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元零戦搭乗員 野口剛さんを囲む会、無事終了。

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3月9日、NPO法人零戦の会主催、元零戦搭乗員・野口剛さんを囲む会を滞りなく終了しました。遠く関西、北陸、九州、東北などからお越しいただいた方もふくめ、総勢50名近い盛会になりました。

今回は特に、神雷部隊陸攻隊指揮官足立次郎少佐ご令孫、甲飛3期大西貞明さんご令嬢、台南空山崎市郎平さんご親族等々、海軍航空隊に縁のある方のお姿が目立ちました。また一般参加者の皆さんもとても気持ちの良い人たちで、若い世代の何人かの方は会の運営についてお手伝いくださるという積極的なご意志を伝えていただきました。ほんとうに有難いことです。

野口さんは、神雷部隊桜花隊の初出撃の護衛戦闘機として出撃したほか、沖縄、奄美、九州上空の邀撃戦に参加。ご自身で4機の敵戦闘機に火を吐かせたものの2度撃墜され、文字通り死線を越えてこられました。戦後は民間航空に転じ、小型飛行機での魚群探知にはじまって旅客機による旅客輸送、パイロットの教官などなど、83歳まで空を飛び続けられました。のべ18000時間に及ぶ体験に裏打ちされたお話は、じつに深いものがありました。

当会では、今後とも可能な限りこのような機会を設けて行きたいと思います。これからもどうぞよろしくお願いいたします。


なお、インフルエンザ等で急遽ご欠席になった方々には、心よりお見舞い申し上げます。次の機会にはぜひ。


一年前のラバウル紀行

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このところブログ更新が止まっていますが、それは、メインのパソコンをバージョンアップしたら、なぜかそのプラウザが非対応とかで、アメブロの投稿ができなくなってしまったためでした。
こういうの、困りますね。

思えば、ちょうど1年前、私はNHK取材班の大島さんと、ラバウルにいました。

私は熱帯の空気が肌に合っているらしく、滞在中は、日本にいては考えられないほど体調よく過ごせました。また機会があればいつでも行きたい場所です。
そのときの記事を再録してみたいと思います。


ラバウルに行ってきました


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 3月30日~4月6日の日程で、NHKの夏の特別番組に向けたロケハンの仕事で、パプアニューギニアに行ってきました。若き番組ディレクター大島さんとの二人旅でした。訪れたのは、首都ポートモレスビー、ラバウル、ブカ島など。

 
 (地震観測所のビューポイントからラバウル市街~東飛行場跡を見る。ガイドのフレッドさん、運転手のローレンスさんと)


 ポートモレスビーでは、スタンレー山脈の途中まで行きました。スクラップ置き場のような小さな歴史博物館?では、米軍戦闘機P-38の実物を初めて見ました。


 ニューブリテン島に渡って、ラバウル近辺では、旧日本海軍東飛行場跡、ラバウル温泉、トベラ飛行場跡、ブナカナウ飛行場跡、ココポなどを一通り回って、ガゼル岬沖合の浅い海に原形をとどめて沈んでいる零戦二一型を、シュノーケルを使って潜って見ました。

 
 (ココポ戦争博物館にて、零戦と)


 
 (台南空搭乗員を運んできたのちに空襲を受け沈んだ「小牧丸」―手前の赤さび―は、コンクリートを充填され、桟橋として使われています)


 
 (小牧丸の船首部分)


 
 (旧ラバウル東飛行場端にあるラバウル温泉。噴煙を上げているのが花吹山)



 トベラでは、複数の零戦の残骸が子供たちの遊び場になっていました。


 ラバウルは風光明媚、住民は親切、治安もよく楽園でしたが、内戦状態が続いていたブカ島はなかなか怖いところでした。ただ、海はブカがいちばんキレイに感じました。ブカから、五八二空の宿舎があった対岸のソハナ島に上陸し、ついでにブーゲンビル島にも上陸してきました。

 
 (ブカのホテル前の光景)


 南十字星がキレイでした。

 


ブナカナウ(ラバウル西)飛行場跡で「ベティ」(一式陸攻の米軍コードネーム)発見!

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 今回のラバウル行きで、驚いたことがある。

 一緒に驚いてくれる人は少ないかと思うけど、私にとっては印象的だった。
 かつて一式陸攻の基地だったブナカナウ飛行場(ラバウル西飛行場)跡で、なんと「生きた一式陸攻」と出会ったのだ。


 順を追って話すと、4月1日、まずココポのホテルからトベラ飛行場跡に向かった。
 トベラは、二五三空の小町定上飛曹や岩本徹三飛曹長がいたところだ。

 トベラ飛行場跡は椰子のプランテーションになっていて、飛行場は跡形もないが、滑走路のエンドだったところに零戦数機分の残骸がある。

  

  

  

 ちなみに、いまはプランテーションで戦後、入植した人たちが暮らしている。
 日本人が時々来るのか、子供たちが「コンニチワ」と寄ってくる。

 零戦が完全に生活の一部と言うか、私たちが子供の頃によくあった、広場に積まれた土管程度の扱いで、ここの人たちは皆、これら零戦が歴史遺産だという意識は微塵もない。だから、多くの部品が剥ぎ取られ、リサイクルに回されてしまっている。

 私は、形あるものはいつか滅びる、このまま土に還るのも悪くないと思うけれど、人によっては胸の痛む思いがするかも知れない。



 トベラからブナカナウまでは、こんな道の連続。

  
 
 トヨタのランドクルーザーでないと走れないそうだ。
 「TOYOTA IS GREAT!」とは、運転手のローレンスさんの弁。彼はこんな悪路をぶっ飛ばしながら、時々、ハンドルから手を離して身振り手振りを交えて熱弁をふるう。おいおい。



 そしてブナカナウ。通称、「ラバウル西飛行場」跡。
 ここはトベラと違って、飛行場がしっかりローラーでならされて地面が固められ、またコンクリート舗装も残っているので飛行場跡の主要部分には椰子の木が生えず、面影を空間にとどめている。

  
 

 ガイドのフレッドさんが、日本機の残骸があると言って連れて行ってくれた場所には人家があり、出てきた若い奥さんが、
 「ああ、あれね?リサイクルしちゃったわよ」
 と、屈託なく言う。

 それで、飛行場の反対側に引き込み線のコンクリート舗装を見に行ったところに、「一式陸攻」がいたのだ。

 我々が車を降りて、コンクリートに残る足あとなど、飛行場の痕跡の写真を撮ったりしていると、子供たちが大勢、もの珍しそうに寄ってくる。
 「あ!ガイジンや、ガイジンや!」と言った感じで、これは私が育った昭和40年代の大阪でもそんな感じだった。

 そんな子供たちが私を取り囲んで、写真を撮ってとせがむ。撮って、液晶モニターを見せてやると大盛り上がりでますます寄ってくる。南方の子供たちはほんとうに可愛い。

 すると、家のほうからお母さんが「ベティ!ベティ!」と呼ぶ声が聞こえた。

 ・・・え?ベティちゃん?ブナカナウにベティちゃん?・・・・・・私は驚いた。

 ここブナカナウは一式陸攻の基地であったことはすでに述べた。一式陸攻に、米軍が付けたコードネームは「ベティ」である。
 ブナカナウの飛行場跡に、いまも「ベティ」が住んでいるとは!

 思わず、「君、ベティちゃんって言うの?」「写真撮っていい?」と声を掛ける。
 お母さんに許可をもらい、パチリ。ベティちゃんは明るくてお行儀がよく、はにかみ屋の可愛い子だ。

  
 

 私と大島さんが、ベティちゃんにばかり興味を示すので、ベティちゃんの小さな弟が、我々を人さらいと勘違いして、
 「いやや~!ベティが日本に連れて行かれる~」
 と、地面にじたばたして泣いた。

 大島さんがすかさず、ここには戦争中、日本海軍の「ベティ・ボンバー」という飛行機がいて、そこに今もベティと言う名前の子が住んでいることに日本人の我々が感動したのだと伝えると、子供たちが大爆笑した。

 その瞬間から、ベティちゃんは「ベティ・ボンバー」の渾名で呼ばれることになり・・・。

 「大島さん、子供たちにそこまで説明しなくても。これから彼女、ずっとベティ・ボンバーと呼ばれますよ」
 「でもあの状況では・・・悪いことしちゃったかな?」


 しかし、現地に行ってみないとわからないことって、ほんとうにあるものですね。
 ブナカナウ飛行場跡に飛行機の残骸はなくなっていたが、小さなベティちゃんと会えて感慨無量だった。



ポートモレスビー、ラバウル、ブカ、ブーゲンビル点描。

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 このところ忙しく、更新が滞っています。

 ラバウルに向けポートモレスビー行の飛行機に乗ったのがちょうど一ヵ月前。
 時間の経つのが早すぎる気がします。


 まだ出してない写真を、番組に差支えなさそうなところで何枚か。


 まずはポートモレスビーで見た敵機P-38の残骸。ポートモレスビー近郊で回収された三機のうちの一機だとか。こいつは残骸になっても形状は一目瞭然です。
  



 ニューブリテン島に渡って、まずはラバウルに近いココポの戦争博物館で見た零戦二一型。詳しい人によると、中島飛行機製の機体だとか。
  


 零戦三二型もしくは二二型のカウリング。
  


 敵機F4Uコルセアの残骸。たぶんラバウル上空で零戦に撃墜されたもの。
  


 
 トベラ飛行場跡の、零戦三二型または二二型。
  



 ラバウルの積乱雲。
  




 ラバウル市街の入口。
  



 ラバウル東飛行場跡。
  



 12月公開の映画「永遠の0」で、主演の岡田准一さんが被った飛行帽を持参し、ラバウル東飛行場跡に、花吹山をバックに置いてみました。
  



 東飛行場跡のエンドあたりで、まさに土に還ろうとするなぜか陸軍機の一式戦「隼」(右手前)と、陸軍機の九七式重爆(左奥)。
  



 火山の噴火で半島になってしまった、東飛行場近くの松島の竪穴式住居。
  



  
 爆弾がインテリアに使われているラバウルホテルのラウンジ。ラバウル市街で現在営業している唯一のホテルで、経営はオーストラリア人です。
  


 
 台南空搭乗員を運んできた輸送船「小牧丸」。いまは桟橋として使われている。
  
 


 ガゼル岬沖の浅い海底に不時着水状態で沈んでいる零戦二一型の機首。画面下にカウリングとスピンナーの一部が写っています。潜ってみると、カウルフラップは全開でした。
  
 




 ブカ島に渡る。左に見えるブカ飛行場は日本海軍が作ったもの。右手はブーゲンビル島。
  



 ブカ飛行場にて。
  
 


 治安が良いとは言いかねるブカ島の町。
  
 

 同じくブカ。
 
 
 



 五八二空の宿舎があった、ブカ島対岸のソハナ島。
 



 ソハナ島の、零式観測機の残骸。
  
 


 ブーゲンビル島に上陸。ここにも日本軍の防空壕が(左奥)。
  



 いきなりの上陸でしたが、島を離れるときは手を振ってくれました。
  
 
 
 


 これが、ブカ島で泊まったクリ・ビレッジリゾート。
  
 


 ブカ飛行場の出発ロビー。ラバウルでもブカでも、我々二人のほかは、日本人は一人も見ませんでした。
  
 


 
  とりあえず以上です。

 

日の丸アベンジャー

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 海上自衛隊は、旧帝国海軍の正統なる後継者ということを自他ともに認めている。

 それが証拠に、と言ってはなんだが、いまの護衛艦にも艦内神社があり、昔の海軍の艦艇の名を受け継いでいる艦では、先代の艦も併せて祀られ、沈んだ日には慰霊祭をやったりもしている。そんな、血の継承はとても大事なことだと思う。

 だが、戦後の占領政策で、一切の兵器や航空機を破棄させられた歴史もあり、海上自衛隊のスタートの道のりはけっして平坦なものではなかった。


 ・・・・・・そのことを雄弁に物語るのが、自衛隊発足にあたって米軍から供与された各種航空機である。

 
 TBM-3アベンジャー対潜哨戒機。
 

 こいつは大戦中の米海軍の主力雷撃機で、戦記では「TBF」のほうが通りがよい。
 
 とにかく、いたるところで日本海軍の艦艇を痛めつけた、いわば宿敵であり、海上自衛隊に多く入隊した旧海軍の戦闘機搭乗員にとっては、かつて撃墜した「敵機」そのものであった。

 

 アベンジャーに搭乗した、元六〇一空戦闘三一〇飛行隊長・香取穎男大尉(のち海将)は、「(着地状態で)背が高くて、まるで二階から操縦している感じ」だったと回想している。
 この飛行機は、昭和29年から35年まで使われた。

 


 対潜哨戒機P2Vは、昭和31年から供与されている。
 


 鹿屋基地のP2Vの列線上空を、PV-2の三機編隊が飛ぶ。
 


 宿敵と言えば、PBY「カタリナ」飛行艇も二機が供与され、大村基地に所属して使われた。
 


 昭和29年頃の、鹿屋基地での訓練の模様。
 ほとんど、旧海軍航空隊と同一の訓練風景である。黒板左、黒の制服の一番手前の、袖に四本の金筋の入った人物は、元三四三空副長で海軍中佐だった相生高秀1佐。
 


 何気ないスナップ写真だが、この中に二〇四空元零戦搭乗員が写っている。
 左端・大原亮治氏(飛曹長・丙飛四期)、中央横顔・倉内隆氏(飛曹長・操練四十五期)。
 


 SNJに乗る杉野計雄氏(飛曹長・丙飛三期)。
 



 SNJの16機編隊飛行。

 一番機の操縦は、肥田真幸氏(海兵六十七期、大尉)。その直下(肥田機から見ると右後ろ)は、大原亮治氏(飛曹長)の操縦で、ともに海自の第一期操縦講習員である。
 



 以前にも紹介したが、一昨年亡くなられた肥田真幸さん直筆の色紙。
 私の家宝の一つだ。
 


 このあたりの人の歴史も、非常に興味深いものがある。

クールビズ反対!2014

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 もう、毎年のように言っていることだけれど。


 「節電対策のため」と称し、各省庁や企業は、昨日から「クールビズ」を導入したという。
 6月からは、環境省は、職員にノーネクタイや上着なしでの勤務を推奨する「クールビズ」をさらに進め、ポロシャツやアロハシャツ、Tシャツの着用も許容する「スーパークールビズ」を推奨するという。
 同省によると、スニーカーやサンダルでの勤務を認めるとか。

 ・・・・・・アホちゃうか。

 ニュースを見て、チッと、つい舌打ちをしてしまった。
 これを考えた役人は、きっと優秀な馬鹿なのだろう。

 そのうち、ノーブラとかノーパンで出勤しろと言い出す役所が出てくるかもしれない、というのは冗談だが。

 節電は、こういう時勢だから仕方がない。だが、それと、仕事をするのにアロハシャツやTシャツやサンダル履きの姿でいい、というのは別の次元の話であろう。
 「涼しい格好」と「ラフな格好」は違うのではないか?

 世のなかにはT.P.O.(TIME、PLACE、OCCASION)という言葉がある。言わずと知れたVANの創設者、故石津謙介氏が提唱したものだ。
 「とき」と「場所」には、それにふさわしい装いがある。それぞれの立場によって、ふさわしい装いは自ずと異なるが、自分の生活を賭けて社会と切り結ぶ「仕事」の場と、プライベートのリゾートでの格好が同じでいいはずがない。

 仕事をするには、たいてい何らかの「相手」がいる。装いには、そんな相手に対する「敬意」を表する意味もある。その相手のことは考えなくていいと思うのが、そもそも馬鹿である。

 美空ひばりが、Gパン姿で取材に来た女性記者を追い返したというエピソードがあるが、そんな古い話を持ち出すまでもなく、少なくとも私は、社会人の端くれとして、そんな格好をした人間とは一緒に仕事をしたくない。
 暑いぐらいなんだ。やせ我慢しろよ、仕事のときぐらい。


 何度も言うように、私は、クールビス絶対反対・徹底抗戦派である。

 クールビズに反対なのは、仕事にラフな恰好はみっともないという当然(と私は思う)の感覚、そして国やお調子者どもが音頭を取って、エコの旗頭の元、世の中を一色に染めようとしている全体主義が気に入らないからである。
 これでは、戦後民主主義教育の言うところの、「戦前の日本」と変らない。

 「エコ」という錦の御旗を立てれば、誰もがおとなしく従うと思っているのだろうか。日本中をクールビズで染め上げようというのはたちの悪いファシズムではないのか。ネクタイを締めたい男もいるのだ。こんな、だれもが反対しづらい大義名分をカサに着ての思想や行動の押し付けには断固反対する。

 
 そもそも、暑いからラフな格好でいいなんて、安直過ぎる。たとえば、灼熱のジャングルで作戦行動中の兵士が、暑いからといってアロハに短パン、サンダル姿で戦闘に臨めるか。原発内で決死の作業をしている作業員が、暑いからと防護服が脱げるか。

 ・・・・・・極端な例かもしれないが、一般の仕事でも、真剣さはそれらに劣っていいはずがないと思う。仕事に着る服は、社会人としての戦闘服である。
 だいたい、「クールビズ」とか言ってる人は、シャンとした格好をして「身が引き締まる」という思いを経験したことがないのか、不思議でしようがない。

 「気は着から」
 ・・・・・・服装が人の「気」に及ぼす影響を甘く見てはいけない。

 
 きっと、クールビズの掛け声の下で、私腹を肥やしている奴もいるだろう。
 逆に、クールビズの掛け声の下で泣いている、商売が立ち行かなくなった洋服屋やネクタイ屋、ボタン屋に生地屋、仕立て職人たちは、少なからず存在する。
 こんな人たちの暮らしのことはどうしてくれるのだ。

 「時代の流れに合わせた経営努力、技術革新」、そんなことが誰にでも要求されるというのは、理論の傲慢である。変らないからこそずっと受け継がれてきた「技」や「美意識」は必ずある。それは流行り廃りとは別のものであるはずだ。


 クールビズやエコを主張する人たち、あなた方の主張は正しいかもしれない。しかし、洋服屋の息子として敢えて問う。自らの主張の陰でどれほど多くの人が泣き、生活が立ち行かなくなり、地獄を見ているか、一度でも想像したことがあるか。

 そういう人たちはよく、「人の命は地球より重い」と言うが、地球環境のためなら洋服屋を殺しても平気だというのでは、倒錯してないか。 そんな粗雑な想像力で「地球環境」を語るのか。耳当たりのよい主張の陰で泣いている人たちを踏みにじっておいて、なにが「地球にやさしい」だ。


 9年前の秋、クールビズの掛け声とともに仕事の受注が激減した紳士服店経営の父は、癌に犯された体で必死に頑張ったが、ついに寿命が尽き、失意のうちに死んだ。

 父の店を自分の手でたたむとき、大量に売れ残った夏物生地の在庫の山を見て、私は、「エコ」とか「クールビズ」とか、そういう思想、運動には一生背を向けて生きていこうと誓った。

 威勢のいい言葉、耳当りのいいスローガンも、それを声高に主張する人間も、私はけっして信用しない。
 そして、今年の夏も、私はネクタイを締めジャケットを着て仕事に臨むつもりだ。

 アロハやサンダル姿でできるほど、薄っぺらな仕事はしたくないし、自分の仕事に誇りを失いたくないと、私は自戒をこめて思っている。社会人としての矜持を地球環境のために捨てられてたまるか。


 昨今の日本のクールビズブームは、人格を貶めるものである。






珊瑚海海戦72年(5月7日~8日)

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 あまり話題にならないが、5月7日から8日にかけては、昭和17年、日米機動部隊が激突し、史上初の空母対空母の戦いとなった「珊瑚海海戦」からちょうど72年である。

 私はこの海戦に参加した五航戦の搭乗員の方に何人か、そして「祥鳳」戦闘機隊の石川四郎さんにもお会いしているが、中でも「翔鶴」戦闘機隊の佐々木原正夫二飛曹(のち少尉、甲飛4期)は、ご本人が詳細な日記を残しておられたこともあって、じつに印象的なお話を伺った。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 フィリピンから蘭印攻略にかけての第一段作戦は想像以上に順調に進んだが、次の第二段作戦をどうするのか、海軍部内でも議論が分かれるところであった。実戦部隊の総指揮官である山本聯合艦隊司令長官は、早期の戦争終結をめざして、積極的な作戦構想を抱いていた。

 まず、米軍が基地を構えているミッドウェー島を占領、米空母部隊を誘い出してこれを一挙に撃滅する(「MI作戦」)。しかしこれは、米海軍の拠点であるハワイに近く危険な上に、敵艦隊が出てくるかどうかも不透明、占領後の補給と防衛も困難な、リスクを伴う作戦であった。

 いっぽう、海軍の全作戦を司る海軍軍令部は、サモア、フィジーとニューカレドニアを攻略して、米豪間の海上交通路、航空路を遮断する「FS作戦」を計画していた。

 軍令部は当初、ミッドウェー作戦に強く反対していたが、山本の強い意向で、昭和十七年四月五日、聯合艦隊のミッドウェー作戦案をしぶしぶ承認する。同時に、軍令部は、米軍による北からの反攻に備えて、北太平洋・アリューシャン列島要地を攻略する作戦案(「AL作戦」)を提議、聯合艦隊もこれに同意した。

 四月十八日のドゥーリットル空襲のショックで、軍令部も一転、敵艦隊をミッドウェー沖に求めて撃滅することに積極的な態度を見せるようになった。陸軍も、海軍に協力してミッドウェー島攻略に兵力を送ることを決めた。


 ミッドウェー作戦の準備が進められている間にも、戦局は動いていた。東南アジアのほぼ全域を掌中におさめた日本陸海軍は、こんどはオーストラリアから東南アジアへの連合軍の反攻拠点となりうる東部ニューギニアの要衝、ポートモレスビーを攻略することを決める(「MO作戦」)。ここを占領することができれば、豪州を孤立させるまであと一歩である。それだけに、聯合軍にとっては何が何でも死守しなければならない場所であった。

 日本海軍は、ポートモレスビー攻略作戦を支援するため、第五航空戦隊の空母「翔鶴」「瑞鶴」を主力とする機動部隊を珊瑚海に派遣する。米海軍は、日本側の上陸作戦を封じようと、空母「レキシントン」「ヨークタウン」を主力とする機動部隊を差し向ける。両軍機動部隊は、五月七日から八日にかけて激突した。

 「珊瑚海海戦」と呼ばれる、この史上初の空母対空母の戦いで、五航戦は「レキシントン」を撃沈、「ヨークタウン」にも損傷を与え、米軍の飛行機六十九機を失わせたが、日本側も、ポートモレスビー上陸部隊を輸送する船団護衛の任務についていた小型空母「祥鳳」が撃沈され、「翔鶴」が被弾、飛行機約百機と、真珠湾攻撃以来歴戦の、多くの搭乗員を失った。

 この海戦では、零戦と米海軍のグラマンF4Fワイルドキャット戦闘機との間で、初めて本格的な空戦が繰り広げられている。「翔鶴」零戦隊の佐々木原正夫二飛曹は語る。

 「約四十機の敵戦闘機に対し、優位な高度から零戦九機で突入しました。敵は翼端を断ち切ったような形のずんぐりしたグラマン戦闘機で、灰色に塗られている。私は、側方から急上昇してくるグラマンに機首を向け反航して、相手が私の零戦との正面衝突を避けようと急反転したところに機銃弾を叩き込み、そいつは火を噴いて墜ちてゆきました。
 続いて、白煙を噴きながら上昇してくるグラマンを狙い、そいつも一撃で撃墜。そのとき、七ミリ七機銃の弾丸が詰まったので、いったん高度をとって空戦場を離脱し、操縦席の両前にある七ミリ七の装填レバーをガチャン、ガチャンと操作して詰まった薬莢をはじき出しました。弾丸が出ることを確認してふたたび突入すると、味方の艦攻がグラマンに追われているのが見えたので、急降下して、距離二百メートルから射撃、このグラマンを海面に激突させました」

 佐々木原二飛曹が回想するように、零戦はグラマンF4Fを相手に、きわめて有利な空戦を行なった。零戦隊がF4F四十機をふくむ九十九機の撃墜を報じた(米軍記録では、空戦による損失は三十三機)のに対し、空戦で失われた零戦は二機に過ぎない。


 しかし、この海戦のため、肝心のポートモレスビー攻略が中止に追い込まれ、作戦そのものは失敗に終わっている。これは、日本にとって開戦以来初めての、大きなつまづきであった。


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 佐々木原さんの日記には、敵艦隊攻撃の模様、同期生の戦死、また、機上戦死した艦攻の新野飛曹長が両眼をカッと見開いたまま血まみれで運ばれる模様などが克明に記されているが、詳細は拙著『零戦最後の証言』(光人社NF文庫)を参照されたい。


 珊瑚海海戦で「翔鶴」が損傷したことから、佐々木原さんら若手戦闘機搭乗員5名は、「臨時隼鷹乗組」を命じられ、ミッドウェー作戦の陽動作戦であるアリューシャン作戦にも参加している。


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 アリューシャン作戦を前に、「臨時隼鷹乗組」の辞令を持って、隼鷹に助っ人として乗組んできた搭乗員たちがいる。山本一郎一飛曹(操練五十期)、佐々木原正夫二飛曹(甲飛四期)、田中喜蔵三飛曹(操練四十六期)、河野茂三飛曹(操練五十一期)、堀口春次三飛曹(同)の五人で、いずれも五月七日から八日にかけて戦われた史上初の空母対空母の戦い「珊瑚海海戦」で、被弾損傷して内地に帰り、目下修理中の翔鶴乗組の戦闘機搭乗員たちであった。
 「隼鷹」は、なんとこの作戦が処女航海という、ぶっつけ本番の出撃だった。

 「隼鷹は、新造空母だけど搭乗員が揃わなかったんですね。そこで、翔鶴はどうせ一、二ヶ月は出られない、ということで貸し出されたんでしょう。今でいうアルバイトですよ」
 と佐々木原氏は回想する。

 彼らはこの作戦が終了すると、全員が再び翔鶴に復帰しているので、臨時雇いであることには違いはないが、アルバイトだろうがパートタイマーだろうが、開戦以来、機動部隊で実戦経験を積んできたパリパリの若手搭乗員の加入は、「隼鷹」にとっては大いに心強いものであった。


 以後の話は拙著『零戦隊長~二〇四空飛行隊長宮野善治郎の生涯』(光人社)を参照されたい。


 佐々木原さんと同じく、「翔鶴」に乗組み珊瑚海海戦に参加した零戦搭乗員・小町定さんは、珊瑚海海戦55周年だったかのとき、アメリカで行われたシンポジウムにパネリストとして招かれた。そのとき、私は僭越ながら、
 「小町さんは艦長でも司令官でもなかったんですから、向こうの思う壺にはまらないでくださいよ」
 と申し上げたが、あとから聞いたところでは、アメリカ人司会者の
 「それで小町さんは、珊瑚海海戦は日米どちらが勝利したと考えていますか?」
 との質問に、つい正直に、
 「それは、日本側はポートモレスビー攻略を諦めたわけだから、日本の負けだと思う」
 と答えたところ、満場の拍手と「ブラボー!」の歓声、あまりにも無邪気というか率直なアメリカ人たちのリアクションに、
 「しまった!乗せられた」
 ……と思われたそうである。「一下士官の言うことではなかった」とも。
 確かに、そういうことは、当時四艦隊長官だった井上成美にでも言わせるべきだった。


 私は、じかに戦った世代ではないが、それでも敗戦を悔しく感じるのはこんな話を見たり聞いたりした時だ。
 


 あと一カ月足らずでミッドウェー海戦72周年である。

『特攻の真意』余話・山本栄大佐の部下への思い

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 三年前の夏に上梓した『特攻の真意』(文藝春秋)にも登場する、二〇一空司令・山本栄大佐という人が、私は大好きだ。
 二〇一空の前には二空・五八二空司令としてラバウル方面で苦しい戦いを一年以上も指揮し、半年強の短い間に大分空司令兼大村空司令、宇佐空司令、十三聯空附(高知空司令予定)を歴任して、昭和19年7月10日、二〇一空司令に発令され、同17日、二〇一空のいるダバオ基地に着任した。

 山本大佐は戦後、キリスト教に帰依し、フランシスコ・ザビエルの洗礼名で若い信者たちの崇敬を集めることになるが、戦時中につけていた日記を見ても、部下をはじめ人に対する情の深さが並々ならぬ人であったことがわかる。
 この司令が率いる航空隊が、最初に特攻隊を出すことになろうとは、と、なんともいえない気持ちになる。


 19年10月19日、大西瀧治郎中将がまさに特攻隊の編制を告げるためマバラカットの二〇一空本部に赴いたとき、大西中将と入れ違いにマニラの一航艦司令部に着いた山本大佐は、中島正少佐が操縦する零戦の胴体に同乗し、急ぎマバラカットへ戻ろうとしたところで不時着事故に遭い、左脚を骨折する重傷を負う。

 山本大佐はそこで、二〇一空の指揮を副長・玉井浅一中佐に委ねてマニラの海軍病院に入院するが、日記には、病院で世話になった軍医、従兵、婦長、看護婦らの名前と実家の住所が記され、それぞれへの感謝の言葉が綴られている。

 『癒えたると 祝ふが如く 敵機見舞ひぬ』
 『マニラの人間修理工場 白衣の天使田辺さん お陰で私もまた征ける 今度は修理が利くまいが 待ってて下さい大戦果
       片脚居士 山本栄(花押)』

 ・・・・・・といった具合である。



 特攻隊は、10月21日、初めて出撃し、この日、大和隊の久納好孚中尉が未帰還になり、23日には同じく大和隊の佐藤馨上飛曹が未帰還となっている。

 そして10月25日、時系列でいうと菊水隊、朝日隊、敷島隊、大和隊の順に敵艦に突入に成功するのだが、これら「第一神風(しんぷう)特別攻撃隊」指揮官・関行男大尉以下敷島隊の突入を見届けた直掩隊指揮官・西澤廣義飛曹長がセブ基地に着陸し、戦果を最初に報告する。
 セブ基地指揮官・中島正少佐は西澤飛曹長に、乗ってきた零戦を特攻隊に引き渡し、翌日、輸送機でマバラカットに戻ることを命じた。

 10月26日、西澤飛曹長は、列機の本田上飛曹、馬場飛長らとともに輸送機に便乗、マバラカットに向かうが、途中、敵戦闘機と遭遇、撃墜され、輸送機の搭乗員と便乗者は総員が戦死した。

 西澤飛曹長はその後、昭和20年8月15日付の「機密聯合艦隊告示(布)第172号」で、
 『協同戦果四百二十九機撃墜四十九機撃破、うち単独三十六機撃墜二機撃破の稀に見る赫々たる武勲を挙げた』
 と布告され、戦後もさまざまな書物で取り上げられているから、その非業の最期を知る人は多い。

 人の話題に上ることはまずないけれど、この同じ飛行機に、山本大佐の従兵・伊藤國雄一等整備兵が便乗、戦死した。
 一等整備兵ということは、戦地に出てきた兵隊のなかではもっとも下級の兵ということになるが、山本大佐の日記には、伊藤従兵を悼む気持ちが切々と綴られている。

 『一整伊藤國雄君を偲ぶ

 君は純真温順そのものだった。去る7月17日司令としてダバオに着任以来、司令従兵として公私共まことに気持ちよく誠心誠意やって呉れた。約二ヵ月、自分の様な短気者でさへ一度だって叱ったことがなかった。どの士官だって伊藤を叱った人は居るまい。

 飛行長に負けまいと思ってドミノの手入れを頼んだ時なんか終日磨いて呉れた。随分大工の手伝いもさせた。家庭の話を聞いたこともあった。洗濯もよくやって呉れた 身体も流して呉れた。我子の様に可愛かった。

 10月10日飛行機隊の進出と共に自分も一、二日の予定でマバラカットに進出した。これが最後の別れとは露知らなかった。
 19日自分は怪我をした。伊藤に世話して欲しいと思った。10月26日、伊藤一整は自分の荷物を全部持って輸送機に便乗、西澤飛曹長らと一緒にセブを出発した。
 ミンドロ島プエルト ガレラ附近で不幸G戦(グラマンF6F)二機と遭遇、恨みを呑んで猛火に包まれて撃墜されたのだった。

 伊藤!残念だったね! 』




 山本大佐は、戦後、戦友会や慰霊祭に出てきても、特攻の話は一切しなかった。自らの信仰についても誰にも言わなかったし、カトリックの信者たちにも、自分の過去を話さなかったという。

 昭和57年1月、85歳で死去。カトリック教会で行われた葬儀には、山本が元海軍大佐であったことを知らない若い信者が大勢集い、五八二空や二〇一空の元部下たちも駆けつけた。


 ある元部下の遺品のなかに、亡くなる数年前、五八二空の戦友会でカラオケを歌う山本栄氏の写真が残されていた。
 この人が、かの山本大佐だとは、もし、そのとき会ってもわからなかっただろうと思う。

  




一枚の写真から~硫黄島出撃前の第二五二海軍航空隊零戦隊~三沢基地にて

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 まずは写真をご覧いただきたい。

 

 この写真、いつ、どんなグループを撮った写真かお分かりになる人はいるだろうか。
 楽しげといえば楽しげだが、なんだかやけくそな感じもする。みんなもう相当酒がまわって酔っぱらっていることは伝わってくるだろう。

 写真自体は、いくつかの本に掲載されているから見覚え
のある人もいるかも知れないが、間違った解説(おそらく取材ではなく想像で書かれた)が付記されているものが目立つ。だからちゃんと取材した上で、通説の誤りを正しておく。


 正解は、昭和19年5月27日(当時は祝日だった海軍記念日)、青森県の三沢基地宿舎で撮られた、第二五二海軍航空隊の司令、飛行隊長以下、零戦搭乗員の面々である

 女装している者もいるが、全員が男である(軍隊の隊内だから当たり前だが)。



 この日、三沢基地では、たまの祝日、しかも海軍記念日ということで、隊員たちの慰労演芸会や、一般客を基地内に招いての屋台を出したり、いまで言うところの「基地祭」あるいは「オープンハウス」が予定されていた。

 隊員たちは猛訓練の合間に、分隊対抗の演芸会の出し物を考えたり、練習をしたりしてその日のことを楽しみに待っていた。

 ところが、準備万端ととのった当日の朝になって、所在の第二十七航空戦隊の先任参謀が、
 「この非常時に演芸会などもってのほかである」
 と、予定の全てを中止するよう命じてきたのである。すでに演芸用に衣装を着替え、顔に白粉を塗ってスタンバイしている者もいたほどのギリギリのタイミングだった。


 事実、この頃には中部太平洋方面の風雲急を告げ、非常時であることには間違いない。
 みんな、楽しみをつぶされてぶつぶつ言いながらも、日常の日課をこなそうとしていた。

 ・・・・・・すると、宿舎の入り口近くで、
 「おーい、汁粉はどこだぁ?」
 というのんびりした声が聞こえる。

 角田和男少尉が見ると、それは二十七航戦司令官・松永貞市中将だった。
 松永は、「しるこ券」と書かれた券をひらひらさせながら、汁粉の屋台を探していたのだ。

 つまり司令官は、基地祭が中止になったということを知らずにいた。中止させたのは、先任参謀の独断だったのである。これは、幕僚としての明らかな越権行為である。


 このことで、隊員たちの不満に火が付いた。
 用意していた酒や食料を全部出してきて、演芸の衣装もそのままに、昼間から宿舎でヤケ酒を飲み続けた。

 日頃の司令部に対する鬱憤もあり、司令の舟木中佐までが加わっての宴会は夜半過ぎまで続いたという。


 しかし、話はこれで終わらない。

 翌28日朝。先任参謀が急遽、隊員たち総員のマラソン大会をやれと命じてきた。

 みんな、二日酔いで頭がガンガンするなか、広い三沢基地の周囲を一周走らされたという。

 角田少尉の話。
 「こんなとき、隊長の粟大尉、分隊長の木村大尉、桝本大尉はきれいなフォームで颯爽と走って上位を独占し、さすが海兵は違う、と思った。驚いたのは、命じた先任参謀もヒイヒイ言いながらも一緒に走ったこと。私は、この参謀にだけは負けられないと思い、結果は参謀がビリで私はビリから二番目でした。参謀がビリでも完走したのは立派でした」
 統率の筋道からいうと、おそらくこれは、汁粉を食いそこなった松永司令官から、参謀を通じて達せられた命令である。


 二五二空零戦隊は、翌6月下旬から7月にかけて硫黄島に進出し、その全力をもって米機動部隊艦上機を迎え撃ったが、衆寡敵せず、わずか3日の空戦で壊滅的な損害を被った。この写真に写っている若者たちの多くも硫黄島の空に散り、生き残った者もその大半は、のちに続くフィリピン決戦で戦死した。



 さてこの写真。

 顔が写っていない者もふくめ30人ほどが収まっているが、この写真のうち、1年3ヵ月後に生きて終戦を迎えたのは3人だけである。

 氏名が判明しているのは、

 前列左から、後藤喜一上飛曹(20.1.6特攻戦死)、宮崎勇飛曹長(生存・平成24年歿)、木村國男大尉(19.10.14台湾沖戦死)、飛行隊長・粟信夫大尉(19.6.24硫黄島戦死)、司令・舟木忠夫中佐(20.7.10フィリピン・クラーク戦死)、花房亮一飛曹長(生存・戦後没

 2列目右から二人目・桝本真義大尉(19.6.24硫黄島戦死)、村上嘉夫二飛曹(女装・19.11.5フィリピン・マバラカット戦死)、勝田正夫少尉(19.6.24硫黄島戦死)、成田清栄飛長(19.7.3硫黄島戦死)、
 成田飛長の左上・角田和男少尉(生存)、角田少尉の上・(化粧姿)若林良茂上飛曹(19.12.15フィリピン沖特攻戦死)、その右・橋本光蔵飛曹長(19.6.24硫黄島戦死)

 舟木中佐以外は全員が、10代後半から20代半ばの若者だった。



 拙著『特攻の真意』(文藝春秋)でも書いていることだが、舟木中佐の最期は悲劇的だった。

 特攻戦死した若林良茂上飛曹は、母一人子一人で、航空兵志願を母に反対された若林は、徴兵で海軍に入った後、母に内緒で同意書をつくり、内部選抜の丙種予科練を経て戦闘機搭乗員になった。若林の母は、戦後、角田和男さんが訪ねていくまで、息子が戦闘機乗りになったことを知らずにいた。

 リンガエン湾の米上陸部隊に向け特攻戦死した後藤喜一上飛曹は、一度出撃して敵艦に爆弾を投下して帰投したのを玉井浅一中佐、中島正中佐に強く叱責され、まるで別人のようにやつれ果てた姿で再度出撃して還らなかった。



 一人一人の人生や思い、その家族のことなどを思うとたまらない気がする。
 だからと言って、
 「この悲劇を二度と繰り返してはならない」
 と、紋切り型の結論で片づけてしまうのも、なんだか違う気がする。



海原会慰霊祭に参列しました。

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25日は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)で行われた公益財団法人海原会(予科練出身者の会)主催の慰霊祭に参列させていただきました。





零戦搭乗員では、堺周一さん、大石治さん、野口剛さん、岩倉勇さんらのお顔が見られましたが、年々参列者が減少するのは如何ともし難いものがあります。今年は、私の知る限り、甲飛、乙飛、丙飛とも、一桁台のクラスの方は見当たりませんでした。ただ、乙飛7期西澤廣義飛曹長(戦死後中尉)のご遺族など、はじめて参列される方もふくめ、ご遺族、ご家族のご参加が増えたのはよいことだと思います。


慰霊祭、懇親会ののちは、NPO法人零戦の会の有志とともに、同じく茨城県の故角田和男さん(乙飛5期、中尉、平成25年2月歿)のお墓参りに行きました。ちょうど田植えが終わったところで、水を張った田んぼに夕日が映えてとてもきれいでした。



茨城の広大な大地と広い空が、私は大好きです。



帰りはSAで親子丼。


海軍記念日(日本海海戦109年)

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今日5月27日は、日露戦争の日本海海戦で、日本海軍聯合艦隊がロシア・バルチック艦隊を破って109年の記念日である。

司令長官東郷平八郎大将が座乗する旗艦「三笠」の檣楼トップにZ旗をはためかせ、指揮官先頭での奮闘の末、バルチック艦隊を殲滅した。




もしもあのとき、日本が負けていたら、間違いなくロシアの植民地あるいは属国となり、私の名前なども「ナオスキー」とかになっていたかもしれない。


戦争が終わるまで、毎年この日は「海軍記念日」といい、国の祝日だった。わけのわからん休日を増やすより、こういう大事な祝日を復活させればいいのに、と思う。

かろうじて、旗艦「三笠」が横須賀に保存されているけれど、米英相手の戦争に負けたからと言って、自存のために戦った日露戦争の歴史まで否定し去ってはいけない。

例年、この日は海軍関係の戦友会の集中日で、10年ほど前までは、5月27日の午前中など、東京駅は熱海へ向かう海軍の艦内帽を被った年配男性でいっぱいだったものだ。

ロシアによる植民地化を命を張って防いでくれた当時の帝国海軍軍人の皆様に、深い敬意と感謝の念を表したい。

『特攻の真意』文庫化!(文春文庫7月発売)

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このたび、拙著『特攻の真意』が文庫化されることになりました。
親本(単行本)から、サブタイトルが変更になります。

『特攻の真意~大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(文春文庫)
7月10日発売・496ページ・価格830円+税

単行本を上梓してから3年。神風特攻隊誕生から70年の節目の年に文庫化されるのは感慨深いものがあります。

「特攻の生みの親」とも評される海軍中将大西瀧治郎。
大西は、最後まで徹底抗戦を叫び、終戦の詔勅がラジオで流れた翌日未明、軍令部次長官舎で自刃しました。特攻で死なせた部下たちを思い、なるべく苦しんで死ぬようにと、介錯を断り、自らの血の海で半日以上も悶え苦しんだ壮絶な最期でした。残された遺書には、徹底抗戦を叫んでいた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め世界平和を願う言葉が書かれていました。

大西の副官・門司親徳氏(戦後興銀を経て丸三証券社長)、大西に特攻を命じられた元零戦搭乗員・角田和男氏の物語を軸に、大西の遺書の謎と「特攻の真意」についてサスペンス的要素を取り入れながら解き明かしていきます。文庫化にあたっては、加筆修正を加え、記述により正確を期しました。

巻末の解説は、NHK考証担当チーフディレクター大森洋平氏(ベストセラー『考証要集』文春文庫の著者)。稀代の名解説で、単行本とは別に、これだけでも文庫版を読む価値大です。

言うまでもありませんが、完全ノンフィクションです。

皆さん、どうぞよろしくお願いいたします!

iPhoneのケース

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iPhone5S用にケースを買いました。
Z旗です。


・・・テンション上がりますね。



有名ファッション誌が赤瀬川原平の名で勝手にコラムをねつ造!『Free&Easy』

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一度取材を受けたが、出版社としての常識ゼロで、やっぱりね、と思う。素人の「編集長」が、カッコつけて「エディター」なんて悦に入ってる、かなり痛い雑誌。トラッドファッションは好きだが、それにまつわる人間の頭が悪すぎる。ガッカリである。

このようなことがまかり通っては絶対にいけない。
常識的には廃刊レベルの不祥事だ。

あり得ない!有名ファッション誌が赤瀬川原平の名で勝手にコラムをねつ造!『Free&Easy』


http://matome.naver.jp/odai/2140194622292522601

PR: 9の日はQUICPayの日!キャンペーン実施中!

雑誌「Free&Easy」の捏造記事事件

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昨夜、投稿した雑誌「Free&Easy」の捏造記事事件について、ロック詩人・辻元よしふみ氏の6月4日付ブログに、文芸家の立場から興味深い記事が掲載されている。

ロック詩人・辻元よしふみのブログ

http://tujimoto.cocolog-nifty.com/tiger/2014/06/post-c6d7.html

記事につけられたコメントも合わせて、この雑誌を刊行している出版社や編集長の胡散臭さについても、じつにわかりやすく解説されている。思えば、この出版社の親会社であるテレビ制作会社の番組に出たことがあったが、雑誌の取材を受けたときと同様の感じを持ったことを思い出した。

ともあれ、このような問題を平気で起こし、ばれなきゃいいだろうという舐めた雑誌をのさばらしていては絶対にいけない。これは、出版に関わるものすべてにとって共通の「敵」である。

少なくとも私は金輪際、買わないし、人にも買わないように勧めよう。



改めて該当号を読み返してみたが、ほんと、痛い雑誌だ。
文章力ゼロの編集長による、既存の記事のツギハギで構成されたすこぶる読みにくいページを見ても、これがプロの「エディター」による仕事などでは断じてないことがわかる。

一刻も早い退場を。


元「桜花」搭乗員浅野昭典さんを囲む会のお知らせ(NPO法人零戦の会)

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告知が遅くなり、申し訳ありません。


NPO法人零戦の会では、6月28日(土)、元「桜花」搭乗員浅野昭典さんを囲む会を開催いたします。

浅野さんは昭和3年11月横浜生まれ。18年10月第13期甲種飛行予科練生に採用されて松山海軍航空隊に入隊、19年5月予科練教程終了後、6月から翌年1月まで大村空での飛行練習生課程を経て、20年1月七二一空(神雷部隊)附を命じられ特攻機「桜花」の搭乗員となられます。同年2月に「桜花」錬成部隊である七二二空(竜巻部隊)附に、さらに7月には陸上からカタパルト発射される「桜花四三乙型」の訓練部隊である七五五空附となって比叡山で終戦を迎えられました。

開催要領は下記のとおり。奮ってのご参加をお待ちいたしま す。

日時:平成26年6月28日(土)午後1時30分~4時 場所:航空会館(東京都港区新橋1-18-1、地図は http://www.kokukaikan.com/tizu.htm)

会費:3000円(会場費、飲み物代ふくむ※講演会形式で食事 は出ません)当日、受付にて集金。 定員:20名・なお定員に達し次第締め切らせていただきま す。 (皆様、くれぐれも遅刻なきよう、5分前までに集合でお願 いします。念のため、服装は、男性の場合、なるべくネクタイ 着用、女性もこれに準じた服装でお願いします。)

ご参加いただける方は、年齢・性別・会員であるなしを問い ません。参加ご希望の方は、NPO法人「零戦の会」・「囲む 会」専用メールアドレス

zerosennokai@yahoo.co.jp

(担当:井上副会長。「囲む会」以外のご用件については対 応いたしかねます) に、ご参加ご希望の旨とともに、①ご住所 ②お名前(フルネーム)③お電話番号(携帯もしくは固定)④ ご年齢・ご職業および⑤飲み物の希望(コーヒー・ミルク ティー・レモンティーいずれもホットのみ)を明記の上、電子 メールでお申し込みください。 (これまでご参加いただいた方 はお名前とご住所だけで結構です) 折り返し、受付確認のメールを送らせていただくとともに、 ご案内ハガキ(概ね開催1週間前までに送付します)を郵送い たしますので、当日、このハガキを受付にお持ちください。 なお、同伴者がある場合は必ずその方の住所、氏名、電話番 号、年齢・職業も明記してください。 飛び入りでのご参加は不 可ですのでご注意ください。

申込み受付期限・平成26年6月20日(金)※ただし定員に達 し次第締め切らせていただきます。

※ご高齢ゆえ、不測の体調不良等による予定変更、あるいは 中止もあり得ます。その場合は当掲示板で随時お知らせいたし ます。ご参加確定の方には当会よりご連絡差し上げますが、念 のため当日お出かけの前に本掲示板をご確認ください。

ただし、「零戦の会」掲示板で「荒らし」行為をするなどか つて当会とトラブルのあった方、(いわゆるオフ会ではありま せんので)実名、住所、職業を明かさない方はお断りいたしま す。 大勢が参加予定の限られた時間ですので、あまりにもマニ アックなご期待にも沿いかねます。「取材」を目的とされる方 も、原則としてお断りいたします。 また、今後、年に一度の靖国神社における慰霊昇殿参拝や総 会など、当会の各種活動のお手伝いをいただける若い世代の方 は特に歓迎いたします。


ルンガ沖航空戦71年。

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今日、6月16日は、昭和18年、ガダルカナル島上空で日米両軍の航空部隊が激戦を繰り広げた「ルンガ沖航空戦」から71年。

我が母校、大阪府立八尾高校の前身、八尾中34期の大先輩で二〇四空飛行隊長の宮野善治郎海軍大尉(戦死後中佐)が零戦隊を率い戦死した日です。

71年前のこの日、ガダルカナル島ルンガ泊地の敵艦船を攻撃するため、五八二空の艦爆24機(指揮官・江間保大尉)を二〇四空、二五一空、五八二空の戦闘機計70機が護衛して出撃しました。

総指揮官は拙著『祖父たちの零戦』(講談社文庫)の主人公の一人で五八二空飛行隊長、進藤三郎少佐。


戦闘の詳述は避けますが、この日は米軍も、104機もの戦闘機を迎撃に発進させており、彼我入り乱れての約30分におよぶ大空中戦の結果は、のちに大本営より、
『大型輸送船4隻、中型輸送船2隻、小型輸送船1隻、駆逐艦1隻、いずれも撃沈、大型輸送船1隻中破、飛行機34機以上を撃墜』

またこの戦闘を「ルンガ沖航空戦」と呼称する旨発表されましたが、実際の戦果は、米側記録によると輸送船1隻が大破、戦車揚陸艦1隻が火災、飛行機6機だけだったといいます。


一方、日本側の被害は深刻で、艦爆未帰還13、不時着2、戦闘機未帰還15、不時着4、大破2に及んでおり、戦死した15名の戦闘機搭乗員の中には、二〇四空飛行隊長宮野善治郎大尉(海兵65)や、昭和15年9月13日の零戦初空戦で、その時も指揮官であった進藤三郎大尉(当時)の三番機を務めた大木芳男飛曹長(操練37)など、日本海軍の至宝ともいえるベテラン搭乗員たちがいました。


宮野大尉(戦死後中佐)は、海軍戦闘機隊屈指の名指揮官として知られますが、私の母校、大阪府立八尾高校(旧制八尾中学)の先輩で、宮野氏が旧制中学34期 (同期生には、プロ野球巨人軍の永久欠番4の黒澤俊夫や、元祖甲子園アイドル、14歳エースの稲若博がおり、前後数年のクラスには、ゴジラ生みの親のプロデューサー、田中友幸や塩じいこと塩川正十郎元財務大臣などがいます)、私が新制高校34期、生まれ年が宮野氏が大正4年の卯年で私がその48年後の卯年、生家も徒歩15分ぐらいのところにあって(宮野大尉の家はまだあり、勉強机も残っています)、家紋も一緒という、不思議なご縁を感じています。

宮野大尉の御姉様によると、その日、神棚の護符が風もないのにパタリと落ち、母親が、 「あ、今善治郎の飛行機が落ちた!」と言ったそうです。


宮野大尉については、光人社から『零戦隊長~二〇四空飛行隊長宮野善治郎の生涯』という600頁近い本を上梓しましたが、これほど上下を問わず慕われた人もめずらしいと思います。

部下の上官を見る目は厳しくて、多くの方のお話を聞いているとどこかで必ず悪口が聞こえてくるものですが、宮野大尉についていえば、元搭乗員はもちろん、整備科や看護科、主計科の人まで、ひとしく今も敬愛の念を持っておられるようです。


ある人の名前を出したときの相手の表情で、その人がどう思っているかというのは大体わかるものですが、「宮野大尉の後輩」というだけで、皆さん実になつかしそうに相好をくずされ、いかに慕われていたかが見て取れます。おかげでずいぶん得をさせていただきました。


宮野大尉が戦死した翌年に発行されたある雑誌に、「海軍戦闘機隊座談會」という16ページの大特集があります。出席者は、斎藤正久大佐、八木勝利中佐、中島正少佐、小福田租少佐、塚本祐造大尉、山口定夫大尉。そのなかで、
 小福田「宮野君が戦死した時はみんな泣いたさうだね」
 中島 「いゝ隊長だつたものね」
というくだりがあって、宮野大尉の戦死がいかに惜しまれていたかが窺えます。


というわけで、毎年のごとく、靖国神社にお参りしてきました。

この空戦を境にして、以後ソロモンの制空権は完全に敵手にわたることとなります。
私が零戦搭乗員の取材を始めた約20年前には、この日の空戦の総指揮官、進藤三郎少佐をはじめ、渡辺秀夫上飛曹、中村佳雄二飛曹など、何人もの当事者がご存命でしたが、空戦そのものに参加された方は、少なくとも二〇四空ではいらっしゃらなくなりました。



以下、補足。



宮野善治郎大尉の生年月日について、取材をしない筆者による「大正4年12月29日」というのがまかり通っているようですが、これは完全なる間違い。そんなものを鵜呑みにしてはいけません。宮野善治郎の生年月日は大正4年(1915)12月29日。本人の奉職履歴、海軍兵学校関連、家族、出身中学すべてにおいて確認できることです。念のため。(写真は奉職履歴)

 



未完の手記~レンドバ島上空空中戦71年(大野竹好中尉)

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 昭和十八年六月三十日は、レンドバ島上空で大規模な空戦があった日である。今日、平成二十六年六月三十日で七十一年になる。


 昭和十八年六月三十日、米軍は、日本海軍が飛行場を置くニュージョージア島ムンダの対岸のレンドバ島、ニューギニア東方のウッドラーク、トロブリアン両島、ラエ南方のナッソウ湾に同時上陸、続いてニュージョージア島のビル港、バングヌ島にも上陸を開始した。
 南東方面部隊指揮官・草鹿仁一中将は、レンドバ方面の敵艦船攻撃を命じるとともに、マリアナで再建中の二十一航戦(二五三空、七五一空、七月十五日二〇一空が加わる)に、作戦可能兵力をラバウルに進出させることを命じた。さらに聯合艦隊は、二航戦(隼鷹、龍鳳)飛行機隊を南東方面に投入することにした。


 六月三十日、レンドバ島への攻撃は全力を挙げて三回にわたって行われた。戦闘機はのべ二〇四空二十四機、二五一空二十四機、五八二空二十八機で出撃。

 二〇四空では、六月後半、海兵六十九期出身で、飛行学生三十七期を二月末に卒えたばかりの越田喜佐久中尉、島田正男中尉が着任したものの、いずれも実戦の経験が皆無であったため、このたびの出撃(十二機ずつ二次)の指揮は、二十三歳の渡辺秀夫上飛曹(丙二期、十二志)がとった。二〇四空零戦隊は、十八機(うち不確実四)の撃墜を報じ、全機が無事に帰還している。

 五八二空戦闘機隊は、一次、竹中義彦飛曹長以下十六機、二次、鈴木宇三郎中尉以下十二機が出撃、十二機(うち不確実二)撃墜の戦果を報じたが、藤井信雄上飛が自爆、八並信孝一飛曹(丙三期)、笹本孝道二飛曹(丙三期)が未帰還。

 二五一空は、九機(うち不確実一)の撃墜を報じたものの、飛行隊長・向井一郎大尉(兵六十三期)が自爆、分隊長・大野竹好中尉(同六十八期)、分隊士・橋本光輝中尉(同六十九期)、安藤宇一郎二飛曹(丙三期)、村上幸男二飛曹(丙十期)、福井一雄二飛曹(丙七期)、広森春一二飛曹(乙十二期)、岩野広二飛曹(甲七期)、小西信雄二飛曹(甲七期)が未帰還、他、不時着大破二機という大きな損害を出した。

 陸攻隊は二十六機が雷装して出撃、十七機が未帰還、艦爆隊は十機出撃、被弾四機、水上機隊零観十三機は敵戦闘機約三十機と交戦、未帰還七機。


 中でも、隊長、分隊長、分隊士を一挙に失った二五一空の受けた痛手は大きかった。五月の進出時にいた分隊長以上五名のうち四名、分隊士六名のうち三名を、初陣から一ヶ月半ほどの間に失い、残る分隊長は鴛淵孝中尉ただ一人、分隊士も林喜重中尉、磯崎千利少尉、近藤任飛曹長の三名を残すのみになったのである。大野中尉がラバウル進出以来、折に触れ書いていた手記は未完に終わった。





 ・・・・・・大野竹好中尉の絶筆となった未完の手記の、現物コピーを私は持っている。
 


 現物は、海兵六十八期のクラス会が保管していると聞いていたが、どうなっただろうか。
 この、文章が途中で終わっているのがなんとも痛ましい。


 この日、ムンダから空戦の模様を見上げていた、呉鎮守府第六特別陸戦隊の伊藤安一少尉にお話をうかがったが、
 「墜ちてゆくのはみな、友軍機ばかり。かわいそうでしたよ」
 とおっしゃっていた。


 これまで、大野中尉のこの手記はいくつもの書籍で紹介されてきたが、仮名遣いなどもふくめて編集部の手が加えられていることが多い。

 もっとも原文に近いのは、『零戦、かく戦えり!』(零戦搭乗員会編・文春ネスコ)に収載されているもの。この本は、文春ネスコ(当時)の小林昇さんと私が二人でつくった本だが、零戦搭乗員会の会報「零戦」に掲載された当事者の手記を集めたものだから、資料としても貴重な本である。
 在庫、まだあるのだろうか。


 大野中尉以下、レンドバ島上空で散華した英霊の冥福を祈りつつ。


 
 (大野中尉、大分空にて。)





『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』神立尚紀著(文春文庫)7月10日発売です!

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拙著『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』が文庫化され、本日、見本ができてきました。



710日発売ですが、Amazonでは予約受付中です。



特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか (文春文庫)/文藝春秋
¥896
Amazon.co.jp

 

『特攻の真意~大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(文春文庫)

710日発売・496ページ・価格830円+税(896円)

 

 

 文藝春秋より単行本を上梓して3年。神風特攻隊誕生から70年の節目の年に文庫化されたのは感慨深いものがあります。

 

「特攻の生みの親」とも評される海軍中将大西瀧治郎。

 

大西は、最後まで徹底抗戦を叫び、終戦の詔勅がラジオで流れた翌日未明、軍令部次長官舎で自刃しました。特攻で死なせた部下たちを思い、なるべく苦しんで死ぬようにと、介錯を断り、自らの血の海で半日以上も悶え苦しんだ壮絶な最期でした。残された遺書には、徹底抗戦を叫んでいた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め世界平和を願う言葉が書かれていました。

 

大西の副官・門司親徳氏(戦後興銀を経て丸三証券社長)、大西に特攻を命じられた元零戦搭乗員・角田和男氏を軸に、大西の遺書の謎と「特攻の真意」についてサスペンス的要素を取り入れながら解き明かしていきます。文庫化にあたっては、加筆修正を加え、記述により正確を期しました。

 

巻末の解説は、NHK考証担当シニアディレクター大森洋平氏(ベストセラー『考証要集』文春文庫の著者)。稀代の名解説で、単行本とは別に、これだけでも読む価値大です。

 

言うまでもありませんが、完全ノンフィクションです。

 

皆さん、どうぞよろしくお願いいたします!

 


大西瀧治郎中将墓所(鶴見・総持寺)にて。

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拙著『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(文春文庫)発売(7月10日)に先立ち、見本刷を持って横浜市鶴見・総持寺の大西中将墓所にお参りとご報告に行ってきました。



署名入り著書を墓前にお供えしました。少し、けじめがついた気がします。


七夕に想う~日本初のロケット戦闘機「秋水」2014

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 (写真は三菱重工業株式会社名古屋航空宇宙システム製作所史料館で、復元された秋水を2002年に私が撮影し、航空雑誌「Schneider7」に掲載したもの。奥に零戦五二型が見える)


 七夕の今日は、日本初のロケット戦闘機「秋水」が、昭和20年、横須賀基地で初飛行に失敗してから69年目にあたる。テストパイロットの三一二空分隊長・犬塚豊彦大尉(23歳)は、瀕死の状態で助け出されたが、翌8日午前2時に息をひき取った。

 このテスト飛行、どうして横空審査部ではなくいきなり実戦部隊の分隊長がやることになったのか、戦後も関係者の多くは首をひねっている。不思議と言えば不思議なことだ。

 わがNPO法人「零戦の会」のおもだった元搭乗員のなかでは、横空分隊長・岩下邦雄大尉、同先任搭乗員・大原亮治上飛曹(のち飛曹長)がこの時の一部始終を横須賀基地で目撃されている。


 2003年、文藝春秋の小林昇さん、「零戦の会」高橋事務局長とともに、大原さんのご案内で、横須賀海軍航空史跡めぐりをしたことがある。
 横須賀は、その気で見ると、防空壕が民間の倉庫に使われていたり、当時の建物も多く残っていて、史跡の宝庫だ。
 航空隊の隊門のところに、ずっと隊門を守ってきた先任衛兵伍長が家を立てて住み着き、今もそのご家族が住んでおられるという話には感動を覚えたものだ。

 午後、秋水の墜落地点の川のところに案内していただいた。天気は良好だった。
 「ちょうどあのあたりだ」
 大原さんが指を指される方向を見ながら、その時の状況を詳しくお聞きした。
 そして、大原さんが、
 「犬塚さんには気の毒だけど、あれは(飛行場に戻ろうとしたのは)搭乗員の判断ミス。バタコック、直進(離陸直後バタっとエンジンが止まればすぐに燃料コックを切り換えて、直進する)というのは搭乗員の鉄則です」
 ・・・・・・とおっしゃった途端、一天にわかに掻き曇り、真っ暗になったと思ったら、雷と共に大粒の雨が激しく降ってきたのだ。

 ほんの十数メートル離れたところに止めた車まで戻るのに、四人ともずぶ濡れになってしまった。
 前も見えない、滝のような雨。この日、この豪雨で、横須賀線の電車も止まったそうだ。

 大原さんは車の中で、「こりゃ、犬塚さん怒ったかな」とおっしゃっていたが、まさに「秋水一閃」・・・・・忘れられない夏の思い出となった。





 大原さんの回想――。

 「ちょうど秋水を左後ろから見る位置に陣取った。滑走路の脇には、大勢の人がいた。陸海共同開発だから、陸軍の人も並んでいた。

 いよいよ離陸、というときは、ロケット噴射をするからみんな機体の後ろからよけました。するとノズルから、ホヤホヤホヤっという感じで白煙が出て、間もなく轟音を上げて離陸滑走を始めた。
 滑走路の半分ほどのところで離陸、車輪を落とすと見る間にグゥーンと背中を見せて急上昇、45度ぐらいでしょうか、すごい角度だと思いましたね。見守る関係者がいっせいに拍手するのが見えました。
 ところが、高度4~500メートルに上がったと思われたときに、ババッバッバッという音がしてロケットが停止、秋水はすぐ右に急反転しました。

 急反転してしばらく戻って、それから旋回して飛行場に戻ろうとしたんでしょう。垂直旋回でずっと同じ調子で引っ張ってきたんですよ。貝山の手前、格納庫群の上を飛んだように思います。
 飛行機を低速で、垂直旋回で引っ張りすぎるとステップターンストールといって、失速してストーンとひっくり返っちゃう。
 だから私はそれを見ながら、あ、これはだめだ、だめだ、近すぎると思いました。

 いまで言うダウンウインド、風下のほうへ行くコースね、当時はこれを第三コースと言ったんですが、それがあまりにも滑走路から近かった。スピードのわりにね。
 そして飛行場の端まできたときに、ついに失速してバーンと、横になったまま飛行場の外堀に墜落、ものすごい飛沫が上がりました。

 しかし、飛行場に戻らずにそのまままっすぐ行っていれば助かったでしょう。その先は東京湾で、障害物は何もないんですから。
 事故教訓というのがあって、飛行機を助けて自分が死ぬようなことをしてはいけないと、常々言われているわけですよ。
 バタコックという言葉があって、バタッとエンジンが止まったら燃料コックを切り換えなさい、それから直進。これが常道なんです。

 エンジンが止まって、あんな狭い飛行場に戻ってくるのは通常では考えられません。予期しない事態が起きて、慌ててしまったんでしょうかね。

 犬塚大尉は重傷で救出されましたが、その日の夕方、入湯上陸の整列時に、当直将校が、
 『輸血の急を要する。O型の者は残れ』
 と。私はB型なのでそのまま外出しましたが・・・・・・。
 しかし、陸海軍期待の秋水の事故は、いまも目に焼きついていますよ」


 犬塚大尉のみたま安かれと七夕の星に祈りつつ。



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