69年前の10月25日は、神風特別攻撃隊が初めて敵艦隊に突入に成功した日である。
私は例年、この日は元一航艦副官門司親徳さんらと芝の某寺で営まれてきた「神風忌」慰霊法要に参列していた。その「神風忌」がなくなった残念ないきさつについては、拙著『特攻の真意』(文藝春秋)に書いたとおり。
三年前には関行男大尉の故郷・愛媛県西条市の楢本神社の慰霊祭に参列させていただいたが、一昨年はドラマのロケが重なったので、遠くマッコイキャンプ(のオープンセット)から遥拝した。昨年と今年は次の著書の追い込みでどうしても出られず、東京より遥拝。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
さて、昭和19年10月25日、最初に米護衛空母「サンティ」に突入したのは、菊水隊の加藤一飛曹、宮川一飛曹のいずれかであることは確実である。直掩機の塩盛上飛曹がその突入を見届け、
〈一機正規空母ノ艦尾命中 火炎停止スルヲ確認ス〉
と報告している。
次に「スワニー」に突入したのは、状況から朝日隊の上野一飛曹と思われるが、朝日隊は戦場上空で離れ離れになり、もう一機の爆装機・磯川一飛曹も直掩機・箕浦飛長も、それぞれルソン島南東部に不時着し、のちに別々にマバラカット基地に生還しているから、日本側で上野機の最期を確認したものはいない。
朝日隊に続いて発進した山櫻隊は、少し遅れて戦場に到着し、海面に流れ出す重油と若干の小型艦を発見したものの、敵機動部隊の姿は見えなかった。一番機の宮原田一飛曹があきらめて帰投を決め、爆弾を投棄した直後、眼下に敵駆逐艦を発見した。早まって爆弾を投棄したのを後悔したに違いない。宮原田が敵艦に向かって銃撃を開始し、列機もそれに続く。
結局、宮原田、瀧澤両一飛曹は対空砲火に撃墜されたものか、未帰還となった。直掩の二機は、ルソン島のレガスピー基地に不時着した。
関大尉の率いる敷島隊が出撃したのは、十月二十五日午前七時二十五分のことである。前の三回の出撃はマバラカット西飛行場からだったが、四度めのこのときはマバラカット東飛行場を発進している。
この出撃には、十月十九日に不時着事故で左脚の骨を折った二〇一空司令・山本栄大佐も、マニラ海軍病院をむりやり退院して、車で駆けつけた。
滑走路脇には多くの隊員たちが並び、力の限りに帽子を振って敷島隊を見送った。
私は例年、この日は元一航艦副官門司親徳さんらと芝の某寺で営まれてきた「神風忌」慰霊法要に参列していた。その「神風忌」がなくなった残念ないきさつについては、拙著『特攻の真意』(文藝春秋)に書いたとおり。
三年前には関行男大尉の故郷・愛媛県西条市の楢本神社の慰霊祭に参列させていただいたが、一昨年はドラマのロケが重なったので、遠くマッコイキャンプ(のオープンセット)から遥拝した。昨年と今年は次の著書の追い込みでどうしても出られず、東京より遥拝。
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さて、昭和19年10月25日、最初に米護衛空母「サンティ」に突入したのは、菊水隊の加藤一飛曹、宮川一飛曹のいずれかであることは確実である。直掩機の塩盛上飛曹がその突入を見届け、
〈一機正規空母ノ艦尾命中 火炎停止スルヲ確認ス〉
と報告している。
次に「スワニー」に突入したのは、状況から朝日隊の上野一飛曹と思われるが、朝日隊は戦場上空で離れ離れになり、もう一機の爆装機・磯川一飛曹も直掩機・箕浦飛長も、それぞれルソン島南東部に不時着し、のちに別々にマバラカット基地に生還しているから、日本側で上野機の最期を確認したものはいない。
朝日隊に続いて発進した山櫻隊は、少し遅れて戦場に到着し、海面に流れ出す重油と若干の小型艦を発見したものの、敵機動部隊の姿は見えなかった。一番機の宮原田一飛曹があきらめて帰投を決め、爆弾を投棄した直後、眼下に敵駆逐艦を発見した。早まって爆弾を投棄したのを後悔したに違いない。宮原田が敵艦に向かって銃撃を開始し、列機もそれに続く。
結局、宮原田、瀧澤両一飛曹は対空砲火に撃墜されたものか、未帰還となった。直掩の二機は、ルソン島のレガスピー基地に不時着した。
関大尉の率いる敷島隊が出撃したのは、十月二十五日午前七時二十五分のことである。前の三回の出撃はマバラカット西飛行場からだったが、四度めのこのときはマバラカット東飛行場を発進している。
この出撃には、十月十九日に不時着事故で左脚の骨を折った二〇一空司令・山本栄大佐も、マニラ海軍病院をむりやり退院して、車で駆けつけた。
滑走路脇には多くの隊員たちが並び、力の限りに帽子を振って敷島隊を見送った。
敷島隊は、指揮官関行男大尉以下、谷暢夫一飛曹、中野磐雄一飛曹、永峰肇飛長、大黒繁男上飛の爆装機五機に、西澤廣義飛曹長、本田慎吾上飛曹、菅川操飛長、馬場良治飛長の四機が直掩についている。
幾度も出撃と帰還を繰り返すうちにメンバーが代わり、敷島隊編制時の搭乗員は、関と谷、中野の三名である。直掩隊は、最初についた谷口正夫飛曹長以下の小隊が、谷口の負傷により、二〇三空戦闘三〇三飛行隊の西澤飛曹長を長とする小隊に代わっている。
関大尉以下五機の爆装機の後上方に、西澤が率いる直掩機四機がつく形で、フィリピン東海岸からレイテ島タクロバンに向け飛ぶこと二時間四十五分。午前十時十分、敷島隊は、針路東方のサマール島沖で、驟雨のなか、隊列のくずれた栗田艦隊がバラバラに航走するのを目撃している。
艦隊上空には、グラマンF6F戦闘機二十五機。味方艦隊が敵機の空襲下で苦戦しているのは明白だが、この姿が関たちにどう映ったのかは、本人たちが全員戦死したから知るすべがない。このとき、栗田艦隊は、「タフィ・3」の護衛空母群の追撃を中止し、レイテ湾突入に向け、まさに態勢を立て直そうとしているところであった。
続いて十時四十分、タクロバンの東八十五度、距離九十浬の地点に、空母四隻、巡洋艦、駆逐艦六隻の敵艦隊を発見、
〈一〇四五之ニ突撃セリ〉
と、「第一神風特攻隊戦闘報告」に記されている。
敷島隊が発見したのは、栗田艦隊の追撃から逃れたばかりの「タフィ・3」であった。
各護衛空母では、栗田艦隊が見えなくなったのを機に、攻撃に放った艦上機の収容を始めていた。「ガンビア・ベイ」が撃沈されたので、残る空母は「キトカン・ベイ」「カリニン・ベイ」「セント・ロー」「ホワイト・プレーンズ」、そしてやや遅れて航行する「ファンショー・ベイ」の五隻。その周囲を囲むように、三隻が撃沈され残り四隻になった駆逐艦が護衛している。
爆装機と直掩機、あわせて九機の零戦は、レーダーのおよばない超低空から、敵艦隊に突入した。米側記録によると、零戦は、海面スレスレから駆逐艦の輪形陣を突破すると、高度千五百~千八百メートルまで急上昇し、ほぼ同時に逆落としに突入した。
二機は「ホワイト・プレーンズ」に向かったが、そのうち一機は対空砲火に被弾し、目標を「セント・ロー」に変えたと見るや、その飛行甲板に突入した。「セント・ロー」は、大爆発を起こし、十一時二十三分、沈没した。
「ホワイト・プレーンズ」に向かったもう一機は、対空砲火の直撃を受け、左舷艦尾すぐ近くの海面に突入。爆弾が爆発し、若干の損傷を与えた。
もう一機は、「キトカン・ベイ」の頭上を交差すると急上昇し、反転するや機銃を撃ちながら突っ込んだ。左舷外側通路に衝突し、機体は近くの海に落ちたが、外れた爆弾は左舷側で大爆発し、火災を発生させた。
ほかの三機は、「カリニン・ベイ」に突入しようとした。一機は飛行甲板左舷側に命中、機体はバラバラとなり火災を生じさせた。もう一機も左舷中央部に突入、さらにもう一機は同艦の左舷の海に墜落した。
体当り機を六機と米側が判断したのは、対空砲火で撃墜された直掩隊三番機・菅川飛長機が含まれているからと思われる。
米側からすれば、たった六機の零戦のために、護衛空母一隻が沈没、三隻が中、小破するという損害を出したのは、驚愕すべき事実であった。
「タフィ・3」はこの直後にも、セブ基地を発進した大和隊(大坪一男一飛曹、荒木外義飛長、誘導機彗星一機・国原千里少尉、大西春雄飛曹長)と思われる隊による体当り攻撃を受け、「カリニン・ベイ」が二機の突入を受けた。
特攻隊員たちの肉体は乗機とともに四散したけれども、この日、のべ九機の爆装零戦の体当り攻撃による戦果は、栗田艦隊による砲撃戦のそれを上回るものであった。
幾度も出撃と帰還を繰り返すうちにメンバーが代わり、敷島隊編制時の搭乗員は、関と谷、中野の三名である。直掩隊は、最初についた谷口正夫飛曹長以下の小隊が、谷口の負傷により、二〇三空戦闘三〇三飛行隊の西澤飛曹長を長とする小隊に代わっている。
関大尉以下五機の爆装機の後上方に、西澤が率いる直掩機四機がつく形で、フィリピン東海岸からレイテ島タクロバンに向け飛ぶこと二時間四十五分。午前十時十分、敷島隊は、針路東方のサマール島沖で、驟雨のなか、隊列のくずれた栗田艦隊がバラバラに航走するのを目撃している。
艦隊上空には、グラマンF6F戦闘機二十五機。味方艦隊が敵機の空襲下で苦戦しているのは明白だが、この姿が関たちにどう映ったのかは、本人たちが全員戦死したから知るすべがない。このとき、栗田艦隊は、「タフィ・3」の護衛空母群の追撃を中止し、レイテ湾突入に向け、まさに態勢を立て直そうとしているところであった。
続いて十時四十分、タクロバンの東八十五度、距離九十浬の地点に、空母四隻、巡洋艦、駆逐艦六隻の敵艦隊を発見、
〈一〇四五之ニ突撃セリ〉
と、「第一神風特攻隊戦闘報告」に記されている。
敷島隊が発見したのは、栗田艦隊の追撃から逃れたばかりの「タフィ・3」であった。
各護衛空母では、栗田艦隊が見えなくなったのを機に、攻撃に放った艦上機の収容を始めていた。「ガンビア・ベイ」が撃沈されたので、残る空母は「キトカン・ベイ」「カリニン・ベイ」「セント・ロー」「ホワイト・プレーンズ」、そしてやや遅れて航行する「ファンショー・ベイ」の五隻。その周囲を囲むように、三隻が撃沈され残り四隻になった駆逐艦が護衛している。
爆装機と直掩機、あわせて九機の零戦は、レーダーのおよばない超低空から、敵艦隊に突入した。米側記録によると、零戦は、海面スレスレから駆逐艦の輪形陣を突破すると、高度千五百~千八百メートルまで急上昇し、ほぼ同時に逆落としに突入した。
二機は「ホワイト・プレーンズ」に向かったが、そのうち一機は対空砲火に被弾し、目標を「セント・ロー」に変えたと見るや、その飛行甲板に突入した。「セント・ロー」は、大爆発を起こし、十一時二十三分、沈没した。
「ホワイト・プレーンズ」に向かったもう一機は、対空砲火の直撃を受け、左舷艦尾すぐ近くの海面に突入。爆弾が爆発し、若干の損傷を与えた。
もう一機は、「キトカン・ベイ」の頭上を交差すると急上昇し、反転するや機銃を撃ちながら突っ込んだ。左舷外側通路に衝突し、機体は近くの海に落ちたが、外れた爆弾は左舷側で大爆発し、火災を発生させた。
ほかの三機は、「カリニン・ベイ」に突入しようとした。一機は飛行甲板左舷側に命中、機体はバラバラとなり火災を生じさせた。もう一機も左舷中央部に突入、さらにもう一機は同艦の左舷の海に墜落した。
体当り機を六機と米側が判断したのは、対空砲火で撃墜された直掩隊三番機・菅川飛長機が含まれているからと思われる。
米側からすれば、たった六機の零戦のために、護衛空母一隻が沈没、三隻が中、小破するという損害を出したのは、驚愕すべき事実であった。
「タフィ・3」はこの直後にも、セブ基地を発進した大和隊(大坪一男一飛曹、荒木外義飛長、誘導機彗星一機・国原千里少尉、大西春雄飛曹長)と思われる隊による体当り攻撃を受け、「カリニン・ベイ」が二機の突入を受けた。
特攻隊員たちの肉体は乗機とともに四散したけれども、この日、のべ九機の爆装零戦の体当り攻撃による戦果は、栗田艦隊による砲撃戦のそれを上回るものであった。
十二時二十分分頃、セブ島の東方からあわただしく駆け込んできた零戦があった。
二〇一空中島正少佐は、
〈私はその飛行機を見た瞬間、何となく鮮血に彩られている様な感じがして、思わずハツとした。〉
と、『神風特別攻撃隊』に記している。着陸した零戦は西澤廣義飛曹長以下、敷島隊の直掩機三機であった。西澤は零戦から降りると、緊張した面持ちで駆け足で指揮所にやってきた。指揮所に居合わせた士官たちも思わず総立ちになり、ドヤドヤと西澤の周囲を取り囲んだ。西澤のもたらしたのは、敷島隊突入成功の第一報だった。
記録によると、西澤は、
〈中型空母一(二機命中)撃沈、中型空母一(一機命中)火災停止撃破、巡洋艦一(一機命中)轟沈、F6F二機撃墜〉
と報告している。
護衛空母を中型空母と誤認、また巡洋艦轟沈の事実はなかったが、襲いくるグラマンF6Fと空戦を繰り広げたにしては、歴戦の搭乗員だけあって正確な報告である。
中島は、この報告をただちにマニラの司令部に打電した。
二〇一空中島正少佐は、
〈私はその飛行機を見た瞬間、何となく鮮血に彩られている様な感じがして、思わずハツとした。〉
と、『神風特別攻撃隊』に記している。着陸した零戦は西澤廣義飛曹長以下、敷島隊の直掩機三機であった。西澤は零戦から降りると、緊張した面持ちで駆け足で指揮所にやってきた。指揮所に居合わせた士官たちも思わず総立ちになり、ドヤドヤと西澤の周囲を取り囲んだ。西澤のもたらしたのは、敷島隊突入成功の第一報だった。
記録によると、西澤は、
〈中型空母一(二機命中)撃沈、中型空母一(一機命中)火災停止撃破、巡洋艦一(一機命中)轟沈、F6F二機撃墜〉
と報告している。
護衛空母を中型空母と誤認、また巡洋艦轟沈の事実はなかったが、襲いくるグラマンF6Fと空戦を繰り広げたにしては、歴戦の搭乗員だけあって正確な報告である。
中島は、この報告をただちにマニラの司令部に打電した。
マニラの第一航空艦隊司令部では、大西長官も、幕僚たちも、門司副官も、二十三日の晩からほとんど寝ずに作戦室に詰めていた。
十月二十五日、夜が明けてから最初に入った電報は、サンベルナルジノ海峡を突破した栗田艦隊が、敵機動部隊と会敵した報せだった。
次いで砲撃戦の模様が逐一入電し、一瞬、明るい希望が広がった。だが、その後の状況がはっきりしない。ほどなく、西村艦隊壊滅の電報が届くと、司令部はふたたび沈鬱な空気に包まれた。
敷島隊の戦果がもたらされたのは、そんなときであった。
二階作戦室のチャート(海図)テーブルから、少し離れた一人がけのソファに大西が座っている。一航艦と、間借りしている二航艦の参謀たちは、チャートのまわりに立って忙しく働いている。そのとき、電報取次の兵が、電信紙の入った電信箱を、大西に届けにきた。
大西は木製の平らな電信箱の蓋をあけると、ゆっくりと黒縁のロイド眼鏡をかけて電文を読んだ。幾度か読み返したあと、電信箱にヒモで結んである鉛筆でサインをして、近くにいた門司に、黙って電信箱をわたした。電報は、セブの中島飛行長から打電されたものであった。
〈神風特別攻撃隊敷島隊一〇四五スルアン島の北東三十浬にて空母四隻を基幹とする敵機動部隊に対し奇襲に成功、空母一に二機命中撃沈確実、空母一に一機命中大火災、巡洋艦一に一機命中撃沈〉
電信箱は、参謀たちにも回覧された。作戦室にざわめきが広がった。
耳慣れた「一発命中、二発命中」あるいは「命中弾一」といった報告ではなく、体当り、すなわち搭乗員の絶対の死とイコールである、
「一機命中、二機命中」
という言葉が、誰の目にも異様に感じられ、針で刺すような胸の痛みとともに不思議な高揚感を感じさせた。
夕方になって、この日の朝、ダバオから出撃し、敷島隊に先駆けて体当り攻撃に成功した菊水隊の報告が入ってきた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
十月二十五日、夜が明けてから最初に入った電報は、サンベルナルジノ海峡を突破した栗田艦隊が、敵機動部隊と会敵した報せだった。
次いで砲撃戦の模様が逐一入電し、一瞬、明るい希望が広がった。だが、その後の状況がはっきりしない。ほどなく、西村艦隊壊滅の電報が届くと、司令部はふたたび沈鬱な空気に包まれた。
敷島隊の戦果がもたらされたのは、そんなときであった。
二階作戦室のチャート(海図)テーブルから、少し離れた一人がけのソファに大西が座っている。一航艦と、間借りしている二航艦の参謀たちは、チャートのまわりに立って忙しく働いている。そのとき、電報取次の兵が、電信紙の入った電信箱を、大西に届けにきた。
大西は木製の平らな電信箱の蓋をあけると、ゆっくりと黒縁のロイド眼鏡をかけて電文を読んだ。幾度か読み返したあと、電信箱にヒモで結んである鉛筆でサインをして、近くにいた門司に、黙って電信箱をわたした。電報は、セブの中島飛行長から打電されたものであった。
〈神風特別攻撃隊敷島隊一〇四五スルアン島の北東三十浬にて空母四隻を基幹とする敵機動部隊に対し奇襲に成功、空母一に二機命中撃沈確実、空母一に一機命中大火災、巡洋艦一に一機命中撃沈〉
電信箱は、参謀たちにも回覧された。作戦室にざわめきが広がった。
耳慣れた「一発命中、二発命中」あるいは「命中弾一」といった報告ではなく、体当り、すなわち搭乗員の絶対の死とイコールである、
「一機命中、二機命中」
という言葉が、誰の目にも異様に感じられ、針で刺すような胸の痛みとともに不思議な高揚感を感じさせた。
夕方になって、この日の朝、ダバオから出撃し、敷島隊に先駆けて体当り攻撃に成功した菊水隊の報告が入ってきた。
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ところで、一昨年10月25日付の産経新聞に、鎌倉時代に来襲した元寇の沈没船と見られる船体が長崎県の鷹島沖で見つかったという記事が出ていた。
船の全長は20メートル以上とみられ、元軍のものとみられる「てつはう」なども見つかったと。
弘安の役(1281年)では、鷹島周辺に集結していた元・高麗軍が、暴風により壊滅したとされ、日本を元の侵略から救った暴風は「神風」と呼ばれた。
その「神風」による沈没船発見のニュースが、神風特攻隊が突入した日に掲載されたというのは、なかなか意味深長である。
「元寇」は、多くの日本人を謂われなく殺戮した「元」による紛れもない侵略行為である。「元」は滅びて、以後支那大陸の支配者は幾度も替り、このことでいまの中華人民共和国を責めたり謝罪と反省を要求しても詮無いことだというのは、常識ある日本人なら誰にでもわかる。
先の支那事変、大東亜戦争では、日本は蒋介石率いる国民政府の中華民国と戦った。戦火が拡大し米英はじめ聯合国を相手の大戦争となり、昭和20年、ポツダム宣言を受諾して降伏したとき、戦勝国の中に名を連ねたのも、中華民国である。
ところが、共産軍との内戦で蒋介石は支那大陸から台湾に追われ、大陸は中国共産党が独裁体制を敷き中華人民共和国となった。
戦後日本は愚かにも、中華人民共和国と国交を結ぶのと引き換えに、台湾に落ち延びた中華民国との国交を絶った。
それで何が言いたいのかと言うと、要するに中華人民共和国(以下、中共)が先の大戦について日本に対して侵略呼ばわりをしたり、謝罪と反省を要求してきたり、いわんや靖国神社への閣僚参拝にケチをつけてくるなどというのは、お門違いである、ということである。
人民共和国、などと大層な国号を名乗っているが、もとはと言えば共産匪、つまりゲリラに過ぎず、蒋介石の国民党にとっても敵であった八路軍である。
内戦で数千万の支那人を殺戮して政権を奪った共産党の責任や非人道性には頬かむりして、すべての非を日本になすりつけるとは、何をふざけたことを言っているのか。
中共が支那大陸での日本の侵略云々を言うのは、日本人が中共に元寇の侵略を云々するのとあまり違わないレベルの、筋の通らない勘違い、乃至は言い掛かりある。
日本の過去の戦争を責め立てる中共政権のお偉いさんたちや官製マスメディアに、あんたたちもともと匪賊でしょ? と言える政治家がどうして日本に出てこないんだろう。