今日、10月28日は拙著『祖父たちの零戦』(講談社文庫)の主人公の一人、鈴木實中佐のご命日だ。
ちょうど15年前のこと。
何年経っても、忘れられない人はやはり忘れられない。
鈴木さんの勲章や勲記、感状、賞詞などは全て私の手元にあるので、じっと眺めてしばし感慨にふける。
ちょうど、15年前の2001年10月、ある掲示板に投稿した私の文章がまだ残っていた。
以下、引用。
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海兵60期、オーストラリア方面でスピットファイア隊に対して一方的勝利を収め、零戦隊の名飛行隊長として知られる鈴木實中佐が、10月28日、亡くなりました。
密葬は近親者のみで執り行い、故人の遺志で弔問等も一切ご遠慮いただきたいとのこと。
91歳、お歳からいえば大往生ですが、最晩年の4年ちかくは、戦時中の負傷による後遺症で手足が麻痺して寝たきりになり、死なせた部下のことを思いながら辛く苦しい闘病生活に耐えておられました。
鈴木氏は戦後、全く畑違いのレコード業界に身を投じ、辣腕の営業本部長兼洋楽本部長として、キングレコードの黄金時代を築いた人。
大月みやこを発掘し、洋楽ではカーペンターズ、クインシー・ジョーンズ、トム・ジョーンズ、セルジオ・メンデス、リカルド・サントス、マントバーニ、レイモン・ルフェーブル等等を日本に紹介されました。
しかし、そんな業績もさることながら、一人の人間として、実に魅力にあふれた、尊敬に値する人でした。
志賀少佐のご紹介で、私が初めてお会いした時はすでに85歳になっておられましたが、当時家が近かったこともあり、鈴木さんご夫妻と、よく近くの公園で散歩をしたり花見をしたり、三原に移られて寝たきりになられてからも、遊びに行ったり、身内同様に親しくしていただきました。
また、進藤三郎、山下政雄、高岡迪各氏ら同期生の方々との最晩年の交わりを身近に見させていただいて、「五省」などなかった古きよき時代の海軍兵学校の気風を実感させていただきました。
思い出は尽きることなく、あまり長くなるとお見苦しいでしょうし、これぐらいにしておきます。
これで、旧日本海軍の戦闘機搭乗員で、中佐以上の士官は一人もいなくなりました。
ともかく(特攻で死んだ人の立場で見れば甘い考えかもしれませんが)、指揮官の苦悩、最期まで、この苦しみに耐えることが死なせた部下へのせめてもの償いと、激痛の伴う長い闘病生活を、愚痴ひとつこぼさず全うした空の武人がいたこと、多少ともご理解いただけましたら幸いです。
また、中国戦線で南昌の敵飛行場に強行着陸し、ラバウル方面では夜間戦闘機「月光」に搭乗、敵B17爆撃機多数を撃墜、「夜の王者」といわれた小野了中尉も、この夏に亡くなっています。
小野さんは、昨年坂井三郎氏のお別れ会でお会いしたのが最後でしたが、戦争の話をしたがらない、寡黙な人でした。(以上、2001年10月現在)
以下は、6年前に書いたブログの再掲。
海兵60期は全員が亡くなっているが、『祖父たちの零戦』の主人公・鈴木實さん、、進藤三郎さんの奥様がそれぞれご健在なのは嬉しいことだ。
瀬戸内の海の幸!
テーマ:『祖父たちの零戦』講談社刊
中身は、瀬戸内の海の幸づくし。いつものありがたいお心遣い。包みを開けながら、気持ちがホカホカと暖かくなる。
鈴木さんは、拙著『祖父たちの零戦』(講談社)の主人公の一人、鈴木實海軍中佐の奥様である。
私が鈴木さんご夫妻と知遇を得たのが16年前。ご主人が亡くなられたのが10年前。しかし、以後もずっと、息子同然に可愛がっていただいている。
今日、御礼の電話を差し上げ、
「『お母さま』もどうぞお元気で」
と申し上げたら、
「何、その決まり文句。あなたも大人になったわねえ」
と笑われる。
15年ほど前だろうか、鈴木さんご夫妻がまだ東京・練馬に住んでおられた頃、「あなたは私たちにとって息子同然ね」と言われ、まだ子供(笑)だった私は正直に「いえ、孫だと思います」と答えてしまった。だって、私よりご主人は53歳、奥さんは43歳も年上なんだもん。
でも、つまりは「おばあちゃん」扱いをしてしまったわけで、そのことをいまだに根に持っていらっしゃるのだ。
その私が、「お母さま」なんて言うものだから、可笑しくなられたらしい。
「私もさすがに・・・・・・もう年男ですから」
とお答えして、電話を切る。電話の向こうは何やら賑やかで、ヘルパーさんや家政婦さんがご一緒なのがわかる。
数分後、こんどは私の携帯が鳴った。隆子さんからだ。何ごとかと思い出てみると、
「ねえ、あなた年男って、いくつになるんだっけ?」
とおっしゃる。
「4回りめで、この8月で48です」
とお答えしたら、
「負けた!ケーキとられた!」
同時に、電話の向こうで大笑いする女性たちの声。
「え、ケーキってなんですか?」
「あなたの年がいくつかって、賭けをしてたのよ。私はまさか、もう48にもなるとは思わなくて、きっと36よって言ったら、ヘルパーさんも家政婦さんもそんなはずないって言うの。それで、もし36じゃなかったらケーキおごるって約束しちゃったの」
「・・・・・・いやだなあ。『息子』の年を忘れるなんて。だって、僕が鈴木さん家に初めて行ったとき、もう30過ぎてたんですよ。あれから16年・・・・・・」
「そうねえ、あのころはあなた、折り目正しい好青年だったわよね」
あのころは、とは何ですか、と言おうとしたら、電話の向こうの声が突然、ヘルパーの田中さんに替わった。バリバリの広島弁。
「ごぶさたしてますねえ、やっぱり48じゃろう?ケーキやのうて1万円賭けりゃーよかった!」
こちらこそご無沙汰してます、と言おうとしたら、また声が隆子さんに戻った。
「あなたの年がわかってよかった!じゃあまたね!お会いするのを楽しみにしてるわね。御免ください」ガチャリ。
なんか遊ばれてるなあ、と思うが、私をネタにいっときでも盛り上がられたのなら光栄なことだ。
隆子さんは戦前、御父上の仕事の関係で中国・天津に住み、朝日新聞社主催「ミス天津」に選ばれたという経歴をもつ。隆子さんの人生も一冊の本になりそうなぐらい波乱万丈でドラマに満ちている。昔の写真をチラッと見せていただいたことがあるが、絶世の美人であった(いや、いまもそうである)。
元海軍戦闘機隊指揮官で戦後、キングレコード洋楽本部長を勤めた鈴木實さんとの出会いや馴れ初め、その後については、『祖父たちの零戦』をご購読いただくこととして、ご主人が2001年10月に亡くなられてひと月ほど経った頃、三原の隆子さんからいただいたお葉書のことばから――。
『いつも二人で見ていた海を
今は一人で見ています
どうして居なくなつてしまつたのでせう
呼ぶ声に振向いても姿がないのです』
瀬戸内の夕景の絵葉書に書かれたこの文面は、暗記するほど何度も何度も読み返した。これほど切々と思いを綴った美しい恋文は、それ以前にも以後にも、私は見たことがない。