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72年前の今日(昭和18年3月6日) 五八二空零戦隊・樫村寛一飛曹長戦死(ルッセル島上空)

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 72年前の今日、昭和18年3月6日、支那事変初頭の「片翼帰還」で知られる五八二空零戦隊の樫村寛一飛曹長が、ルッセル島上空の空戦で戦死した。

 樫村飛曹長は昭和八年の志願兵で、原田要さんや坂井三郎さんと同年兵になる。
 
 数年前までは奥さんが慰霊祭の折に毎年上京され、靖国神社で同じ五八二空の野口義一中尉の妹さんらとお参りされるのに同席させていただいていた。

 いろんな人からいろんなエピソードが聞かれる、海軍戦闘機隊の名士だった。


 五八二空でご一緒だった、一昨年亡くなられた角田和男さんからも、樫村飛曹長の思い出はずいぶん聞かされたものだ。

 今頃は彼岸で編隊飛行をされているのだろうか。


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 日本軍をガダルカナルから追い落として、勢いに乗る米軍は、昭和十八年二月二十一日、ガ島よりもラバウル、ブインに近いルッセル島に上陸を開始、またたく間に飛行場を作り上げた。

 二十六航戦では、高畑辰雄大尉率いる五八二空艦爆隊十二機をもってルッセル島の敵陸上施設を攻撃することとし、野口義一中尉の五八二空零戦十八機、宮野大尉の二〇四空零戦十七機がこれを護衛することになった。

 十一時四十分、攻撃開始。戦闘機隊は艦爆隊を覆うようにバリカン運動をしながら降下に入る。艦爆隊は、四機が二十五番(二百五十キロ)爆弾各一発、残る八機は六番(六十キロ)爆弾各二発を搭載していた。五八二空戦闘機隊の一部は、艦爆に呼応して、地上施設や海岸にあった舟艇を銃撃している。この銃爆撃で敵見張所ほかの陸上施設を炎上させ、相当数の舟艇に損害を与えたと認められた。

 攻撃が終わって避退するところに、グラマンF4FP-39混成の敵戦闘機十数機が襲いかかり、五八二空の艦爆一機(岩井田弘飛長、竹下薩男二飛曹)が撃墜される。二〇四空宮野隊は艦爆隊の直掩に徹し、空戦に入らなかったが、敵戦闘機にやられたものか、丙飛三期の加藤正男飛長がルッセル島付近に不時着、そのまま未帰還になった。加藤飛長は六空開隊以来の搭乗員の一人で、グラマン一機撃墜の功を持っていた。


 五八二空樫村寛一飛曹長は、なおも執拗に攻撃してくる敵機に単機、低高度で格闘戦を挑んだが、降爆のさいに振り放された二番機・福森大三二飛曹と明慶幡五郎飛長が駆けつけた時にはすでに遅く、衆寡敵せず樫村機は海中に突っ込んだ。支那事変「片翼帰還」の勇士の、あっけない最期であった。

 列機二機が最期を見届けているが、准士官以上の目撃者がいなければ自爆の現認証明書が出せない。未帰還の扱いでは遺族への公報も遅くなるからと、五八二空司令・山本大佐は、苦肉の策として、当日、搭乗割に入っていなかった角田飛曹長が出撃したことにして編成表を作り直し、角田に現認証明書を書かせた。しかし、この策はなぜか通らず、樫村飛曹長は未帰還と認定され、現在防衛庁に所収されている五八二空戦闘行動調書では、編成表はメイキングされたまま、樫村の欄には「未帰還」と朱字が入っている。


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「三大い人」と「三大奇人」。

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 複数の操練出身(ということは古手の)搭乗員によると、坂井三郎、樫村寛一、岩本徹三の3氏を称して、「海軍戦闘機隊の三大“い”人」というそうだ。
  “い”人というのが「異人」なのか「偉人」なのかはわからない。共通していえるのは有言実行というか、口八丁手八丁の人たちで、腕も立つが口も立つ、ということのようだ。
 そして、そのルーツは、「源田サーカス」の、間瀬平一郎氏にあるそうだ。

 また、もう少し古い世代で、黒岩利雄、赤松貞明、虎熊正の3氏を「海軍戦闘機隊の三大奇人」と呼ぶ。
 この人たちはいずれも、腕がいい上に、軍隊社会でも独自のポジションを築き上げて下士官兵搭乗員のボスとして君臨し、上官を上官とも思わぬ振舞いながら上からも認められていたという点、そしてその奇行ぶりで、後の世代にはあまりないような存在感を示している。

 黒岩氏は、日本初の敵機撃墜を果たした生田乃木次大尉の二番機として知られるが、上官暴行等色々あって善行章を剥奪されたり、金鵄勲章を返上したり、結局は「不良満期」で海軍を去り、民間航空のパイロットとして殉職されたわけだが、戦後も懐かしむ人が多くおられた。

 赤松氏については、言わずもがなだが、岩井勉さんの結婚式に裸で乱入して踊り狂ったとか、まあ、書ききれないほどのエピソードがある。
 虎熊氏は、「虎熊豹象」と自称し、生きた蛇を生のまま、頭からバリバリ食うような人で、若い搭乗員はよく、炎天下の飛行場の草っ原で、蛇を捕まえさせられたそうだ。
 赤松氏は戦後病没、虎熊氏はテスト飛行中の殉職だから、そういえば、三大「奇人」のほうはどなたも敵機には墜とされていない。

 あと、准士官進級を拒んで下士官のまま戦死した菊池哲生氏、梅毒を自分でリンパ腺を切って海水で洗い、治してしまったS氏(割合早く戦死したので、本当に治ったかどうかはわからない)などなど、硬軟とりまぜて色んな「名士」がいる。


 福岡の知人Tさんのご親戚、岡部健二さんもそんな名士の一人である。

 二〇一、二〇五空搭乗員の方が集まった折、必ず岡部氏の思い出話に花が咲いていた。
 特攻反対を公言し、特攻隊員にも「特攻なんてやめてしまえ、ぶつかったら死ぬんだぞ、死んだら終わりだぞ」と説いていたという話。
 昭和20年初頭、フィリピンで飛行機を失い、転進するため搭乗員たちが山中を半月以上も行軍したとき、みんな疲れ果てて呆然としている中、岡部さんは大きな荷物をかつぎ、小休止のたびにその荷物を広げ、みんなに見せびらかしていた。
 荷物の中身は、シンガポールで買った婦人もののハイヒールやハンドバッグ、化粧品など。
 「俺は死なない、かあちゃんにこれを持って帰るんだから」
 と、奥さんののろけ話がはじまる……といった具合に。


 でも、いまや古い搭乗員のそんなエピソードを聞かせてくれる人も、ほんとうに少なくなってしまった。




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