7月24日。
昭和20年、終戦を3週間後に控えた70年前の今日、豊後水道上空で、戦闘七〇一飛行隊長・鴛淵孝大尉率いる三四三空戦闘七〇一、三〇一(松村正二大尉)、四〇七(光本卓雄大尉)の紫電改21機が敵艦上機の大編隊と空戦、鴛淵大尉以下6機が未帰還になった。
戦闘七〇一飛行隊分隊長・山田良市大尉は、
「朝、出撃前に整列、敬礼して飛行機に乗る前に、いつもと同じ隊長の白いマフラーが、やけに印象に残った。べつに悲壮な顔もしてないし、いつもと変わらない様子ですが、ありゃ、この人死ぬんじゃないかな、とふと思った」
……と、語っている。
「佐田岬上空へ出たときに、呉方面から引き揚げてくる敵の大編隊、200機いたか300機いたかわかりませんが、延々続く大編隊を発見、その最後尾の編隊に突入しました。
ぼくは4機を率いて、500メートルから千メートル離れて、鴛淵隊4機についていました。二撃めまでは一緒でしたが、しかしなにしろ敵機の数が多すぎる。ぼくも4~5機の敵機に取り囲まれて、撃つには撃ちましたが戦果はわかりません。
空戦しながら、隊長機は?と見ると、いつもついている二番機の初島上飛曹機と2機で、敵の2機を追っているところでした。
『あ、深追いしなきゃいいけどな』と思ったんですが、これが隊長機を見た最後になりました」
鴛淵大尉は大正8年生まれでこのとき満25歳。長崎県出身、海兵68期。飛行学生卒業後、大分空教官となり(このへんの鴛淵大尉の履歴が、坂井三郎氏の誤った記憶でおかしな俗説を生んでいる)、昭和18年5月、二五一空分隊長としてラバウルに進出したのを皮切りに、翌19年には二〇三空戦闘三〇四飛行隊長としてフィリピンで、それぞれ激戦を戦い抜いた。
鴛淵大尉の昭和19年初頭における飛行時間は約1000時間あり、同期の戦闘機搭乗員としては飛びぬけて多い。
鴛淵大尉の人物像は、のちに鴛淵の妹・光子さんと結婚する山田大尉(のち航空幕僚長)によると、
「地上では温厚明朗、私と4つしか年が違わないのに、こうまで人間ができるのかと驚くような人物でした。品行方正だけど堅苦しくなく、特に目がきれいでした。ところが、いったん空中に上がると勇猛果敢、じつに負けず嫌いでした。本当によくできた、誰もが理想とする官軍士官像で、でもそういう人が早く死んでしまうんですね」
ということである。
70年前の今日、三四三空で未帰還になったのは、鴛淵大尉、ベテランの武藤金義少尉、初島二郎上飛曹、米田伸也上飛曹、溝口憲心一飛曹、今井進二飛曹。
武藤少尉は、三四三空で部下たちの猛反発を食って、しかも負傷のため空戦に使えない坂井三郎少尉の面子をつぶさないよう海軍航空隊のメッカである横空に転勤させ、代わりに2対1のトレードでようやく三四三空に引っ張ってきたばかりであった。
昭和53年、この日に未帰還になったうちの一機と思われる紫電改が、愛媛県城辺町沖の海底で発見され、翌54年、引き上げられた。だが、操縦席の中には遺骨はおろか何の遺留品もなく、機番号も消え、搭乗員を特定する何の手がかりも残されていなかった。
そこで、三四三空の元戦友たちは、この機が誰の乗機であるかの詮索は、遺族の感情を乱すことにもなることから、これ以上しないことにした。
のちに、研究者が特定を試みて書物に書いたり、それをもとに昨年にはNHKがドラマを作ったりもしているが、あくまでそれは勝手な憶測である。
機体引き揚げのときの模様はNHKスペシャルにもなったが、戦闘三〇一飛行隊の元整備員だったアマチュア写真家の方が、機体の引き揚げ作業に同行し、その一部始終をカメラに収め、「カメラ毎日」の口絵ページに作品を発表している。だがなぜか、その人の名前は三四三空剣会の名簿には見えない。ほどなく亡くなられたのかもしれない。



ともあれ、68年前の夏の日、豊後水道上空に散った鴛淵大尉以下6名の若者のみたま安かれと願うのみである。