昭和20年8月16日未明、軍令部次長大西瀧治郎中将は、特攻で死なせた部下たちに謝し、世界平和を願い、次世代に後事を託す遺書を遺して自刃した。部下たちの苦悩、苦痛を思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと、介錯を断っての最期だった。
巷間伝えられているように、2000万人特攻、本土決戦などと本気で考えていたのなら、遺書の後段のような言葉が出てくるはずがない。遺書は、あらかじめ用意されていたもので、割腹の直前に書かれたのではない。大西の徹底抗戦論は、まさに命を懸けた大芝居であったのだ。
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八月十六日の未明、大西は畳の上にシーツを敷き、一人その上に座ると、日本刀を引き寄せた。古来の切腹の作法どおり腹を十文字にかき切り、返す刀で首と胸を突いた。
発見したのは、官舎の管理人である。急報で、多田海軍次官が軍医をつれて駆けつけた。次いで、副官と児玉誉士夫も官舎に急行した。
大西は、近寄ろうとする軍医を睨んで、
「生きるようにはしてくれるな」
と治療を拒み、多田と児玉に
「介錯不要」
と言った。
大西は、自分の掌にぬくもりを残して飛び立っていった特攻隊の多くの若者たち、そしてフィリピンに置き去りにしてきた一万五千人の将兵のことを思い、なるべく苦しんで死ぬ道を選んだのだ。
夕方六時頃、大西は、自らの血の海のなかで絶命した。享年五十四。腹を切って十五時間あまり、軍医も驚嘆する生命力だった。
大西が遺した遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を強く主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙をいましめ、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれてあった。
〈特攻隊の英霊に曰す
善く戦ひたり深謝す
最後の勝利を信じつゝ肉
彈として散華せり然れ
共其の信念は遂に達
成し得ざるに至れり
吾死を以て旧部下の
英霊とその遺族に謝せ
んとす
次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利
敵行為なるを思ひ
聖旨に副ひ奉り自
重忍苦するの誡とも
ならば幸なり
隠忍するとも日本人た
るの衿持を失ふ勿れ
諸子は國の寶なり
平時に處し猶ほ克く
特攻精神を堅持し
日本民族の福祉と世
界人類の和平の為
最善を盡せよ
海軍中将大西瀧治郎〉
「矜持」の「矜」の字が誤字になっている。
そして、遺書の欄外には、
〈八月十六日
富岡海軍少将閣下 大西中将
御補佐に対し深謝す
総長閣下にお詫び申し上げられたし
別紙遺書青年将兵指導
上の一助とならばご利用ありたし
以上〉
との添え書きが細い字で書き加えられている。
淑惠に宛てた遺書は、
〈瀧治郎より
淑惠殿へ
吾亡き後に處する参考として書き遺す事次乃如し
一、家系其の他家事一切は淑惠の所信に一任す
淑惠を全幅信頼するものなるを以て近親者は同人の意思を尊重するを要す
二、安逸を貪ることなく世乃為人の為につくし天寿を全くせよ
三、大西本家との親睦を保続せよ
但し必ずしも大西の家系より後継者を入るる必要なし
以上
之でよし百萬年の仮寝かな〉
と、丸みをおびたやさしい字で綴られていた。
大西の自刃は、八月十七日午後四時、海軍省から遺書とともに発表された。富岡少将への添え書きどおり、「青年将兵指導上の一助」として利用されたのである。大西に面罵され、対立していたかに見えた富岡は、大西の遺志にしたがい、それを忠実に、しかも手回しよく実行に移したのだ。
大西自刃の記事と遺書は、八月十八日の新聞に掲載された。
第一航空艦隊で大西の副官だった門司親徳が、台湾の新聞でこの遺書を読んだのも、この日のことである。
写真は、門司親徳さんから私が譲り受けた大西中将の書の掛け軸。