PR: ウイルス対策はカスペルスキー。パソコンから無料体験!
零戦隊指揮官・故宮野善治郎大尉(戦死後中佐)生誕98年。
今日、12月29日は、我が母校・大阪府立八尾高校が旧制中学だった頃の大先輩で、日本海軍戦闘機隊を代表する指揮官、拙著『零戦隊長~二〇四空飛行隊長宮野善治郎の生涯』(光人社)の主人公・宮野善治郎海軍大尉(戦死後中佐)の誕生日である。(大正4年12月29日)
もしご存命であれば満98歳だ。
宮野大尉の誕生日について、なぜか大正6年3月生まれという資料が出回っているけど、のちに述べるがこれは完全に間違い。大正4年12月29日生まれが正しい。
開戦劈頭のフィリピン・クラークフィールドの米軍基地空襲から、インドネシア、オーストラリア上空から北はアリューシャン列島まで、零戦隊を指揮して活躍し、昭和18年6月16日、ガダルカナル島の空で戦死した。享年27。
いまも、90歳を超えた旧部下から敬愛されている人格者で、困難な任務を進んで引き受ける有能な指揮官だった。
私は宮野大先輩のことを、高校一年の時、同じく旧制八尾中で宮野氏の先輩だった体育科の大木行徳先生(旧制八尾中~新制八尾高に、昭和18年から56年まで勤務)から聞かされた。
同じ長瀬川の川筋に家があり、家紋も同じ剣カタバミ、齢は4回り違いの同じ卯年、学年も、旧制中学34期と新制高校34期……。運命を感じて11年がかりで伝記を書き上げた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
この季節、部
宮野大尉の6歳年上の御姉様で、4年前に百歳の天寿を全うされ
そのさんが80歳の時、90歳までにちゃんちゃんこを
幼い時にスペイン風邪で父親を亡くし、病弱な母と幼い
「善治郎が子供の頃、こんな歌を歌ってくれましたんよ
と、歌をフルコーラスを聴かせてくださったものだった。
もったいなくて長らく箪笥にしまっていたのを、一昨冬、ガス給湯器故障で思い出し、着てみたら暖かいこと!
いろんな出会いがあって、人との
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
ところで、宮野善治郎大尉誕生日で思い出したが、私が書いた本について、お決まりの問い合わせがある。もう10数年同じことの繰り返しだけど、年に2,3回はこの種の問い合わせがある。手紙を書く人も面倒だろうし、返事を書く私も面倒なので、ここでお答えする。
Q.『零戦隊長』(光人社)に、宮野善治郎大尉の生年月日について、「大正4年12月29日」と書いてあるが、Webやものの本には「大正6年3月」とある。間違っているのではないか?
A.これはWebサイトや「ものの本」が間違っているので、大正4年12月29日で絶対に間違いありません。本人の奉職履歴、海軍兵学校関連、家族、出身中学すべて確認済みです。私ではなく「ものの本」の著者に訂正を呼びかけてください。(写真は奉職履歴)
花婿のいない結婚式~甲飛3期・大西貞明少尉(零式観測機搭乗員)のこと~
このところ、零戦映画の公開のせいか、更新をサボっているにも関わらず、当ブログには毎日5000前後のアクセスがある。
そんななか、映画の主人公になぞらえて過去記事をTwitterでご紹介くださった方がいた。
昨年の2月13日に投稿した記事だが、せっかくなので再掲する。
以下、時制は2012年2月13日現在。
今日、原稿を書くのに資料を整理してたら、元零式水上観測機搭乗員で全国甲飛会会長を務めた故・大西貞明さんからご生前、束になって送られてきた資料が出てきて、なかにはこんな写真があった。
太平洋戦争末期の昭和19年12月16日、『平安神宮にて妻・道子(19歳)と挙式』とあるが、よく見ると新郎が写真である。
ちょうどこの頃、大西少尉(当時22歳)は、フィリピンに押し寄せる敵機動部隊と、血みどろの戦いを繰り広げていたのだ。
結婚式の同時刻、新郎は敵機グラマンに向かって、
「いま、俺の結婚式の最中である。敵機よ!今日だけは俺を撃つな!」
と叫びながら戦っていたのだという。
大西さんは甲種飛行予科練習生(甲飛)3期生。
京都府議会議長の息子で、「身内から誰も戦死者が出ないと世間に顔向けができないから」と、兄弟のなかの戦死要員として海軍を志願した。
甲飛3期は、「未来の航空幹部養成」という海軍の募集のときの謳い文句と、実際の待遇が全然ちがうと、海軍としては前代未聞のストライキを起こしたクラスで、大西さんもその首謀者の一人だった。
だが、開戦に間に合い、もっとも使い頃のベテラン搭乗員として実戦で酷使されるようになると、彼らは「プロの飛行機乗り」の矜持を秘めて、黙々と、敢然と戦い続けた。
そして、入隊した同期生265名中、84パーセントにあたる223名もが戦死あるいは殉職した。
「かつてこの国に、金でも名誉でもなく、ただただ祖国に対する愛のために黙って死んだ若者たちがいたことを、いまの若者たちにも伝えなければならない」
と、大西さんはいつも言っておられた。
昭和20年1月、ルソン島に敵が上陸してきて炎上するマニラから残存の二機を率いてベトナムに脱出、その後、プノンペン南方100キロの秘匿基地で終戦を迎えた。
終戦間際、ドイツの敗勢で敵国になったラオス国境のフランス軍兵営を攻撃する命がくだり、日本陸軍の精鋭部隊に取り囲まれた兵営に試しに60キロ爆弾二発を落すと、あっさりと白旗が翻った。
「これが、日本海軍最後の勝ち戦だったかもしれない」
と大西さんは言う。
激戦のなか、フロートのついた水上観測機ではなかなか敵戦闘機と互角の戦いというわけには行かず、4度も空戦で撃墜され、「海軍の墜落王」を自認する。もっとも、「撃墜王」なんて、敗戦国にあるものか、と思っている。
大西さんが残した「墜落王の生き残り4原則」というのがある。
1.雲上快晴・・・・・・これは、ラバウル航空隊搭乗員の合言葉だった。「地上がたとえ、嵐や大雨であっても、めげずに高度6000メートルまで飛べ。そこには雲ひとつない快晴が、俺たちを待っている。ネバー・ギブアップ!先に悲観し、絶望したものから死ぬのだ。
2.8割人生・・・・・・炎のなかを大西という人間が8割の力で必死に墜落してゆく。その横で別の大西が、2割の力で、冷静に生きる指示を出している。それで生き残れたと信じている。人間、2割の余裕が大切だ。
3.人間は一人で生き一人で死ぬ。たとえ20歳で死んでも、100歳まで生きても、それは星の瞬きほどの瞬間でしかない。生きているだけは全力で生きてやろう。生きたければ、この機にしがみついてでも生きよ、と悟った。
4.いつ死ぬかわからない飛行機乗りは、思いつめると狂ってしまう。今日あったことは全部忘れてしまえ、明日は明日の風が吹く。あとはなるようにしか、ならない。
いかがですか?いまでも役立つ心がけだと思うけど・・・・・・。
以前にも書いたが、10数年前、私は大西貞明さんのインタビューで、京都を訪れた。大西さんは、たいへんな実業家でもある。眉目秀麗で、戦時中、予科練の募集ポスターのモデルを務めたこともある。
自分の勇姿に憧れて予科練に入隊した少年たちが、次々と特攻で戦死していったことを、大西さんは最期まで気に病んでおられた。
・・・・・・その大西さんに指定された待ち合わせ場所は、京都宝ヶ池プリンスホテル。
何か会議があってそれを済ませてからというので、ロビーで待つことしばし、大西さんが、千宗室(現・玄室・飛行科予備学生14期・徳島航空隊特攻隊員)氏、京セラのI氏、ソニーのM氏、サントリーS氏ほか、錚々たる京都の財界人、文化人と一緒に出てきた。
それと、小柄な可愛らしい若い女性が一人。
聞けば、この女性は、新疆ウイグル自治区の人で、井原西鶴に興味を持ち、ウルムチからはるばる京都の大学に留学に来たという。
女性の両親は高校教師だが、いままで貯えた全財産を、娘の夢の実現のために投じたらしい。
そして、京都市内のラーメン屋でアルバイトをしていたところ、大西さんの奥さんと出会い、話を聞いた大西さんが「ウルムチから井原西鶴の勉強とは感心な」と意気に感じて、京都財界に声をかけ、彼女に奨学金を出すことになった・・・・・・のがこの日の会議だったとか。
私は驚いた。さすが、京都。懐の深さがちがう。東京の財界ではこうはいくまい。
大西さんは、祇園の「一力」で、得意の「月の砂漠」を唄い、芸妓さんに「ここでこんなに上手に唄わはったんは、(大石)内蔵助はん以来どすえ」と誉められたのを自慢にされていたが、そんな歴史に裏打ちされた余裕というか義侠心というか・・・・・・。とにかく、留学生の彼女もその両親も、大西さんも、呼びかけに応えた京都財界の旦那衆も、みんなとてつもなくカッコいいと感じたのだ。
地図で見れば支那の西の果てだが、そこで学生が「井原西鶴」に興味を持つような文化的素地がどのようにあるのか、じつに気になる。その話を聞いて、私は俄然、ウルムチに行ってみたくなった。
数年後、大西さんの最愛の奥さんが急逝された。わずか1ヵ月半後、後を追うように大西さんも亡くなった。呆気ないほどのご最期だった。その人生の幕の引き方も、不謹慎かも知れないがカッコよかった。
私にとって、忘れられない人の一人である。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
大西貞明さんが遺した手記や写真をつらつらと見ていると、思うところが多い。
いただいたお手紙が何通かあるが、ものすごい癖のある字で、
「神立サンの爽やかな笑顔を見て嬉しく思いました」
など、非常にさばけた文面である。
戦後の写真も、祇園「一力」で芸妓さんと撮った写真をはじめ、美女と一緒におさまったものが多い。
「飛行機乗りに『酒と女とソラをつく』はつきものなり」
「美人水兵に熱愛を告げられる。その後ろでスネているのが千宗室中尉」
なんてコメントがつけられていたりもする。
だが大西さんは、ほんとうに戦時中の武勇談をしない人だった。
ベトナムから復員した大西さんは、同志社大学に入り、青春を取り戻そうとスキー部に入った。
しかし、嬉しいこと、楽しいことがあるにつけ、戦死した仲間の若い顔が浮かんでくるという。
明日は出撃という前の晩、若い搭乗員が部屋の隅で、机に向かって何かを書いている。
「何をしてる?」
と声をかけたら、三角函数を懸命に解いているのだ。
「何故だ?」
と聞くと、
「死ぬまで勉強したいんです」
そのあどけない顔が忘れられない。
フィリピンでの激戦を経て、ベトナムに脱出した頃、第一線に立つことのない一人の参謀が大西少尉に、
「大西君、戦争は人類最大の遊戯と言えないかね」
と話しかけてきた。退廃を気取るつもりなのかも知れないが、大西少尉は、思わず拳銃に手をかけるほどの憤りを感じた。
「私の隊では、毎日若い搭乗員が戦死している。遊びで死ねるなら貴方が先に死になさい!」
そのとき初めて、上層部の無責任さを感じ、戦うことに疑問を覚えたのだという。
大西さんだけではない。こんな最前線で戦い、10分の1に近い確率で生き残った人たちと直に接する機会がもてたのは、かけがえのないことだったとつくづく思う。
戦争にヒーローはいないし、「エース」とか「撃墜王」とかいうのも幻想にすぎない。もしあっても、それは、何らかの意図をもってプロパガンダの具にするためにつくられた偶像である。ましてや敗戦国の軍人を、英雄扱いするのは論理的に矛盾している。
敬愛する故・志賀淑雄少佐は、
「もしも、われわれのことを英雄視しようというのなら、貴方の取材にはお応えできない」
とおっしゃったものだ。
そんなイリュージョンをかき立てる読み物は相変わらず多いが、「事実」と「作りごと」をきちんと分別し認識した上で、いまの時代は歴史の延長線上にあり、かつて日本にはこんな人たちがいた、ということを知らなければならない。そして、その人たちの生命の上に、われわれの平穏な暮らしがあるのだと、哀悼と感謝の誠を捧げたい。
そういうことをきっちり伝えていくのがノンフィクションの務めだと思う。
一年の締めくくりに
初日の入り。
木村先生の新年写真展パーティーに行ってきました。(附・靴)
6日、恩師・木村惠一先生の写真展のパーティー会場(四谷・ポートレートギャラリー)に行ってきました。
学生時代から30年が経って、当時の先生の年齢を超えてしまったいまでも、前に出るとやはり緊張します。
パーティーの類にはなるべく出ないようにしていますが、今回は先生直筆のご案内をいただいたので。行ってみると、下町スナップの名手・秋山武雄さんやニコンの後藤さん、写真家の吉野信さん、各カメラ誌編集部の人たち、などなど、会場に入りきらないほどの人が集って盛況でした。
先生のご健康を願うばかりです。
さて、元旦以来、更新をサボっているにもかかわらず、当ブログのアクセス数は4500とかいう数字をキープしています。昨今の零戦ブームによるものかと思ったら、意外にも、もっともよく見られている画像は、元旦にアップしたブルックスブラザーズのコードバンローファー、つまり靴の写真でした。
私の実感では、マニアかどうかはともかく、(比較対象にはなりませんが)革靴に興味を持つ人は零戦に関心を持つ人よりも多い、気がします。
そこで、元旦以降、今年に入って外出時に履いた靴をいくつかアップしてみます。
反応によっては、不定期でシリーズ化してもいいかな、と。
まずは前掲のブルックスブラザーズのコードバンローファー(Alden)
25年選手です。オールデンの中敷きは、履き込むといい色に変りますね。
次に同じくブルックスブラザーズの、PEAL&Co.のウイングキルティタッセル。
PEAL&Co.はロンドンの伝説の靴屋ですが、1964年に廃業し、以後、ブルックスが商標やデザインを買い取って、製造元をいくつか変えながらもブランドを存続させています。
これは23年もので、PEALの製造工場がエドワードグリーンからクロケット&ジョーンズに変ったあとのものです。
同じくクロケット製のPEALのパンチドキャップトゥ。
当時、工場が変った時は雰囲気の明らかな差にかなりガッカリしたものですが、いま履いてみるとなかなかよいですね。
エドワードグリーンのセミブローグ。やはり20数年前に購入。筆記体ロゴの、旧202ラスト末期のものだと思います。いまでいう「カドガン」でしょうが、箱にモデル名は記入されていませんでした。
同じ時期の、外羽根のフルブローグ。なぜか大阪の阪神百貨店で買った記憶があります。1992年頃でしょうか?
上の2足より少し古い時期の、旧202ラストの「マルヴァーン」。シリアルNo.1091。
ユニオンワークス銀座店の鳥海店長によると、いまとなってはなかなかの貴重品だそうです。
ブルックスブラザーズがかつてラインナップしていた、「Brooks English」の、パンチドキャップトゥ。これも90年代はじめに購入。製造元はチャーチだそうです。現行のチャーチとは明らかに違う作りで(面影はありますが)、革質もかなりよいようです。
とりあえずこんな感じの新年です。
『零戦~搭乗員たちが見つめた太平洋戦争~』(講談社)再掲。
『零戦~搭乗員たちが見つめた太平洋戦争~』(講談社)
神立尚紀/大島隆之(NHK取材班)著
(370頁・定価1600円+税)

平成25年8月にNHK-BSプレミアムで放送され、来たる12月18日
※今回は、NHK取材班の若きディレクター・大島隆之さんとの共著です。
生存する関係者に可能な限り直接インタビューし、零戦隊
私が監修(戦時パート)として参加させていただいた映画「永遠の0」の予習、復習のガイドとしても好適です。
どうぞよろしくお願いいたします。
- 零戦 搭乗員たちが見つめた太平洋戦争/講談社
- ¥1,680
- Amazon.co.jp
講談社Webサイト
http://bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2187434
『祖父たちの零戦』(講談社文庫)も併せて是非!
お蔭さまで、年始に重版(8刷)がかかりました。

- ¥830
- Amazon.co.jp
生存確認&71年前の1月25日、二五三空中島三教飛曹長、ガダルカナル攻撃途上で不時着。
このところ更新をサボっているせいで、何人もの知人友人から「大丈夫か?」と聞かれる。
はい、大丈夫です。ちゃんと生きています。
ただ、このところ忙しいのと、突然、整理整頓に目覚めて、自宅にいるときはずっと大掃除をしているもので。
早いもので、ついこの間、年が明けたと思ったらもうすぐ1月も終わってしまう。
生存確認だけでは味気ないので、昨年1月23日に投稿した記事を。
25日は、敬愛していた元零戦搭乗員・中島三教飛曹長がガダルカナル空襲の途上、エンジン故障で不時着、捕虜になられた日である。71年前のこと。
以下、再掲。時制は昨年現在。
「いつまでもご記憶を鮮明にとどめられている秘訣はなんでしょう?」
と訊いたことがある。
門司さんは、90歳近くになっても、70年近く前に体験した戦争のさまざまな場面を、まるで写真に写し取ったかと思えるほどシャープにかつ筋道立てて記憶しておられた。
門司さんは、
「そうね、しいて言うなら、朝起きた時に、『今日は何月何日、昭和何年のこの日は何があって……』と思い出すよう習慣づけていることかな」
とおっしゃった。じっさい、門司さんからのお電話で、「昭和16年の今頃、ちょうど『瑞鶴』が単冠湾を抜錨した」とか、いただいたハガキに、「今日は台湾沖航空戦の何日目」と書かれてあって「へえ」と思ったことがよくあった。
それ以来、私も門司さんを見習って、「今日は何の日」というのを必ず反芻するように心がけているのだけれど。
ちょうど70年前の明後日、昭和18年1月25日は、拙著『零戦最後の証言』(光人社NF文庫)にご登場いただいた二五三空の中島三教飛曹長が、ガダルカナル島攻撃の途中で乗っていた零戦がエンジン故障を起し、ウィックハムに不時着した日である。

(昭和13年、十二空時代。抱えている犬の名は「蒋介石」といい、搭乗員たちのアイドルだった。「V基地」―九江基地にて)
前日の24日には、中島飛曹長は不時着機捜索の飛行艇直掩で、途中燃料補給を挟んで15時間も飛んでいる。25日は、故障機を整備した飛行機に搭乗したが、エンジンの調子が直っていなかったのである。
島のすぐそばに不時着水後、中島さんは泳いで陸地に上がるが、そこで「ニッポン、バンザイ」を唱えながら近づいてきた原住民に騙されて身柄を敵軍に拘束され、捕虜になった。
これは余談だけれど、当時二五三空の一員で甲飛5期本田稔さんの「私はラバウルの撃墜王だった」はじめ一連の回想録(書いたのは、最近まで三菱重工小牧南工場の史料館長を務めておられた岡野さん)では、中島さんはこのとき、フカに喰われたことになっている。これは誤認乃至は誇張である。本田さんはずっとのちまで、中島さんが捕虜になって戦後生還されたことはご存知ではなかったそうだ。
中島さんは自決、脱走を図るが果たせず、ニューカレドニア・ヌメアの捕虜収容所に送られ、そこでのちに直木賞作家となる豊田穣中尉と会う。豊田氏の直木賞受賞作「長良川」には、中島さんをモデルにした「海軍の兵曹長」が出てくる。
その後、ハワイを経て米本土のウィスコンシン州マッコイキャンプに送られ、ここでは一昨年末のNHKドラマの主人公になった「捕虜第一号」酒巻和男少尉とも一緒になった。のちテキサスキャンプに送られ、ここで終戦を迎える。
「日本に帰ってみたら、人の心はすさんでるし、歯がゆくて悔しくて、やっぱり戦争は負けるもんじゃないと思ったですな。
宇佐の家に帰ったら、母と弟がいました。私は戦死したことになっていたから、信じられなかったみたいでした。母が私の体をなで回して、おうおう泣き出して……。
最後に見たときはまだ一歳足らずだった長男坊が、もう四つになっていました。私の体のまわりをぐるぐる回って観察して、やっとわかったんでしょう。突然、『わあ、父ちゃんじゃ』言うて飛びついてきました。感激したですよ」

(戦地に赴く直前、わが子と撮った1枚)
中島さんはずっと捕虜になったことを恥じ、戦友会にも出ようとしなかったそうだが、同年兵で親友の原田要中尉の熱心な誘いで、「零戦搭乗員会」に出てこられるようになった。

(操練出身の元零戦搭乗員たち。平成8年8月、上野精養軒にて。左から田中國義、内藤千春、中島三教、戸口勇三郎、橋本勝弘、原田要、三上一禧の各氏。撮影は私)
私は別府のご自宅にも二日、お邪魔している。非常に謙虚で品のいいお人柄だった。
平成19年、93歳で亡くなる直前まで、必ずお年賀状をいただいていたが、そこには必ず、
「若い人に迷惑をかけながら余生をおくっています」
という意味のことが書かれていて、何とも言えない思いがしたものだった。
中島さんは、支那事変初期の活躍で、当時、その名は海軍戦闘機隊に鳴り響いていた。日本舞踊の名手でもあったという。
「大空のサムライ」で人気の高い笹井醇一中尉ら、海兵67期出身の飛行学生に、大分空で先任教員として戦闘機操縦の手ほどきをしたのも中島さんだ。
じつは『祖父たちの零戦』(講談社)を書いているとき、初稿では中島さんに関する記述がかなりあった。昭和17年はじめ、中島さんが大分空教員時代の分隊長が鈴木實大尉、4月に徳島空教員に移った時の飛行隊長が真珠湾帰りの進藤三郎大尉で、この本の主人公二人とも、中島さんの腕と人柄を高く評価されていたのだ。
頁数の都合で削らざるを得なかったのだが、鈴木大尉が頚椎骨折から復帰して操縦訓練を再開した時の列機が中島さんだった。
そのくだりをここに紹介する。
単機で一通りの特殊飛行をやり終えたところから。
「俺はできるぞ!」
思えば、海軍に身を投じたのは、こうして自由自在に空を飛びたかったからだ。ふたたび空を飛べたことが、鈴木にはぞくぞくするほど嬉しかった。
さっそく、列機を二機率いて、一個小隊での編隊飛行を試みる。一番機の左後方につく二番機には、大分空の下士官教員では最古参の中島三教(なかしまみつのり)一飛曹を指名した。中島は大分県出身の二十八歳、支那事変で九六戦を駆って五機の敵戦闘機を撃墜し、功六級金鵄勲章に輝いている。空戦の達人であると同時に、日本舞踊の名手でもあった。
「いいか、俺は左に首が曲がらないから、二番機の動きを見ることはできない。もしぶつかりそうになったらお前がよけてくれ」
編隊飛行の一番機は、つねに、ついてくる列機の動きを意識した操縦をしなければならない。旋回するときに速度をつけすぎると、外側の列機がふり放される。宙返りのときは十分に速度をつけて入らなければ、頂点までに列機が失速してしまう。首が回れば、列機の動きを目の端で追うこともできるが、とにかく左をふり返ることができないから、二番機には腕のいいのをつけるしかない。
「中島なら、どんな動きにもついてこられるはずだ」、そう信じて鈴木は、編隊でのスローロールや宙返りを繰り返し行なった。われながら上出来の操縦だったが、二番機から見て危なっかしくはなかっただろうか。
「分隊長、文句なしです。首が回らんようには見えんですな」
と、中島は言った。鈴木は、大いに気をよくした。
飛べるとなったら、とことん腕を試したくなる。鈴木は、大分空の教官、教員たちに、
「これから、俺が一番機で、九機編隊の宙返りをやる」
と宣言した。中島一飛曹は四月に徳島空に転出してしまったが、それ以来、飛行学生、練習生の飛行訓練が終わったあと、鈴木が大分空の教官、教員を引きつれて編隊飛行の訓練を行うのが日課になった。
鈴木實さんに、
「こんど別府の中島三教さんのご自宅に伺います」
と申し上げたら、
「三教(サンキョウ)か。彼は腕のいい搭乗員だったなあ」
と、目を細めておっしゃっていたものだし、その後、徳島空で直属隊長になる進藤三郎さんも、
「中島三教みたいなのが、『腕利き』って言うんだ。彼には安心して先任教員を任せられたね。本当は、二五三じゃなく、ウチの隊(五八二空)に引っ張りたかったんだけど」……と評価されていた。
そんな、いわば「隠れた至宝」的な人は他にも大勢いると思う。
「日露戦争 写真画報 第三十巻」博文館、明治38年8月8日発行
2月1日、祖母の誕生日。感謝をこめて。
土地の領主のお姫様育ちの祖母が19歳で嫁に行き、近所の産である祖父とともに満州に渡って、そこで20歳のとき、私
北朝鮮との国境の町、図們(ともん)で終戦を迎え、ソ連兵の暴
ほんとうに、ソ連兵は日本兵とは違い、一般の民間人にも暴力はふるう、女とみれば襲う、野蛮でろ
それだけ苦労して引き揚げてきたが、いちばん下の子は、岡山に帰り着いた翌朝に衰弱死し、当時7歳
当時27歳だった祖母が、子供を残留孤児にもせず、よく連れて
数年前、岡山を訪ねたとき、祖母に、
「お母さんを連れて帰ってくれてありがとう。おかげで僕が産まれて、本も出せた」
というと、施設のベッドで祖母はおうおう泣いた。まったく、身の危
「そう言うてもろうて、おばあちゃん、嬉しゅうて……。じゃけ
と、祖母は言う。
祖母の長命を、初孫(ういまご)として心から願う。
(現在の図們市(ともんし)は中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州
2月2日、「零戦初空戦」指揮官進藤三郎少佐ご命日。
2月2日は敬愛する元零戦隊指揮官・進藤三郎少佐のご命日である。もう14年になる。ご冥福をお祈りいたします。
奥さんからのお電話と、海兵60期クラス会幹事・石井稔さんからのお電話でご逝去を知ったのがつい最近のことのように思えるのに、もう、そんなに時間が経ったのかと思う。もしご存命なら103歳だ。
重慶上空での零戦の初空戦を指揮、また真珠湾攻撃の第二次発進部隊制空隊指揮官を務め、ラバウルでは五八二空飛行隊長としてガダルカナル島航空総攻撃の陣頭に立った進藤さんの手元に残った戦時中の書類のうち、焼却を免れたものは私が保管している。「零戦初空戦」を報じる新聞各紙(切抜きではなく丸ごと)がいまだ酸化を最小限にとどめてまるで数年前の新聞のように弾力を残しているのが不思議な感じである。
切抜きもあるが、そちらのほうはかなりボロボロ、保存状態のせいだろうか。
ちなみに、切抜きはこんな感じ。
進藤さんは戦後、戦争についてはほとんど口をつぐんでこられ、元搭乗員をはじめ海軍関係者の間でも、「進藤さんは人に戦争の話をしたがらないし、もし聞けても通り一遍なものになる」と言われていた。その進藤さんを、海兵同期の鈴木實さんのご紹介をいただき訪ねると、わざわざ玄関先まで出迎えてくださり、心を開いて話をしてくださった。当時の取材ノートを読み返すと、なんだか懐かしい。進藤さんの姿、声、いまもありありと思い出すことができて、この世の人ではないとの実感がどうも湧かない。
* * *
ところで、 拙著『祖父たちの零戦』(講談社)には意外にも女性読者が多いが、主人公の二人、鈴木實中佐と進藤三郎少佐の好みは割合はっきり分かれるらしい。
進藤さんに心惹かれるという読者の方が何人かいらしたので、『祖父たちの零戦』未収録エピソードから――。(敬称略)
(進藤三郎さん。昭和18年、ラバウルにて。当時大尉)
昭和十二年十二月一日、進藤は、空母「加賀」を降りて、戦闘機の訓練部隊として開隊した、佐伯海軍航空隊の分隊長になる。こんどは、晴れて士官室に入る立場だ。佐伯空では、練習機教程を終えて戦闘機専修になったばかりの、雛鳥のような搭乗員たちが、九〇戦での訓練に励んでいた。
三上一禧も、その中の一人である。青森県出身、昭和九年、海軍を志願し、横須賀海兵団に入団した三上は、操練三十七期を二番の成績で卒業し、十二年七月から佐伯で訓練を受けていた。三上は語る。
「佐伯の飛行場は佐伯湾に臨み、市街地をはさんで一方は山岳地帯。気流も悪く、初心者泣かせでした。ある時、着陸しようと接地態勢を整えるものの、なぜか着陸地点をオーバーしてしまう。やり直しても同じ。三回目、もうこれ以上の失敗は許されないと思い、目標地点よりオーバーしながら着陸しました。報告する時、進藤分隊長に、『機首を下げすぎて速度が残るんだ』と注意され、一言でハッと開眼できたような気がして、以後は完璧な着陸ができるようになりました」
また、三上より四ヵ月遅れで佐伯空に来た、操練三十八期出身の坂井三郎は、
「佐伯空には、上陸(海軍はすべて艦上生活が基本となるので、陸上基地からの外出でも「上陸」と言った)した下士官が、町中でうっかり欠礼したのを見咎めて、その家族の目の前でぶん殴るようなとんでもない士官もいたし、われわれ下士官兵に対しては、ツン、と澄ました顔をしたがる士官が多い中、進藤さんは飄々としていて、細かいことはあまり言わない。遊びのほうも相当なものだったようですが、それを部下に隠そうともしない。ざっくばらんで飾り気がない、操縦の腕もいいし、私たちにとってはいい親分でしたよ」
と、回想する。
海軍士官は転勤が多く、短くて半年足らず、長くても二年で、次の配置を言い渡される。進藤は、昭和十三年六月一日、海軍大尉に進級、七月末には第十三航空隊分隊長として中国大陸へ赴き、十二月には大村海軍航空隊分隊長として、また内地に帰還する。
大村空は、現在の長崎空港の陸側、自衛隊施設になっているところにあった。当時の進藤の思い出を、部下であった田中國義一空(一等航空兵、当時。のち少尉)は次のように語っている。
「大村から兵庫県の伊丹飛行場まで、進藤大尉と二人で汽車に乗って、飛行機の受領に行ったことがありました。一緒に、と言っても、進藤さんは士官だから二等車(いまのグリーン車に相当)で、一等兵の私は三等車です。
ふつうの士官ならこんな時、目的地に着くまでの間、顔を合わせることはないんですが、進藤さんは、二等車からのこのことやって来て、
『田中、俺は事故や喧嘩で、ほら、顔にこんなに傷があるだろう。だからか、町を歩いてると特高(警察)がついてきて、なんだかんだと質問してくる。俺は海軍の将校だ、と言うと、士官学校は何期か、と聞いてくる。だから、俺はそんなもんは出ておらん、海軍は兵学校というんだ、とからかってやった』
と、そんな話をしてくれた覚えがあります」
この当時から戦時中にかけては、民間から陸海軍に献納される飛行機も多かった。陸軍に献納された飛行機は「愛国号」、海軍に献納された飛行機は『報国号』と呼んだ。献納機を軍が受領するさいは、拠金者を招いて「命名式」を行い、そのお披露目として、編隊アクロバット飛行を行なうことになっていた。田中は、続ける。
「報国号の命名式は、国民に海軍を見てもらう絶好の機会、ということで、そのための訓練もやりました。ふつうは三機編隊で宙返りとか、一通りの特殊飛行をやるんですが、進藤さんは、ふだんは物静かなのに、意外に派手なことが好きな人で、むずかしい五機編隊の特殊飛行の練習も相当やりました」
田中は、昭和九年、志願して佐世保海兵団に機関兵として入団した。その後、横須賀航空隊の整備分隊に配属されるが、先任下士官の反対を押し切って操縦練習生を志願したことで隊の上官から睨まれ、三等兵から二等兵への進級が、他の同年兵より半年、遅れている。大村空に来るまでの十ヵ月間、中国大陸戦線で、敵機十三機(うち協同撃墜二機)を撃墜する戦果を挙げたが、それでも、進級は半年遅れのままであった。このことで、田中には、進藤について忘れられない思い出があると言う。
「せめて進級が同年兵と同じになるようにと、進藤大尉が、『支那事変における多数機撃墜』を理由に、特別進級の具申を、航空隊司令にしてくれたんです。話は司令から、私の人事を所轄する佐世保鎮守府に行き、結局、前例がないと却下されたそうですが、海軍にもこんな温情があるんだな、と嬉しかったですよ」
(下段右から二人目、田中國義一空)
「五省」と海軍兵学校の一日
旧帝国海軍の海軍兵学校に「五省」というものがあった。
一、至誠に悖るなかりしか
一、言行に恥ずるなかりしか
一、気力に缼くるなかりしか
一、努力に憾みなかりしか
一、不精に亘るなかりしか
……の五箇条からなる、生徒たちに自問自省を促す言葉だが、これを旧海軍の遺産として、ちょっと誤解した上でいまも有難がる向きがある。
誤解というのは、「五省」があたかも昔から存在し、海軍士官なら誰もが奉読していたという勘違いである。
海軍兵学校の教育の特質について、六十八期の松永市郎さん(終戦時大尉・平成十七年歿)は、生前、私に、
「海軍兵学校の教育の特質は、一人一人の背景を完全に度外視して、一人の個人として扱うことです。これは理屈としてはわかっても、実際にはなかなかそうはいかないことですね。
たとえば私たちの後輩には、吉田善吾海軍大臣の息子もいましたが、そんなのはお構いなしにぶん殴られる。基本的な生活態度から、一人の失敗でも連帯責任で全員が殴られる。言い訳をしようものならさらにその何倍も殴られます。
そうしているうちに、だんだん言い訳、泣き言、不平不満を口にしなくなってくる。それを後天的な性格にまで高めていくのが、兵学校の躾教育でした」
と語ったが、それは、将来戦場で、実際に部下の命を預かって先頭に立たねばならない立場になる将校生徒としての、いわば宿命であった。
「われわれは、『スマートで目先が利いて几帳面、負けじ魂、これぞ船乗り』と教えられました。『アングルバーで何ができるか、フレキシブルワイヤーでなければならない』と言うのもそうです。
これは、鉄の棒と鋼索では、一見、鉄の棒のほうが強く見えますが、よくしなるワイヤーのほうが、ものを自由に持ち上げたり動かしたりできることのたとえです。
いずれも、精神の柔軟性の大切さを物語っているのです」
……と松永大尉は言う。
海軍兵学校の一日はどのようなものだったか。昭和9年4月に入校した65期生の場合、以下のようなスケジュールだった。
総員起こしの喇叭で始まる兵学校の一日。
朝食は午前七時、長方形の大きな食卓には、皿に載った半斤のパンと白砂糖、それに味噌汁の入った大きな椀と大さじ、湯呑茶碗が一人分ずつ並べられ、ほかに薬缶と梅干が入った蓋付きの容器がところどころに置かれていた。半斤のパンは、切り方によって、焼き皮の厚いところとそうでないところがある。パンの周囲の焦げたところを「アーマー」(装甲)と称し、歯ごたえがある上に密度が高く実質的な量が多いので、生徒たちの多くは、そこの部分があたると喜んだものである。
朝食が終わると、午前八時から定時点検、午前、午後の課業が始まる。課業は、普通学(国漢、数学、外国語、地歴、物理、化学など)と軍事学(砲術、水雷、運用、航海、通信、機関など)の座学および実習であった。
中でも普通学、特に英数国漢、物理化学の教育は徹底していて、物理化学については、卒業したら専門学校の教員の資格が取れるほどのものであった。
教官も、軍事学の武官教官だけでなく、普通学の文官教官にも優秀な人材が配されていた。特に、英語の「源内先生」こと平賀春二教授は、生徒の敬礼に対し山高帽できりっと返す挙手の礼が印象的な、名物教官として親しまれていた。
午後の課業が終わると、別科訓練と呼ばれる各種訓練が、その日の別科表に基づいて、学年別、教務部別あるいは分隊別に分かれて行なわれる。柔道と剣道だけは、入校時にいずれを専攻するか分けられるが、その他の銃剣術、相撲、水泳、体操、射撃、通信(手旗・旗旈・発光・モールス各信号)、陸戦訓練、短艇(カッター)訓練は、全員が一律に受ける。
この他に、土曜日の午後や日曜日、ラグビーやサッカー、テニス、弓道に精を出す者もいた。別科ではないが、夕食後、自習時間までの間、練兵場を歩きながら「号令演習」をする姿は、兵学校の風物詩であった。
午後六時半から九時までは、自習の時間である。自習時間も、喇叭で始まり喇叭で終わる。
自習と言っても、その間、私語は許されない。同じ自習室にいる者に声をかけるのにも、伍長の許可を得ないといけない。「自習止め」五分前の喇叭が鳴ると、生徒たちは書物や教材を机の中にしまい、その日の当番生徒の奉唱に合わせて、「聖訓五箇条」を唱和する。
一、軍人は忠節を尽すを本分とすべし
一、軍人は礼儀を正しくすべし
一、軍人は武勇を尚ぶべし
一、軍人は信義を重んずべし
一、軍人は質素を旨とすべし
「五箇条」に続いて、「五省」が一つ一つ拝誦され、全員が唱和する。
一、至誠に悖るなかりしか
一、言行に恥ずるなかりしか
一、気力に缼くるなかりしか
一、努力に憾みなかりしか
一、不精に亘るなかりしか
総員目を閉じ、今日一日の自分の姿を反省するのである。
ちなみに、兵学校の気風を端的に表すものとして今では名高いこの「五省」だが、それほど古くから唱えられていたわけではない。
昭和七年四月二十四日、軍人勅諭下賜五十年記念日に、当時の海軍兵学校教頭兼監事長・三川軍一大佐が起案、校長・松下元少将が裁可して、初めて訓育の場に登場したものである。
昭和七年四月と言えば、六十三期生が入校した直後であり、私が会った範囲の旧海軍士官でも、六十三期生以降はこれをごく自然に受け入れ、これぞ兵学校の教えであると誇りを持っている人が多い(平成十七年六月まで、群馬県上野村村長を務めた六十三期・黒澤丈夫少佐の村長室には「五省」の額が掲げられていた)のに対し、六十二期以前では、これを「思想の押し付け」「われわれを子供扱いにするもの」「”なかりしか教育”で型にはめるのはネイビーらしくない」…などとして、私の知る限りでは反発する向きが多かった。
戦闘機搭乗員では、六十期の進藤三郎少佐、鈴木實中佐、六十二期の志賀淑雄少佐、皆そうである。
午後九時、「自習止め」の喇叭で自習が終わり、生徒たちは、九時十五分「巡検用意」の時間までに寝室に入る。
就寝動作の後の約十分間が、生徒たちの憩いの時間である。この時間ばかりは、上級生下級生が入り交じって、失敗談やお国自慢、いろんな話題に花を咲かせる。
巡検喇叭が鳴り出すと、一斉にベッドにもぐりこむ。当直監事、週番生徒による巡検が終われば、生徒館の一日も終わりである。厳しい訓練で疲れきった体は、すぐに深い眠りに落ちる。起きている間はそれこそ息つく暇もない生徒の日常であるが、眠っている間だけは自分の体であった。
ということで、たとえば海軍を描いた映画やドラマで、海兵62期以前の、ということは終戦時古手の少佐以上だった士官が「五省」を唱えたり、私室に貼ってあったり、あるいは昭和7年以前に「五省」が出てきたら、考証的に誤りである。
同じように、よく知られている国民歌謡の「海ゆかば」は、戦時中、大本営発表などの際にしばしば用いられたため戦中世代もふくめ、これが昔からあった曲だと思い込んでいる人がいるが、これはNHKが昭和12年に発表したもので、日露戦争の映画に出てきたりするのは本来ありえない。作詞者は大伴家持だから著作権も何もないが、曲については、著作権がまだ生きている。
「海ゆかば」考についてもいずれ触れようと思う。
2月5日、第二〇五海軍航空隊開隊から69年。
ちょうど69年前の今日、昭和20年2月5日付で、フィリピンから台湾へ引き上げた旧二〇一空の特攻隊員を中心に、新たな特攻専門部隊として第二〇五海軍航空隊が編制された。
司令は玉井浅一中佐、副長兼飛行長が鈴木實少佐、飛行機定数は零戦三個飛行隊百四十四機だが、それを満たすだけの見通しは立っていない。三人いるはずの飛行隊長も、村上武大尉一人しかいなかった。
二〇五空の特攻隊は「大義隊」と命名され、当初、百三名の搭乗員がそれに組み入れられた。「大義隊」隊員の中には、支那事変以来のベテラン搭乗員・角田和男少尉や、フィリピンで周囲につられて特攻志願の一歩を踏み出してしまった小貫貞雄二飛曹、二五二空の一員として比島に進出したが、特攻を志願していない長田利平二飛曹たちがいる。
連合軍が沖縄に侵攻を始めると、九州からの特攻隊に呼応し、沖縄沖の敵機動部隊を挟み撃ちする形で、台湾・台中基地に本拠を置く二〇五空大義隊も、宮古島、石垣島などにも前進基地を設け、特攻出撃を重ねた。
昭和二十年四月一日、石垣、新竹、台南の三つの基地からあわせて二十機の「第一大義隊」が出撃、敵空母一隻に三機の体当たりを報告したのを皮切りに、二〇五空は二十三回におよぶ特攻出撃を重ねた。
だが、沖縄の制空権を米軍に握られているいま、出撃は早朝に出した索敵機の報告によらざるを得ず、特攻隊が到着した頃にはすでに、報告された位置に敵艦隊がいないことのほうが多かった。そのため、特攻隊を数機ずつに分け、敵のいそうな海面を中心に扇状の飛行コースで飛ばせ、そのなかで敵艦隊と遭遇した隊だけが突入する、「索敵攻撃」という手段を用いた。敵がいなければ帰還するから、隊員のなかには、三度、四度、五度と覚悟を決め直し出撃を繰り返すものも多かった。
玉音放送が流れた八月十五日、台湾では、高雄警部府の命令で、台湾各地と石垣島、宮古島の日本海軍航空基地に残存する全兵力で、沖縄沖の敵艦隊に体当り攻撃をかける「魁作戦」が発動され、六十数名の搭乗員が出撃準備をととのえ、発進命令をいまやおそしと待ち構えていた。
「魁作戦」とは、一億総特攻の魁となって、全機特攻出撃せよ、というものである。八月十三日、「全機出撃」の作戦が達せられたとき、角田和男中尉は、
「いよいよ終わりだ」
と覚悟を決めた。索敵機が撮影した航空写真を見ると、沖縄本島中城湾、金武湾の内外には、無数とも思える敵艦船が海面にひしめいている。
ところが、十五日の朝、零戦のエンジンの試運転を行い、搭乗員が機上で待機しているとき、司令部から、「出撃待テ」の指令が届く。理由も告げられないまま搭乗員たちは飛行機を降り、翼の下で待機する。午後になって、うやむやのうちに出撃は中止されることになった。
敵の空襲に備えて被害を分散するため、部隊が各所に分散されているので、戦争が終わったことを隊員たちが知るのは、早いもので当日、遅いもので数日後と開きがある。
台中基地に集められた搭乗員たちは、ここで最後になるであろう飛行服姿の集合写真を撮った。二〇五空には海兵、予備学生出身の士官搭乗員も数名いたが、大多数を占める下士官兵搭乗員にとってはお呼びでなかったらしく、この写真に写っている准士官以上は角田和男中尉、松田二郎少尉、秋月清飛曹長の三名のみ。三人とも兵から叩き上げた予科練出身の、下士官兵搭乗員から見れば大先輩である。
この写真は、全員の氏名が判明している。
准士官以上は階級を入れて書き出すと、
前列:左から平野徳之助、財田博光、森万也、宮崎昇、西川(岩倉)勇、今泉利光、畠中貢、野口英夫、西山尚雄。
二列目:左から山田治男、山崎貢、荒井敏雄、石原(真田)泉、石原誠六、松田二郎少尉、角田和男中尉、秋月清飛曹長、兵藤紀三、松田章、今中博、榎本令三、福田良生。
三列目:左から小貫(杉田)貞雄、仲信雄、伊藤彊、井上廣治、愛知正繁、坂本省吾、塚原鶴夫、堀幸一、川崎助二、浜田清純、清水政之、佐藤清、杉村秀雄、山口正年。
四列目:左から佐藤博、井上(パソコン変換できず。九偏に卆)、香川克己、田中巌、中野新一、宮下常信、植田義雄、大槻光雄、板東春利、本間助三郎、市川八郎。
・・・・・・となる。総員が、特攻隊員であった。
右袖の日の丸は、昭和20年2月16日、敵艦上機による関東空襲の際、被弾して横浜某所に落下傘降下した横須賀海軍航空隊の先任搭乗員・山崎卓上飛曹が、敵と誤認した住民に撲殺された事件を受けてとられた措置で、台湾の部隊にもそれが達せられていたことがわかる。
そして、よくよく見ると、確認できる範囲の下士官搭乗員は一人を除いて、袖の階級章は新しいベース型のものではなく、昭和17年11月以前の旧タイプの丸型のものを付けている。それも、飛行服に付けるのは通常、第一種軍装用の紺地に赤のものだが、中には第二種軍装用の白地に紺の階級章を付けている者もいる。
ここには、私の知るだけで、鈴村善一、長田利平、花川秀夫氏らが写っておらず、これが搭乗員の総員というわけではない。
この中で私が直接お会いした覚えがあるのは、西川(岩倉)勇、今泉利光、荒井敏雄、石原泉、角田和男、松田章、今中博、小貫(杉田)貞雄、井上廣治、香川克己の各氏。
飛行長が鈴木實少佐(終戦後中佐)で、角田さんもいて、私にとってはとてもなじみ深い、不思議と愛着の深い航空隊である。
実際、いまもご健在の元隊員たちの結束の固さは、羨ましいほどである。
『ミッドウェー戦記』(上・下)亀井宏・著 講談社文庫2/14発売
戦記ドキュメンタリーの古典的名作、亀井宏氏の『ミッドウェー戦記』(上・下、ともに870円+税)が講談社文庫で再刊されることになり、2月14日に発売になります。
戦後の復興、成長が一段落し、石油ショックに見舞われるなどしながらも、まだ戦争の記憶が生々しかった昭和40年代後半、著者が当時存命であった草鹿龍之介中将をはじめ、きわめて多くの作戦、用兵の当事者を直接訪ね、コツコツと生の声を拾い集めて書かれた、空前絶後の貴重な記録です。
亀井氏は私より30歳年長ですが、亀井氏の取材から約30年後、私も戦争当事者をじかに訪ねて取材をすることになります。亀井氏の本と私の本を読み比べていただければ、時の流れや世の移ろいが感じられるかと思います。
不肖・私がこの名著の解説を書かせていただきました。(下巻の巻末)
読み継がれてゆくべき作品です。皆さん、ぜひお読みください!
元零戦搭乗員・野口剛さんを囲む会のお知らせ(NPO法人 零戦の会)
大正14年生まれの野口さんは昭和16年第16期乙種飛行予科練生に採用されて土浦海軍航空隊に入隊、出水空での飛行練習生課程、大分空での実用機教程を経て戦闘機搭乗員になられます。筑波空で十三期予備学生の教員として勤務中に特殊部隊の募集に対して志願、三沢基地での教員配置の後、19年11月に七二一空「神雷部隊」戦闘三〇六飛行隊に配属されました。20年3月21日の神雷部隊初出撃の際には桜花隊の直掩機として出撃されています。3月21日に二〇三空戦闘三一二飛行隊に転勤、築城基地で終戦を迎えるまで邀撃任務に従事。戦後は民間航空で活躍されました。
開催要領は下記のとおり。奮ってのご参加をお待ちいたします。
日時:平成26年3月9日(日)午後1時30分~4時
場所:航空会館(東京都港区新橋1-18-1、地図はhttp://www.kokukaikan.com/tizu.htm)
会費:3000円(会場費、飲み物代ふくむ※講演会形式で食事は出ません)当日、受付にて集金。
定員:20名・なお定員に達し次第締め切らせていただきます。
(皆様、くれぐれも遅刻なきよう、5分前までに集合でお願いします。念のため、服装は、男性の場合、なるべくネクタイ着用、女性もこれに準じた服装でお願いします。)
ご参加いただける方は、年齢・性別・会員であるなしを問いません。参加ご希望の方は、NPO法人「零戦の会」・「囲む会」専用メールアドレス
zerosennokai@yahoo.co.jp
(担当:井上副会長。「囲む会」以外のご用件については対応いたしかねます) に、ご参加ご希望の旨とともに、①ご住所②お名前(フルネーム)③お電話番号(携帯もしくは固定)④ご年齢・ご職業および⑤飲み物の希望(コーヒー・ミルクティー・レモンティーいずれもホットのみ)を明記の上、電子メールでお申し込みください。 (これまでご参加いただいた方はお名前とご住所だけで結構です)
折り返し、受付確認のメールを送らせていただくとともに、ご案内ハガキ(概ね開催1週間前までに送付します)を郵送いたしますので、当日、このハガキを受付にお持ちください。
なお、同伴者がある場合は必ずその方の住所、氏名、電話番号、年齢・職業も明記してください。 飛び入りでのご参加は不可ですのでご注意ください。
申込み受付期限・平成26年2月28日(金)※ただし定員に達し次第締め切らせていただきます。 (このところ、締切よりかなり早く定員いっぱいになっています。なるべくお早目にお申込み願います)
※ご高齢ゆえ、不測の体調不良等による予定変更、あるいは中止もあり得ます。その場合は当掲示板で随時お知らせいたします。ご参加確定の方には当会よりご連絡差し上げますが、念のため当日お出かけの前にNPO法人「零戦の会」掲示板http://bbs7.sekkaku.net/bbs/FCZero.htmlをご確認ください。
ただし、「零戦の会」掲示板で「荒らし」行為をするなどかつて当会とトラブルのあった方、(いわゆるオフ会ではありませんので)実名、住所、職業を明かさない方はお断りいたします。
大勢が参加予定の限られた時間ですので、あまりにもマニアックなご期待にも沿いかねます。「取材」を目的とされる方も、原則としてお断りいたします。
また、今後、年に一度の靖国神社における慰霊昇殿参拝や総会など、当会の各種活動のお手伝いをいただける若い世代の方は特に歓迎いたします。
当会の「元搭乗員を囲む会」は今後も開催してゆく予定で、実施の際はNPO法人「零戦の会」掲示板
http://bbs7.sekkaku.net/bbs/FCZero.html
でお知らせいたします。
『感動をもらった』『感動をありがとう』という日本語への違和感について
オリンピックの時期になると耳障りで仕方がないのが、「感動をもらった」「感動をありがとう」といった、気色悪い日本語の氾濫である。
これらは1990年代以降に出てきた言い方で、それ以前の時代の台詞に使うのは不適切である、と、NHKドラマ部チーフディレクター大森洋平氏著『考証要集』(文春文庫)にもある。
そもそも感動は身の内から湧き出るのであって、他人とやりとりするものではない。
「元気・勇気をもらった」も同様。軽薄な言葉づかいであるから、紳士淑女は実生活でも用いるべきではない。
作家・林真理子さんは、これらを「広告代理店やマネージメント会社がマニュアル化した、好感度アップのための、心が通っていない空疎な言葉」(文藝春秋2013年6月号)と批判している(『考証要集』)。
映画や小説で感動したとき、「泣いた」と、誰も彼もがいうのも、似たような経緯で広く使われるようになった「安い」言葉づかいで、私は好きではない。涙は出なくても、心の底から込み上げてくるような、魂が震えるような「感動」もあるはずだ。男子たるもの、そう簡単に泣くべきではない、というのは私の勝手な主義の問題だけれど。
2月22日、日本初の敵機撃墜と、生田乃木次さん(海兵52)ご命日。
今日、2月22日は、恩師三木淳先生のご命日である。三木先生が亡くなられたのは22年前のこと。
昭和7年2月22日、第一次上海事変の蘇州上空の空戦で、日本陸海軍を通じて初の敵機撃墜を果たした生田乃木次海軍大尉(海兵52期。のち予備役応召、終戦時少佐)が12年前にお亡くなりになったご命日でもある。
生田さんにお会いしたのは、平成7年、当時零戦搭乗員会代表世話人(会長)だった志賀淑雄さんから、「日本で初めて敵戦闘機を撃墜しながら、その後すぐに海軍を辞めたこういう先輩がいる。どうしてそうなったのか、ぜひ聞いて残してもらいたい」と言われ、志賀さんのご紹介状を持って船橋のご自宅へ参上したのだ。
生田さんの取材記は、零戦搭乗員会会報「零戦」に掲載され、のちに加筆修正したものを拙著『零戦最後の証言Ⅱ』(光人社)などに掲載した。
志賀さんは、「海軍戦闘機隊のためにほんとうによいことをしてくれた」と、最後まで繰り返しおっしゃってくださった。
生田大尉は、初撃墜の後、色々あって海軍を辞し、戦後は魚屋を経て、「国家のために自分がなすべきことは、次代を担う子供を育てること」と、保育園の園長になられた。
奥さんとともに3つの保育園を経営し、子供たちに、「おとうさませんせい」と呼ばれて親しまれておられた。
車で、生田さんと保育園に降り立った時、遊んでいた子供たちがいっせいに立ち上がって、「おとうさませんせい!」と駆け寄ってきたのが忘れられない。生田さんは、ニコニコと全員の頭をなでておられた。
子供たちも、腰の曲がった生田さんに、一生懸命気を使って、転ばないように支えてみたり、本当に美しく微笑ましい光景だった。
一方で、自分が撃墜した米人義勇飛行士、ロバート・ショートの菩提を弔い続け、毎年、2月22日のその日には、供養を欠かさなかった。
その後も、経営されている保育園のクリスマスパーティーに招ばれて行ったり、保育園の給食を一緒にいただいたり、色々とお会いいただく機会があった。
幼稚園を経営されている長野の原田要さん(操35)が、80歳を過ぎて園長を引退されるつもりだったところ、たまたま私が生田さんをご紹介して、羽切松雄さんのご葬儀の帰りに船橋へご一緒して、「自分よりひと回りも年長の人が現役で園長をされてるんなら、自分も頑張らなきゃ」・・・と、引退を撤回されたこともあった。内心、「海兵出」に負けてたまるかという、操練出身の意地に火がついたのだと思う。
平成14年2月3日、生田さん97歳のお誕生日に、長寿の内祝いにと、ウェッジウッドの置時計を贈っていただいた。


そして、お礼も兼ねて、ひさびさに船橋に会いに行こうと思っていた矢先――。
平成14年2月22日、私は光人社の編集者坂梨さんと、『修羅の翼』の出版打ち合わせで角田和男さんの家にいた。そこに、生田さんのご家族から携帯電話に、その日、生田さんが亡くなられたとの知らせが届いた。
生田さんが亡くなったのは、自らがロバート・ショートを撃墜してちょうど70年後の、まさにその日だった。
生田さんのショートへの思いを知っていただけに、その日付の符合に気づいて、私は息が止まるほど驚いた。
その日の朝も、お線香とお花を用意して、「今日もあの日がきたね」と話しておられたらしい。その後ほどなく容体が急変されたと。
人の情念が寿命をコントロールする、ということがあるのかどうか。……生田さんの同期生の源田實大佐が、「昭和」に殉じるかのように平成元年の8月15日に松山で亡くなったとか、大西瀧治郎中将の副官で特攻作戦の語り部だった門司親徳主計少佐が、昭和と平成、元号は違えど大西中将が割腹自決したのと同じ「20年8月16日」に亡くなられたこととも思い合わせて、こういうことはあるのかも知れないな、と思ったりしている。
近いところでは、昨年お亡くなりになった角田和男さんのご命日、2月14日は、角田さんのお母様のご命日でもあったという。
そんなこともあって私は、巷の戦記本で、誰某が何機撃墜のエースだとか、誰某を撃墜したのは誰某であるとか、興味本位の安っぽい、一人一人の命や情念をないがしろにした情報がもてはやされるのが、嫌で仕方がないのだ。
元零戦搭乗員・野口剛さんを囲む会、締切りました(NPO法人零戦の会)
多くのご応募、ありがとうございました。
なお、当初予定していた会場では手狭となりましたので、日時はそのままで会場を変更します。
参加表明いただいた方には担当者より会場変更のお知らせをお送りいたしますので、よろしくお願いいたします。
身近な人たちが見た二・二六事件2014
毎月、ネイビー会でお会いしていた予備学生13期の小野清紀中尉は、旧制九段中学2年生だった昭和11年(1936)2月26日、思わぬ形で二・二六事件に遭遇した。
雪の朝、音羽の自宅から市電に乗って九段に着くと、軍人会館(現・九段会館。東日本大震災で死者が出て休館中)の前に高く土嚢が積まれ、重機関銃が目白通りを睨んでいたという。
ものものしい雰囲気だが、誰も何も言わないので学校に向かって九段の坂を上がっていくと、坂の途中にあった偕行社前にはカーキ色に塗られた陸軍の乗用車がずらりと並び、それぞれのフロントガラスに、「陸軍大臣」「軍事参議官」などと書かれた紙が貼ってあった。
一時間目の授業は通常通り終わり、二時間目の途中、学校に突然憲兵がやってきて、ほどなく生徒たちに帰宅が命じられる。
そのとき初めて、陸軍の一部叛乱部隊によるクーデターが起きたことを知ったという。軍人会館には戒厳司令部が置かれていて、ものものしい土嚢と機関銃はそれを警護するためのものだった。
小野さんが学校を出て、都電に乗ろうとふたたび九段の坂を下りると、靖国通りは当時ではめずらしい交通渋滞になって、自動車が列をなしていた。市電も、一部路線は迂回させられたものらしく、九段近辺では何両もの電車が溜まっていた。
それでも市電に乗って音羽に帰ると、自宅あたりではこの日の騒ぎのことを誰もまだ知らないようで、いつも通りの日常生活だったという。
今でいえば、地下鉄有楽町線護国寺駅から、江戸川橋、飯田橋、ここで東西線に乗り換えて一駅で九段下までだから、存外に近い距離である。わずか数キロ先に戒厳司令部が置かれているのに、それだけ情報の伝達の遅い時代だったのだろうか。
二・二六事件の詳細には触れないけれど、軍の兵力を私兵化して重臣を殺した「青年将校」たちの行動について、私は一片の共感も抱いていない。どんな時代であれ、仮にも法治国家で、当時の立憲君主が任命した重臣たちを、軍人が兵を率いて殺すようでは世も末である。
「憂国の士という者が出てきて国をつぶす」と、昔、勝海舟が言ったそうだが、まさにその通り。海兵69期で、ソロモンの陸戦隊で飢えと病とに苛まれながら終戦まで戦い、戦後は弁護士になった前田茂大尉は、二・二六を評して、
「軍人の無知による視野狭窄ゆえに起きた事件。重臣を殺せばよくなるほど、世の中は単純なものではない。いま思えば昭和の軍人には世界観が欠けていた」
と。
ただ、元零戦搭乗員で敬愛する角田和男さんのように、農村での生活実態からずっと二・二六事件を支持していたという人もいて、実生活に裏打ちされたそんな観方は尊重せねばならないと思う。「支持する層も一定数いた」というのも、偽らざる歴史的事実だからだ。
事件当時予科練習生だった角田さんは、陸軍蹶起部隊(支持する立場の人は叛乱軍とは言わない)の討伐に出動を命じられそうになった際、何人かの同期生と一緒に隊を飛び出して陸軍に合流しようと、本気で考えておられたという。
……だけど、いまの若い人の中に、ミーハー気分で叛乱将校たちに憧れを抱いている人がいるのはいかがなものかと思う。歴史に興味を持つのはいいけれど、衣食住に不自由せずにぬくぬくと育った人には、おそらく血を吐くような彼らの本心は絶対にわかるまい。
ところで私は、二・二六事件で命を狙われ、奇跡的に助かった時の総理大臣、岡田啓介海軍大将のご子息、岡田貞寛主計少佐と交詢社ネービー会で何度かお会いしたことがある。
岡田貞寛さんもじつに素晴らしい方で、岡田さんを語りだすと長くなるから控えるけれど、岡田さんには『父と私の二・二六事件』(単行本・講談社1989/02、文庫・光人社NF文庫 1998/01)という名著がある。
事件当時、貞寛さんは19歳の海軍経理学校生徒で、家族、しかも海軍に籍を置いた息子の目から見た事件の模様、真相は、まさに余人では語り得ないことである。しかもその文章たるやじつに明瞭にして品があり、読み応えがある。
岡田さんは、限られた仲間内ではよく随筆を書いておられたりもしたが、ご本人はあまりご自分の体験や考えを世に出すことを好まない方だった。
お亡くなりになる前、交詢社ネービー会に届いた最後の出欠ハガキには、
「老兵は消えゆくのみ。死に方用意、帽振れ!」
と書かれていた。おそらく、死後は本も絶版にするよう遺言があったのだと思う。
『父と私の二・二六事件』、単行本も文庫本も、いまは絶版、品切れ状態で、古本を買うしか入手手段がないのが残念だが、昭和史の一端を知る上でぜひ一読を薦めたい好著である。
戦後、ある慰霊祭で、角田和男さんと岡田貞寛さんが同席したことがあった。角田さんは、
「かつて、本気で殺そうと思った総理大臣の息子さんですからね、挨拶の言葉に困りました」
と率直におっしゃっていた。本音だと思う。岡田さんも角田さんも、いまやこの世にない。
これも、歴史のひとコマだろう。
3月3日。「ダンピールの悲劇」(ビスマルク海海戦・昭和18年)から71年
71年前の昭和18年2月28日、陸軍第五十一師団をニューギニア・ラエへ運ぶ輸送船団が、ラバウルを出港した。三日後の3月3日、その輸送船団が敵機の襲撃を受け、潰滅を喫した。
「ダンピールの悲劇」と呼ばれるこの事態は、日本軍の航空兵力が敵に対し弱体であることを露呈し、翌月、山本五十六聯合艦隊司令長官が直接ラバウルで航空作戦の指揮を執る「い」号作戦の引き金になり、山本長官戦死の遠因ともなった。
この日の搭乗割に名を連ねている零戦搭乗員は、現在ではたぶん一人もいない。
ガ島攻防に日本陸海軍が苦戦している時、東部ニューギニアにおける聯合軍の反撃も活発になりつつあった。この戦線を維持するため、ラエ、サラモア地区への兵力増強の必要が生じ、陸軍第五十一師団をラバウルからラエに輸送することになった。この輸送作戦は、八十一号作戦と呼ばれる。海軍は陸軍航空部隊と協力して、輸送船団の上空直衛に当たることになった。
陸軍輸送船七隻、海軍運送艦一隻と護衛の駆逐艦八隻からなる輸送船団は、約七千名の陸軍部隊を乗せて、二月二十八日深夜、ラバウルを出港、三月三日の朝にはフィンシュハーフェン東方海域に達した。天気は快晴で、上空直衛の担当は午前海軍、午後陸軍となっていた。
午前七時五十分、船団の南方から敵機の大編隊が現われた。最初に来たのは、高度三千メートルの中高度から水平爆撃のB-17十三機。その上、高度五千五百メートル付近にP-38二十二機がかぶさるようについていた。この時、船団上空には、二〇四空宮野大尉以下十二機、二五三空飯塚雅夫大尉以下十四機、計二十六機の零戦がいた。零戦隊は、これらの敵機に一斉に攻撃を開始、宮野隊は、ほぼ同高度にあったP-38隊と激しい空戦に入った。八時五分には、カビエンに派遣されていた瑞鳳零戦隊、佐藤正夫大尉以下十五機も空戦場に到着するが、敵機は続々と増えて八時十分には総数約七十機にも及んでいる。
敵は、見事な連携プレーを見せた。B-17の上空にはP-38等の戦闘機を配し、零戦隊がそれらに気を取られているうちに、十三機の英国製双発機ビューファイターが低空から進入、艦船を銃撃し、次いでB-25、A20などの双発爆撃機が二十五分にわたって超低空爆撃をした。これは、爆弾を魚雷のように超低空で投下し、海面に反跳させて艦船の側部に命中させる、「反跳爆撃」(スキップ・ボミング)という新戦法であった。米陸軍第五航空軍がポートモレスビーで訓練を重ね、この日、初めて実戦に使われたものである。上空で空戦中の零戦隊が気付いたときには、もう遅かった。低空に降りて防ごうにも、P-38が攻撃してくるので防ぎようがなかった。
〈我も又、多数の敵戦闘機と空戦、苦戦、味方船団の悲惨なる状況を目撃しながら如何ともし得ざる、真に断腸の思いあり。(中略)実戦を経ること数度、常に生死の境にあるも、今日の如き凄惨なる人類の争闘を体験するは初めてなり。航空機の艦船に対する威力を改めて認識す〉(中澤飛長日記)
ちょうどミッドウェー海戦と逆の形で、零戦隊は完全に裏をかかれてしまった。二時間半後にラバウルを出撃した、第二直の森崎予備中尉以下九機が戦場に到着した時には、すでに敵機は引き揚げた後であった。わが方は輸送船七隻、海軍運送艦一隻、駆逐艦三隻が撃沈され、午後にはさらに駆逐艦一隻が撃沈される。上陸部隊の半数以上に当たる三千六百名以上もの将兵が戦死し、輸送作戦は完全な失敗に終わった。このため、以後のニューギニア方面の作戦は、重大な支障をきたすことになる。
〈
戦死した西山二飛曹は操練五十四期、台南空から六空(二〇四空)に来て、前年八月の第一陣の一員としてラバウルに進出以来、六機(うち協同、不確実計三)の撃墜戦果を挙げている歴戦の搭乗員、丙飛三期の矢頭飛長も、六空開隊以来の、今となっては古参の一人であった。
瑞鳳戦闘機隊もB-17三機、P-38一機を撃墜したが、壇上滝夫上飛曹(甲一期)が空戦中被弾して自爆、牧正直飛長(丙三期)はB-17に体当りして戦死している。牧飛長の体当り撃墜はのちに聯合艦隊司令長官より全軍布告され、牧は二階級進級した。
……71年前のこの時期の南東方面の戦いは、戦局の帰趨をほぼ決する重大な時期だったにもかかわらず、生存者が少ないせいか、こんにち語られることがあまりにも少ないように思う。