元零戦搭乗員・原田要さんに最後のお別れに行ってきた。
原田さんは、昨年、戦後70年で取材が殺到したことで、心身共にかなり参っておられたらしい。ご子息に、もう勘弁して欲しいとこぼされていたと聞く。耳が殆ど聴こえず、取材者が作ったストーリーに都合良く乗せられたようにも見受けられる。
最初に原田さんの戦中戦後を本にした者として慚愧にたえない。
原田さんとは21年来、公私共にお付き合いいただき、ハワイ・真珠湾にも、毎年温泉にもご一緒したし、お孫さんの結婚式にも出た。拙著にご登場頂いたことも屡々。
そんな目から見て、近年の原田さんへのインタビュー記事や番組には、仰ることが以前と変わっていたり、正確を欠くものが目に付き、とても気になっていた。
来る人を選ばす否定せず、許容範囲のきわめて広い原田さんだったが、それゆえ、最晩年は右からも左からも都合の良い部分を利用されていた感は否めない。
奥さんがご存命中、
「主人はああ見えて戦争の話をした後は一晩中うなされてるんですよ。もう見てられなくて。もし取材の相談があったらお断り頂ければ」
と仰ったことを思い出す。
原田さんの戦中戦後については、拙著『ゼロファイター列伝』(講談社)に収載したものが、20年の集大成でもあり、もっとも正確であると自負しています。
![]() | ゼロファイター列伝 零戦搭乗員たちの戦中、戦後 1,620円 Amazon |
恐らくご家族、ご親族以外では最も身近に原田さんと接してきた身として、思うことは多い。
戦争体験を伝えるということはどういうことなのか。伝えるためには本人を苦しめ続けてもいいのか。それが正義なのか。原田さんと最後のお別れをし、ご家族ともしみじみ話してきて自問自答をしているところだ。
戦争体験者の高齢の方が、メディア取材で寿命を縮めた例をいくつか見てきた。特にテレビに顕著である。なかでも民放は、特ダネ、面白い映像が撮れればという姿勢が目につく。もう10数年前になるが、あるテレビ局が、日米元軍人の和解の野球試合を放送し、米軍人の一人が帰国後急死したことがあった。これなど常軌を逸している。
TVは大人数で押しかける上にセッティングや撤収もふくめ時間がかかる。しかもカメラが回っている間は気が抜けない。それで倒れてしまう人もいる。もちろん、スタッフに悪気はない。他の取材者もそうだし、話を聞きたいと訪ねてくる人もそうだろう。
そんな人たちをを突き動かすのは、使命感であり善意である。しかし往々にして、使命感に駆られた善意の馬鹿が人を殺すのだ。
原田さんが凄いのは、零戦搭乗員としての戦歴もさることながら、戦後、第二の人生で商売に悉く失敗、50歳を越えて始めた、第三の人生とも言える幼稚園園長を約45年も続けられ、多くの子供たちを育てたこと。そして、実体験に基づき、子供たちに平和の大切さを身をもって教え続けたことだと思う。
それでも時代の流れに戸惑われることもあった。毎冬になると原田さんの奥さんは、春に入園してくる子供の為に可愛いわらじを人数分、心を込めて編んでいた。「それが近頃では、そんなもの要らないから入園料を安くしろって言う親御さんがいるんですよ。お金でやってる訳じゃないのに、嫌になっちゃって」と。
5年半前、原田さんの奥さんが亡くなられたときの一文が過去ブログに残っていた。若干、重複するが、以下に再録する。
私が戦争体験者の取材を始めるきっかけになった元零戦搭乗員で海軍中尉・原田要さんの奥様・精さんが87歳で亡くなった。
昨日(11日)、長野市内で営まれたご葬儀に参列させていただいた。
精さんは、昭和16年元日、親が決めた縁談で満17歳で原田一飛曹(当時)と結婚、以後約70年もの長きにわたって連れ添ってこられた。
戦中は明日をも知れぬ戦闘機乗りの妻として、戦後は一転、周囲から「戦犯」呼ばわりをされ、失業して職を転々とする夫を支え、激動の昭和を生きてこられた。昭和40年、夫婦で小さな幼稚園を設立、以来ずっと、子供たちをやさしく見守ってこられた。
精さんの話だけで、「妻から見た零戦」物語が書ける気がするほど、その生涯は波乱に富んでいた。
私の知っている精さんは、小柄で可愛らしく、いつも明るく穏やかで、傍目には幸福そのものに見えたけれど、ご長男に先立たれる哀しみも味わい、また幼稚園児の保護者というか日本人の気質の変化に、ずいぶん戸惑いも感じておられたようだ。
精さんは毎年、冬になると、次の春に入園してくる子供たちのために全員の分の草鞋(ワラジ)を、心をこめて編んでおられたが、
「この頃の親御さんのなかには、こんなものいらないから保育料を安くしろって言う人もいるんですよ。もう、嫌になっちゃって」
と寂しそうに言われていたのを思い出す。
・・・・・・などと言いながら、ご主人のことを思う気持ちはひしひしと伝わってきた。
原田さんは現存の零戦搭乗員のなかでは二番目の長老(94歳)(※注:このブログ記事当時)で、支那事変で九五式艦戦での実戦経験のあるおそらく唯一の生き残り、対米開戦時は空母「蒼龍」乗組の零戦搭乗員としてハワイ作戦、ウェーク島攻略、印度洋作戦、ミッドウェー海戦に参加、さらに「飛鷹」に乗組みガダルカナル島上空の空戦でグラマンF4Fと差し違え、重傷を負った。その間、協同・不確実をふくめ15機の敵機を撃墜した歴戦の搭乗員だ。
私が最初に上梓した『零戦の20世紀』(スコラ・1997年)で、園児に囲まれるカラー写真とともに原田さんのことを紹介して以来、「零戦搭乗員で幼稚園の園長になった人がいる」ということが知れ渡り、各種メディアの取材が引きも切らなくなった。
原田さんは人を選ばず、来るものは拒まない方で、取材したほうは喜んで帰っていくのだが、あるとき精さんに、
「主人はああ見えて、戦争の話をした晩は夜通しうなされるんですよ。年も年だし、紹介してくれというお話はお断りいただけると・・・・・・」
と言われてハッとしたこともある。
真珠湾攻撃60周年のときには一緒にハワイにも行ったし、温泉旅行にも幾度もお誘いいただいた。長野の原田邸に行くと必ず、手作りの料理や漬物で歓待していただいた。「おやき」「梅干」「奈良漬」の味は忘れられない。私もいつしか、実の祖父母宅に行くような感覚になっていた。「零戦の会」の総会にも、毎年、ご夫妻揃って来てくださった。たった15年のお付き合いだったけれど、思い出は尽きない。
葬儀会場で受付を済ませ、ご子息やお孫さん、曾孫さんたちに挨拶して式場に入ろうとすると、そこに原田さんが立っていた。一瞬、驚いたようなお顔をされ、
「来てくれたの・・・・・・」
とガッシリ手を握ってくださった。
「来ないはずがないじゃないですか。このたびは何と言っていいか、残念で悲しくて・・・・・・」
言いながら、涙が出た。
「遠いのに・・・・・・ありがとう」
抱き合って泣いた。
「原田さん、お元気でいてくださいよ!」
「大丈夫だ、大丈夫だ!」
力強いお声に、少し安堵を覚えた。
一夜明けても、まだ言うべき言葉が見当たらない。ひたすら寂しく、また奥さんに先立たれた原田さんのことが気がかりなばかりである。
ご冥福をお祈り申し上げます。