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『エース列伝』の不謹慎、を突き抜けた一冊。赤松貞明『日本撃墜王』

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 4年前、東日本大震災の直前、3月9日に書いた記事に加筆して再アップする。

 欧米はともかく、日本において、ことに帝国海軍において、戦闘機搭乗員を「エース」呼ばわりすることの不謹慎さについてはこれまでも何度か書いている。

 志賀淑雄少佐がおっしゃっていたように、
 「日本海軍戦闘機隊にはエースはいない。そんな称号も制度もなかった。商売で『エース列伝』などという本を出されるのは迷惑千万」
 というのは、「零戦搭乗員会」の統一見解であったし、それを正統に引き継いだ「NPO法人零戦の会」でも同じである。

 少なくともこのブログをご覧になる一日2000人近い読者諸賢は、このようなものに惑わされないでいただきたい。

 本のなかで「エース」呼ばわりをされて偶像に祭り上げられ、その気になってしまったごく一握りの人たちは、かつての仲間から軽蔑されたものだ。
 まあ、いまどき、「エース」だ、「撃墜王」だといって喜ぶ読者も少数派なのだが。

 ところが、「撃墜王」を自称して、それが許された、いやむしろ愛されたキャラクターの元搭乗員が一人だけいる。
 赤松貞明中尉。(写真は昭和12年、下士官時代)
 

 明治43年生まれ、ということは海兵でいえば59期と同年ぐらいだが、昭和3年、佐世保海兵団に入団、四等水兵から叩き上げられ、昭和7年、17期操縦練習生を卒業、支那事変以来数々の戦場で名を馳せ、昭和55年、70歳で亡くなった。

 大言壮語(すごいのなんの、撃墜自称350機!)が憎めない人だったようで、部下の岩井勉さんの結婚式に全裸で乱入して踊り狂ったとか、どこかでもらってきた性病を奥さんにも伝染したとか、そういう逸話には事欠かないけれど、搭乗員としての実力もたいしたものだったらしい。

 黒澤丈夫少佐は、開戦直後、大尉だった三空時代、地上銃撃直後の不利な体勢で敵機に襲われ、絶体絶命のピンチを赤松飛曹長に助けられたというお話をよくされていた。

 で、法螺もここまでくると許される、というか、同じ法螺なら大きいほうがむしろいいかも、と私がひそかに思っているのがこの一冊。
 赤松氏の著書、というか語りおろしの『日本撃墜王』(今日の話題第三集臨時増刊号。昭和二十九年十一月)である。

 表紙。定価30円。
 写真家「神立尚紀(こうだち・なおき)」のブログ

 表紙のアップ
 写真家「神立尚紀(こうだち・なおき)」のブログ

 撃墜350機!のくだり
 写真家「神立尚紀(こうだち・なおき)」のブログ

 いたって大真面目に語りかつ書かれているのがおかしいが、昭和29年という時代だからこそ、この内容でもよかったのだろう。
 『坂井三郎空戦記録』もそうだが、敗戦コンプレックス、ガイジンコンプレックスが色濃く残る時代、人々はガイジンレスラーをなぎ倒す力道山の空手チョップに夢を託し、米英機をバタバタと撃ち落す零戦の活躍ぶりに、たとえそれが負け惜しみに過ぎなかったにしても、明日への希望を見出していたのだ。
 しかしこの本、撃墜機数はともかく中身はさほど奇想天外でもなく、戦闘機の操縦に関することなど「おっ」と思うような記述も随所にあって、意外に理知的な面もうかがえる。

 装丁がちゃちな雑誌なので、果たしてどれぐらいの数が現存しているか。入手は難しいかも知れないが、ご興味のある方は古書ででも探してみてはいかがだろうか。

 ついでながら、NHKアーカイブスのサイトで、「日本ニュース」が全巻、画面は小さいものの見られるようになったが、「日本ニュース」第254号(昭和二十年七月一日公開)の「海の荒鷲『雷電』戦闘機隊」で、厚木の三〇二空で若い搭乗員に身振り手振りで空戦の機動を教える赤松氏の姿を、肉声入りで見ることができる。
 その前に搭乗員を集めて訓示をしているのは、終戦後自決した飛行長・山田九七郎少佐(海兵64期)である。



 ここからが追記だけれど、赤松氏が「支那事変中、自分よりも撃墜機数の多いのが二人いた、一人は小泉という者で、もう一人の名前は忘れた」旨の発言があるが、その小泉藤一大尉(戦死後の進級)の写真が、何枚か手元にある。

 小泉藤一氏は、大正5年福井県生まれ、予科練(のちに乙種と呼ばれる)2期生として昭和6年に海軍に入った。
 写真は、撮影した戦友の履歴との照合から、おそらく、二点とも昭和12~13年、十二空か大村空時代のもの。

 善行章二線に、左マークは操練の鳶ではなく飛練の鷲の特技章。
 

 こちらは第一種軍装だが、古参の域に達した下士官らしく、軍帽の針金を抜いてクシャッとした形にしている。
  

 巷のエース本には目立った記述はないが、支那事変以来の古い搭乗員の誰もが、この人には一目置いていた。

 日米開戦時は飛曹長に進級していて、赤松貞明飛曹長と一緒に三空にいた。
 フィリピン空襲、インドネシア方面の航空戦、オーストラリア空襲などに参加し、開戦以来1年半にわたり前線で戦った。緒戦の「無敵零戦」神話の立役者の一人と言ってよかろう。

 昭和19年1月27日、二航戦の空母「飛鷹」分隊長として、ラバウル上空の邀撃戦で戦死。満27歳だった。
 二航戦戦闘機隊ということは、進藤三郎少佐が指揮官で、日高盛康大尉も一緒だったはずである。
 もし戦後までご存命だったら、ぜひともお話を聞いてみたかった人の一人である。




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