Quantcast
Channel: koudachinaoki
Viewing all articles
Browse latest Browse all 298

平成28年 NPO法人零戦の会慰霊祭を開催しました(9月25日)

$
0
0

 ここでのご報告が遅くなりましたが、去る9月25日、靖国神社で、NPO法人零戦の会の慰霊祭、ならびに総会、慰霊祭を挙行しました。香川中尉、荒井上飛曹、笠井上飛曹、長田一飛曹ら元搭乗員約10名に、ご遺族、関係者ら計80数名が参加する盛会でした。

 

 

慰霊祭で読んだ祭文。例年、甲飛15期・津島飛長が丹精込めて毛筆で書いてくださっています。

 

 

 

祭文

 

 謹みて大東亜戦争中に散華されました四千三百三十余柱の海軍戦闘機隊搭乗員諸士の御霊に申し上げます。

 

 皆様方が護国の大任を承けて、東はハワイ真珠湾から西は印度洋まで、北はアリューシャン列島から南はソロモン、ニューギニア、そして豪州まで、広範な戦場に身を挺して史上空前の長期に亘る苛烈な激戦に身命を捧げられましてから七十年を超える星霜を数うるに至りました。私どもはここに皆様方の御霊を拝し誠に感慨に堪えないものがございます。ましてや戦陣に斃れられた方の多くは二十歳前後の若桜であったことを思えば、哀惜の念が沸々と湧いてくると同時に、その献身、その勇気に襟を正さざるを得ません。

  戦後日本の繁栄と平穏は、皆様方の文字通り命を賭した戦いの上にこそあると、改めて心より感謝と哀悼の念を捧げます。

 

 戦場における生死は紙一重と存じますが、生きて戦いを全うされた皆様方の戦友は、それぞれ文字通りゼロからのスタートで戦後日本の復興に貢献されました。そして、全国の戦友が一同団結して「零戦搭乗員会」を組織し、英霊となった皆様方の顕彰と記録の継承に努めて来られました。

  戦後半世紀以上の月日がたち、皆様の戦友たちが齢八十になんなんとする頃、平成十四年をもって「零戦搭乗員会」は解散することになりました。

  ここで、若い世代が事務局運営を担い、搭乗員の皆様をお手伝いして海軍戦闘機隊の灯をともし続けるべく、活動を継承したのが我々「零戦の会」でございます。私どもは、海軍戦闘機隊奮戦の記録を後の世代にまで末永く継承すると同時に、戦友の皆様が編隊飛行を全うされますよう、誠心誠意尽くしてゆく決意でございます。

 

 しかしながら、日本の現況を鑑みるに、近隣諸国との領土問題における紛争はなお解決の糸口をも見いだせず、皆様方が身命を賭した先の大戦を我が国による侵略戦争であったと決めつけようとする風潮は依然として根強いものがございます。国内に目を転じても、犯罪の増加、治安の悪化、親が子を殺め子が親を殺めるような、皆様がご在世中には考えられなかったであろう荒んだ世の中になっております。おそらく、皆様が現在の日本をご覧になられれば、「こんな国にするために俺たちは戦ったのか」とがっかりされることでありましょう。このことは、今を生きる日本人として、皆様に対し慙愧に堪えず、心よりお詫び申し上げる次第でございます。

 

 私たちが皆様方のご加護を得て、当時の体験や精神を語り継ぐことで、皆様が身命を賭して守ってくださった美しい日本を再び取り戻し、より良き社会となすための一助とすべく、今後とも元戦闘機搭乗員と若い世代が相携えて、もって将来の日本のために尽くすことが皆様方に報ゆる道であると存じます。

  願わくば皆様方の御霊の永久に安からんことを。

 

    平成二十八年九月二十五日

    特定非営利活動法人「零戦の会」会長 神立尚紀

 

 

総会、懇親会は靖国会館です。

 

 

NPO法人零戦の会総会 会長挨拶

 

 今年も、搭乗員をはじめ、全国各地からお集まりくださった大勢の皆様とともに、戦没搭乗員諸霊のみたまに哀悼の誠を捧げられましたことを、たいへん嬉しく存じております。

 今年は、真珠湾攻撃から75年の、節目の年でございます。この節目の年に、機動部隊の一員として真珠湾作戦に参加した零戦搭乗員で、ご存命の最後の一人でいらっしゃった原田要さんが亡くなられました。操練出身の重鎮・原田さんを失ったことは当会としても痛恨の極みでありますが、75年という歳月はそれほど長いものであると実感いたします。

 おそらく、今日、ご列席の搭乗員の皆様は、開戦のとき、まだ10代の少年でいらしたと思います。開戦の報を聞いてどのように思われたか、皆さんにぜひお聞きしたいと存じますが、そのときは75年後のことなど、想像もされていなかったことと思います。昨年の戦後70年に続き、このような節目の年を搭乗員やご遺族の皆様とともに迎えられることは、私ども一同の喜びであり、じつに感慨深いものがございます。

 

 さて、「零戦搭乗員会」が解散し、若い世代が加わった「零戦の会」が発足して、今年で早14年の歳月を重ね、15年目に突入いたしました。

 はじめは、「若いのが入ってきて何をする」と疑問を持たれる向きもあったかと存じますし、私どもも至らないところも多々あったかと存じますが、とにもかくにもこの14年、その間にも、――若者だった会員は中年の成人病世代になったりもしておりますが――新しい戦力も迎えて、解散、縮小傾向が続く戦友会としては稀有な活動を維持してこられました。

 これもひとえに、零戦を駆って日本のために戦ってくださった搭乗員の皆様のご指導の賜物と、厚く御礼申し上げます。

 

 近年の顕著な傾向として、20代、30代、つまり搭乗員の皆様の孫世代が、色眼鏡なしに、祖父たちが生き、戦ってこられた軌跡を知りたい、という声が明らかに増えております。現にそういった孫の世代の中から、進んで会の運営に協力してくださる若い世代が増えました。

 

 もし、零戦搭乗員会の解散で全て雲散霧消していれば、こんな思いに応える糸口もなかったわけで、そういう意味でも、搭乗員の世代と孫の世代の橋渡しになり得る当会が存続していることには意義があると考えております。

 

 実際、今日も、最年少・高校三年生から90歳代までの幅広い年代が一堂に会しておられます。このように幅広い世代が和やかに集い、心を一つにして、日本のために戦ってくださった先人に対し、追悼と感謝の誠を捧げる会というのは、世界広しと言えども、我が「零戦の会」だけであろうと存じます。

 

 私の方針といたしましては、当初より変わることなく、「零戦搭乗員会」以来受け継いだ、戦友会の美風を失うことのなきよう、いたずらに会員を増やし、活動を広げることよりも、たとえ少数であっても、心を込めてやるべき事業を確実に継承してゆくことが肝要かと考えております。しかし、元搭乗員の皆様のご家族やご遺族に対しては、できる限り開かれた会でありたいと存じます。

 

 これは毎回申し上げていることですが、かつて、旧「零戦搭乗員会」解散に先立って、海の向こうでは第二次大戦中のアメリカ軍パイロットの集いであった「エースパイロット協会」が解散したとの知らせがありました。アメリカ人にできなかったことを我々が続け、慰霊と感謝の気持ちを持ち続けることが、日本の将来を信じ、雲染む屍となられた戦没搭乗員諸霊に対するせめてもの恩返しとなればと存じます。今日は当会の米国支部長、マイケル・フレッチャーさんがお見えですので、申し訳ない気がしますが、戦後も合わせた長い目で見て、最後に勝つのは零戦隊、となるようにしていきましょう。

 

 海軍戦闘機隊が最後まで編隊飛行を全うできるよう、そして末永く零戦の灯を消さぬよう、また栄誉を汚さぬよう、今後も、誠心誠意取り組んでまいる決意です。

 最後になりましたが、今回、ご臨席賜りました財団法人海原会副理事長・酒井様、専務理事・助村様、いつも大変頼りにさせていただいております、医師にして海原会理事の菅野様に心より御礼申し上げますとともに、会員、ご遺族の皆様のご健勝、ご長寿とご家族の弥栄を、心より祈念申し上げ、私のご挨拶とさせていただきます。

 

          平成 28 年 9月 25日   神立尚紀

 

 

 懇親会場では零戦計器板復元の権威・中村さんによる計器板、機銃などの展示がありました。全て本物の世界です。

 

 笠井上飛曹からは初の著書「最後の紫電改パイロット」(潮書房光人社)をいただきました。

 

 

 

 さて、そんなわけで、慰霊祭終了後に撮影した記念写真が届きました。

 

 

前列ほぼ中央に私。私の右から、横山保中佐ご令嬢、井原大三二飛曹ご令弟ご夫妻、角田和男中尉ご令息、荒井上飛曹、長田一飛曹、小島飛長、津島飛長。私の左から、香川中尉、公益財団法人海原会酒井副理事長、助村専務理事、笠井上飛曹、同ご令嬢、浅野二飛曹、尾関二飛曹、脇田二飛曹、原田要中尉ご令嬢、同ご令孫、竹内副会長。

 

 元軍人の集いですから、この席順には意味があります。

 

 中列以降にも、役員各位や潮書房光人社坂梨出版部長、かつて「零戦初空戦で対戦した三上一禧、徐華江、二人の日中搭乗員の奇跡的な再会」を一緒に仕切って以来18年のお付き合いとなる私の戦友・日本テレビ山見さん、ニュースキャスターの榎本麗美さん、陸海空の現役自衛官、自衛官OB、フレッチャー米支部長、拙著『零戦隊長 宮野善治郎の生涯』にもしばしば登場する辻田裕さん、人間爆弾「桜花」発案者とされる大田正一中尉ご親族など、錚々たる、しかも大切な人たちが集いました。高校生から90才代までがこのように和やかに集い、非営利の法人として成立している戦友会というのは世界に類例がなく、戦勝国アメリカでもなし得なかったことです。

 

戦後71年、最後まで編隊飛行を続けていたのは、グラマンでもムスタングでもコルセアでもなく日本海軍の零戦隊であった。これは一同、密かに誇りとするところです。

 

中でもトピックスは、昨年までは学生で一番下っ端の末席だったW君が、東大大学院を出て今年から防衛官僚になり、一躍序列が幹部自衛官級になったことでしょうか。

 

 

当日は目の前のことに精一杯でしたが、こうやって集合写真を見ると、主催者としてようやく肩の荷がおりた気がします。

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 298

Trending Articles