艦攻隊を直掩したかったんですが、戦闘機隊は六十期の兼子大尉の方が私より先任なので飛鷹が前、艦攻隊は同じ六十五期でも伊東大尉の方が入来院大尉より先任なので隼鷹が先、と順番が入れ替わってしまったんです」
…と解説している。
艦攻隊の高度は四千メートル、戦闘機隊はそれぞれ、その五百メートル後上方に位置していた。ソロモンの空と海はあくまで青く、太陽は強くまぶしかった。ガ
島上空に差しかかる頃、前方の左上方五百メートルほどのところに、断雲が近づいてきていた。「いやな雲だ」と、原田一飛曹の胸に不安がよぎった。
その頃、隼鷹の志賀大尉は、高度六千メートル付近に出ていた層雲が気になって、その陰に敵戦闘機がいるのではないかと、列機を引きつれて雲の上に出てみた
が、何も見つからなかった。その間に、嚮導機不在の隼鷹艦攻隊は定針を誤り、伊東大尉は敵地上空で爆撃のやり直しを決める。
続いて入っ
た飛鷹艦攻隊は、嚮導機がいるのでそのまま投弾する。隼鷹艦攻隊が大きく旋回してもとの爆撃針路に入った時、艦攻隊の側に戻ろうとした志賀大尉は、断雲の
影から、キラッキラッと太陽の光を反射させて、ずんぐりとした機体を身軽に切り返す数機のグラマンF4Fの姿を見た。あっと思う間もなく、敵機は、一目散
に艦攻隊に向けて突っ込んできた。
志賀大尉の回想。
「『しまった!』と見る間に、たちまち艦攻の二番機が左翼から火
を噴き、一番機(伊東大尉機)も右翼付け根から火焔を吐き出しました。しかし、艦攻隊は燃えながらも編隊を崩さない。私は何ともいえない気持で、それを目
で追っていきました。もしもあの時、グラマンが襲ってきたら、私もやられていたでしょう。艦攻隊はそのまま投弾して、先に二番機がグラッと傾いて、墜ちて
いきました。グラマンは、確か九機ぐらいだったと思います(実際には二十八機が上がっていた)。一撃をかけて逃げていく敵機を追いかけて、いちばん後ろの
やつに一撃しましたが、艦攻隊が気になって、最期を確認しないままに反転しました」
先に投弾して敵戦闘機の奇襲をまぬがれた飛鷹艦攻隊の丸山泰輔一飛曹は、
「帰投針路に入って後ろを振り返ったら、爆撃針路に入ろうとする隼鷹艦攻隊がグラマンにたかられて、次々に燃えて墜ちてゆくのが見えました。それが、昔の
カメラの、マグネシウムのフラッシュを焚いた時のような閃光を発して燃えるんですよ。赤い炎じゃなくて、白く明るく輝いて、キラキラと粉を吹くよう
に……。光と白煙を吐きながら、次から次へと墜ちてゆく。何とも悲壮な光景でした」
と振り返る。
飛鷹戦闘機隊先任搭乗員・原田要一飛曹は、一撃を終えて前方に急上昇するグラマンの中から、一機だけわが戦闘機隊の後方に回り込もうとする敵機を認めた。
「私はしんがり小隊長ですから、『このヘナチョコになめた真似をされてたまるか』と、目もくらむばかりに操縦桿を引き、機首を向けたんですが、出港以来の
疲れのせいか、一瞬、失神してしまったんです。G(荷重)には強い方だったんですがね……。気がつくともう、目の前にグラマンが向かってきていました。私
はとっさにこの敵機と刺し違える決心をして、下腹にぐっと力をこめて、左手のスロットルレバーについた引き金(発射把柄)を握りました。互いの曳痕弾が交
錯し、あっと思った時にはガーンという衝撃とともに、左手が引き金からはじき飛ばされました。飛行服の左腕のところに卵大の穴が開き、風防や計器板に血し
ぶきが飛び散りました」
操縦桿を足にはさみ、右手と口でゴムの止血帯を巻きつけ、ふと見ると、敵機は白煙を引きながら、はるか下方の島
影に吸い込まれていくところであった。原田は不時着を決意し、眼下の椰子林にすべり込むが、椰子の木にぶつかって方翼が吹き飛び、墜落状態で転覆した操縦
席に閉じ込められる。やっとの思いで脱出した原田は、重傷で意識が朦朧とする中、不時着した隼鷹艦攻隊の生き残り、佐藤寿雄一飛曹とともにジャングルの中
をあてどもなくさまよい、奇跡的に友軍に救出される。傷は化膿して悪化の一途をたどり、マラリアやデング熱も併発して半死半生の状態で、舟艇に乗せられて
ガ島を脱出したのが十一月五日、意識が戻ったのは約一週間後、トラック島の第四海軍病院であった。
この日の攻撃で、隼鷹艦攻隊
六機が撃墜され、二機が不時着。飛鷹艦攻隊も対空砲火で一機自爆、一機が不時着。これほど大きな犠牲を出したにもかかわらず、爆撃による戦果はゼロであっ
た。その後、飛鷹は機関故障で戦列を離れ、入来院大尉以下、飛鷹艦攻隊は隼鷹に洋上で乗り換え、二十六日の南太平洋海戦に参加することになる。〉
練馬、光が丘公園の銀杏並木も、ほんのり色づいてきまし
今日、10月28日は拙著『祖父たちの零戦』(講談社文庫)の主人公の一人、鈴木實中佐のご命日だ。
ちょうど13年前のこと。
何年経っても、忘れられない人はやはり忘れられない。
鈴木さんの勲章や勲記、感状、賞詞などは全て私の手元にあるので、じっと眺めてしばし感慨にふける。
留守番電話に入るメッセージには、その人の個性が現れる。
留守番電話がめずらしくなくなった最近はそれほど感じなくなったが、30年前、私が初めて留守番電話を自室の電話に取り付けた(受話器と別の、Wカセットタイプの大きな機械だった)頃から15年ほど前、テープがICに変わるころまでは確かにそうであった。
私が、零戦搭乗員を始めとする元海軍さんの取材を始めた頃は、個人の携帯電話を持ったばかりでそれには留守電機能がなく、取材相手との連絡手段としては自宅電話の留守番電話が頼りであった。だが、まだ留守番電話というものが世の中に浸透しきっていない。
... はじめは、歴戦の中攻搭乗員・畠山金太さんのように、
「なんじゃこりゃ、あー、あー、何も言わんわ。おい婆さん、こりゃどうすりゃ・・・・・・」プープープー・・・・・・
というのもあったし、進藤三郎少佐のように、
「本日、貴信拝受。原案通りで異存なし。終り」ガチャリ
とまさに海軍の電文調の人もいたし(話の最後を「終り」で〆るのは海軍士官に身についた特徴の一つである)、志賀淑雄少佐のように、かけてこられるたび、
「海軍の志賀です」「志賀少佐です」「ハアイ神立さん、シ・ガ・です」「え、いつも部下たちがお世話になっております。飛行長の志賀少佐です」
とバリエーション豊富な方もいた。
シンプルでカッコよかったのが、
「零戦の小町です。電話ください」ガチャリ、
というメッセージ。小町定さんのキャラクターにピッタリであった。
知らない人は知らないだろうが、元気な頃の小町さんの迫力は半端ではなかった。私が、過労や胃潰瘍でしばらく動けなかった時にそんなメッセージを頂き、恐る恐る電話をかけると、小町さんは、
「おう、あんた最近ちっとも顔出さないと思ったら体調崩してたんだって。大原から聞いたよ。若いんだから大事にしてくれよ。元気になったら顔出せよ」
これには感激した。会えば文句ばかり言われるのに、時おり見せるこんな暖かさが、私が小町さんを敬愛してやまない理由であった。
そんな、留守電のメッセージが楽しみであった頃が懐かしい。
いまはどうして、どうでもいいような、できれば避けたい用件のメッセージしか入らないのだろうか。
12月8日は、言わずと知れた、開戦の日である。
ちょうど73年前の今日、陸軍部隊はコタバルに上陸、また重爆をもってフィリピンを爆撃し、海軍機動部隊はハワイ真珠湾を奇襲、台湾の航空基地を出撃した零戦隊と陸攻隊はフィリピンの米軍基地を空襲した。
私が零戦搭乗員の取材を始めた19年前には、真珠湾作戦の参加搭乗員が、零戦だけでも進藤三郎大尉、志賀淑雄大尉、藤田恰与蔵中尉ほか合わせて10名ほどがご存命、各機種合わせて50名以上がご健在だったし、フィリピン空襲組も、黒澤丈夫大尉、坂井三郎一飛曹、田中國義一飛曹、横川一男二飛曹、佐伯義道一飛曹、小池義男一飛曹・・・など多くがご健在であった。
真珠湾攻撃については、60周年の記念セレモニーには「零戦搭乗員会」の一行としてハワイに赴いてきたが、この年に調査した時点で各機種合わせて30数名がご存命で、その多くの方々にインタビューをさせていただいた。
それから13年が経ったいま、進藤さんも志賀さんも小町さんも佐々木原さんも、艦爆の阿部さんも大淵(本島)さんも、艦攻の森永さんも吉野さんも丸山さんも亡くなられて、現在ご存命なのは数名のみである。
進藤大尉や志賀大尉をはじめ、真珠湾攻撃に参加した搭乗員が口を揃えるようにおっしゃるのが、
「あれは『だまし討ち』ではない。米軍は完全に防御態勢を敷いていて、対空砲火の反撃は素早く、第一次からも犠牲が出た」
ということである。
だが、志賀さんは、
「仮に米軍が知らなかったとして……通告の上、反撃準備の整った真珠湾にもう一度行っても、我々は同じ戦果を挙げることができたでしょう」
ともおっしゃっていた。
とはいえ、機動部隊各空母に搭載された零戦の20ミリ機銃弾は、一機あたり150発しか出撃までに準備できず、一度の出撃で110発を消費するから、各機一回半の出撃分しか搭載されていなかった。現に上空哨戒の零戦は7ミリ7機銃弾だけを搭載し、20ミリの弾倉は空の状態だったのだ。
開戦早々、ウエーク島攻撃に参加した第六戦隊の巡洋艦では、「主砲弾の備蓄がトラック泊地にないので」、上陸部隊掩護のため砲門を陸上に向け艦砲射撃の姿勢をとっただけで主砲を一発も撃たなかったと、それは「古鷹」砲術士・竹内釼一少尉(のち大尉)の確かな証言がある。
海軍の零戦も陸軍の隼も、開戦後しばらくは一線部隊全てには行き渡らなかったし、要するに、準備が出来ていないかギリギリの状態での開戦であったのだ。
そのあたりのことは、各方面からもっと語られていいと思う。そんな状況で戦争の火蓋を切るほど、日本が追い詰められたのは何ゆえか。研究を待ちたいし、私自身も取材は続ける所存だ。
戦争を、あたかも決まり文句のように、「この悲劇をけっして忘れてはならない」などと言う人たちが多いが、その人たちが、どれほどその悲劇や惨禍のことを筋道だてて理解しているかは、はなはだ疑わしい。
「忘れない」ためにはその前提として「知る」ことが必須なのに、「知る」ことはすっとばし、あるいは理解を拒否し、また曲解したまま、まず「反戦」のメッセージありき、という例が多いように思う。 そんな簡単に言えるものか、と私は思う。
戦争とは、壮大な人間の情念を否応なく、一瞬にして無にしてしまう、恐るべき愚行である。しかし同時に、その時代の渦中に生きている人間にとっては、やむにやまれぬ選択でもある。身命を賭して守らなければならないこともあるだろう。現在の視点で歴史上の事実を分析することは大切だが、それには常に、まず当時の価値観を俎上に乗せてこれと比較するのでなければ、事実が真実から遊離してしまう。
現代の目でふり返れば、負けると決まった戦争だったであろう。しかし、そこで戦って死んだ人たちは、決して犬死などではない。少なくとも今、日本人が享受している平穏な暮らしは、彼ら無名戦士の犠牲の積み重ねの上にある。
そんな思いで、先人たちの、日本人の魂と向き合っていきたいと思うのだ。
以下は、真珠湾70周年に書いた、60周年、70周年の記事――。
真珠湾攻撃70周年に60周年を振り返る。
(昨年同日投稿の一文を、時制を直して再掲します)
12月10日は、大東亜戦争劈頭のマレー沖海戦で、日本海軍航空部隊が、英国東洋艦隊の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を撃沈した「マレー沖海戦」(昭和16年)の日である。73年前のこと。
私はこの戦いに参加した元陸上攻撃機搭乗員の幾人かにお会いしたが、もっともご縁が深かったのが、鹿屋海軍航空隊分隊長だった壹岐春記さんだった。私の敬愛する志賀淑雄さんと同期の海兵62期、3年前、99歳で亡くなられた。拙著『戦士の肖像』(文春文庫)にもご登場いただいた。
毎年、この日になると壹岐さんを思い出す。
以下、壹岐さんが亡くなられたときの記事を再録する。
今日、12月29日は、我が母校・大阪府立八尾高校が旧制中学だった頃の大先輩で、日本海軍戦闘機隊を代表する指揮官、拙著『零戦隊長~二〇四空飛行隊長宮野善治郎の生涯』(光人社)の主人公・宮野善治郎海軍大尉(戦死後中佐)の誕生日である。(大正4年12月29日)
もしご存命であれば満99歳だ。
宮野大尉の誕生日について、なぜか大正6年3月生まれという資料が出回っているけど、のちに述べるがこれは完全に間違い。大正4年12月29日生まれが正しい。
開戦劈頭のフィリピン・クラークフィールドの米軍基地空襲から、インドネシア、オーストラリア上空から北はアリューシャン列島まで、零戦隊を指揮して活躍し、昭和18年6月16日、ガダルカナル島の空で戦死した。享年27。
いまも、90歳を超えた旧部下から敬愛されている人格者で、困難な任務を進んで引き受ける有能な指揮官だった。
私は宮野大先輩のことを、高校一年の時、同じく旧制八尾中で宮野氏の先輩だった体育科の大木行徳先生(旧制八尾中~新制八尾高に、昭和18年から56年まで勤務)から聞かされた。
同じ長瀬川の川筋に家があり、家紋も同じ剣カタバミ、齢は4回り違いの同じ卯年、学年も、旧制中学34期と新制高校34期……。運命を感じて11年がかりで伝記を書き上げた。
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この季節、部
宮野大尉の6歳年上の御姉様で、5年前に百歳の天寿を全うされ
そのさんが80歳の時、90歳までにちゃんちゃんこを
幼い時にスペイン風邪で父親を亡くし、病弱な母と幼い
「善治郎が子供の頃、こんな歌を歌ってくれましたんよ
と、歌をフルコーラスを聴かせてくださったものだった。
もったいなくて長らく箪笥にしまっていたのを、三年前の冬、ガス給湯器故障で思い出し、着てみたら暖かいこと!
いろんな出会いがあって、人との
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ところで、宮野善治郎大尉誕生日で思い出したが、私が書いた本について、お決まりの問い合わせがある。もう10数年同じことの繰り返しだけど、年に2,3回はこの種の問い合わせがある。手紙を書く人も面倒だろうし、返事を書く私も面倒なので、ここでお答えする。
Q.『零戦隊長』(光人社)に、宮野善治郎大尉の生年月日について、「大正4年12月29日」と書いてあるが、Webやものの本には「大正6年3月」とある。間違っているのではないか?
A.これはWebサイトや「ものの本」が間違っているので、大正4年12月29日で絶対に間違いありません。本人の奉職履歴、海軍兵学校関連、家族、出身中学すべて確認済みです。私ではなく「ものの本」の著者に訂正を呼びかけてください。(写真は奉職履歴)