昨今の日本のクールビズブームは、人格を貶めるものである。
服装は自分の都合だけでない。相手への礼儀をはらうべきものという事を忘れている。
もう、毎年のように言っていることだけれど。
また、私が一年でもっとも嫌な「クールビズ」の季節である。
どうでもいいことだが、環境省による推奨期間は5月1日から10月31日。しかも今年は、クールビズよりラフなスーパークールビズの着用期間も一ヵ月前倒しになっているのだという。
一昨年から、環境省は、職員にノーネクタイや上着なしでの勤務を推奨する「クールビズ」をさらに進め、ポロシャツやアロハシャツ、Tシャツの着用も許容する「スーパークールビズ」を推奨、同省によると、スニーカーやサンダルでの勤務を認めるようにしたとか。
・・・・・・アホちゃうか。
こんなニュースを見るたび、チッと、つい舌打ちをしてしまう。
これを考えた役人は、きっと優秀な馬鹿なのだろう。
そのうち、ノーブラとかノーパンで出勤しろと言い出す役所が出てくるかもしれない、というのは冗談だが。
節電は、こういう時勢だから仕方がない。だが、それと、仕事をするのにアロハシャツやTシャツやサンダル履きの姿でいい、というのは別の次元の話であろう。
「涼しい格好」と「ラフな格好」は違うのではないか?
世のなかにはT.P.O.(TIME、PLACE、OCCASION)という言葉がある。言わずと知れたVANの創設者、故石津謙介氏が提唱したものだ。
「とき」と「場所」には、それにふさわしい装いがある。それぞれの立場によって、ふさわしい装いは自ずと異なるが、自分の生活を賭けて社会と切り結ぶ「仕事」の場と、プライベートのリゾートでの格好が同じでいいはずがない。
仕事をするには、たいてい何らかの「相手」がいる。装いには、そんな相手に対する「敬意」を表する意味もある。その相手のことは考えなくていいと思うのが、そもそも馬鹿である。
美空ひばりが、Gパン姿で取材に来た女性記者を追い返したというエピソードがあるが、そんな古い話を持ち出すまでもなく、少なくとも私は、社会人の端くれとして、そんな格好をした人間とは一緒に仕事をしたくない。
暑いぐらいなんだ。やせ我慢しろよ、仕事のときぐらい。
何度も言うように、私は、クールビス絶対反対・徹底抗戦派である。
クールビズに反対なのは、仕事にラフな恰好はみっともないという当然(と私は思う)の感覚、そして国やお調子者どもが音頭を取って、エコの旗頭の元、世の中を一色に染めようとしている全体主義が気に入らないからである。
これでは、戦後民主主義教育の言うところの、「戦前の日本」と変らない。
「エコ」という錦の御旗を立てれば、誰もがおとなしく従うと思っているのだろうか。日本中をクールビズで染め上げようというのはたちの悪いファシズムではないのか。ネクタイを締めたい男もいるのだ。こんな、だれもが反対しづらい大義名分をカサに着ての思想や行動の押し付けには断固反対する。
そもそも、暑いからラフな格好でいいなんて、安直過ぎる。たとえば、灼熱のジャングルで作戦行動中の兵士が、暑いからといってアロハに短パン、サンダル姿で戦闘に臨めるか。原発内で決死の作業をしている作業員が、暑いからと防護服が脱げるか。
・・・・・・極端な例かもしれないが、一般の仕事でも、真剣さはそれらに劣っていいはずがないと思う。仕事に着る服は、社会人としての戦闘服である。
だいたい、「クールビズ」とか言ってる人は、シャンとした格好をして「身が引き締まる」という思いを経験したことがないのか、不思議でしようがない。
「気は着から」
・・・・・・服装が人の「気」に及ぼす影響を甘く見てはいけない。
きっと、クールビズの掛け声の下で、私腹を肥やしている奴もいるだろう。
逆に、クールビズの掛け声の下で泣いている、商売が立ち行かなくなった洋服屋やネクタイ屋、ボタン屋に生地屋、仕立て職人たちは、少なからず存在する。
こんな人たちの暮らしのことはどうしてくれるのだ。
「時代の流れに合わせた経営努力、技術革新」、そんなことが誰にでも要求されるというのは、理論の傲慢である。変らないからこそずっと受け継がれてきた「技」や「美意識」は必ずある。それは流行り廃りとは別のものであるはずだ。
クールビズやエコを主張する人たち、あなた方の主張は正しいかもしれない。しかし、洋服屋の息子として敢えて問う。自らの主張の陰でどれほど多くの人が泣き、生活が立ち行かなくなり、地獄を見ているか、一度でも想像したことがあるか。
そういう人たちはよく、「人の命は地球より重い」と言うが、地球環境のためなら洋服屋を殺しても平気だというのでは、倒錯してないか。 そんな粗雑な想像力で「地球環境」を語るのか。耳当たりのよい主張の陰で泣いている人たちを踏みにじっておいて、なにが「地球にやさしい」だ。
11年前の秋、クールビズの掛け声とともに仕事の受注が激減した紳士服店経営の父は、癌に犯された体で必死に頑張ったが、ついに寿命が尽き、失意のうちに死んだ。
父の店を自分の手でたたむとき、大量に売れ残った夏物生地の在庫の山を見て、私は、「エコ」とか「クールビズ」とか、そういう思想、運動には一生背を向けて生きていこうと誓った。
威勢のいい言葉、耳当りのいいスローガンも、それを声高に主張する人間も、私はけっして信用しない。
そして、今年の夏も、私はネクタイを締めジャケットを着て仕事に臨むつもりだ。
アロハやサンダル姿でできるほど、薄っぺらな仕事はしたくないし、自分の仕事に誇りを失いたくないと、私は自戒をこめて思っている。社会人としての矜持を地球環境のために捨てられてたまるか。
何度でも言う。昨今の日本のクールビズブームは、人格を貶めるものである。そこには犠牲者も大勢いる。自然環境のためと称して人を殺しても顧みないのがクールビズ運動である。
だから私は、同じ選挙区で支持政党の候補ではあるが、小池百合子には決して投票しない。