
3月9日、NPO法人零戦の会主催、元
今回は特に、神雷部隊陸攻隊指揮官足立次郎少佐ご令孫、甲
野口さんは、神雷部隊桜花隊の初出撃の護衛戦闘機として
当会では、今後とも可能な限りこのような機会を設けて行
なお、インフルエンザ等で急遽ご欠席になった方々には、心よりお見舞い申し上げます。次の機会にはぜひ。
このところブログ更新が止まっていますが、それは、メインのパソコンをバージョンアップしたら、なぜかそのプラウザが非対応とかで、アメブロの投稿ができなくなってしまったためでした。
こういうの、困りますね。
思えば、ちょうど1年前、私はNHK取材班の大島さんと、ラバウルにいました。
私は熱帯の空気が肌に合っているらしく、滞在中は、日本にいては考えられないほど体調よく過ごせました。また機会があればいつでも行きたい場所です。
そのときの記事を再録してみたいと思います。
ラバウルに行ってきました
三年前の夏に上梓した『特攻の真意』(文藝春秋)にも登場する、二〇一空司令・山本栄大佐という人が、私は大好きだ。
二〇一空の前には二空・五八二空司令としてラバウル方面で苦しい戦いを一年以上も指揮し、半年強の短い間に大分空司令兼大村空司令、宇佐空司令、十三聯空附(高知空司令予定)を歴任して、昭和19年7月10日、二〇一空司令に発令され、同17日、二〇一空のいるダバオ基地に着任した。
山本大佐は戦後、キリスト教に帰依し、フランシスコ・ザビエルの洗礼名で若い信者たちの崇敬を集めることになるが、戦時中につけていた日記を見ても、部下をはじめ人に対する情の深さが並々ならぬ人であったことがわかる。
この司令が率いる航空隊が、最初に特攻隊を出すことになろうとは、と、なんともいえない気持ちになる。
19年10月19日、大西瀧治郎中将がまさに特攻隊の編制を告げるためマバラカットの二〇一空本部に赴いたとき、大西中将と入れ違いにマニラの一航艦司令部に着いた山本大佐は、中島正少佐が操縦する零戦の胴体に同乗し、急ぎマバラカットへ戻ろうとしたところで不時着事故に遭い、左脚を骨折する重傷を負う。
山本大佐はそこで、二〇一空の指揮を副長・玉井浅一中佐に委ねてマニラの海軍病院に入院するが、日記には、病院で世話になった軍医、従兵、婦長、看護婦らの名前と実家の住所が記され、それぞれへの感謝の言葉が綴られている。
『癒えたると 祝ふが如く 敵機見舞ひぬ』
『マニラの人間修理工場 白衣の天使田辺さん お陰で私もまた征ける 今度は修理が利くまいが 待ってて下さい大戦果
片脚居士 山本栄(花押)』
・・・・・・といった具合である。
特攻隊は、10月21日、初めて出撃し、この日、大和隊の久納好孚中尉が未帰還になり、23日には同じく大和隊の佐藤馨上飛曹が未帰還となっている。
そして10月25日、時系列でいうと菊水隊、朝日隊、敷島隊、大和隊の順に敵艦に突入に成功するのだが、これら「第一神風(しんぷう)特別攻撃隊」指揮官・関行男大尉以下敷島隊の突入を見届けた直掩隊指揮官・西澤廣義飛曹長がセブ基地に着陸し、戦果を最初に報告する。
セブ基地指揮官・中島正少佐は西澤飛曹長に、乗ってきた零戦を特攻隊に引き渡し、翌日、輸送機でマバラカットに戻ることを命じた。
10月26日、西澤飛曹長は、列機の本田上飛曹、馬場飛長らとともに輸送機に便乗、マバラカットに向かうが、途中、敵戦闘機と遭遇、撃墜され、輸送機の搭乗員と便乗者は総員が戦死した。
西澤飛曹長はその後、昭和20年8月15日付の「機密聯合艦隊告示(布)第172号」で、
『協同戦果四百二十九機撃墜四十九機撃破、うち単独三十六機撃墜二機撃破の稀に見る赫々たる武勲を挙げた』
と布告され、戦後もさまざまな書物で取り上げられているから、その非業の最期を知る人は多い。
人の話題に上ることはまずないけれど、この同じ飛行機に、山本大佐の従兵・伊藤國雄一等整備兵が便乗、戦死した。
一等整備兵ということは、戦地に出てきた兵隊のなかではもっとも下級の兵ということになるが、山本大佐の日記には、伊藤従兵を悼む気持ちが切々と綴られている。
『一整伊藤國雄君を偲ぶ
君は純真温順そのものだった。去る7月17日司令としてダバオに着任以来、司令従兵として公私共まことに気持ちよく誠心誠意やって呉れた。約二ヵ月、自分の様な短気者でさへ一度だって叱ったことがなかった。どの士官だって伊藤を叱った人は居るまい。
飛行長に負けまいと思ってドミノの手入れを頼んだ時なんか終日磨いて呉れた。随分大工の手伝いもさせた。家庭の話を聞いたこともあった。洗濯もよくやって呉れた 身体も流して呉れた。我子の様に可愛かった。
10月10日飛行機隊の進出と共に自分も一、二日の予定でマバラカットに進出した。これが最後の別れとは露知らなかった。
19日自分は怪我をした。伊藤に世話して欲しいと思った。10月26日、伊藤一整は自分の荷物を全部持って輸送機に便乗、西澤飛曹長らと一緒にセブを出発した。
ミンドロ島プエルト ガレラ附近で不幸G戦(グラマンF6F)二機と遭遇、恨みを呑んで猛火に包まれて撃墜されたのだった。
伊藤!残念だったね! 』
山本大佐は、戦後、戦友会や慰霊祭に出てきても、特攻の話は一切しなかった。自らの信仰についても誰にも言わなかったし、カトリックの信者たちにも、自分の過去を話さなかったという。
昭和57年1月、85歳で死去。カトリック教会で行われた葬儀には、山本が元海軍大佐であったことを知らない若い信者が大勢集い、五八二空や二〇一空の元部下たちも駆けつけた。
ある元部下の遺品のなかに、亡くなる数年前、五八二空の戦友会でカラオケを歌う山本栄氏の写真が残されていた。
この人が、かの山本大佐だとは、もし、そのとき会ってもわからなかっただろうと思う。
25日は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)で行われた公益財団法人海原会(予科練出身者の会)主催の慰霊祭に参列させていただきました。
零戦搭乗員では、堺周一さん、大石治さん、野口剛さん、岩倉勇さんらのお顔が見られましたが、年々参列者が減少するのは如何ともし難いものがあります。今年は、私の知る限り、甲飛、乙飛、丙飛とも、一桁台のクラスの方は見当たりませんでした。ただ、乙飛7期西澤廣義飛曹長(戦死後中尉)のご遺族など、はじめて参列される方もふくめ、ご遺族、ご家族のご参加が増えたのはよいことだと思います。
慰霊祭、懇親会ののちは、NPO法人零戦の会の有志とともに、同じく茨城県の故角田和男さん(乙飛5期、中尉、平成25年2月歿)のお墓参りに行きました。ちょうど田植えが終わったところで、水を張った田んぼに夕日が映えてとてもきれいでした。
茨城の広大な大地と広い空が、私は大好きです。
帰りはSAで親子丼。
今日5月27日は、日露戦争の日本海海戦で、日本海軍聯合艦隊がロシア・バルチック艦隊を破って109年の記念日である。
司令長官東郷平八郎大将が座乗する旗艦「三笠」の檣楼トップにZ旗をはためかせ、指揮官先頭での奮闘の末、バルチック艦隊を殲滅した。
もしもあのとき、日本が負けていたら、間違いなくロシアの植民地あるいは属国となり、私の名前なども「ナオスキー」とかになっていたかもしれない。
戦争が終わるまで、毎年この日は「海軍記念日」といい、国の祝日だった。わけのわからん休日を増やすより、こういう大事な祝日を復活させればいいのに、と思う。
かろうじて、旗艦「三笠」が横須賀に保存されているけれど、米英相手の戦争に負けたからと言って、自存のために戦った日露戦争の歴史まで否定し去ってはいけない。
例年、この日は海軍関係の戦友会の集中日で、10年ほど前までは、5月27日の午前中など、東京駅は熱海へ向かう海軍の艦内帽を被った年配男性でいっぱいだったものだ。
ロシアによる植民地化を命を張って防いでくれた当時の帝国海軍軍人の皆様に、深い敬意と感謝の念を表したい。
一度取材を受けたが、出版社としての常識ゼロで、やっぱりね、と思う。素人の「編集長」が、カッコつけて「エディター」なんて悦に入ってる、かなり痛い雑誌。トラッドファッションは好きだが、それにまつわる人間の頭が悪すぎる。ガッカリである。
このようなことがまかり通っては絶対にいけない。
常識的には廃刊レベルの不祥事だ。
昨夜、投稿した雑誌「Free&Easy」の捏造記事事件について、ロック詩人・辻元よしふみ氏の6月4日付ブログに、文芸家の立場から興味深い記事が掲載されている。
ロック詩人・辻元よしふみのブログ
http://tujimoto.cocolog-nifty.com/tiger/2014/06/post-c6d7.html
記事につけられたコメントも合わせて、この雑誌を刊行している出版社や編集長の胡散臭さについても、じつにわかりやすく解説されている。思えば、この出版社の親会社であるテレビ制作会社の番組に出たことがあったが、雑誌の取材を受けたときと同様の感じを持ったことを思い出した。
ともあれ、このような問題を平気で起こし、ばれなきゃいいだろうという舐めた雑誌をのさばらしていては絶対にいけない。これは、出版に関わるものすべてにとって共通の「敵」である。
少なくとも私は金輪際、買わないし、人にも買わないように勧めよう。
改めて該当号を読み返してみたが、ほんと、痛い雑誌だ。
文章力ゼロの編集長による、既存の記事のツギハギで構成されたすこぶる読みにくいページを見ても、これがプロの「エディター」による仕事などでは断じてないことがわかる。
一刻も早い退場を。
告知が遅くなり、申し訳ありません。
NPO法人零戦の会では、6月28日(土)、元「桜花」搭乗員浅野昭典さんを囲む会を開催いたします。
浅野さんは昭和3年11月横浜生まれ。18年10月第13期甲種飛行予科練生に採用されて松山海軍航空隊に入隊、19年5月予科練教程終了後、6月から翌年1月まで大村空での飛行練習生課程を経て、20年1月七二一空(神雷部隊)附を命じられ特攻機「桜花」の搭乗員となられます。同年2月に「桜花」錬成部隊である七二二空(竜巻部隊)附に、さらに7月には陸上からカタパルト発射される「桜花四三乙型」の訓練部隊である七五五空附となって比叡山で終戦を迎えられました。
開催要領は下記のとおり。奮ってのご参加をお待ちいたしま す。
日時:平成26年6月28日(土)午後1時30分~4時 場所:航空会館(東京都港区新橋1-18-1、地図は http://www.kokukaikan.com/tizu.htm)
会費:3000円(会場費、飲み物代ふくむ※講演会形式で食事 は出ません)当日、受付にて集金。 定員:20名・なお定員に達し次第締め切らせていただきま す。 (皆様、くれぐれも遅刻なきよう、5分前までに集合でお願 いします。念のため、服装は、男性の場合、なるべくネクタイ 着用、女性もこれに準じた服装でお願いします。)
ご参加いただける方は、年齢・性別・会員であるなしを問い ません。参加ご希望の方は、NPO法人「零戦の会」・「囲む 会」専用メールアドレス
zerosennokai@yahoo.co.jp
(担当:井上副会長。「囲む会」以外のご用件については対 応いたしかねます) に、ご参加ご希望の旨とともに、①ご住所 ②お名前(フルネーム)③お電話番号(携帯もしくは固定)④ ご年齢・ご職業および⑤飲み物の希望(コーヒー・ミルク ティー・レモンティーいずれもホットのみ)を明記の上、電子 メールでお申し込みください。 (これまでご参加いただいた方 はお名前とご住所だけで結構です) 折り返し、受付確認のメールを送らせていただくとともに、 ご案内ハガキ(概ね開催1週間前までに送付します)を郵送い たしますので、当日、このハガキを受付にお持ちください。 なお、同伴者がある場合は必ずその方の住所、氏名、電話番 号、年齢・職業も明記してください。 飛び入りでのご参加は不 可ですのでご注意ください。
申込み受付期限・平成26年6月20日(金)※ただし定員に達 し次第締め切らせていただきます。
※ご高齢ゆえ、不測の体調不良等による予定変更、あるいは 中止もあり得ます。その場合は当掲示板で随時お知らせいたし ます。ご参加確定の方には当会よりご連絡差し上げますが、念 のため当日お出かけの前に本掲示板をご確認ください。
ただし、「零戦の会」掲示板で「荒らし」行為をするなどか つて当会とトラブルのあった方、(いわゆるオフ会ではありま せんので)実名、住所、職業を明かさない方はお断りいたしま す。 大勢が参加予定の限られた時間ですので、あまりにもマニ アックなご期待にも沿いかねます。「取材」を目的とされる方 も、原則としてお断りいたします。 また、今後、年に一度の靖国神社における慰霊昇殿参拝や総 会など、当会の各種活動のお手伝いをいただける若い世代の方 は特に歓迎いたします。
昭和十八年六月三十日は、レンドバ島上空で大規模な空戦があった日である。今日、平成二十六年六月三十日で七十一年になる。
昭和十八年六月三十日、米軍は、日本海軍が飛行場を置くニュージョージア島ムンダの対岸のレンドバ島、ニューギニア東方のウッドラーク、トロブリアン両島、ラエ南方のナッソウ湾に同時上陸、続いてニュージョージア島のビル港、バングヌ島にも上陸を開始した。
南東方面部隊指揮官・草鹿仁一中将は、レンドバ方面の敵艦船攻撃を命じるとともに、マリアナで再建中の二十一航戦(二五三空、七五一空、七月十五日二〇一空が加わる)に、作戦可能兵力をラバウルに進出させることを命じた。さらに聯合艦隊は、二航戦(隼鷹、龍鳳)飛行機隊を南東方面に投入することにした。
六月三十日、レンドバ島への攻撃は全力を挙げて三回にわたって行われた。戦闘機はのべ二〇四空二十四機、二五一空二十四機、五八二空二十八機で出撃。
二〇四空では、六月後半、海兵六十九期出身で、飛行学生三十七期を二月末に卒えたばかりの越田喜佐久中尉、島田正男中尉が着任したものの、いずれも実戦の経験が皆無であったため、このたびの出撃(十二機ずつ二次)の指揮は、二十三歳の渡辺秀夫上飛曹(丙二期、十二志)がとった。二〇四空零戦隊は、十八機(うち不確実四)の撃墜を報じ、全機が無事に帰還している。
五八二空戦闘機隊は、一次、竹中義彦飛曹長以下十六機、二次、鈴木宇三郎中尉以下十二機が出撃、十二機(うち不確実二)撃墜の戦果を報じたが、藤井信雄上飛が自爆、八並信孝一飛曹(丙三期)、笹本孝道二飛曹(丙三期)が未帰還。
二五一空は、九機(うち不確実一)の撃墜を報じたものの、飛行隊長・向井一郎大尉(兵六十三期)が自爆、分隊長・大野竹好中尉(同六十八期)、分隊士・橋本光輝中尉(同六十九期)、安藤宇一郎二飛曹(丙三期)、村上幸男二飛曹(丙十期)、福井一雄二飛曹(丙七期)、広森春一二飛曹(乙十二期)、岩野広二飛曹(甲七期)、小西信雄二飛曹(甲七期)が未帰還、他、不時着大破二機という大きな損害を出した。
陸攻隊は二十六機が雷装して出撃、十七機が未帰還、艦爆隊は十機出撃、被弾四機、水上機隊零観十三機は敵戦闘機約三十機と交戦、未帰還七機。
中でも、隊長、分隊長、分隊士を一挙に失った二五一空の受けた痛手は大きかった。五月の進出時にいた分隊長以上五名のうち四名、分隊士六名のうち三名を、初陣から一ヶ月半ほどの間に失い、残る分隊長は鴛淵孝中尉ただ一人、分隊士も林喜重中尉、磯崎千利少尉、近藤任飛曹長の三名を残すのみになったのである。大野中尉がラバウル進出以来、折に触れ書いていた手記は未完に終わった。
・・・・・・大野竹好中尉の絶筆となった未完の手記の、現物コピーを私は持っている。
現物は、海兵六十八期のクラス会が保管していると聞いていたが、どうなっただろうか。
この、文章が途中で終わっているのがなんとも痛ましい。
この日、ムンダから空戦の模様を見上げていた、呉鎮守府第六特別陸戦隊の伊藤安一少尉にお話をうかがったが、
「墜ちてゆくのはみな、友軍機ばかり。かわいそうでしたよ」
とおっしゃっていた。
これまで、大野中尉のこの手記はいくつもの書籍で紹介されてきたが、仮名遣いなどもふくめて編集部の手が加えられていることが多い。
もっとも原文に近いのは、『零戦、かく戦えり!』(零戦搭乗員会編・文春ネスコ)に収載されているもの。この本は、文春ネスコ(当時)の小林昇さんと私が二人でつくった本だが、零戦搭乗員会の会報「零戦」に掲載された当事者の手記を集めたものだから、資料としても貴重な本である。
在庫、まだあるのだろうか。
大野中尉以下、レンドバ島上空で散華した英霊の冥福を祈りつつ。
(大野中尉、大分空にて。)
拙著『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』が文庫化され、本日、見本ができてきました。
7月10日発売ですが、Amazonでは予約受付中です。
『特攻の真意~大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(文春文庫)
7月10日発売・496ページ・価格830円+税(896円)
文藝春秋より単行本を上梓して3年。神風特攻隊誕生から70年の節目の年に文庫化されたのは感慨深いものがあります。
「特攻の生みの親」とも評される海軍中将大西瀧治郎。
大西は、最後まで徹底抗戦を叫び、終戦の詔勅がラジオで流れた翌日未明、軍令部次長官舎で自刃しました。特攻で死なせた部下たちを思い、なるべく苦しんで死ぬようにと、介錯を断り、自らの血の海で半日以上も悶え苦しんだ壮絶な最期でした。残された遺書には、徹底抗戦を叫んでいた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め世界平和を願う言葉が書かれていました。
大西の副官・門司親徳氏(戦後興銀を経て丸三証券社長)、大西に特攻を命じられた元零戦搭乗員・角田和男氏を軸に、大西の遺書の謎と「特攻の真意」についてサスペンス的要素を取り入れながら解き明かしていきます。文庫化にあたっては、加筆修正を加え、記述により正確を期しました。
巻末の解説は、NHK考証担当シニアディレクター大森洋平氏(ベストセラー『考証要集』文春文庫の著者)。稀代の名解説で、単行本とは別に、これだけでも読む価値大です。
言うまでもありませんが、完全ノンフィクションです。
皆さん、どうぞよろしくお願いいたします!
(写真は三菱重工業株式会社名古屋航空宇宙システム製作所史料館で、復元された秋水を2002年に私が撮影し、航空雑誌「Schneider7」に掲載したもの。奥に零戦五二型が見える)
七夕の今日は、日本初のロケット戦闘機「秋水」が、昭和20年、横須賀基地で初飛行に失敗してから69年目にあたる。テストパイロットの三一二空分隊長・犬塚豊彦大尉(23歳)は、瀕死の状態で助け出されたが、翌8日午前2時に息をひき取った。
このテスト飛行、どうして横空審査部ではなくいきなり実戦部隊の分隊長がやることになったのか、戦後も関係者の多くは首をひねっている。不思議と言えば不思議なことだ。
わがNPO法人「零戦の会」のおもだった元搭乗員のなかでは、横空分隊長・岩下邦雄大尉、同先任搭乗員・大原亮治上飛曹(のち飛曹長)がこの時の一部始終を横須賀基地で目撃されている。
2003年、文藝春秋の小林昇さん、「零戦の会」高橋事務局長とともに、大原さんのご案内で、横須賀海軍航空史跡めぐりをしたことがある。
横須賀は、その気で見ると、防空壕が民間の倉庫に使われていたり、当時の建物も多く残っていて、史跡の宝庫だ。
航空隊の隊門のところに、ずっと隊門を守ってきた先任衛兵伍長が家を立てて住み着き、今もそのご家族が住んでおられるという話には感動を覚えたものだ。
午後、秋水の墜落地点の川のところに案内していただいた。天気は良好だった。
「ちょうどあのあたりだ」
大原さんが指を指される方向を見ながら、その時の状況を詳しくお聞きした。
そして、大原さんが、
「犬塚さんには気の毒だけど、あれは(飛行場に戻ろうとしたのは)搭乗員の判断ミス。バタコック、直進(離陸直後バタっとエンジンが止まればすぐに燃料コックを切り換えて、直進する)というのは搭乗員の鉄則です」
・・・・・・とおっしゃった途端、一天にわかに掻き曇り、真っ暗になったと思ったら、雷と共に大粒の雨が激しく降ってきたのだ。
ほんの十数メートル離れたところに止めた車まで戻るのに、四人ともずぶ濡れになってしまった。
前も見えない、滝のような雨。この日、この豪雨で、横須賀線の電車も止まったそうだ。
大原さんは車の中で、「こりゃ、犬塚さん怒ったかな」とおっしゃっていたが、まさに「秋水一閃」・・・・・・忘れられない夏の思い出となった。
大原さんの回想――。
「ちょうど秋水を左後ろから見る位置に陣取った。滑走路の脇には、大勢の人がいた。陸海共同開発だから、陸軍の人も並んでいた。
いよいよ離陸、というときは、ロケット噴射をするからみんな機体の後ろからよけました。するとノズルから、ホヤホヤホヤっという感じで白煙が出て、間もなく轟音を上げて離陸滑走を始めた。
滑走路の半分ほどのところで離陸、車輪を落とすと見る間にグゥーンと背中を見せて急上昇、45度ぐらいでしょうか、すごい角度だと思いましたね。見守る関係者がいっせいに拍手するのが見えました。
ところが、高度4~500メートルに上がったと思われたときに、ババッバッバッという音がしてロケットが停止、秋水はすぐ右に急反転しました。
急反転してしばらく戻って、それから旋回して飛行場に戻ろうとしたんでしょう。垂直旋回でずっと同じ調子で引っ張ってきたんですよ。貝山の手前、格納庫群の上を飛んだように思います。
飛行機を低速で、垂直旋回で引っ張りすぎるとステップターンストールといって、失速してストーンとひっくり返っちゃう。
だから私はそれを見ながら、あ、これはだめだ、だめだ、近すぎると思いました。
いまで言うダウンウインド、風下のほうへ行くコースね、当時はこれを第三コースと言ったんですが、それがあまりにも滑走路から近かった。スピードのわりにね。
そして飛行場の端まできたときに、ついに失速してバーンと、横になったまま飛行場の外堀に墜落、ものすごい飛沫が上がりました。
しかし、飛行場に戻らずにそのまままっすぐ行っていれば助かったでしょう。その先は東京湾で、障害物は何もないんですから。
事故教訓というのがあって、飛行機を助けて自分が死ぬようなことをしてはいけないと、常々言われているわけですよ。
バタコックという言葉があって、バタッとエンジンが止まったら燃料コックを切り換えなさい、それから直進。これが常道なんです。
エンジンが止まって、あんな狭い飛行場に戻ってくるのは通常では考えられません。予期しない事態が起きて、慌ててしまったんでしょうかね。
犬塚大尉は重傷で救出されましたが、その日の夕方、入湯上陸の整列時に、当直将校が、
『輸血の急を要する。O型の者は残れ』
と。私はB型なのでそのまま外出しましたが・・・・・・。
しかし、陸海軍期待の秋水の事故は、いまも目に焼きついていますよ」
犬塚大尉のみたま安かれと七夕の星に祈りつつ。