- 76年前の昭和15年9月13日金曜日、中国大陸重慶上空で、日本海軍の零戦が中国空軍のソ連製戦闘機と初めて空戦を交え、14時から30分以上にわたる戦いで、一方的勝利を得た。
この空戦で第十二航空隊零戦隊の13機を率いたのが、拙著『祖父たちの零戦』の主人公でもある進藤三郎大尉である。
(文中一部敬称略。敵戦闘機E15、E16は、正確にはИ15、И16なのだろうが、日本海軍も中国空軍もE15、E16と呼び、公文書にもE15、E16と記している。知らずに苦情を寄越す勿れ)
進藤三郎さん(最終階級少佐)は、昭和15年9月13日の零戦初空戦、昭和16年12月8日、真珠湾攻撃第二次発進部隊制空隊指揮官(「赤城」分隊長)としても知られる。だが、戦後は戦争の話を好まず、ほとんど沈黙を守っておられた。
昭和15年8月、進藤大尉が撮影した零戦。バックは揚子江。搭乗員は北畑三郎一空曹。
初空戦を終えて報告する進藤大尉以下の零戦搭乗員たち。周囲に人の輪が広がっている。
出迎えの輪の中にいた高山捷一造兵大尉は、
「搭乗員の顔には疲労の色が濃く、むくんだように見えた」
と言うが、この日、基地は夜になっても興奮さめやらず、祝宴は一晩中続いた。
当時の新聞では、
「重慶上空でデモ中の敵機廿七を悉く撃墜――海鷲の三十五次爆撃」(昭和十五年九月十四日付朝日新聞西部本社版)
「敵空軍の最悪日 海鷲基地に沸く歓声」(同・九月十五日付夕刊)
「重慶で大空中戦廿七機撃墜 きのふも爆撃海鷲の大戦果」(昭和十五年九月十五日付大阪毎日新聞)
「海の荒鷲 逆手攻撃の妙を発揮」(九月十五日付鹿児島朝日新聞)
「世界戦史に前例のない敵廿七機完全撃墜 わが海鷲不滅の戦果」(九月十七日付中国新聞)
と、軒並みトップ記事の扱いで、この日の現地での興奮ぶりが伝わってくるものの、中には、ひどい誇張もある。
たとえば九月十五日付大阪毎日新聞二面の、
「帰ったゾ偉勲の海鷲 機体諸共胴上げ・敵機廿七機撃墜基地に歓声」
との記事では、
「まづ進藤指揮官機が悠々と着陸するや整備員は「それッ」とばかりに駆け寄り万雷のような拍手の中を進藤部隊長を乗せたまま機体の胴上げだ。次から次へと着陸するたびにこの胴上げが続く」
という荒唐無稽な記述が見られる。機体を胴上げすること自体に無理があるのはもちろんだが、着陸直後で、プロペラがまだ回っている状況でこんなふうに駆け寄れば、誰かがプロペラに弾き飛ばされて死んでもおかしくない。
だが、同じ記事の中で、
「進藤、白根両部隊長はじめ機上から降りる荒鷲はたった今華々しい大空中戦をやって来た人とも思われぬほど落着き払い戦友が拍手で迎えるのに大陸灼けした赭顔をニッとほころばせて応えるだけだ。記者はこの海鷲の謙譲な態度に頭が下がった」
とあるのは状況を忠実に描写したものであろう。
進藤の人となりについては、朝日新聞九月十五日付西部本社版夕刊で、
「進藤三郎大尉は今事変の最初から活躍している海の荒鷲の花形である」
と紹介されるなど、各紙ほぼ同様の扱いである。
「海の荒鷲」あるいは「海鷲」というのは、海軍航空隊に冠せられる慣用的な表現であった(陸軍航空隊なら「陸鷲」)。
なお、新聞記事では「零戦」について、「大阪毎日」だけが「わが新鋭戦闘機」という書き方をしているものの、他紙は単に「戦闘機」または「精鋭部隊」という表現で、零戦の名称や性能については各紙まったく触れていない。従軍記事には軍による検閲があり、零戦に限らず、兵器や任務についての軍事機密に触れる事柄は、発表を許されなかったのである。
初空戦の興奮さめやらぬ翌九月十四日、十二空では、進藤大尉以下、出撃搭乗員と飛行隊長・箕輪三九馬少佐、横山、伊藤両分隊長が集まって、十三日の戦訓研究会が行なわれた。このときの模様は「用済後要焼却」と朱印の押された「重慶上空空中戦闘ニ依ル戦訓」という参考資料に詳しいが、搭乗員一人一人の意見から、硝煙の匂いがまだ立ち上って来そうなピリピリした空気が伝わってくる。
末田二空曹は、乱戦中の空中衝突の危険性や、味方機の射弾が頭上をかすめたこと、空戦中に小隊長機を見失わないようにするのは至難であることなどを挙げ、山谷三空曹は、やはり乱戦で高度の感覚を失ってしまう危険性について述べている。白根中尉は、長距離進行では厚着のほうが高高度飛行の寒さによる疲労が少ないのではないか、また、無線電話が良好に使えれば精神的にも心強くなるなどと提案している。
岩井二空曹は、落下傘降下する敵を射撃したことについて上官にその正否を質問し、横山大尉から、
「昨日の場合は、他にまだ目標があるので撃つべきではない。落下傘は距離速力の判定が困難であるから、あまり撃つことは感心できない」
とたしなめられている。落下傘降下中の敵兵を攻撃すること自体に問題はない。だが、それに気をとられて別の敵機につけ入られる隙ができることを、横山は心配したのである。
その他、この日の戦闘の詳細を記した軍極秘資料の「戦闘詳報」もふくめ、目についた点を挙げてみると、
1・零戦そのものへの不慣れから、操作の単純ミスが多い。また、従来の九六戦にくらべてスピードが速いため、攻撃時に過速に陥りやすく、舵が重く利きが少ないなど、操縦性の悪さを指摘する声も目立つ。これらについては零戦の問題というより、全体的に搭乗員の側の意識の切り替えができていないようである。
2・風防が密閉式になったため、後方視界が悪いとの不満が出された。後方から奇襲を受ける恐れが大きいことを考慮して、座席後部に等身形の防弾板を「装備スルコトヲ得(う)」、すなわち装備してもよい、という控えめな表現で提案されている。
3・心配された新兵器の二十ミリ機銃については、故障が少なく、その威力を賞賛する声が上がる一方で、信頼性の高かったはずの機首の七ミリ七機銃(弾丸は一挺あたり六百五十発)に故障が多発、じつに十三機中八機でトラブルが発生した。また、片銃五十五発(弾倉は六十発入りだが弾丸づまりを防ぐため装填は五十五発とされた)という二十ミリ機銃の携行弾数に関しては、少なすぎるとの声が多く寄せられている。
4・それまでの単座戦闘機では考えられなかった長距離進行で、搭乗員の疲労がはなはだしく、座席クッションの改善やリクライニングできるように、などの切実な要望が出されている。(これについては何ら改善されないまま、翌年には太平洋戦争でそれ以上の長距離進行を強いられることになる)
5・敵戦闘機E16(単葉)については、性能的にそれほどの開きがないのでむしろ楽に戦えたが、複葉のE15に対しては、スピード差がありすぎる上に敵のほうが小回りが利くので、思った以上に手を焼いた。それによって得られた戦訓所見は、
「(零戦の)旋回圏大なるを以て、劣性能の機種に対し、之に巻き込まれざる様戒心を要す。急上昇急降下の戦法適切なり」
つまり、零戦は旋回半径が敵機と比べて大きいから、小回りのきく敵機に対しては格闘戦に巻き込まれるのを避け、「急上昇急降下」(ズーム・アンド・ダイブ)による一撃離脱の戦法で戦え、と言っているのである。また、編隊協同空戦、相互支援の必要性についても繰り返し述べられている。
これらは二年後に、零戦の旋回性能に手を焼いた米軍が、零戦に対抗する手段として打ち出した戦法と同じである。このことは、戦闘機の性能というものは、相手とする敵機との相対的な関係で評価されるという好例と言えるだろう。
なおこの日、実際に撃墜された中国軍戦闘機は、中国側記録によると(おそらくその現物を台湾で確認した日本人取材者は私のほかに居ないと思う)13機、11機は被弾損傷したもののホームグラウンドの強みでかろうじて飛行場に着陸している。また、中国側の戦死者は10名、負傷者8名であった。
進藤さんが戦後、ビリビリに破り裂いた感状を、奥さんが捨てずに補修して残しておられた。いま、私の手元にある。
昭和18年、ラバウルで。五八二空飛行隊長時代の進藤大尉。
平成12年2月2日、自宅のこのソファに座ったまま息を引きとられた。享年88。
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