平成23年も間もなく暮れようとしている。
新しい年が始まるとはいえ、今夜零時を境に何かが劇的に変わるとは思えないが、今日はこの一年、惜別の思いで見送った人たちのことを想い出そうと思う。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
思えば平成23年は、昨年大晦日に亡くなった本村哲郎さんの訃報で幕を開けた。元海軍少佐で海上自衛隊の自衛艦隊司令官(海将)を務めた人だ。享年93。
本村さんは佐賀中学から海兵65期。大戦中、駆逐艦「黒潮」に砲術長として乗組み、乗艦沈没時に重傷を負い、その後は海軍兵学校で教官を務められた。
拙著『零戦隊長~二〇四空飛行隊長宮野善治郎の生涯』の主人公・宮野善治郎大尉(戦死後中佐)とは海兵の同期生で、本の取材・執筆を通じていつも的確なサゼスチョンをいただいた。
長身で背筋の伸びた、アドミラルらしくじつに颯爽とした、華のある方だった。非常にシャープな反面、私のような若造に対しても丁寧に接してくださるお姿にはなんともいえない慈愛がにじみ出ていて、まさに「将器」とはこういう人のためにある言葉なのではないかと思ったりもした。
65期のクラス会の世話役をずっとやっておられて、私が『零戦隊長』を上梓したとき、
「我がクラスの誇りである宮野君のことをこのように立派にまとめてくださり、クラスを代表して御礼申し上げます」
と、達筆のお礼状をいただいて恐縮したこともあった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
1月20日には、大学で同級だった原正人君(日大芸術学部教授)の訃報が届いた。
学生時代の原君は、いまニコンでプロサポート部門を統括しているM君とともに群を抜いて真面目で、全科目全出席で全優の成績をおさめた。
彼の講義ノートは几帳面でなおかつツボを押さえた見事なもので、試験の前になるとそのコピーが出回る。本人はあまりそういうことを好まなかったが、悪友の誰かがコピーして、それをまた誰かがコピーして、そんな海賊版に闇値がついて・・・・・・ともかく、私もふくめて、彼のノートのおかげで卒業できた同級生はかなりの数に上るはずだ。
といって、彼はけっして四角四面ではなく、ユーモアもあり、人当たりもよく、みんなから別格の存在感をもって畏敬の目で見られていた。
大学卒業直前、私と原君、そして男女5、6人ずつぐらいで軽井沢に旅行したのは、いまも懐かしい思い出だ。
作家・森村桂さん所有の馬小屋を改造したすきま風の吹く板張りの部屋で、囲炉裏を囲んで語り明かしたのが昨日のことのように思える。
そのとき私はすでに本や雑誌の仕事をしていて、海竜社から出る森村さんのケーキの本の写真を頼まれていた。
新雪の上に焼きたてのケーキを置いて、みんなにレフ板を持たせたり助手をさせて、写真を撮った。原君が確か、露出を計ってくれた。ニコンF2に105ミリF2.5のレンズをつけ、ケーキを撮る私と、手伝ってくれているみんなを写した写真が手元に残っている。
このとき、積もりたての新雪を大皿に盛って、その上に森村さん手作りのイチゴや杏、ルパーブ、リンゴ、バラの花びらなどのジャムを載せ、キンキンに冷えた軽井沢の青空の下、みんなで食べたのは、忘れられない美味だった。
卒業式の日、原君は「優等賞」を受賞し、卒業制作の「原時空」は、私の「虎」とともに金丸重嶺賞を受賞した。
とことん具体的かつ現実的な私の写真観とちがい、彼の作品は哲学的かつ心象的で、本来、私とは正反対のベクトルを向いていたのだけれど、不思議とウマが合った。・・・・・・と思っていたが、実は彼が私に合わせてくれていたのかも知れない。それほど、彼は大人の風格があった。
いきなりフリーランスの報道カメラマンに勢いでなってしまった私とちがって彼は堅実にステップを上がっていった。大学の研究室に残り、助手から講師、助教授を経て、母校の教授になったと聞いたのはまだ40歳前ではなかったか。
享年47。惜しい。まったく惜しい!
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
4月15日には、予備学生13期の零戦搭乗員・中村喜一郎さんが逝去された。享年90。一気に意気消沈。中村さんはいつも、NPO法人「零戦の会」の定例行事にもご出席くださっていたのだが。
ご遺族からのお手紙によると、ご遺体はご遺志により、防衛医科大学病院に献体され、医学生の研究の資となられたという。
ご葬儀もまたご遺志により家族葬で執り行われ、香典一切ご辞退とのこと。
最期まで立派な方だったなあ、と思いにふける。
そういえば、元台南空、二〇四空、三四三空の島川正明さんも、献体されたのだったな、と思い出す。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
田中國義少尉の訃報は5月25日。享年94。
田中さんは、大正6年生まれ。昭和9年、四等機関兵として佐世保海兵団に入団、航空兵に転科し、31期操縦練習生を卒業。軍歴の古い人は他にもいるが、戦闘機の操縦歴でいうと、現在のところ最古参になるのが田中さんだった。
昭和12年10月、第十三航空隊の一員として上海に進出、翌年7月までの間に、九六艦戦を駆って敵機13機を撃墜した。
昭和16年秋から17年春にかけて、台南海軍航空隊の一員として零戦を駆って大東亜戦争緒戦に参加、特に対B-17爆撃機との戦闘で戦果を挙げた。
終戦時、海軍少尉。
戦後は東京・板橋で自動車の板金工場を営んだ。
田中さんには拙著『零戦最後の証言』ほかでしばしばご登場いただいている。
初めてお会いしたのは、平成7年秋、信州美ヶ原で行われた零戦搭乗員の集いである。
そして晩秋、志賀淑雄少佐にインタビューをお願いして、志賀さんの会社に行くと、志賀さんと田中さんがおられた。
志賀さんは、
「私の話はつまらないから、この人の話を聞きなさい。支那事変で私の列機を務めて私を守ってくれた、日本海軍一の搭乗員です。『大空のサムライ』なんかとは格が断然ちがう。いろいろ教えを乞えばいいと思うよ」
とおっしゃる。ということで、思いがけずも、田中さんが主で、志賀さんが補足するような形のインタビューになった。のちに、お二人とは個別に、数え切れないほどお目にかかりインタビューさせていただくことになる。
田中さんのインタビューは、練馬光が丘公園だったり、原宿竹下通りの喫茶店だったりした。原宿だと帰りの電車は同じ方向になるので、山手線に一緒に乗る。けっして足腰はご丈夫ではなかったが、シルバーシートに座った若いのが席を譲らなくても、
「まだまだ頑張りたいしね」
と、不敵な笑みを浮かべて立っておられた。
田中さんと坂井三郎さん、石川四郎さんのゴルフにお誘いいただいたこともあった。
零戦搭乗員会の役員会や、米軍厚木基地将校クラブでのクリスマスパーティーでは、志賀さんがタクシーをチャーターして、まず田中さんを送り届け、私を降ろし、志賀さんがご自宅に帰られる。
あるとき、田中さんを降ろした後、先に志賀さんをお送りして、最後に私が帰ったことがあったが、志賀さんが降りた後、我々の話を聞いていたタクシーの運転手さんが、零戦ファンだったらしく、
「大変な人たちをお乗せすることができて、光栄です」
と、料金を受け取ろうとしなかったことがあった(ちゃんと払ったけど)。
志賀さんはどんなパーティーの場でも、必ず田中さんを傍らに立たせて、
「私が生き残ったのは、優秀な列機を持ったこと、なかでもこの人のおかげです」
と紹介するのが常であった。
田中さんは、台南空では飛行隊長・新郷英城大尉の二番機を務めたが、志賀さんによると、田中さんの考課表には、
「指揮官列機トシテ最優秀」
と書かれてあったという。
平成14年晩秋、志賀さんご病気の報に、とりあえずお見舞いがしたいと、田中國義、小町定、操練出身の両氏が、練馬まで来られたことがあった。ちょうど間の悪いことに、志賀さんはお留守であったそうだ。
待っていれば帰ってこられるかも知れないと、寒風の吹く近くの公園のベンチで二人でお待ちになり、結局、その時はお会いになれなかったという。
拙宅は志賀さん方のすぐ近くなので、一声かけていただければ拙宅でお茶ぐらいしていただけたのだが。落ち葉の舞い散る公園のベンチで、何時間も帰りをお待ちになっていた田中さんと小町さんの心中とその情景を考えると、切なくて泣けてくる。
平成18年の「零戦の会」総会に出てこられたのが、公の場では最後になった。
以後、体調をくずされ、時折の電話と年賀状のやりとりだけになっていた。
正確に確認をとったわけではないが、支那事変で九六戦での実戦、敵機撃墜の経験のある人は、田中さんが最後の一機だったのではないだろうか。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
6月6日、会計監査法人トーマツ創始者の富田岩芳(いわお)さんが亡くなった。
富田さんは、海軍経理学校出身。伊藤忠元専務の水木泰さん(海軍夜間戦闘機搭乗員)にご紹介いただき、アメリカンクラブで何度かご馳走になった。私は金融とか経済のことはよくわからないが、日銀総裁との昼食会にお誘いいただいたり、会社で肖像写真を頼まれて撮ったりもした。
私が本を出すたび50冊はお買い上げいただいていたらしい。身の程を過ぎた可愛がられ方をしたような気がする。最近も、世界中飛び回っているとお電話をいただいたのだが。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
7月11日、速水経康大尉が亡くなった。海兵71期、三四三空戦闘四〇七飛行隊分隊長。88歳の誕生日を目前に控えておられた。
速水さんは、海軍兵学校生徒のとき、写真家・真継不二夫氏の不朽の名作写真集「海軍兵学校」で、凛々しい飛行服姿で写った写真が残っている。
横須賀海軍航空隊から三四三空に転勤になったが、人事権を持っていた三四三空飛行長の志賀少佐が、
「速水大尉は、横空にいたとき、人柄と技倆に惚れ込んで、源田司令に進言して三四三空に引っ張った」
とおっしゃっていたから、優秀な若武者だったのだろう。実際、昭和20年2月16日、米機動部隊艦上機が関東を襲ったときには、零戦五二型丙に搭乗し、八王子上空で機種不詳の一機を撃墜している。
三四三空への転勤辞令が届いた速水大尉は、
「三四三空は、士官もみんな頭は丸刈りだと聞いていたから、嫌だなあと(笑)。それで、行くのなら潔く坊主頭で行こうと、横須賀で髪を丸刈りにして赴任しました。
源田司令に申告をすると、「髪の毛を出せ」と言われ、「刈ってきました」と言うと怒られた。三四三空でみんな丸刈りにさせるのは、戦死したときに家族に渡す遺髪として、司令が預かる、ということだったんです」
と振り返る。
速水さんは、とても気持ちの若々しい、若い人と話したり飲んだりするのが大好きな方だった。
いまや伝説となった海軍御用達の五反田の居酒屋「赤のれん」で、へべれけに酔っ払っておられたのを思い出す。それも、速水さんのお酒は、みんなを楽しくさせる愉快なお酒だった。2002年9月13日だったか、あのときは日高盛康少佐、岩下邦雄大尉、宮崎勇少尉や、笠井智一上飛曹も一緒だった。
速水さんにはほんとうに、心楽しい思い出しかない。いろんな機会にお会いするたび、握手をして、「また会いましょう」と力強く言ってくださるのが常だった。
しかし、思えば、速水さんはずっと病気と闘っておられたのだ。
最後にお会いしたのは、2005年11月に亡くなった志賀飛行長のお通夜のときだ。
志賀さんのお通夜、ご葬儀には、三四三空の搭乗員をはじめ、支那事変で志賀さんの列機だった田中國義さんなど、大勢の元部下が全国から駆けつけた。
速水さんはこのとき、戦中戦後の志賀さんとの思い出を熱く語り、初めて涙しておられた。あまりにも酔っ払われて心配になり、確か私が田中國義さんをお見送りするので、光人社の坂梨さんに速水さんをお送りいただいたと記憶している。
速水さんはその後、病状が悪化されたようで、たまに電話でお話するぐらいになったが、そのお声にも次第に元気がなくなってきた。
正味、1995年から2005年まで10年のお付き合いで、この5年半はお会いすることなく終わってしまったが、不思議と、いつも身近にいらっしゃるような気がしている。
昨年、日高盛康少佐の訃報が届いたのもこの時期だった。年々、夏の暑さが悲しく感じられる。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
8月、特乙4期・岩田勇治さん(七二一空桜花)の訃報が届く。
昭和2年生まれ、84歳の岩田さんは、零戦に搭乗した搭乗員のなかでももっとも若い部類に入る。ちなみにご存命の最年長は大正2年12月生まれの97歳、最年少は昭和3年早生まれの83歳。
もっとも、若いといっても、日本人男性の平均寿命が概ね80歳だから、全員平均を超えていらっしゃる。有史以来、はじめて日本人の平均寿命が50歳を超えたのが昭和22年というから、ご当人たちにとっても、思いがけないご長命ではあるようだが・・・・・・。
岩田さんは、零戦搭乗員会長野支部の世話役をずっと務めておられた。
零戦搭乗員会には、本部と北海道、長野、関西、愛媛の支部があり、それぞれ盛んに活動していた。うち、本部は現在NPO法人「零戦の会」に、関西、愛媛もいまは独自に活動を続けているが、北海道、長野はすでに解散している。
で、長野支部だが、長野県は、岩下邦雄前会長や故・西澤廣義飛曹長を輩出した戦闘機乗りの多い県で、毎年秋には、整備員も合わせた海軍航空隊員の集い「海空麦飯会」との合同大会を開催していた。
私が初めて参加したのは16年前の9月。長野県には、いまもご健在の原田要さんをはじめ、中谷芳市さん、真田(石原)泉さんらがお元気であったし、東京からは岩下さんや小町定さん、田中國義さん、山梨県からは内藤千春さん、静岡県から羽切松雄さん、愛知県からは橋本勝弘さんなど、まさに錚々たる零戦搭乗員がご参加になっていた。「戦闘機無用論」で中攻に転科した畠山金太さん、二〇四空の整備の先任下士・池田正さんらともここで知遇を得た。
いちばん若い岩田さんは、会場全体に気を配り、こまごまと動いておられた。平成10年、「零戦搭乗員会」の解散が議題に上った総会が長野で行なわれたときには、善光寺での慰霊法要をはじめ、150名もが参加する会合行事一切をみごとに取り仕切っておられた。
懇親会で、浴衣姿の志賀少佐と、スーツ姿の岩田さんが肩を組んで「同期の桜」を熱唱された姿は、私の秘蔵写真として残っている。
平成15年、長野支部が解散するとき、諏訪のホテルに、東京から岩下会長、小町定さんと我々「零戦の会」若手役員を招いてくださり、一夜の宴を張ってくださった。
このときはほんとうに楽しい旅だった。楽しすぎて、行きは杖を突いてこられた小町さんが、帰りは背筋がシャンと伸びて杖を忘れて帰りそうになったぐらいである。
考えてみたら、旧日本軍の戦友会というのは、軍隊がなくなって後輩というのが入ってこないから、当時の若年搭乗員はいつまでも若年搭乗員で、集う限りはかつての食卓番よろしく、先輩たちの世話を焼き続けなければならない。軍隊は学級会ではない。そもそも民主主義の世界ではないから、異議を立てようもない。
「零戦搭乗員会」が「零戦の会」になり、戦後世代を役員に迎えたのは、志賀元会長、岩下前会長、吾妻前副会長、大原副会長らの慧眼だった。これにより、甲飛13期、乙飛18期、特乙3、4期のように、戦後ずっと後輩のいなかった元搭乗員たちが、古希を過ぎてようやく「食卓番」から解放されたのだ。
私が若輩ながら会長を託され、それを元搭乗員の方たちも喜んで応援してくださるのには、そんな事情もあるに違いない。
岩田さんも、我々の加入をことのほか喜んでくださったし、我々のことをとても大事にしてくださった。
最若年の搭乗員だった岩田さんのことが戦記に残ることはおそらくないだろう。
だが、戦後も長く戦友会の世話役を引き受け、先輩、戦友だけでなく周囲の人たちに尽くし切ったその姿は、ずっと忘れないでいようと思う。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
8月には、金子良治さんの訃報も。甲飛13期。搭乗員の中でもっとも若いクラスの人だが、いつもニコニコ、献身的に戦友会の運営にあたっておられた。
いつも、会うと向こうから挨拶をしてくださった。金子さんがいれば、一座がなんとなく明るくなるような人だった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
10月8日、拙著『戦士の肖像』(文春文庫)にもご登場いただいた、元海軍陸上攻撃機隊指揮官の壹岐春記少佐(戦後、航空自衛隊一等空佐)が亡くなった。享年99。
明治45年、鹿児島県生まれ。満100歳の誕生日を目前に控えていた。
壹岐さんは、私が敬愛する戦闘機の志賀淑雄少佐と同期の海兵62期出身で、志賀さんと技術短現一期の風見博太郎造兵大尉(中島飛行機エンジン技術者、戦後日産プリンス大阪販売社長)とに御紹介いただいて、銀座でまだビルが建て替えられる前の交詢社でお目にかかったのが最初であった。16年前のこと。
その後も、二ヵ月に一度の交詢社ネイビー会には数年前までご参加になり、お会いする機会は多かったし、早稲田のご自宅にお邪魔したこともあった。確か5年ほど前までは、電動自転車に自らまたがって、早稲田から原宿の東郷神社にも通っておられた。いつもニコニコと人に接し、会合などでは端然と座っているだけで一座の「華」になる、まさに将たる器を感じさせる人だった。
壹岐さんは、支那事変での戦功により、尉官(大尉、中尉、少尉)としては異例の功四級金鵄勲章を授与されている(通常は功五級、昭和15年4月29日を最後に、生存者への金鵄勲章授与は行われなかった)。海軍の尉官で、昭和の戦争で生きながらにして功四級を授与されたのは、戦闘機の鈴木實大尉、兼子正大尉、陸攻の足立次郎大尉(以上、海兵60期)、そして壹岐大尉の4名だけである。
しかし何よりも壹岐さんの名を歴史に刻んだのは、航空機が航行中の敵主力艦(英海軍の「プリンス・オブ・ウェールズ」、「レパルス」)を初めて撃沈した「マレー沖海戦」だろう。
70年前、真珠湾攻撃から二日後の昭和16年12月10日のことである。鹿屋空第三中隊長として一式陸攻に搭乗、仏印(ベトナム)ツドーム基地を出撃した壹岐大尉は、猛烈な対空砲火を冒して「レパルス」に魚雷を命中させた。
「雷撃高度は30メートル。距離700メートルまで肉薄して、魚雷を投下しました。そして『レパルス』の左舷(ひだりげん)から、機銃を撃ちまくりながらいっぱいに左旋回して回避、全速で高度をとりました。『レパルス』の甲板上で、雨衣を着た兵隊が伏せているのが見えました。そのうちに偵察員・前川保一飛曹が、『当りました!』と機内に響くような歓声を上げ、続いて『また当りました!』と大声を張り上げました。しかし次の瞬間、私の二番機が真赤な焔に包まれて『レパルス』の左舷正横300メートルの海面に墜ち、間もなく三番機が、その50メートルほど左に墜ちるのが見えました」
「レパルス」は、雷撃開始からわずか10数分で沈み、「プリンス・オブ・ウェールズ」も、約1時間後、退艦を肯じない英国東洋艦隊司令長官・フィリップス提督を乗せたまま海中に消えた。両艦あわせて840名の英軍将兵が艦と運命をともにした。日本側の損害は被撃墜三機、戦死21名、多数機が被弾し、壹岐大尉のK-331号機の被弾も17発を数えた。
壹岐さんの航空記録には、この日の飛行時間、10時間45分とある。これだけ飛んでなお、乗機の燃料には余裕があったという。
マレー沖海戦から8日後の12月18日、鹿屋空はアナンバス島シアンタン電信所爆撃を命じられた。途中、英戦艦二隻を沈めた現場の上空を通るから、壹岐は前川一飛曹に、基地近くの花屋で花束を二つ買ってこさせた。
「その日は波も穏やかで、沈んでいる艦影が黒くはっきり見えました。はじめに『レパルス』の近くに、戦死した部下、戦友の冥福を祈って花束を投下、さらに『プリンス・オブ・ウェールズ』の上空から花束を落し、イギリス海軍の将兵の霊に対して敬礼しました」
この慰霊飛行は新聞にも報道され、武士道精神あふれる戦場美談として内外に知られることになった。戦時中のわずかな期間だったが、国民学校の修身の教科書にもこのエピソードが紹介されている。
しかし、こうやって「美談の主」に祭り上げられることは壹岐さんの本意ではなく、戦後、そのことを人に訊ねられても、「誉めてもらおうと思ってやったことではありません」と、多くを語らないのが常であった。
これは、戦を知り抜いた戦士として、己の任務を果たして斃れた戦士に対する哀悼の念の、ごく自然な表現だったのだ。そこには敵味方を超えた何かがあったに違いない――。
壹岐さんは昭和19年10月には陸上爆撃機「銀河」で編制された攻撃第四〇五飛行隊長としてフィリピンでの航空作戦に参加、10月24日の航空総攻撃の日は、シブヤン海上空で、戦艦「武蔵」とおぼしき巨大戦艦が米軍機の攻撃によってまさに沈まんとするところを目撃している。11月には攻撃第四〇六飛行隊長となり、なおも幾度かの死線を越えて、霞ヶ浦基地で本土決戦の準備中に終戦を迎えた。
何度も乗機が被弾しながら、壹岐さんの飛行機では一人の戦死者も、負傷者も出さなかった。壹岐さんは言う。
「戦争は二度とやっちゃいけない。戦争の悲劇を身をもって体験した世代として、若い皆さんに言っておきたいのは、いまのような平和な世の中を保っていくためにはどうすればいいのかという問題を研究して、戦争を起こさないための方策なり、技術を考えていただきたいということです。
私は戦争をしませんよ、と言って、どこからも仕掛けられなければそれに越したことはありませんが、もしやられたらどうするか、どんな形で守れるか。平和憲法はすばらしいが、本当にそれだけで済むのか。それを研究して、現実に即して戦争を避ける努力をしてほしいと思います」
明治、大正、昭和、平成、四代の世を生き抜き、命を賭して戦った先人からの、世紀を超えた遺言である。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
11月12日には吉野治男少尉が亡くなった。甲飛2期、空母「加賀」雷撃隊の一員として、真珠湾攻撃で米戦艦「オクラホマ」に魚雷を命中させた歴戦の艦攻搭乗員である。
吉野さんはその後、機動部隊の転戦にともない、ラバウル空襲(60キロ爆弾6発)、オーストラリア・ダーウィン爆撃(800キロ爆弾1発)、ジャワ島チラチャップ攻撃(800キロ爆弾1発)などに参加。ミッドウェー海戦では索敵に従事し、「加賀」が撃沈されたのちは太平洋を2時間漂流して奇跡的に救助されている。
その後、「翔鶴」艦攻隊員として南太平洋海戦に参加、一度は内地勤務になったものの、昭和19年秋には六五三空攻撃二六三飛行隊で再び「瑞鶴」に乗組み比島沖海戦へ。母艦を失った後も、陸上基地から米軍拠点への夜間爆撃や索敵に幾度も出撃しながら、奇跡的に生き残った。
大戦末期、苦しい戦いが続く中、吉野さんはペアの若い搭乗員たちに、
「俺は不死身だ。俺についてくれば絶対に死ぬことはない」
と暗示をかけ、安心感を与えていざというときに実力が発揮できるよう部下の心を掌握することを心掛けていた、という。
木更津基地で終戦を迎え、米軍に偵察機彩雲を引き渡した。終戦時、海軍少尉。
戦後は東京電力に勤め、成田空港反対闘争華やかなりし頃の成田営業所長などを歴任した。
豪快で竹を割ったような気性の、男らしい人で、その反面、私が訪問するときは朝から自宅の裏山に入って、採れたてのタケノコ尽くしのご馳走をふるまってくださったり、有名な観光名所であるご親族の持ち山の紫陽花園を案内してくださったり、何とも言えぬ温かみを感じる人だった。
取材を受けたり表に出たりすることを好まなかったが、なぜか私は大事にしていただいたという実感がある。
知らせてくださったご家族によると、拙著『戦士の肖像』や、講談社「現代」2001年9月号に掲載した私の記事「真珠湾攻撃60年 最後の証言者たち」、そして吉野さんが重要な局面で登場する『零戦隊長』(光人社)、『祖父たちの零戦』(講談社)をたいへん気に入ってくださり(第三者が書いた「吉野治男伝」とすれば、『戦士の肖像』が唯一のものである)、私が来るのをいつも楽しみにしてくださっていたと。私も、吉野さんにはいい思い出しかない。
神野正美さんや吉野泰貴さんは別にして、他の取材者の取材はほとんどお断りになっていたようだし、かつての敵国のアメリカに対しても、
「終戦後、日本上空で未帰還になった米搭乗員の消息を徹底的に調べ上げ、埋葬場所を掘り返して、多くの日本人に無実の罪を着せて処刑したアメリカが、真珠湾攻撃の日本側搭乗員のほとんどについては埋葬場所すら明らかにしないのはおかしい。男同士が抱き合って赦しあうなんてのは日本人のやることではない」
と、最後まで心を開いてはおられなかった。
一度、紫陽花の美しい季節に「零戦の会」で、岩下会長以下10数名で吉野さん方を訪問したことがあったが、そのときもとても心温まる歓待をしてくださった。
今春、電話で再会を約しながら地震でその機会を失ったまま、今夏、急に体調を崩され、11月12日、息を引き取られたという。92歳、いわゆるお歳には不足はないけれど、寂しさはどうにもならない。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
12月22日、元群馬県上野村村長で、我がNPO法人「零戦の会」の中で最先任であり、最高齢でもあられた黒澤丈夫少佐(海兵63期)が息を引き取られた。
97歳。天寿とはいえ、大恩人、しかも尊敬してやまない人だっただけに無念な思いはどうしようもない。
黒澤さんは大正2年、群馬県生まれ。富岡中学から海軍兵学校に入り、少尉候補生となった昭和11年には遠洋航海でアメリカに行っている。
「まず、国力の差にギャフンでしたね。フォードの工場なんか行ってみると、すでにマスプロとか言って車がポンポン出来てくる。サンフランシスコじゃ金門橋を見て、よくあんな橋が架けられるな、と思ったり……。こっちは向こう意気だけは強いから『アメリカ海軍、何するものぞ』と強がっていましたが、豊かさを嫌というほど感じさせられました」
昭和13年5月、飛行練習性を卒業、戦闘機専修となり、同年11月、第十二航空隊付を命ぜられ、勇躍漢口に飛んだ。小園安名少佐が1番機、岡崎兼武中尉が2番機、黒澤中尉が3番機で、九六戦に30キロ爆弾2発を積んで宜昌作戦に参加したのが初陣だった。
翌年、霞ヶ浦海軍航空隊教官となり、昭和15年11月には元山海軍航空隊分隊長となり翌16年4月にはふたたび漢口へ。元山空の装備機はまだ九六戦だったが、8月になってようやく、零戦が割り当てられることになった。
そして、その機種転換中の黒澤大尉以下に、鹿屋基地で編制中の第三航空隊への転勤命令が届く。
三空は、本拠を台湾の高雄基地に置き、近くにある台南海軍航空隊とともに、対米戦ではフィリピンの米軍基地攻撃の最先鋒となるべき部隊だった。
「アメリカとやると聞いた時には、国力の差をこの目で見てきただけに、大丈夫か、と思いましたが……」
黒澤大尉は先任分隊長として飛行隊長横山保大尉を補佐、開戦第一日のクラーク空襲から始まって、あるときは空中総指揮官を務め、昭和17年10月、大村海軍航空隊飛行隊長となるまで、南西方面(東南アジア)の空戦で聯合軍機を圧倒、「無敵零戦」神話の立役者となった。
昭和18年9月、第三八一海軍航空隊飛行隊長となり、19年3月、ふたたび南西方面のスマトラ島バリクパパン基地に進出する。ここでは油田防空で、空襲に来る敵爆撃機に対し大きな戦果を挙げている。昭和19年10月、黒澤少佐は、三八一空、三三一空戦闘機隊で臨時に編制された「S戦闘機隊」指揮官として米軍が来攻したフィリピンに進出するが、当時フィリピンにいた航空戦力の主力である第一航空艦隊はすでに兵力のほとんどを失い、まさに特攻作戦が始まろうとしていた。
黒澤少佐は、大西瀧治郎中将じきじきの命令で、持ってきた飛行機を特攻隊に引き渡し、内地に飛行機を取りに戻ってふたたびフィリピンに進出するも、そこでも特攻隊に飛行機を取り上げられる。
「燃料豊富な基地で猛訓練を積み、実戦経験も豊富な我が隊のような飛行隊は、当時ほかにないですよ。こんな精鋭部隊を飛行機の空輸部隊にしておいていいのか、と叫びたい思いでした」
と、黒澤さんは語っておられた。
南九州の第七十二航空戦隊参謀として大分基地で終戦を迎えた。
戦後は第二復員官として復員業務に従事したのち、郷里上野村に帰って農業を始める。旧来の因習に囚われた村を新しくしようと昭和30年、県議会議員選挙に出馬するも敗れ、昭和40年、行政腐敗でリコールされた前村長に代わって上野村長に選ばれた。
以後10期40年。昭和60年、日航ジャンボ機が村内の御巣鷹山に墜落した時は、水際立った救難作業の指揮ぶりが話題になった。また、全国町村会会長を7年間務めている。91歳で勇退されたのは、
「御巣鷹の尾根に自分の足で登れなくなったから」
と聞いている。しかし、村長引退後も、黒澤さんが外を歩けば、村人たちから「村長!」と声がかかるのであった。
私は永田町の「全国町村会」や定宿の九段会館で、黒澤さんが上京されるたびに10数度にわたりインタビューし、上野村のご自宅にも何度か伺った。
村に行ってみると、黒澤家は2代で村長を務めた有力者なのに、お住まいも暮らしぶりもひときわ質素で、ほんとうにこの人は、男の中の男だと思った。
黒澤さんには、拙著
『零戦最後の証言』(光人社・1999年、文庫本2010年)で人生を語っていただいたほか
、『零戦隊長』(光人社)、『祖父たちの零戦』(講談社)では開戦初頭の
、『特攻の真意』(文藝春秋)では、特攻隊編制の晩の模様などを語っていただいている。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
ここで掲げた人たちは、ほんとうに思い出深い、立派な日本人でいらっしゃった。
ご冥福をお祈りするほかに、気持ちを表す術がないのがもどかしく思える。
では、皆さん、本年もお世話になりました。お健やかによい新年をお迎えください。