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6月4日、元零戦搭乗員・原田要さんお別れ会(長野・善光寺)にて謝辞。

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6月4日、元零戦搭乗員で、5月3日に99歳で亡くなられた原田要さんの「お別れの会」が、長野市の善光寺忠霊殿で執り行われ、多くの人が集った。

 

私はNPO法人零戦の会の役員らと7名で長野に。

弔辞(謝辞)を読ませていただいた。

いろいろ思うところの多い一日。

 

 

以下、当日、私が読んだ長い長い謝辞を転載する。

 

 

 

謝辞

 

 二十一年前、初めてお会いした時には、原田さんの生涯の終焉にあたって、まさか私が、原田さんが大切にされていた戦友会の会長として、感謝の言葉を読み奉るという大役を仰せつかるとは想像もしておりませんでした。と同時に、こんなに長くお付き合いをいただき、お世話をいただくことになるとも、思いもよらないことでございました。

 

 原田さんとの出会いは、ふとした偶然からでした。

 戦後五十年を迎えた平成七年夏、神田神保町の古書店で、たまたま手に取った海軍関係の名簿にお名前を見つけ、インタビューを申し込んだのが最初でございます。

 原田さんからいただいたお返事によると、生まれ故郷の長野市で幼稚園を経営されているとのことで、勇猛果敢な零戦搭乗員が、いまは子供たちに囲まれて暮らしているという、そのコントラストにまず心を惹かれました。

 原田さんとの出会いがなければ、私がその後、零戦搭乗員の戦中、戦後の人生を綴ろうと思うことはなかったかと存じます。

 

 それまで私は、報道カメラマンとして、それなりの経験を積んできたとはいえ、自分の著書などなく、自分でいわば勝手に企画した原田さんの取材を、記事や本にする成算など、はじめから持っておりませんでした。率直に申しますと、原田家の呼び鈴を鳴らすまで、不安でいっぱいでした。しかし、

「いらっしゃい。はじめまして」

 なんの屈託もなく迎えてくれた原田さんのお顔を見た瞬間、私はそんな不安がスッと消えてゆくのを感じたものでございます。当時七十九歳。やさしさが年輪となって刻まれているような表情でした。

 深い慈愛をたたえた瞳が印象的でしたが、この瞳に、どれほど凄惨な光景が映ってきたのだろうと、ふと想いました。挨拶が終わらないうちに、玄関に顔を出した奥様の精さんが、

「まあまあ、遠くからご苦労様ですね。どうぞお上がりください」

 と、声をかけてくださり、私は早くも原田さんご夫妻の温かさに包まれたような気がして、

「大丈夫だ。この取材はなんとかなる」

 と確信したのを、昨日のことのように憶えております。

 

「戦争のことは思い出したくもないから、これまでほとんど人に話してこなかった」

 と仰る原田さんが、私のインタビューに応えてくださったのは、戦後五十年の節目ということが一つと、もう一つは、平成三年年一月に勃発した湾岸戦争のニュース映像を見た若い人が、

「ミサイルが飛び交うのが花火のようできれい」とか、「まるでゲームのようだ」と感想を漏らすのを聞き、

「冗談じゃない、あのミサイルの先には人間がいる。このままでは戦争に対する感覚が麻痺して、ふたたび悲劇を繰り返してしまうのではないか」

 と危機感を持ち、なんらかの形で戦争体験を語り伝えないといけない、と意識が変わったからだということでした。そのとき、原田さんは仰いました。

「私は戦争中、死を覚悟したことが三度ありました。最初はセイロン島コロンボ空襲で、敵機を追うことに夢中になり、味方機とはぐれて母艦の位置がわからなくなったとき。二度めはミッドウェー海戦で、母艦が被弾して、やむなく海面に不時着、フカの泳ぐ海を漂流したとき。そして三度めは、ガダルカナル島上空の空戦で被弾、重傷を負い、椰子林に不時着してジャングルをさまよったとき。

 相手を倒さなければ、自分がやられてしまうのが戦争です。私は敵機と幾度も空戦をやり、何機も撃墜しました。撃墜した直後は、自分がやられなくてよかったという安堵感と、技倆で勝ったという優越感が湧いてきます。しかしそれも長くは続かず、相手も死にたくなかっただろうな、家族は困るだろうな、という思いがこみ上げてきて、なんとも言えない虚しさだけが残ります。私はいまも、この気持ちをひきずって生きているのです」

 と。

 

 原田さんは、大正五年、長野県に生まれ。昭和八年、水兵として横須賀海兵団に入団。昭和十二年二月、第三十五期操縦練習生を首席で卒業。同年十月、第十二航空隊の一員として中国大陸・中支戦線に出動。昭和十六年九月、空母「蒼龍」乗組となり、真珠湾作戦では母艦の上空哨戒に従事、その後、ウエーク島攻略、印度洋作戦に参加。昭和十七年六月、ミッドウェー海戦で母艦を失い、海面に不時着水、九死に一生を得て生還されました。同年七月、空母「飛鷹」乗組となり、十月十七日、ガダルカナル島上空の空戦で敵戦闘機と刺し違えて被弾、重傷を負われました。

 奇跡的に生還され、内地に帰還の後は教官配置に就き、霞ケ浦海軍航空隊千歳分遣隊(北海道千歳基地)で終戦を迎えられました。協同、不確実をふくめ、十四機の敵機を撃墜した記録が残っております。総飛行時間は約二千時間。

 近年、刊行された原田さんの本には、撃墜機数十九機、滞空時間八千時間と書かれたものもございますが、これは、残された記録とも、私が七十歳代だった原田さんからお聞きした数字とも違う、全くの間違いでございます。最終階級は海軍中尉でした。

 戦後は郷里で自治会長などを務めたのち、託児所、次いでひかり幼稚園を設立。平成二十二年に園長を退任するまで、幼児教育に情熱を注がれました。

 

 原田さんとはその後、ハワイ・真珠湾にもご一緒しましたし、毎年、温泉旅行もご一緒させていただきました。ご自宅にお邪魔した回数は数えきれず、東京で行われる戦友会の慰霊祭や忘年会にも欠かさずいらしていましたし、お孫様のご結婚の記念写真を私がお撮りしたこともございます。原田さんの九十九年の生涯はもとより、私のこの二十一年の想い出だけでも、ここで語り尽すことなど到底不可能です。そこで、私の心に特に印象深く残っているエピソードをご紹介したいと存じます。

 

 私がはじめて原田さんとお会いした翌年の平成八年、原田さんは満八十歳を迎えられました。長野県下の幼稚園の園長のなかで、とび抜けて最年長でいらしたそうです。

「園長の会合に出ても、自分だけ年をとってて、なんだか恥ずかしくなって。そろそろ引退しようかと思ってるんです」

 と、原田さんは仰いました。そこで私は、昭和七年の第一次上海事変で、日本で初となる敵機撃墜を果たした海軍兵学校出身の戦闘機乗りで、当時、千葉県船橋市で三つの保育園を経営されていた、九十三歳の生田乃木次さんという方のお話をしました。すると、

「戦闘機の大先輩にそんな人がいることを全然知らなかった。こんど紹介してください」

 ということで、平成九年一月、私は原田さんご夫妻とともに、生田さんの「あけぼの保育園」を訪ねました。生田さんと原田さんとは、同じ海軍の戦闘機乗りで、戦後は幼児教育に身を投じた者として、互いに通じ合うものがあるように思えました。

「こういう人がいるんじゃ、俺も負けてられないな」

 辞去するとき、原田さんがそうつぶやいたのを、私は憶えております。原田さんが引退の意思を撤回されたのは、その後のことでした。

 生田さんという人は海軍兵学校出身のエリート士官でしたが、その生田さんが、九十歳を過ぎてなお、現役でいる姿をまのあたりにして、水兵から叩き上げた操縦練習生出身搭乗員としての意地に火がついたのかもしれません。原田さんは、お優しいなかにも、非常に負けん気の強い方でした。

 原田さんはその後も園長として子供たちの敬愛を集め、平成二十二年、九十四歳の年に引退されるまで幼児教育を全うされたことは、皆様よくご存知の通りです。

 

 原田さんを語る上では、七十年近く連れ添われた奥様の精さんに触れないわけには参りません。精さんは、原田さんが園長を退任されたのと同じ年、平成二十二年十一月に、八十七歳で永眠されました。

 戦中は明日をも知れぬ戦闘機乗りの妻として、戦後は一転、「戦犯」呼ばわりをされ、公職追放に遭い職を転々とする夫を支え、激動の昭和を生きてきた精さんは、ご夫婦で幼稚園を設立してからはずっと、子供たちをやさしく見守ってこられました。

「こんど生まれ変わったら、もっと楽な人と一緒になりたいわ」

 などと仰りながら、原田さんのことを思うお気持ちは、いつもひしひしと伝わってきたものでございます。

 

 私が最初に上梓した、零戦搭乗員の証言集『零戦の20世紀』という本で初めて原田さんの戦中戦後の人生航跡を紹介して以来、「零戦搭乗員で幼稚園の園長になった人がいる」ということが広く知れ渡り、各種メディアの取材が引きも切らなくなりました。

 原田さんは人を選ばず、来るものは拒まず、取材した側は喜んで帰っていくのですが、あるとき精さんに、

「主人はああ見えて、戦争の話をした晩は夜通し、苦しそうにうなされるんですよ。見ていてとっても辛くて。年も年だし、紹介してくれというお話はお断りいただけると助かります・・・・・・」

 と言われてハッとしたこともございます。 そんな精さんに、原田さんは、

「生まれ変わっても、家内と一緒になりたい」

 と、かねがね仰っていました。精さんあってこその原田さんだったと、私は信じております。

 

 実は、この長寿社会にあっても、日本海軍の戦闘機搭乗員だった人で、百歳までご存命であった人は一人もいらっしゃいません。

 原田さんこそが、その記念すべき第一号になられると誰もが疑わなかったのですが、満百歳まで三ヵ月を残して、残念ながらご生涯を閉じてしまわれました。

 原田さんは、昨年、戦後七十年で注目を集められたことで、心身共にかなり参っておられたと仄聞いたしております。戦争体験を伝えることに熱意を持ってあたられた原田さんでしたが、それゆえお体に負担を掛けた感は否めません。

 このような事態に立ち至ったこと、最初に原田さんの戦中戦後を本にした者として慚愧にたえず、深くお詫びを申し上げるものでございます。

 戦争体験を伝えるということはどういうことなのか。伝えるためにはご本人を苦しめ続けてもいいのか。それが正義なのか。原田さんとの最後のお別れに当たり、自問自答をしているところでございますが、その答えはいまだ見つかっておりません。

 

 原田さんのご生涯は、零戦搭乗員としての戦歴もさることながら、戦後、第二の人生で悉く失敗、五十歳を過ぎて始めた、第三の人生とも言える幼稚園園長を四十数年も続けられ、多くの子供たちを育てたこと、そして、実体験に基づき、子供たちに平和の大切さを身をもって教え続けたことこそが真骨頂なのではないかと存じます。

「まず物は大事にしなさい、どんな物でもその物の身になって、けっして無駄には使わない、それが自分の命を守ることにつながるんだよ」

 ――原田さんの左腕には、ガダルカナル島上空で負ったすさまじい銃創が残っていました。そんな実体験に裏打ちされた言葉は、限りなく重いものでございました。平和を希求する原田さんの思いは、子供たちにもきっと伝わっていたに違いないと存じます。

「軍隊や戦争のことでいい思い出なんて一つもない」と仰る原田さんでしたが、一方で、つねに亡き戦友たちへの哀悼、追慕の念、そして海軍の戦闘機乗りとしての誇りを胸に秘めておられました。

 

 ある年の八月十五日、靖国神社に参拝をご一緒した際、不躾にマイクを向けてきたテレビのレポーターに「A級戦犯合祀をどう思いますか。どうして参拝されるんですか」と聞かれ、「友達に会いに来てるんだ。それのどこが悪い」とめずらしく声を荒げて憮然とされていたのを思い出します。

 そのレポーターには理解できなかったようでしたが、平和を願う気持ちと、靖国神社に詣で、そこに祀られている戦友の御霊に首を垂れる気持ちは矛盾しません。靖国神社で、あるいは戦友会で、そんな思いの一端にも触れてきた者としては、原田さんのご生涯を、最晩年の短時間のお話だけをもとに、一部新聞記事にあったような「平和活動に熱心だった元零戦搭乗員」という、薄っぺらいレッテルで括ってほしくはありません。

 

 思い出は尽きませんが、あまりに長くなりましたので、以上をもって、私の感謝の言葉とさせていただきます。

 原田さんとお会いできて、私は幸せ者でございました。これは、ここに会された皆様も同じお気持ちであろうと存じます。

 

 原田さん、日本のために戦ってくださり、また私ども戦後世代を親身にお導きくださってほんとうにありがとうございました。安らかにお眠りください。

 

   平成二十八年六月四日

   特定非営利活動法人「零戦の会」会長 神立尚紀 



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2001年12月7日、ハワイ・真珠湾攻撃60年記念式典にて、ミッドウェー海戦で零戦に撃墜された雷撃機元パイロットと。

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2011年、NPO法人零戦の会総会にて。(以下同。撮影・布施沙紀

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6月16日 ルンガ沖航空戦73年(宮野善治郎大尉戦死)

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毎年同じことなので、昨年の投稿を、若干修正して再掲します。

今日、6月16日は、昭和18年、ガダルカナル島上空で日米両軍の航空部隊が激戦を繰り広げた「ルンガ沖航空戦」から73年。

我が母校、大阪府立八尾高校の前身、八尾中34期の大先輩で二〇四空飛行隊長の宮野善治郎海軍大尉(戦死後中佐)が零戦隊を率い戦死した日です。

73年前のこの日、ガダルカナル島ルンガ泊地の敵艦船を攻撃するため、五八二空の艦爆24機(指揮官・江間保大尉)を二〇四空、二五一空、五八二空の戦闘機計70機が護衛して出撃しました。

総指揮官は拙著『祖父たちの零戦』(講談社文庫)の主人公の一人で五八二空飛行隊長・進藤三郎少佐。


戦闘の詳述は避けますが、この日は米軍も、104機もの戦闘機を迎撃に発進させており、彼我入り乱れての約30分におよぶ大空中戦の結果は、のちに大本営より、
『大型輸送船4隻、中型輸送船2隻、小型輸送船1隻、駆逐艦1隻、いずれも撃沈、大型輸送船1隻中破、飛行機34機以上を撃墜』

またこの戦闘を「ルンガ沖航空戦」と呼称する旨発表されましたが、実際の戦果は、米側記録によると輸送船1隻が大破、戦車揚陸艦1隻が火災、飛行機6機だけだったといいます。


一方、日本側の被害は深刻で、艦爆未帰還13、不時着2、戦闘機未帰還15、不時着4、大破2に及んでおり、戦死した15名の戦闘機搭乗員の中には、二〇四空飛行隊長宮野善治郎大尉(海兵65)や、昭和15年9月13日の零戦初空戦で、その時も指揮官であった進藤三郎大尉(当時)の三番機を務めた大木芳男飛曹長(操練37)など、日本海軍の至宝ともいえるベテラン搭乗員たちがいました。


宮野大尉(戦死後中佐)は、海軍戦闘機隊屈指の名指揮官として知られますが、私の母校、大阪府立八尾高校(旧制八尾中学)の先輩で、宮野氏が旧制中学34期 (同期生には、プロ野球巨人軍の永久欠番4の黒澤俊夫や、元祖甲子園アイドル、14歳エースの稲若博がおり、前後数年のクラスには、ゴジラ生みの親のプロデューサー、田中友幸や塩じいこと塩川正十郎元財務大臣などがいます)、私が新制高校34期、生まれ年が宮野氏が大正4年の卯年で私がその48年後の卯年、生家も徒歩15分ぐらいのところにあって(宮野大尉の家はまだあり、勉強机も残っています)、家紋も一緒という、不思議なご縁を感じています。

宮野大尉の御姉様によると、その日、神棚の護符が風もないのにパタリと落ち、母親が、 「あ、今善治郎の飛行機が落ちた!」と言ったそうです。


宮野大尉については、光人社から『零戦隊長~二〇四空飛行隊長宮野善治郎の生涯』(光人社)という本を上梓し、この本が今年、『零戦隊長 宮野善治郎の生涯』として文庫化(光人社NF文庫)されましたが、これほど上下を問わず慕われた人もめずらしいと思います。

 

 

 


部下の上官を見る目は厳しくて、多くの方のお話を聞いているとどこかで必ず悪口が聞こえてくるものですが、宮野大尉についていえば、元搭乗員はもちろん、整備科や看護科、主計科の人まで、ひとしく今も敬愛の念を持っておられるようです。


ある人の名前を出したときの相手の表情で、その人がどう思っているかというのは大体わかるものですが、「宮野大尉の後輩」というだけで、皆さん実になつかしそうに相好をくずされ、いかに慕われていたかが見て取れます。おかげでずいぶん得をさせていただきました。


宮野大尉が戦死した翌年に発行されたある雑誌に、「海軍戦闘機隊座談會」という16ページの大特集があります。出席者は、斎藤正久大佐、八木勝利中佐、中島正少佐、小福田租少佐、塚本祐造大尉、山口定夫大尉。そのなかで、
 小福田「宮野君が戦死した時はみんな泣いたさうだね」
 中島 「いゝ隊長だつたものね」

というくだりがあって、宮野大尉の戦死がいかに惜しまれていたかが窺えます。



この空戦を境にして、以後ソロモンの制空権は完全に敵手にわたることとなります。
私が零戦搭乗員の取材を始めた約20年前には、この日の空戦の総指揮官、進藤三郎少佐をはじめ、渡辺秀夫上飛曹、中村佳雄二飛曹など、何人もの当事者がご存命でしたが、空戦そのものに参加された方は、少なくとも二〇四空ではいなくなりました。



以下、補足。



宮野善治郎大尉の生年月日について、取材をしない著者による「大正6年3月2日」説がまかり通っているようですが、これは完全なる間違い。そんなものを鵜呑みにしてはいけません。宮野善治郎の生年月日は大正4年(1915)12月29日。本人の奉職履歴、海軍兵学校関連、家族、出身中学すべてにおいて確認できることです。念のため。(写真は奉職履歴)

 

七夕に想う~日本初のロケット戦闘機「秋水」2016

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 (写真は三菱重工業株式会社名古屋航空宇宙システム製作所史料館で、復元された秋水を2002年に私が撮影し、航空雑誌「Schneider7」に掲載したもの。奥に零戦五二型が見える)


 日付が変わってしまったが、昨日の七夕の日は、日本初のロケット戦闘機「秋水」が、昭和20年、横須賀基地で初飛行に失敗してからちょうど71年にあたる。テストパイロットの三一二空分隊長・犬塚豊彦大尉(23歳)は、瀕死の状態で助け出されたが、翌8日午前2時に息をひき取った。

 このテスト飛行、どうして横空審査部ではなくいきなり実戦部隊の分隊長がやることになったのか、戦後も関係者の多くは首をひねっている。不思議と言えば不思議なことだ。

 わがNPO法人「零戦の会」のおもだった元搭乗員のなかでは、横空分隊長・岩下邦雄大尉、同先任搭乗員・大原亮治上飛曹(のち飛曹長)がこの時の一部始終を横須賀基地で目撃されている。



 2003年、文藝春秋の小林昇さん、「零戦の会」高橋事務局長とともに、大原さんのご案内で、横須賀海軍航空史跡めぐりをしたことがある。
 横須賀は、その気で見ると、防空壕が民間の倉庫に使われていたり、当時の建物も多く残っていて、史跡の宝庫だ。
 航空隊の隊門のところに、ずっと隊門を守ってきた先任衛兵伍長が家を立てて住み着き、今もそのご家族が住んでおられるという話には感動を覚えたものだ。


 午後、秋水の墜落地点の川のところに案内していただいた。天気は良好だった。
 「ちょうどあのあたりだ」
 大原さんが指を指される方向を見ながら、その時の状況を詳しくお聞きした。
 そして、大原さんが、
 「犬塚さんには気の毒だけど、あれは(飛行場に戻ろうとしたのは)搭乗員の判断ミス。バタコック、直進(離陸直後バタっとエンジンが止まればすぐに燃料コックを切り換えて、直進する)というのは搭乗員の鉄則です」
 ・・・・・・とおっしゃった途端、一天にわかに掻き曇り、真っ暗になったと思ったら、雷と共に大粒の雨が激しく降ってきたのだ。

 ほんの十数メートル離れたところに止めた車まで戻るのに、四人ともずぶ濡れになってしまった。
 前も見えない、滝のような雨。この日、この豪雨で、横須賀線の電車も止まったそうだ。

 大原さんは車の中で、「こりゃ、犬塚さん怒ったかな」とおっしゃっていたが、まさに「秋水一閃」・・・・・忘れられない夏の思い出となった。





 大原さんの回想――。

 「ちょうど秋水を左後ろから見る位置に陣取った。滑走路の脇には、大勢の人がいた。陸海共同開発だから、陸軍の人も並んでいた。

 いよいよ離陸、というときは、ロケット噴射をするからみんな機体の後ろからよけました。するとノズルから、ホヤホヤホヤっという感じで白煙が出て、間もなく轟音を上げて離陸滑走を始めた。
 滑走路の半分ほどのところで離陸、車輪を落とすと見る間にグゥーンと背中を見せて急上昇、45度ぐらいでしょうか、すごい角度だと思いましたね。見守る関係者がいっせいに拍手するのが見えました。
 ところが、高度4~500メートルに上がったと思われたときに、ババッバッバッという音がしてロケットが停止、秋水はすぐ右に急反転しました。

 急反転してしばらく戻って、それから旋回して飛行場に戻ろうとしたんでしょう。垂直旋回でずっと同じ調子で引っ張ってきたんですよ。貝山の手前、格納庫群の上を飛んだように思います。
 飛行機を低速で、垂直旋回で引っ張りすぎるとステップターンストールといって、失速してストーンとひっくり返っちゃう。
 だから私はそれを見ながら、あ、これはだめだ、だめだ、近すぎると思いました。

 いまで言うダウンウインド、風下のほうへ行くコースね、当時はこれを第三コースと言ったんですが、それがあまりにも滑走路から近かった。スピードのわりにね。
 そして飛行場の端まできたときに、ついに失速してバーンと、横になったまま飛行場の外堀に墜落、ものすごい飛沫が上がりました。

 しかし、飛行場に戻らずにそのまままっすぐ行っていれば助かったでしょう。その先は東京湾で、障害物は何もないんですから。
 事故教訓というのがあって、飛行機を助けて自分が死ぬようなことをしてはいけないと、常々言われているわけですよ。
 バタコックという言葉があって、バタッとエンジンが止まったら燃料コックを切り換えなさい、それから直進。これが常道なんです。

 エンジンが止まって、あんな狭い飛行場に戻ってくるのは通常では考えられません。予期しない事態が起きて、慌ててしまったんでしょうかね。

 犬塚大尉は重傷で救出されましたが、その日の夕方、入湯上陸の整列時に、当直将校が、
 『輸血の急を要する。O型の者は残れ』
 と。私はB型なのでそのまま外出しましたが・・・・・・。
 しかし、陸海軍期待の秋水の事故は、いまも目に焼きついていますよ」



 犬塚大尉のみたま安かれと七夕の星に祈りつつ。

 

71年前の今日…昭和20年7月24日、豊後水道上空の空戦

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 毎年のことなので、時制をととのえて再掲。

 

 7月24日。
 昭和20年、終戦を3週間後に控えた71年前の今日、豊後水道上空で、戦闘七〇一飛行隊長・鴛淵孝大尉率いる三四三空戦闘七〇一、三〇一(松村正二大尉)、四〇七(光本卓雄大尉)の紫電改21機が敵艦上機の大編隊と空戦、鴛淵大尉以下6機が未帰還になった。

 戦闘七〇一飛行隊分隊長・山田良市大尉は、

「朝、出撃前に整列、敬礼して飛行機に乗る前に、いつもと同じ隊長の白いマフラーが、やけに印象に残った。べつに悲壮な顔もしてないし、いつもと変わらない様子ですが、ありゃ、この人死ぬんじゃないかな、とふと思った」
 ……と、私に語っている。

「佐田岬上空へ出たときに、呉方面から引き揚げてくる敵の大編隊、200機いたか300機いたかわかりませんが、延々続く大編隊を発見、その最後尾の編隊に突入しました。
 ぼくは4機を率いて、500メートルから千メートル離れて、鴛淵隊4機についていました。二撃めまでは一緒でしたが、しかしなにしろ敵機の数が多すぎる。ぼくも4~5機の敵機に取り囲まれて、撃つには撃ちましたが戦果はわかりません。
 空戦しながら、隊長機は?と見ると、いつもついている二番機の初島上飛曹機と2機で、敵の2機を追っているところでした。

『あ、深追いしなきゃいいけどな』と思ったんですが、これが隊長機を見た最後になりました」


 鴛淵大尉は大正8年生まれでこのとき満25歳。長崎県出身、海兵68期。飛行学生卒業後、大分空教官となり(このへんの鴛淵大尉の履歴が、坂井三郎氏の誤った記憶でおかしな俗説を生んでいる)、昭和18年5月、二五一空分隊長としてラバウルに進出したのを皮切りに、翌19年には二〇三空戦闘三〇四飛行隊長としてフィリピンで、それぞれ激戦を戦い抜いた。
 鴛淵大尉の昭和19年初頭における飛行時間は約1000時間あり、同期の戦闘機搭乗員としては飛びぬけて多い。

 鴛淵大尉の人物像は、のちに鴛淵の妹・光子さんと結婚する山田大尉(のち航空幕僚長)によると、

「地上では温厚明朗、私と4つしか年が違わないのに、こうまで人間ができるのかと驚くような人物でした。品行方正だけど堅苦しくなく、特に目がきれいでした。ところが、いったん空中に上がると勇猛果敢、じつに負けず嫌いでした。本当によくできた、誰もが理想とする官軍士官像で、でもそういう人が早く死んでしまうんですね」
 ということである。


 70年前の今日、三四三空で未帰還になったのは、鴛淵大尉、ベテランの武藤金義少尉、初島二郎上飛曹、米田伸也上飛曹、溝口憲心一飛曹、今井進二飛曹。
 武藤少尉は、三四三空で部下たちの猛反発を食って、しかも負傷のため空戦に使えない坂井三郎少尉の面子をつぶさないよう海軍航空隊のメッカである横空に転勤させ、代わりに2対1のトレードでようやく三四三空に引っ張ってきたばかりであった。



 昭和53年、この日に未帰還になったうちの一機と思われる紫電改が、愛媛県城辺町沖の海底で発見され、翌54年、引き上げられた。だが、操縦席の中には遺骨はおろか何の遺留品もなく、機番号も消え、搭乗員を特定する何の手がかりも残されていなかった。
 そこで、三四三空の戦友たちは、この機が誰の乗機であるかの詮索は、遺族の感情を乱すことにもなることから、これ以上しないことにした。

 のちに、研究者が特定を試みて書物に書いたり、それをもとに一昨年にはNHKがドラマを作ったりもしているが、あくまでそれは、当事者の意思を無視した勝手な憶測である。


 機体引き揚げのときの模様はNHKスペシャルにもなったが、戦闘三〇一飛行隊の元整備員だったアマチュア写真家の方が、機体の引き揚げ作業に同行し、その一部始終をカメラに収め、「カメラ毎日」の口絵ページに作品を発表している。だがなぜか、その人の名前は三四三空剣会の名簿には見えない。ほどなく亡くなられたのかもしれない。

 

 

 

 


 ともあれ、71年前の夏の日、豊後水道上空に散った鴛淵大尉以下6名の若者のみたま安かれと願うのみである。




 

28.8.15 靖国神社に行ってきました。

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 8月15日。
 大東亜戦争の「終戦記念日」とされる日である。
 
 最後の御前会議で終戦のご聖断が下ったのは8月14日。玉音放送が15日。「自衛のためをのぞく」停戦命令が出たのが8月16日夕刻。支那方面艦隊を除く陸海軍全部隊に戦闘行動を停止する命令が出たのは19日でその刻限が22日午前0時。降伏調印式が9月2日。

 そんな流れがあるから、この日をもって「終戦」、しかも負けたのに「記念日」と呼ぶことに私は引っかかりを感じたままだ。(勝てば「記念日」と呼べるだろうが)


 昭和20年8月15日未明には熊谷がB-29による空襲を受け、260名の市民が犠牲になっている。
 熊谷空襲の直後、8月15日午前には、房総沖の敵機動部隊艦上機による、大規模な空襲もあった。三〇二空、二五二空の戦闘機隊がそれを邀撃している。

 

 戦争終結は決まっても、まだ戦争状態は終わっていない。八月十五日午前五時三十分、房総沖の敵機動部隊から発進した艦上機約二百五十機がダメ押しをするかのように関東上空に来襲した。早朝の東京湾は濃い霧に覆われていた。厚木基地を発進した森岡寛大尉率いる三〇二空の零戦八機、雷電四機、茂原基地を発進した日高盛康少佐率いる二五二空戦闘三〇四飛行隊の零戦十五機がこれを邀撃、三〇二空がグラマンF6F四機、二五二空が英海軍のシーファイア(スピットファイアの艦上機型)一機、TBFアベンジャー攻撃機一機を撃墜した。この空戦で三〇二空は零戦一機、雷電二機を失い、搭乗員三名が戦死、二五二空は零戦七機を失い、五名が戦死している。〉

 ポツダム宣言受諾は、即、停戦を意味しない。8月15日の玉音放送で戦争が終わったと、テレビなどではきれいに片づけたがるが、玉音放送は国民にポツダム宣言受諾を伝えるものではあっても、先に述べたように、陸海軍に対する停戦命令とは別である。


 現に、8月17、18日、関東上空では邀撃戦が行われている。
 しかも、北千島や満ソ国境では、ソ連軍がお構いなしに攻めてきている。

 私の経験では、テレビ局や映画関係の人のほとんどが、「玉音放送と停戦命令は別で、しかもタイムラグがある」ということを承知していないようで、だから、終戦前後の描写に違和感を感じることが多い。


 

 ・・・・・・御託を述べればきりがないけど、この日が「終戦の日」となっている以上、戦没者に追悼を捧げることに異存のあろうはずがない。今日は例年のごとく、靖国神社にお参りに行ってきた。

 終戦70年の昨年よりは静かだったが、右翼の街宣車や左翼のビラ撒き、軍装コスプレ、そしてどこの国のマスコミかわからないような報道をする新聞、テレビ……などには、いつものことながらうんざりした。

 数年前のこの日、一緒にお参りをした歴戦の元零戦搭乗員、原田要中尉、日高盛康少佐、土方敏夫大尉、岩下邦雄大尉、水木泰中尉・・・・・・皆さん、軍装コスプレの集団を見て、
 「ああいうのがいるから、靖国神社が色眼鏡で見られるんだ。我々は戦友に会いにここに来ているのに」
 と、苦い顔をされていたのを思い出す。


 旧帝国海軍でも、巡洋艦以上の大艦にしかつけられなかった菊のご紋を、街宣車ごときにつけて日の丸を汚す右翼も、アベ政治を許さないなどと叫んでビラを配る左翼も、どちらも同じくらい馬鹿だと思う。



 ここに集う人の大半は、心静かにお参りすることを望んでいるはずだし、日本の礎となられた先人たちへの鎮魂と感謝の思いなどそっちのけで、そして戦友やご遺族、当事者の思いを踏みにじってまで、靖国神社が政治的主張の場とされ具とされるのはおかしい。

 


 いっそ右翼も左翼もマスコミも立ち入り禁止にして、ほんとうにお参りする気持ちのある人だけが静謐のなかで戦没者を追悼できるようになればよいのに、といつも思う。

 

昭和20年8月16日未明、海軍軍令部次長・大西瀧治郎中将割腹。

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昭和20年8月16日未明、軍令部次長大西瀧治郎中将は、特攻で死なせた部下たちに謝し、世界平和を願い、次世代に後事を託す遺書を遺して自刃した。部下たちの苦悩、苦痛を思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと、介錯を断っての最期だった。

巷間伝えられているように、2000万人特攻、本土決戦などと本気で考えていたのなら、遺書の後段のような言葉が出てくるはずがない。遺書は、あらかじめ用意されていたもので、割腹の直前に書かれたのではない。大西の徹底抗戦論は、まさに命を懸けた大芝居であったのだ。

*

八月十六日の未明、大西は畳の上にシーツを敷き、一人その上に座ると、日本刀を引き寄せた。古来の切腹の作法どおり腹を十文字にかき切り、返す刀で首と胸を突いた。

発見したのは、官舎の管理人である。急報で、多田海軍次官が軍医をつれて駆けつけた。次いで、副官と児玉誉士夫も官舎に急行した。

大西は、近寄ろうとする軍医を睨んで、
「生きるようにはしてくれるな」
と治療を拒み、多田と児玉に
「介錯不要」
と言った。
大西は、自分の掌にぬくもりを残して飛び立っていった特攻隊の多くの若者たち、そしてフィリピンに置き去りにしてきた一万五千人の将兵のことを思い、なるべく苦しんで死ぬ道を選んだのだ。


夕方六時頃、大西は、自らの血の海のなかで絶命した。享年五十四。腹を切って十五時間あまり、軍医も驚嘆する生命力だった。
大西が遺した遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を強く主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙をいましめ、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれてあった。


〈特攻隊の英霊に曰す
善く戦ひたり深謝す
最後の勝利を信じつゝ肉
彈として散華せり然れ
共其の信念は遂に達
成し得ざるに至れり
吾死を以て旧部下の
英霊とその遺族に謝せ
んとす

次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利
敵行為なるを思ひ
聖旨に副ひ奉り自
重忍苦するの誡とも
ならば幸なり
隠忍するとも日本人た
るの衿持を失ふ勿れ
諸子は國の寶なり
平時に處し猶ほ克く
特攻精神を堅持し
日本民族の福祉と世
界人類の和平の為
最善を盡せよ

海軍中将大西瀧治郎〉



「矜持」の「矜」の字が誤字になっている。
そして、遺書の欄外には、

〈八月十六日
富岡海軍少将閣下 大西中将
御補佐に対し深謝す
総長閣下にお詫び申し上げられたし
別紙遺書青年将兵指導
上の一助とならばご利用ありたし
以上〉

との添え書きが細い字で書き加えられている。
淑惠に宛てた遺書は、

〈瀧治郎より
淑惠殿へ
吾亡き後に處する参考として書き遺す事次乃如し
一、家系其の他家事一切は淑惠の所信に一任す
淑惠を全幅信頼するものなるを以て近親者は同人の意思を尊重するを要す
二、安逸を貪ることなく世乃為人の為につくし天寿を全くせよ
三、大西本家との親睦を保続せよ
但し必ずしも大西の家系より後継者を入るる必要なし
以上
之でよし百萬年の仮寝かな〉


と、丸みをおびたやさしい字で綴られていた。


大西の自刃は、八月十七日午後四時、海軍省から遺書とともに発表された。富岡少将への添え書きどおり、「青年将兵指導上の一助」として利用されたのである。大西に面罵され、対立していたかに見えた富岡は、大西の遺志にしたがい、それを忠実に、しかも手回しよく実行に移したのだ。


大西自刃の記事と遺書は、八月十八日の新聞に掲載された。
第一航空艦隊で大西の副官だった門司親徳が、台湾の新聞でこの遺書を読んだのも、この日のことである。



写真は、門司親徳さんから私が譲り受けた大西中将の書の掛け軸。

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特攻、あるいは大西瀧治郎について書かれた書物やテレビ番組は数多いが、門司親徳にも、歴戦の零戦搭乗員で特攻隊員だった角田和男にも会わずしてあれこれ論評、あるいは非難、罵倒しているものは、すべてインチキであると私は思う。


そんな、取材をしないで発信される情報の氾濫に一石を投じるべく上梓したのが拙著『特攻の真意〜大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(文春文庫)。この本は、その前に講談社から上梓した『祖父たちの零戦』をお読みになった半藤一利さんが文藝春秋に推薦してくださって書いたものだ。


20日土曜日23時より、ETV特集「名前を失くした父〜人間爆弾“桜花”発案者の素顔〜」アンコール

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20日土曜日23時から、私が企画を提供した番組がアンコール放送されます。番組ディレクターは名作ドキュメンタリー「おじいちゃんと鉄砲玉」の久保田瞳さん。この番組は、3月に放送され、大反響を呼びました。ご覧いただければ幸いです。


ETV特集「名前を失くした父〜人間爆弾“桜花”発案者の素顔〜」

 

http://www4.nhk.or.jp/etv21c/x/2016-08-20/31/47/2259517/

「笹井醇一中尉戦死74年」に、加筆再録 「零戦搭乗員とマリオン・カール」

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 ちょうど74年前の8月26日、海兵67期出身の若き零戦隊分隊長・笹井醇一中尉がガダルカナルの空に散った。


 この日、三沢空と、数日前に戦列に加わったばかりの木更津空の一式陸攻16機が台南空分隊長・笹井醇一中尉(海兵67期)率いる零戦9機の掩護のもと、ガ島飛行場を爆撃。

 零戦隊はグラマンF4F十数機と約30分間にわたって空戦を繰り広げ、撃墜10機(うち不確実1機)と報告したが、指揮官笹井中尉、結城國輔中尉(海兵68期)、熊谷賢一三飛曹(乙飛9期)の零戦3機が未帰還となり、陸攻2機が自爆、被弾不時着2機、被弾9機、零戦1機が不時着大破という損害を出した。

 笹井中尉は、海兵出身の分隊長クラスとしてはいちばん若い(当時、同じ中尉の階級でも、68期はまだ分隊長にはなっていない)搭乗員だったが、比島作戦、南西方面作戦からラバウル進出にかけて常に台南海軍航空隊にあり、その卓越した素質と部下の心をつかむ人間的魅力も相まって、部隊としても個人としても、これまで抜きん出た戦果を挙げ続けていた。

 兵学校の席次は67期生242名中152番。兵学校の成績と、指揮官として、また搭乗員としての能力はまったく別である。
 従軍画家としてラバウルに来ていた林唯一が、「笹井中尉B-17撃墜の図」と題した3×5メートルほどもある壁画を慰安所の壁面に描き、だから、ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。



 笹井中尉の功はのちに全軍に布告され、二階級進級の栄に浴した。

 『機密聯合艦隊告示(布)第三十六号
      第二五一海軍航空隊附 海軍中尉 笹井醇一
 戦闘機隊指揮官又ハ中隊長トシテ比島、東印度及東部「ニューギニア」方面等ノ作戦ニ従事シ攻撃参加七十六回単独敵機二十七機ヲ撃墜シ友軍機ト協同敵飛行機百八十七機ヲ撃墜十六機炎上二十五機ヲ撃破セリ
 仍テ茲ニ其ノ殊勲ヲ認メ全軍ニ布告ス
   昭和十八年十一月二十一日
      聯合艦隊司令長官 古賀峯一 』

(注:台南空は十七年十一月一日付で二五一空と名称が変わっている。未帰還なので戦死認定が遅れ、その間は形式上「分隊長」の職を解かれ、隊附という扱いになっていたのであろう)


 笹井中尉は、坂井三郎氏の『大空のサムライ』で著名になり、残された写真や逸話から、いまも熱狂的なファンが多い。

 熱心な女性ファンのなかには、命日に墓参と墓掃除に行くような人もいらっしゃるし、私も、2度お参りしたことがある。一度は、日高盛康少佐とご一緒だった。
 余談だが、開戦時の台南空飛行隊長・新郷英城中佐(のち空将)の墓も、多磨霊園の隣の寺にある。

 笹井家は断絶してしまったが、笹井中尉の母が大西瀧治郎中将夫人の姉、つまり大西中将と笹井中尉は叔父甥の関係だったこともあり、私の知る限りではそちらのご親族がお墓を管理されている。お参りはともかく、ご親族に無断で掃除までするのは如何なものかと思わないでもない。


 笹井中尉を撃墜したとされるのが、米海兵隊大尉だったF4Fのパイロット、マリオン・カールである。あまり語られていないようだが、カールは戦後、日本での勤務が長く、日本と縁の深い軍人だった。

 

 以下、5年前に書いた記事を再録する。
 

 2011年06月18日




 昭和49年5月に撮られたこの写真、見る人が見れば、誰が写っているかわかるだろう。いや、外人さんのほうはわからないかな?でも、その名を聞けば、おや、と思うに違いない。

 向かって左が、坂井三郎さん。
 向かって右は、マリオン・カール(退役海兵隊少将)。
 二人とも満面の笑顔だ。

 坂井三郎さんは、言わずと知れた零戦有名人である。戦後、福林正之が書き坂井三郎の名で出版された『坂井三郎空戦記録』、フレッド・サイトウが書きマーチン・ケイディンが脚色した『SAMURAI!!』、高城肇が書き坂井三郎名で出版された『大空のサムライ』がいずれもベストセラーになっていた。写真が撮られた時期は、ちょうど『天下一家の会』と深く関わっている。平成12年9月、歿。

 マリオン・カールは、その坂井氏が台南空時代の分隊長・笹井醇一中尉を撃墜したとされる米海兵隊のパイロットである。戦後は沖縄に駐留していたこともあり、意外に日本と縁が深かったらしい。ベトナム戦争でもずいぶん働いたようだが、この写真の集いの前年、海兵隊を退役している。

 坂井さんのどの本を読んでも、笹井中尉との、海兵出、操練出の垣根を越えた友情が話の柱の一つになっている。坂井さんの家の応接間に入ると、奥に鎮座する神棚に笹井中尉と本田二飛曹の遺影が置かれ、訪問者はまずそこで、手を合わせることとなっていた。某宗教団体の新聞記者が、「ウチは宗旨が違うので・・・・・・」と手を合わせることを渋って坂井さんに叩き出されたという話は、坂井さん本人から聞いた。

 ともあれ、この写真を見ると、何か拭いがたい違和感を感じる。

 「昨日の敵は今日の友」?・・・・・・にしても、敬愛する分隊長を殺したとされるグラマンF4Fの搭乗員と、こうも笑顔で握手ができるものなのだろうか。当事者の気持ちは当事者にしかわからないから、けっして非難しているわけでも、否定するわけでもないけれど。


 このときのことではないが、実質的な戦歴は坂井さんを遥かに超える角田和男さんは、零戦搭乗員の会合に出てきた「エース」と称する米搭乗員に、
 「エースだと?貴様、俺の仲間を何人殺したんだ。何をのこのこ日本に来たんだ」
 と詰め寄っている。

 また、大東亜戦争では坂井さんより長く、より強くなった米軍機と戦い戦果を収め続けた大原亮治さんは、「誰」が「誰」を撃墜したと決め付けたがる取材者や風潮に対し、不快の念を隠さない。
 「あんたがこの人を殺したって、そんなことを報せてきてどうする。嫌な気がするだけじゃないか。墜とさなければ自分が墜とされるんだよ」


 まあ、坂井さんもマリオン・カールも、いろんな思いを呑み込んだ上での握手なのだろうが・・・・・・。


 ちなみに二人が手に持つ軍艦旗の寄せ書きには、
 「日本零戦搭乗員会 代表 坂井三郎」の名がある。
 この時期、中野忠二郎大佐が会長を務める(旧)「零戦搭乗員会」という会があり、「日本零戦搭乗員会」というのはあくまで、坂井さんの対外的な箔づけに利用された実体のない会の名称である。
 「誰も何も言わないけれど、坂井さんのそういうところが好かれなかった」
 という、元搭乗員の声もある。残念なことだが。


 寄せ書きの下のほうには、叩き上げの下士官兵出身搭乗員数名の名前が見えるが、巨大ネズミ講組織『天下一家の会』東京事務所を務めていた甲飛12期(天下一家の会代表・内村健一と同期)Y・S氏の名前も見える。
 ネズミ講が社会的問題になりつつあり、ここにある名前の人のほとんどは、その後、内村に担がれた坂井さんとは袂を別つ。


 当時の「零戦搭乗員会」は、新橋五丁目にあったY・S氏の会社に事務局を置いていたが、同事務所がネズミ講に使われていることがわかって、不名誉なトラブルを避けるためにY・S氏に事務局を返上させ、昭和53年2月、解散した。
 そして同年、新たに、相生高秀中佐を代表世話人に、全国組織として新生「零戦搭乗員会」が発足、これが現在のNPO法人「零戦の会」の基になっている。


 マリオン・カールはその後、1998年6月28日、オレゴン州の自宅で、押し入った強盗にショットガンで射殺された。妻・エドナを守ろうと盾になったとも伝えられる。マリオン・カールは82歳。19歳だった犯人はのちに死刑判決を受けたが、2015年、再審で仮釈放なしの終身刑を言い渡され、目下、服役中のはずである。


 当時、日本の新聞にも、マリオン・カールの小さな訃報記事が載っている。


 昭和40年代、高城肇氏が書いた戦記読み物ふうに書くならば、戦闘機乗りのジンクス「撃墜王は畳の上では死ねない」・・・・・・を地で行くような、マリオン・カールの最期であった。
 あ、でも、アメリカ人はそもそも畳の上では暮らしてませんね。これを英語に翻訳したらどういう表現になるんだろう。



 


明日、9月13日は零戦初空戦76年。

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  76年前の昭和15年9月13日金曜日、中国大陸重慶上空で、日本海軍の零戦が中国空軍のソ連製戦闘機と初めて空戦を交え、14時から30分以上にわたる戦いで、一方的勝利を得た。

 この空戦で第十二航空隊零戦隊の13機を率いたのが、拙著『祖父たちの零戦』の主人公でもある進藤三郎大尉である。
 (文中一部敬称略。
敵戦闘機E15、E16は、正確にはИ15、И16なのだろうが、日本海軍も中国空軍もE15、E16と呼び、公文書にもE15、E16と記している。知らずに苦情を寄越す勿れ


 進藤三郎さん(最終階級少佐)は、昭和15年9月13日の零戦初空戦昭和16年12月8日、真珠湾攻撃第二次発進部隊制空隊指揮官(「赤城」分隊長)としても知られる。だが、戦後は戦争の話を好まず、ほとんど沈黙を守っておられた。



 昭和15年8月、進藤大尉が撮影した零戦。バックは揚子江。搭乗員は北畑三郎一空曹。

 



 初空戦を終えて報告する進藤大尉以下の零戦搭乗員たち。周囲に人の輪が広がっている。
 


 出迎えの輪の中にいた高山捷一造兵大尉は、
 「搭乗員の顔には疲労の色が濃く、むくんだように見えた」
 と言うが、この日、基地は夜になっても興奮さめやらず、祝宴は一晩中続いた。

 当時の新聞では、
 「重慶上空でデモ中の敵機廿七を悉く撃墜――海鷲の三十五次爆撃」(昭和十五年九月十四日付朝日新聞西部本社版)
 「敵空軍の最悪日 海鷲基地に沸く歓声」(同・九月十五日付夕刊)
 「重慶で大空中戦廿七機撃墜 きのふも爆撃海鷲の大戦果」(昭和十五年九月十五日付大阪毎日新聞)
 「海の荒鷲 逆手攻撃の妙を発揮」(九月十五日付鹿児島朝日新聞)
 「世界戦史に前例のない敵廿七機完全撃墜 わが海鷲不滅の戦果」(九月十七日付中国新聞)
 と、軒並みトップ記事の扱いで、この日の現地での興奮ぶりが伝わってくるものの、中には、ひどい誇張もある。

 たとえば九月十五日付大阪毎日新聞二面の、
 「帰ったゾ偉勲の海鷲 機体諸共胴上げ・敵機廿七機撃墜基地に歓声」
 との記事では、
 「まづ進藤指揮官機が悠々と着陸するや整備員は「それッ」とばかりに駆け寄り万雷のような拍手の中を進藤部隊長を乗せたまま機体の胴上げだ。次から次へと着陸するたびにこの胴上げが続く」
 という荒唐無稽な記述が見られる。機体を胴上げすること自体に無理があるのはもちろんだが、着陸直後で、プロペラがまだ回っている状況でこんなふうに駆け寄れば、誰かがプロペラに弾き飛ばされて死んでもおかしくない。

 だが、同じ記事の中で、
 「進藤、白根両部隊長はじめ機上から降りる荒鷲はたった今華々しい大空中戦をやって来た人とも思われぬほど落着き払い戦友が拍手で迎えるのに大陸灼けした赭顔をニッとほころばせて応えるだけだ。記者はこの海鷲の謙譲な態度に頭が下がった」
 とあるのは状況を忠実に描写したものであろう。


 進藤の人となりについては、朝日新聞九月十五日付西部本社版夕刊で、
 「進藤三郎大尉は今事変の最初から活躍している海の荒鷲の花形である」
 と紹介されるなど、各紙ほぼ同様の扱いである。
 「海の荒鷲」あるいは「海鷲」というのは、海軍航空隊に冠せられる慣用的な表現であった(陸軍航空隊なら「陸鷲」)。

 なお、新聞記事では「零戦」について、「大阪毎日」だけが「わが新鋭戦闘機」という書き方をしているものの、他紙は単に「戦闘機」または「精鋭部隊」という表現で、零戦の名称や性能については各紙まったく触れていない。従軍記事には軍による検閲があり、零戦に限らず、兵器や任務についての軍事機密に触れる事柄は、発表を許されなかったのである。






 初空戦の興奮さめやらぬ翌九月十四日、十二空では、進藤大尉以下、出撃搭乗員と飛行隊長・箕輪三九馬少佐、横山、伊藤両分隊長が集まって、十三日の戦訓研究会が行なわれた。このときの模様は「用済後要焼却」と朱印の押された「重慶上空空中戦闘ニ依ル戦訓」という参考資料に詳しいが、搭乗員一人一人の意見から、硝煙の匂いがまだ立ち上って来そうなピリピリした空気が伝わってくる。

 末田二空曹は、乱戦中の空中衝突の危険性や、味方機の射弾が頭上をかすめたこと、空戦中に小隊長機を見失わないようにするのは至難であることなどを挙げ、山谷三空曹は、やはり乱戦で高度の感覚を失ってしまう危険性について述べている。白根中尉は、長距離進行では厚着のほうが高高度飛行の寒さによる疲労が少ないのではないか、また、無線電話が良好に使えれば精神的にも心強くなるなどと提案している。

 岩井二空曹は、落下傘降下する敵を射撃したことについて上官にその正否を質問し、横山大尉から、

 「昨日の場合は、他にまだ目標があるので撃つべきではない。落下傘は距離速力の判定が困難であるから、あまり撃つことは感心できない」
 とたしなめられている。落下傘降下中の敵兵を攻撃すること自体に問題はない。だが、それに気をとられて別の敵機につけ入られる隙ができることを、横山は心配したのである。


 その他、この日の戦闘の詳細を記した軍極秘資料の「戦闘詳報」もふくめ、目についた点を挙げてみると、

1・零戦そのものへの不慣れから、操作の単純ミスが多い。また、従来の九六戦にくらべてスピードが速いため、攻撃時に過速に陥りやすく、舵が重く利きが少ないなど、操縦性の悪さを指摘する声も目立つ。これらについては零戦の問題というより、全体的に搭乗員の側の意識の切り替えができていないようである。

2・風防が密閉式になったため、後方視界が悪いとの不満が出された。後方から奇襲を受ける恐れが大きいことを考慮して、座席後部に等身形の防弾板を「装備スルコトヲ得(う)」、すなわち装備してもよい、という控えめな表現で提案されている。

3・心配された新兵器の二十ミリ機銃については、故障が少なく、その威力を賞賛する声が上がる一方で、信頼性の高かったはずの機首の七ミリ七機銃(弾丸は一挺あたり六百五十発)に故障が多発、じつに十三機中八機でトラブルが発生した。また、片銃五十五発(弾倉は六十発入りだが弾丸づまりを防ぐため装填は五十五発とされた)という二十ミリ機銃の携行弾数に関しては、少なすぎるとの声が多く寄せられている。

4・それまでの単座戦闘機では考えられなかった長距離進行で、搭乗員の疲労がはなはだしく、座席クッションの改善やリクライニングできるように、などの切実な要望が出されている。(これについては何ら改善されないまま、翌年には太平洋戦争でそれ以上の長距離進行を強いられることになる)

5・敵戦闘機E16(単葉)については、性能的にそれほどの開きがないのでむしろ楽に戦えたが、複葉のE15に対しては、スピード差がありすぎる上に敵のほうが小回りが利くので、思った以上に手を焼いた。それによって得られた戦訓所見は、

 「(零戦の)旋回圏大なるを以て、劣性能の機種に対し、之に巻き込まれざる様戒心を要す。急上昇急降下の戦法適切なり」

 つまり、零戦は旋回半径が敵機と比べて大きいから、小回りのきく敵機に対しては格闘戦に巻き込まれるのを避け、「急上昇急降下」(ズーム・アンド・ダイブ)による一撃離脱の戦法で戦え、と言っているのである。また、編隊協同空戦、相互支援の必要性についても繰り返し述べられている。

 これらは二年後に、零戦の旋回性能に手を焼いた米軍が、零戦に対抗する手段として打ち出した戦法と同じである。このことは、戦闘機の性能というものは、相手とする敵機との相対的な関係で評価されるという好例と言えるだろう。


 なおこの日、実際に撃墜された中国軍戦闘機は、中国側記録によると(おそらくその現物を台湾で確認した日本人取材者は私のほかに居ないと思う)13機、11機は被弾損傷したもののホームグラウンドの強みでかろうじて飛行場に着陸している。また、中国側の戦死者は10名、負傷者8名であった。




 進藤さんが戦後、ビリビリに破り裂いた感状を、奥さんが捨てずに補修して残しておられた。
いま、私の手元にある。

 



 昭和18年、ラバウルで。五八二空飛行隊長時代の進藤大尉。


平成12年2月2日、自宅のこのソファに座ったまま息を引きとられた。享年88。


 
 
 

 

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平成28年 NPO法人零戦の会慰霊祭を開催しました(9月25日)

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 ここでのご報告が遅くなりましたが、去る9月25日、靖国神社で、NPO法人零戦の会の慰霊祭、ならびに総会、慰霊祭を挙行しました。香川中尉、荒井上飛曹、笠井上飛曹、長田一飛曹ら元搭乗員約10名に、ご遺族、関係者ら計80数名が参加する盛会でした。

 

 

慰霊祭で読んだ祭文。例年、甲飛15期・津島飛長が丹精込めて毛筆で書いてくださっています。

 

 

 

祭文

 

 謹みて大東亜戦争中に散華されました四千三百三十余柱の海軍戦闘機隊搭乗員諸士の御霊に申し上げます。

 

 皆様方が護国の大任を承けて、東はハワイ真珠湾から西は印度洋まで、北はアリューシャン列島から南はソロモン、ニューギニア、そして豪州まで、広範な戦場に身を挺して史上空前の長期に亘る苛烈な激戦に身命を捧げられましてから七十年を超える星霜を数うるに至りました。私どもはここに皆様方の御霊を拝し誠に感慨に堪えないものがございます。ましてや戦陣に斃れられた方の多くは二十歳前後の若桜であったことを思えば、哀惜の念が沸々と湧いてくると同時に、その献身、その勇気に襟を正さざるを得ません。

  戦後日本の繁栄と平穏は、皆様方の文字通り命を賭した戦いの上にこそあると、改めて心より感謝と哀悼の念を捧げます。

 

 戦場における生死は紙一重と存じますが、生きて戦いを全うされた皆様方の戦友は、それぞれ文字通りゼロからのスタートで戦後日本の復興に貢献されました。そして、全国の戦友が一同団結して「零戦搭乗員会」を組織し、英霊となった皆様方の顕彰と記録の継承に努めて来られました。

  戦後半世紀以上の月日がたち、皆様の戦友たちが齢八十になんなんとする頃、平成十四年をもって「零戦搭乗員会」は解散することになりました。

  ここで、若い世代が事務局運営を担い、搭乗員の皆様をお手伝いして海軍戦闘機隊の灯をともし続けるべく、活動を継承したのが我々「零戦の会」でございます。私どもは、海軍戦闘機隊奮戦の記録を後の世代にまで末永く継承すると同時に、戦友の皆様が編隊飛行を全うされますよう、誠心誠意尽くしてゆく決意でございます。

 

 しかしながら、日本の現況を鑑みるに、近隣諸国との領土問題における紛争はなお解決の糸口をも見いだせず、皆様方が身命を賭した先の大戦を我が国による侵略戦争であったと決めつけようとする風潮は依然として根強いものがございます。国内に目を転じても、犯罪の増加、治安の悪化、親が子を殺め子が親を殺めるような、皆様がご在世中には考えられなかったであろう荒んだ世の中になっております。おそらく、皆様が現在の日本をご覧になられれば、「こんな国にするために俺たちは戦ったのか」とがっかりされることでありましょう。このことは、今を生きる日本人として、皆様に対し慙愧に堪えず、心よりお詫び申し上げる次第でございます。

 

 私たちが皆様方のご加護を得て、当時の体験や精神を語り継ぐことで、皆様が身命を賭して守ってくださった美しい日本を再び取り戻し、より良き社会となすための一助とすべく、今後とも元戦闘機搭乗員と若い世代が相携えて、もって将来の日本のために尽くすことが皆様方に報ゆる道であると存じます。

  願わくば皆様方の御霊の永久に安からんことを。

 

    平成二十八年九月二十五日

    特定非営利活動法人「零戦の会」会長 神立尚紀

 

 

総会、懇親会は靖国会館です。

 

 

NPO法人零戦の会総会 会長挨拶

 

 今年も、搭乗員をはじめ、全国各地からお集まりくださった大勢の皆様とともに、戦没搭乗員諸霊のみたまに哀悼の誠を捧げられましたことを、たいへん嬉しく存じております。

 今年は、真珠湾攻撃から75年の、節目の年でございます。この節目の年に、機動部隊の一員として真珠湾作戦に参加した零戦搭乗員で、ご存命の最後の一人でいらっしゃった原田要さんが亡くなられました。操練出身の重鎮・原田さんを失ったことは当会としても痛恨の極みでありますが、75年という歳月はそれほど長いものであると実感いたします。

 おそらく、今日、ご列席の搭乗員の皆様は、開戦のとき、まだ10代の少年でいらしたと思います。開戦の報を聞いてどのように思われたか、皆さんにぜひお聞きしたいと存じますが、そのときは75年後のことなど、想像もされていなかったことと思います。昨年の戦後70年に続き、このような節目の年を搭乗員やご遺族の皆様とともに迎えられることは、私ども一同の喜びであり、じつに感慨深いものがございます。

 

 さて、「零戦搭乗員会」が解散し、若い世代が加わった「零戦の会」が発足して、今年で早14年の歳月を重ね、15年目に突入いたしました。

 はじめは、「若いのが入ってきて何をする」と疑問を持たれる向きもあったかと存じますし、私どもも至らないところも多々あったかと存じますが、とにもかくにもこの14年、その間にも、――若者だった会員は中年の成人病世代になったりもしておりますが――新しい戦力も迎えて、解散、縮小傾向が続く戦友会としては稀有な活動を維持してこられました。

 これもひとえに、零戦を駆って日本のために戦ってくださった搭乗員の皆様のご指導の賜物と、厚く御礼申し上げます。

 

 近年の顕著な傾向として、20代、30代、つまり搭乗員の皆様の孫世代が、色眼鏡なしに、祖父たちが生き、戦ってこられた軌跡を知りたい、という声が明らかに増えております。現にそういった孫の世代の中から、進んで会の運営に協力してくださる若い世代が増えました。

 

 もし、零戦搭乗員会の解散で全て雲散霧消していれば、こんな思いに応える糸口もなかったわけで、そういう意味でも、搭乗員の世代と孫の世代の橋渡しになり得る当会が存続していることには意義があると考えております。

 

 実際、今日も、最年少・高校三年生から90歳代までの幅広い年代が一堂に会しておられます。このように幅広い世代が和やかに集い、心を一つにして、日本のために戦ってくださった先人に対し、追悼と感謝の誠を捧げる会というのは、世界広しと言えども、我が「零戦の会」だけであろうと存じます。

 

 私の方針といたしましては、当初より変わることなく、「零戦搭乗員会」以来受け継いだ、戦友会の美風を失うことのなきよう、いたずらに会員を増やし、活動を広げることよりも、たとえ少数であっても、心を込めてやるべき事業を確実に継承してゆくことが肝要かと考えております。しかし、元搭乗員の皆様のご家族やご遺族に対しては、できる限り開かれた会でありたいと存じます。

 

 これは毎回申し上げていることですが、かつて、旧「零戦搭乗員会」解散に先立って、海の向こうでは第二次大戦中のアメリカ軍パイロットの集いであった「エースパイロット協会」が解散したとの知らせがありました。アメリカ人にできなかったことを我々が続け、慰霊と感謝の気持ちを持ち続けることが、日本の将来を信じ、雲染む屍となられた戦没搭乗員諸霊に対するせめてもの恩返しとなればと存じます。今日は当会の米国支部長、マイケル・フレッチャーさんがお見えですので、申し訳ない気がしますが、戦後も合わせた長い目で見て、最後に勝つのは零戦隊、となるようにしていきましょう。

 

 海軍戦闘機隊が最後まで編隊飛行を全うできるよう、そして末永く零戦の灯を消さぬよう、また栄誉を汚さぬよう、今後も、誠心誠意取り組んでまいる決意です。

 最後になりましたが、今回、ご臨席賜りました財団法人海原会副理事長・酒井様、専務理事・助村様、いつも大変頼りにさせていただいております、医師にして海原会理事の菅野様に心より御礼申し上げますとともに、会員、ご遺族の皆様のご健勝、ご長寿とご家族の弥栄を、心より祈念申し上げ、私のご挨拶とさせていただきます。

 

          平成 28 年 9月 25日   神立尚紀

 

 

 懇親会場では零戦計器板復元の権威・中村さんによる計器板、機銃などの展示がありました。全て本物の世界です。

 

 笠井上飛曹からは初の著書「最後の紫電改パイロット」(潮書房光人社)をいただきました。

 

 

 

 さて、そんなわけで、慰霊祭終了後に撮影した記念写真が届きました。

 

 

前列ほぼ中央に私。私の右から、横山保中佐ご令嬢、井原大三二飛曹ご令弟ご夫妻、角田和男中尉ご令息、荒井上飛曹、長田一飛曹、小島飛長、津島飛長。私の左から、香川中尉、公益財団法人海原会酒井副理事長、助村専務理事、笠井上飛曹、同ご令嬢、浅野二飛曹、尾関二飛曹、脇田二飛曹、原田要中尉ご令嬢、同ご令孫、竹内副会長。

 

 元軍人の集いですから、この席順には意味があります。

 

 中列以降にも、役員各位や潮書房光人社坂梨出版部長、かつて「零戦初空戦で対戦した三上一禧、徐華江、二人の日中搭乗員の奇跡的な再会」を一緒に仕切って以来18年のお付き合いとなる私の戦友・日本テレビ山見さん、ニュースキャスターの榎本麗美さん、陸海空の現役自衛官、自衛官OB、フレッチャー米支部長、拙著『零戦隊長 宮野善治郎の生涯』にもしばしば登場する辻田裕さん、人間爆弾「桜花」発案者とされる大田正一中尉ご親族など、錚々たる、しかも大切な人たちが集いました。高校生から90才代までがこのように和やかに集い、非営利の法人として成立している戦友会というのは世界に類例がなく、戦勝国アメリカでもなし得なかったことです。

 

戦後71年、最後まで編隊飛行を続けていたのは、グラマンでもムスタングでもコルセアでもなく日本海軍の零戦隊であった。これは一同、密かに誇りとするところです。

 

中でもトピックスは、昨年までは学生で一番下っ端の末席だったW君が、東大大学院を出て今年から防衛官僚になり、一躍序列が幹部自衛官級になったことでしょうか。

 

 

当日は目の前のことに精一杯でしたが、こうやって集合写真を見ると、主催者としてようやく肩の荷がおりた気がします。

 

10月20日、神風特別攻撃隊編成から72年

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 72年前の今日のことである。

 昭和19年10月20日の朝、比島・マバラカットの空は曇っている。士官室で朝食が終わると、玉井副長が大西中将のところにやってきて、
 「揃いました」
 と言った。決死隊が決まったのだ。大西に随って、門司副官は士官室を出た。午前10時。


 二〇一空本部の前庭の南側に、北に向かって20数人の搭乗員が並んでいる。関大尉と、昨夜、玉井の説得に手を挙げ、指名された甲飛十期の搭乗員12名、残りはこの朝になって搭乗割が発表された、体当り機を突入まで護衛し、戦果を確認する直掩機(ちょくえんき)13名である。

 関は、列の右側、指揮官の定位置に立っていた。
 搭乗員たちの正面に置かれた指揮台代わりの木箱の上に大西が立つと、玉井が「敬礼」と号令をかけた。飛行服、飛行帽姿に身を包んだ搭乗員たちが、いっせいに大西に注目し、右45度の海軍式の挙手の敬礼をした。猪口参謀、玉井副長、門司副官と「日本ニュース」の稲垣浩邦報道班員の4名が、大西の後ろで侍立している。

 大西は、きっちりと答礼を返すと、搭乗員たちを見回してから、重い口調で訓示を始めた。この訓示には原稿がなく、大西の言葉は空中に消えて正確な記録はないが、門司の記憶では次のようなものであった。

 「この体当り攻撃隊を神風(しんぷう)特別攻撃隊と命名し、四隊をそれぞれ敷島(しきしま)、大和、朝日、山櫻とよぶ。日本はまさに危機である。この危機を救いうるものは大臣でも、大将でも軍令部総長でもない。それは、若い君たちのような純真で気力に満ちた人である。みなはもう、命を捨てた神であるから、何の欲望もないであろう。ただ自分の体当りの戦果を知ることができないのが心残りであるに違いない。自分はかならずその戦果を上聞に達する。一億国民に代わって頼む、しっかりやってくれ」

 訓示が進むにつれ、大西の体が小刻みにふるえ、その顔が蒼白にひきつったようになるのが門司の目にもわかった。「死」を命じるのは、大西にとってももちろん初めてのことで、その姿はいつもの大西とは違う、尋常ではない雰囲気を発していた。整列した搭乗員たちの顔は年らしさを残していて、表情からその心中までうかがい知ることはできない。稲垣カメラマンも、撮影するのを忘れたかのように直立したまま、大西の言葉を聴いている。

 「私は、目の奥がうずくような感動を受けましたが、涙は出ませんでした。甘い感激ではなく感情がもっと行きつくところまで行ってしまったような心境。トラック空襲以来、これまで敵機動部隊攻撃に出撃した艦攻隊がほとんど全機還ってこなかったなどの現実を見てきたから、このときはひどいとも、残酷なことをするとも思いませんでした。最前線にいて、毎日何人かの仲間が戦死してゆく現実に直面していた彼らには、必死必中の体当り攻撃に手を挙げる精神的な下地があったのではないでしょうか」
 と、門司は回想する。


 最初の特攻隊は、次のような編成であった。

〈敷島隊〉
 関行男大尉 海兵七十期 戦闘三〇一飛行隊分隊長
 谷暢夫(のんぷ)一飛曹 甲飛十期 戦闘三〇五飛行隊
 中野磐雄一飛曹 甲飛十期 戦闘三〇一飛行隊
 山下憲行一飛曹 甲飛十期 戦闘三〇一飛行隊
〈大和隊〉
 中瀬清久一飛曹 甲飛十期 戦闘三〇六飛行隊
 塩田寛一飛曹 甲飛十期 戦闘三〇六飛行隊
 宮川正一飛曹 甲飛十期 戦闘三〇一飛行隊
〈朝日隊〉
 上野敬一一飛曹 甲飛十期 戦闘三〇一飛行隊
 崎田清一飛曹 甲飛十期 戦闘三〇一飛行隊
 磯川質男一飛曹 甲飛十期 戦闘三〇一飛行隊
〈山櫻隊〉
 宮原田賢一一飛曹 甲飛十期 戦闘三〇一飛行隊
 瀧澤光雄一飛曹 甲飛十期 戦闘三〇一飛行隊
 藤本寿一飛曹 甲飛十期 戦闘三一一飛行隊


 この13機の爆装特攻機に加え、敷島隊に4機、他の隊には3機ずつの直掩機が配された。最初の敷島隊の直掩機に選ばれたのは、真珠湾攻撃以来歴戦の戦闘三〇五飛行隊分隊士・谷口正夫飛曹長以下四機である。

 (注;この編制はわずか半日で変わり、10月25日、実際に突入に成功するまでに直掩機もふくめ相当な変遷がある。拙著『特攻の真意』(文春文庫)参照。)


 二〇一空の各飛行隊は「空地分離」にしたがい「特設飛行隊」と呼ばれる形になっている。戦闘や訓練の指揮は飛行隊長がとるが、飛行隊長に人事権はない。搭乗員の人事は航空隊司令が統括するが、実質的な人事権者は飛行長である。


 山本司令と中島飛行長が不在のため、この編制は玉井副長が決めた。爆装機の編成を見ると、関大尉が分隊長を務め、鈴木宇三郎大尉の戦死以降、飛行隊長が不在となっている戦闘三〇一飛行隊からの指名がもっとも多いのがわかる。

 「神風」の名の由来は、猪口参謀が、剣道に「神風(しんぷう)流」というのがあるのを思い出して着想し、大西の裁可を得たもの。「敷島」「大和」「朝日」「山櫻」の四隊の名前は、本居宣長の和歌、

 〈敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山櫻花〉

 から、大西自身が考えたものであると、門司はのちに猪口参謀から聞かされている。


 訓示を結ぶと大西は、台から降りて端から順に、時間をかけて一人一人の手を握った。搭乗員たちは、はにかんだような表情で手を出した。

 甲飛十期生は、昭和17年の秋、門司副官が土浦海軍航空隊の主計科分隊長として着任してから約半年、身近に接した予科練習生である。門司は、土空の練兵場で体操をし、マラソンをし、酒保(売店)の菓子を食べていた彼らの姿を思い出していた。そして、見覚えのある顔はないかと探してみたが、千名を超える大勢の少年たちだったから、知った顔を見つけ出すことはできなかった。
 門司は、 
 「そのとき私が思ったのは、大西中将が若ければ、特攻隊の隊長として真っ先に行かれるだろうな、ということ。この場にちぐはぐな違和感が感じられなかったのは、長官が、自分は生き残って特攻隊員だけを死なせる気持ちがなかったからに違いないと思います。その様子をじっと見ているうちに、大西中将と特攻隊員たちは、私にとって別世界の人間になったように思えてきました」
 と追想する。


 特攻隊は、すぐに飛行場で出撃待機に入った。関大尉以下、敷島隊、大和隊の7名はマバラカット西、朝日隊、山櫻隊はマバラカット東。
 大西は、彼らの出撃を見送るつもりで二〇一空本部で待つが、この日は、索敵機が敵艦隊を発見したものの、距離が遠すぎて出撃の機会はなかった。

 午後3時過ぎ、大西中将はマニラに帰ることになり、その前にみんなに会っていこうと、マバラカット西飛行場の滑走路のはずれ、うすい夕日が差すバンバン川の河原に待機中の、関大尉以下、敷島隊と大和隊の7名の搭乗員を訪ねた。搭乗員たちは車座になって座っていたが、大西中将の姿を認めるといっせいに立ち上がって敬礼した。

 2、30分、雑談を交わしたのち、
 「では、わしは帰る」
 と大西は腰を上げたが、ふと門司が肩から下げている水筒に目をとめると、
 「副官、水は入っているか」
 と訊(たず)ねた。門司は水筒を肩から外した。関大尉を右端に、7人の搭乗員が並んだ。門司は、白い湯飲み茶碗を関大尉にわたした。このとき、稲垣浩邦報道班員が撮影した別杯のシーンは、翌日以降の出撃シーンの映像と合わせて1日の出来事のように編集され、「日本ニュース」232号として、11月9日、内地の映画館で上映された。

 「別杯を終えて長官と車に乗ったのは、もう四時頃でした。夕暮れの道をマニラまで走る二時間あまりの間、大西中将は一言も口をきかれませんでした」
 と、門司は筆者に語っている。

 



『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』(講談社+α文庫) 11月18日発売。

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Amazonで予約が始まりました。

近刊文庫です。
皆さま、どうぞ宜しくお願いいたします。

『証言 零戦  生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』(講談社+α文庫)
11月18日発売。

登場人物は、掲載順に、三上一禧少尉、田中國義少尉、原田要中尉、日高盛康少佐、小町定飛曹長、志賀淑雄少佐、吉田勝義飛曹長、山田良市大尉の8名です。

中でも吉田勝義さんの証言は長年温めていたもので、初公開。日高盛康さんの証言も私の本でしか読めません!ほかの人たちも、私以上に語れる書き手はいないと自負しています。


「神風忌」に思う(神風特別攻撃隊初戦果から72年の日に)

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 ちょうど72年前の10月25日は、神風特別攻撃隊が初めて敵艦隊に突入に成功した日である。
 私は例年、この日は元一航艦副官門司親徳さんらと芝の某寺で営まれてきた「神風忌」慰霊法要に参列していた。その「神風忌」がなくなった残念ないきさつについては、拙著『特攻の真意』(文春文庫)に書いたとおり。

 6年前には関行男大尉の故郷・愛媛県西条市の楢本神社の慰霊祭に参列させていただいたが、5年前はドラマのロケが重なったので、遠くマッコイキャンプ(のオープンセット)から遥拝した。ここ数年は次の著書の追い込みでどうしても出られず、東京より遥拝。

 戦後70年をはさんで、ここ数年は特攻をテーマにした番組が放送されたり、新聞各紙に関連記事が載っているけれど、なんというか記者が不勉強で、どうということもない番組や記事が多かったように思う。
 
(ほとんど唯一の例外は、NHKで今春と夏に放送された「名前を失くした父」。人間爆弾と呼ばれた桜花発案者の息子さんが主人公で、私が旧知のNHK久保田瞳ディレクターにご紹介した)

 ノンフィクションであれ小説であれ、「門司親徳にも角田和男にも会わずに特攻を語るのは僭越の沙汰」だと思うけれど、門司さんに会っていてもなお、変なことを言う人もいる。一昨年の昨日、毎日新聞に掲載された『特攻70年:「特攻は日本の恥部、美化は怖い」 保阪正康さんインタビュー』と題する記事を読んで、「この人、いったい何を取材してきたのだろう」と率直に思った。
 歴史上の出来事を語るには、現代の高みから見下ろすだけでなく、まず当時の状況や価値観を俎上に乗せて、それと比較するのでなければ事実が真実から遊離してしまう。
 毎日の記事は、まさにその見本のようであった。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 さて、昭和19年10月25日、最初に米護衛空母「サンティ」に突入したのは、菊水隊の加藤一飛曹、宮川一飛曹のいずれかであることは確実である。直掩機の塩盛上飛曹がその突入を見届け、
 〈一機正規空母ノ艦尾命中 火炎停止スルヲ確認ス〉
 と報告している。

 次に「スワニー」に突入したのは、状況から朝日隊の上野一飛曹と思われるが、朝日隊は戦場上空で離れ離れになり、もう一機の爆装機・磯川一飛曹も直掩機・箕浦飛長も、それぞれルソン島南東部に不時着し、のちに別々にマバラカット基地に生還しているから、日本側で上野機の最期を確認したものはいない。

 朝日隊に続いて発進した山櫻隊は、少し遅れて戦場に到着し、海面に流れ出す重油と若干の小型艦を発見したものの、敵機動部隊の姿は見えなかった。一番機の宮原田一飛曹があきらめて帰投を決め、爆弾を投棄した直後、眼下に敵駆逐艦を発見した。早まって爆弾を投棄したのを後悔したに違いない。宮原田が敵艦に向かって銃撃を開始し、列機もそれに続く。

 結局、宮原田、瀧澤両一飛曹は対空砲火に撃墜されたものか、未帰還となった。直掩の二機は、ルソン島のレガスピー基地に不時着した。


 関大尉の率いる敷島隊が出撃したのは、10月25日午前7時25分のことである。前の三回の出撃はマバラカット西飛行場からだったが、四度めのこのときはマバラカット東飛行場を発進している。

 この出撃には、10月19日に不時着事故で左脚の骨を折った二〇一空司令・山本栄大佐も、マニラ海軍病院をむりやり退院して、車で駆けつけた。

 滑走路脇には多くの隊員たちが並び、力の限りに帽子を振って敷島隊を見送った。

 
 敷島隊は、指揮官関行男大尉以下、谷暢夫一飛曹、中野磐雄一飛曹、永峰肇飛長、大黒繁男上飛の爆装機五機に、西澤廣義飛曹長、本田慎吾上飛曹、菅川操飛長、馬場良治飛長の四機が直掩についている。

 幾度も出撃と帰還を繰り返すうちにメンバーが代わり、敷島隊編成時の搭乗員は、関と谷、中野の三名である。直掩隊は、最初についた谷口正夫飛曹長以下の小隊が、谷口の負傷により、二〇三空戦闘三〇三飛行隊の西澤飛曹長を長とする小隊に代わっている。


 関大尉以下五機の爆装機の後上方に、西澤が率いる直掩機四機がつく形で、フィリピン東海岸からレイテ島タクロバンに向け飛ぶこと2時間45分。午前10時10分、敷島隊は、針路東方のサマール島沖で、驟雨のなか、隊列のくずれた栗田艦隊がバラバラに航走するのを目撃している。

 艦隊上空には、グラマンF6F戦闘機二十五機。味方艦隊が敵機の空襲下で苦戦しているのは明白だが、この姿が関たちにどう映ったのかは、本人たちが全員戦死したから知るすべがない。このとき、栗田艦隊は、「タフィ・3」の護衛空母群の追撃を中止し、レイテ湾突入に向け、まさに態勢を立て直そうとしているところであった。

 続いて10時40分、タクロバンの東八十五度、距離九十浬の地点に、空母四隻、巡洋艦、駆逐艦六隻の敵艦隊を発見、
 〈一〇四五之ニ突撃セリ〉
 と、「第一神風特攻隊戦闘報告」に記されている。


 敷島隊が発見したのは、栗田艦隊の追撃から逃れたばかりの「タフィ・3」であった。
 各護衛空母では、栗田艦隊が見えなくなったのを機に、攻撃に放った艦上機の収容を始めていた。「ガンビア・ベイ」が撃沈されたので、残る空母は「キトカン・ベイ」「カリニン・ベイ」「セント・ロー」「ホワイト・プレーンズ」、そしてやや遅れて航行する「ファンショー・ベイ」の五隻。その周囲を囲むように、三隻が撃沈され残り四隻になった駆逐艦が護衛している。


 爆装機と直掩機、あわせて九機の零戦は、レーダーのおよばない超低空から、敵艦隊に突入した。米側記録によると、零戦は、海面スレスレから駆逐艦の輪形陣を突破すると、高度千五百~千八百メートルまで急上昇し、ほぼ同時に逆落としに突入した。

 二機は「ホワイト・プレーンズ」に向かったが、そのうち一機は対空砲火に被弾し、目標を「セント・ロー」に変えたと見るや、その飛行甲板に突入した。「セント・ロー」は、大爆発を起こし、11時23分、沈没した。

 「ホワイト・プレーンズ」に向かったもう一機は、対空砲火の直撃を受け、左舷艦尾すぐ近くの海面に突入。爆弾が爆発し、若干の損傷を与えた。
 もう一機は、「キトカン・ベイ」の頭上を交差すると急上昇し、反転するや機銃を撃ちながら突っ込んだ。左舷外側通路に衝突し、機体は近くの海に落ちたが、外れた爆弾は左舷側で大爆発し、火災を発生させた。
 ほかの三機は、「カリニン・ベイ」に突入しようとした。一機は飛行甲板左舷側に命中、機体はバラバラとなり火災を生じさせた。もう一機も左舷中央部に突入、さらにもう一機は同艦の左舷の海に墜落した。

 体当り機を六機と米側が判断したのは、対空砲火で撃墜された直掩隊三番機・菅川飛長機が含まれているからと思われる。


 米側からすれば、たった六機の零戦のために、護衛空母一隻が沈没、三隻が中、小破するという損害を出したのは、驚愕すべき事実であった。

 「タフィ・3」はこの直後にも、セブ基地を発進した大和隊(大坪一男一飛曹、荒木外義飛長、誘導機彗星一機・国原千里少尉、大西春雄飛曹長)と思われる隊による体当り攻撃を受け、「カリニン・ベイ」が二機の突入を受けた。


 特攻隊員たちの肉体は乗機とともに四散したけれども、この日、のべ十機の爆装零戦の体当り攻撃による戦果は、栗田艦隊による砲撃戦のそれを上回るものであった。
 
 十二時二十分分頃、セブ島の東方からあわただしく駆け込んできた零戦があった。
 二〇一空中島正少佐は、
 〈私はその飛行機を見た瞬間、何となく鮮血に彩られている様な感じがして、思わずハツとした。〉
 と、『神風特別攻撃隊』に記している。着陸した零戦は西澤廣義飛曹長以下、敷島隊の直掩機三機であった。西澤は零戦から降りると、緊張した面持ちで駆け足で指揮所にやってきた。指揮所に居合わせた士官たちも思わず総立ちになり、ドヤドヤと西澤の周囲を取り囲んだ。西澤のもたらしたのは、敷島隊突入成功の第一報だった。

 記録によると、西澤は、
〈中型空母一(二機命中)撃沈、中型空母一(一機命中)火災停止撃破、巡洋艦一(一機命中)轟沈、F6F二機撃墜〉
 と報告している。

 護衛空母を中型空母と誤認、また巡洋艦轟沈の事実はなかったが、襲いくるグラマンF6Fと空戦を繰り広げたにしては、歴戦の搭乗員だけあって正確な報告である。
 中島は、この報告をただちにマニラの司令部に打電した。

 
 マニラの第一航空艦隊司令部では、大西長官も、幕僚たちも、門司副官も、23日の晩からほとんど寝ずに作戦室に詰めていた。
 10月25日、夜が明けてから最初に入った電報は、サンベルナルジノ海峡を突破した栗田艦隊が、敵機動部隊と会敵した報せだった。

 次いで砲撃戦の模様が逐一入電し、一瞬、明るい希望が広がった。だが、その後の状況がはっきりしない。ほどなく、西村艦隊壊滅の電報が届くと、司令部はふたたび沈鬱な空気に包まれた。

 敷島隊の戦果がもたらされたのは、そんなときであった。

 二階作戦室のチャート(海図)テーブルから、少し離れた一人がけのソファに大西が座っている。一航艦と、間借りしている二航艦の参謀たちは、チャートのまわりに立って忙しく働いている。そのとき、電報取次の兵が、電信紙の入った電信箱を、大西に届けにきた。

 大西は木製の平らな電信箱の蓋をあけると、ゆっくりと黒縁のロイド眼鏡をかけて電文を読んだ。幾度か読み返したあと、電信箱にヒモで結んである鉛筆でサインをして、近くにいた門司に、黙って電信箱をわたした。電報は、セブの中島飛行長から打電されたものであった。

 〈神風特別攻撃隊敷島隊一〇四五スルアン島の北東三十浬にて空母四隻を基幹とする敵機動部隊に対し奇襲に成功、空母一に二機命中撃沈確実、空母一に一機命中大火災、巡洋艦一に一機命中撃沈〉


 電信箱は、参謀たちにも回覧された。作戦室にざわめきが広がった。
 耳慣れた「一発命中、二発命中」あるいは「命中弾一」といった報告ではなく、体当り、すなわち搭乗員の絶対の死とイコールである、
 「一機命中、二機命中」
 という言葉が、誰の目にも異様に感じられ、針で刺すような胸の痛みとともに不思議な高揚感を感じさせた。
 夕方になって、この日の朝、ダバオから出撃し、敷島隊に先駆けて体当り攻撃に成功した菊水隊の報告が入ってきた。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

   これが、神風特攻隊初戦果の日に起きたことの顛末である。
 
   門司親徳さんや角田和男さん、冨士信夫さん、樽谷博光さんをはじめ、「神風忌」で出会った当事者たち、さらには実際に出撃を重ねた元特攻隊員たちの心情を間近に知る者として、この若者たちの自己犠牲を「恥部」呼ばわりするような作家や知識人と称する人たちの書くこと言うことを、私は一切信用しない。

急告:元零戦搭乗員・長田利平さん(二〇五空特攻大義隊、一飛曹)を囲む会のお知らせ

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急告です。「元零戦搭乗員を囲む会」のお知らせ。以下、NPO法人零戦の会掲示板より転記します。

 

 

 

NPO法人零戦の会は、11月13日(日)元零戦搭乗員長田利平さんを囲む会を開催いたします。

 

当会神立尚紀著『祖父たちの零戦』(講談社)にも重要な場面で登場する長田利平(おさだりへい)さんは、大正14年12月、山梨県生まれの90歳。

...

乙種飛行予科練習生合格者の中から年長者を選んで採用し、6ヵ月の速成教育を施す乙種(特)飛行予科練習生、いわゆる「特乙」の一期生として昭和18年4月1日、岩国海軍航空隊に入隊。同年9月に予科練を卒業すると、台湾の高雄海軍航空隊台中分遣隊で九三式中間練習機、続いて台南海軍航空隊で戦闘機の操縦訓練を受け、昭和19年5月、横須賀海軍航空隊に配属されました。

 

 

同年7月、第二五二海軍航空隊戦闘三一五飛行隊に転じ、12月、激戦が続くフィリピン・ルソン島アンヘレス基地に進出。空戦、船団護衛、空対空特攻「金鵄隊」(きんしたい)の直掩などの戦闘に参加、二二一空の指揮下に入り、翌昭和20年1月、米軍のルソン島上陸を受けて、二週間以上におよぶ徒歩行軍でルソン島北部のツゲガラオ基地に移動、迎えの一式陸攻で台湾に戻ったところで、新たに編制された特攻部隊である二〇五空に転勤、神風特攻大義隊隊員として、沖縄沖の敵機動部隊を目標に4度にわたる爆装出撃を重ねるも、索敵線上に敵艦隊を見ず生還、一飛曹として終戦を迎えました。

 

 

戦後は神奈川県警に入り、長く刑事を務められました。定年で警部に昇進して退職するまで現場ひと筋、刑事事件の捜査、検挙にあたり、その間、「不起訴」の検挙者を一度も出さなかったというプロ魂を発揮されました。

 

 

長田さんを囲む会に奮ってのご参加をお待ちいたします。

 

 

日時:平成28年11月13日(日)午後1時30分~4時(終了時刻は多少前後あり)

 

場所:航空会館(東京都港区新橋1-18-1、地図は http://kokukaikan.com/about/access


会費:3000円(学割2000円。会場費、飲み物代ふくむ)当日、受付にて集金。


定員:会員以外に20名程度・なお定員に達し次第締め切らせていただきます。


(皆様、くれぐれも遅刻なきよう、5分前までに集合でお願いします。念のため、服装は、男性の場合、なるべくネクタイ着用、女性もこれに準じた服装でお願いします。)

 

ご参加いただける方は、年齢・性別・会員であるなしを問いません。

ご参加ご希望の方は、NPO法人「零戦の会」・「囲む会」専用メールアドレス

 

zerosennokai@yahoo.co.jp

(担当:井上副会長。「囲む会」以外のご用件については対応いたしかねます)


上記アドレスに、ご参加ご希望の旨とともに、・ご住所・お名前(フルネーム)・お電話番号(携帯もしくは固定)・ご年齢・ご職業と、・飲み物の希望(コーヒー、ミルクティー、レモンティーの中からお選びください)を明記の上、電子メールでお申し込みください。 (これまでご参加いただいた方はお名前とご住所だけで結構です)

 

 

折り返し、受付確認のメールを送らせていただくとともに、ご案内ハガキを郵送いたしますので、当日、受付にお持ちください。(受付確認メールが数日、遅れることもありますのでご了承ください)

 


なお、同伴者がある場合は必ずその方の住所、氏名、電話番号、年齢・職業も明記してください。 飛び入りでのご参加は不可ですのでご注意ください。

 

 

申込み受付期限・平成23年11月4日(金)※ただし定員に達し次第締め切らせていただきます。

 

 

※ご高齢ゆえ、不測の体調不良等により長田さんが来られない事態もあり得ます。その場合は当会会長の神立尚紀が、長田さんご本人から伺った話を中心にお話いたします。ご参加確定の方には当会よりご連絡差し上げますが、念のため当日お出かけの前に本掲示板をご確認ください。

 

 

ただし、「零戦の会」掲示板で「荒らし」行為をするなどかつて当会とトラブルのあった方、(いわゆるオフ会ではありませんので)実名、住所、職業を明かさない方はお断りいたします。
大勢が参加予定の限られた時間ですので、あまりにもマニアックなご期待にも沿いかねます。「取材」を目的とされる方も、原則としてお断りいたします。

 


また、今後、年に一度の靖国神社における慰霊昇殿参拝や総会など、当会の各種活動のお手伝いをいただける若い世代の方は特に歓迎いたします。

元零戦搭乗員長田利平さんを囲む会、延期のお知らせ

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先だって告知しました「元零戦搭乗員長田利平さんを囲む会」都合により延期となりました。次回日程は未定ですが、決まり次第告知いたします。参加表明をいただいていた皆様、申し訳ありません。よろしくお願いいたします。


零戦隊指揮官・鈴木實中佐の15回目のご命日に

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 今日、10月28日は拙著『祖父たちの零戦』(講談社文庫)の主人公の一人、鈴木實中佐のご命日だ。
 ちょうど15年前のこと。

 何年経っても、忘れられない人はやはり忘れられない。

 鈴木さんの勲章や勲記、感状、賞詞などは全て私の手元にあるので、じっと眺めてしばし感慨にふける。
 

 


中国大陸上空、胴体二本線が鈴木機

 


二〇二空指揮所。左、鈴木少佐。右、岡村中佐

 


大分空時代。



 ちょうど、15年前の2001年10月、ある掲示板に投稿した私の文章がまだ残っていた。
 以下、引用。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 海兵60期、オーストラリア方面でスピットファイア隊に対して一方的勝利を収め、零戦隊の名飛行隊長として知られる鈴木實中佐が、10月28日、亡くなりました。

 密葬は近親者のみで執り行い、故人の遺志で弔問等も一切ご遠慮いただきたいとのこと。

 91歳、お歳からいえば大往生ですが、最晩年の4年ちかくは、戦時中の負傷による後遺症で手足が麻痺して寝たきりになり、死なせた部下のことを思いながら辛く苦しい闘病生活に耐えておられました。

 鈴木氏は戦後、全く畑違いのレコード業界に身を投じ、辣腕の営業本部長兼洋楽本部長として、キングレコードの黄金時代を築いた人。
 大月みやこを発掘し、洋楽ではカーペンターズ、クインシー・ジョーンズ、トム・ジョーンズ、セルジオ・メンデス、リカルド・サントス、マントバーニ、レイモン・ルフェーブル等等を日本に紹介されました。
 しかし、そんな業績もさることながら、一人の人間として、実に魅力にあふれた、尊敬に値する人でした。

 志賀少佐のご紹介で、私が初めてお会いした時はすでに85歳になっておられましたが、当時家が近かったこともあり、鈴木さんご夫妻と、よく近くの公園で散歩をしたり花見をしたり、三原に移られて寝たきりになられてからも、遊びに行ったり、身内同様に親しくしていただきました。
 また、進藤三郎、山下政雄、高岡迪各氏ら同期生の方々との最晩年の交わりを身近に見させていただいて、「五省」などなかった古きよき時代の海軍兵学校の気風を実感させていただきました。
 思い出は尽きることなく、あまり長くなるとお見苦しいでしょうし、これぐらいにしておきます。

 これで、旧日本海軍の戦闘機搭乗員で、中佐以上の士官は一人もいなくなりました。

 ともかく(特攻で死んだ人の立場で見れば甘い考えかもしれませんが)、指揮官の苦悩、最期まで、この苦しみに耐えることが死なせた部下へのせめてもの償いと、激痛の伴う長い闘病生活を、愚痴ひとつこぼさず全うした空の武人がいたこと、多少ともご理解いただけましたら幸いです。



 また、中国戦線で南昌の敵飛行場に強行着陸し、ラバウル方面では夜間戦闘機「月光」に搭乗、敵B17爆撃機多数を撃墜、「夜の王者」といわれた小野了中尉も、この夏に亡くなっています。
 小野さんは、昨年坂井三郎氏のお別れ会でお会いしたのが最後でしたが、戦争の話をしたがらない、寡黙な人でした。(以上、2001年10月現在)

 


以下は、6年前に書いたブログの再掲。

海兵60期は全員が亡くなっているが、『祖父たちの零戦』の主人公・鈴木實さん、、進藤三郎さんの奥様がそれぞれご健在なのは嬉しいことだ。

 

 

瀬戸内の海の幸!


テーマ:
 三原(広島県)の鈴木隆子さんから小包が届く。
 中身は、瀬戸内の海の幸づくし。いつものありがたいお心遣い。包みを開けながら、気持ちがホカホカと暖かくなる。
 
 鈴木さんは、拙著『祖父たちの零戦』(講談社)の主人公の一人、鈴木實海軍中佐の奥様である。
 私が鈴木さんご夫妻と知遇を得たのが16年前。ご主人が亡くなられたのが10年前。しかし、以後もずっと、息子同然に可愛がっていただいている。
 今日、御礼の電話を差し上げ、
 「『お母さま』もどうぞお元気で」
 と申し上げたら、
 「何、その決まり文句。あなたも大人になったわねえ」
 と笑われる。
 15年ほど前だろうか、鈴木さんご夫妻がまだ東京・練馬に住んでおられた頃、「あなたは私たちにとって息子同然ね」と言われ、まだ子供(笑)だった私は正直に「いえ、孫だと思います」と答えてしまった。だって、私よりご主人は53歳、奥さんは43歳も年上なんだもん。
 でも、つまりは「おばあちゃん」扱いをしてしまったわけで、そのことをいまだに根に持っていらっしゃるのだ。
 その私が、「お母さま」なんて言うものだから、可笑しくなられたらしい。
 「私もさすがに・・・・・・もう年男ですから」
 とお答えして、電話を切る。電話の向こうは何やら賑やかで、ヘルパーさんや家政婦さんがご一緒なのがわかる。

 数分後、こんどは私の携帯が鳴った。隆子さんからだ。何ごとかと思い出てみると、
 「ねえ、あなた年男って、いくつになるんだっけ?」
 とおっしゃる。
 「4回りめで、この8月で48です」
 とお答えしたら、
 「負けた!ケーキとられた!」
 同時に、電話の向こうで大笑いする女性たちの声。
 「え、ケーキってなんですか?」
 「あなたの年がいくつかって、賭けをしてたのよ。私はまさか、もう48にもなるとは思わなくて、きっと36よって言ったら、ヘルパーさんも家政婦さんもそんなはずないって言うの。それで、もし36じゃなかったらケーキおごるって約束しちゃったの」
 「・・・・・・いやだなあ。『息子』の年を忘れるなんて。だって、僕が鈴木さん家に初めて行ったとき、もう30過ぎてたんですよ。あれから16年・・・・・・」
 「そうねえ、あのころはあなた、折り目正しい好青年だったわよね」
 あのころは、とは何ですか、と言おうとしたら、電話の向こうの声が突然、ヘルパーの田中さんに替わった。バリバリの広島弁。
 「ごぶさたしてますねえ、やっぱり48じゃろう?ケーキやのうて1万円賭けりゃーよかった!」
 こちらこそご無沙汰してます、と言おうとしたら、また声が隆子さんに戻った。
 「あなたの年がわかってよかった!じゃあまたね!お会いするのを楽しみにしてるわね。御免ください」ガチャリ。

 なんか遊ばれてるなあ、と思うが、私をネタにいっときでも盛り上がられたのなら光栄なことだ。

 隆子さんは戦前、御父上の仕事の関係で中国・天津に住み、朝日新聞社主催「ミス天津」に選ばれたという経歴をもつ。隆子さんの人生も一冊の本になりそうなぐらい波乱万丈でドラマに満ちている。昔の写真をチラッと見せていただいたことがあるが、絶世の美人であった(いや、いまもそうである)。

 元海軍戦闘機隊指揮官で戦後、キングレコード洋楽本部長を勤めた鈴木實さんとの出会いや馴れ初め、その後については、『祖父たちの零戦』をご購読いただくこととして、ご主人が2001年10月に亡くなられてひと月ほど経った頃、三原の隆子さんからいただいたお葉書のことばから――。

『いつも二人で見ていた海を
 今は一人で見ています
 どうして居なくなつてしまつたのでせう
 呼ぶ声に振向いても姿がないのです』

 瀬戸内の夕景の絵葉書に書かれたこの文面は、暗記するほど何度も何度も読み返した。これほど切々と思いを綴った美しい恋文は、それ以前にも以後にも、私は見たことがない。

 

映画『SCOOP!』を観ました。

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遅ればせながら映画『SCOOP!』観てきました。


はじめ、元フライデーカメラマンとしては、本当に戦った元軍人が戦争映画を嫌うがごとく、ホンモノがニセモノを観に行く気には全くならなかったんですが。

これまで、カメラマンを描いた映画やドラマの殆どで、カメラの構え方から身のこなし、シャッターの押し方、機種やレンズ、ストロボなどの組み合わせ、などなど、本筋でないところにアラを見つけてしまうと、それが気になって集中できず醒めてしまう、ということが繰り返されてきたので、食わず嫌いというか。

しかし、観てみるとこれがなかなか面白い。
後半はベタな作りごとで少しダレましたが、殺人犯の現場検証のシーンあたりまでは、かなり誇張はされているけれど、自分のやってきたことと較べても、それほどの差はないな、と。
取材現場や編集部の会話や小道具のあれこれは、かなり丁寧に実話を拾っていると感じました。
観ているうち、自分が福山雅治になって現場に出ているような、変な気分になりました。

記者が張込み写真の画面にうっかり入ってしまい、激怒した経験は私にも三度あり、恥ずかしながら袋叩きにあったり、現場に深入りし過ぎて任意同行ですが警察に連れて行かれた経験もあり、現場のシミュレーションでは似たようなことあり、誘拐殺人犯を、警察車両を必死で呼び止めて窓を開けてもらって撮ったこともあり、リリー・フランキー演じる「チャラ源」は、かつて六本木界隈で接点のあった「タレコミ屋」を彷彿させます。何より、新人記者の二階堂ふみがよかったですね。

聞けば、大学、フライデーともに先輩の不肖・宮嶋茂樹さんが監修したようで、なるほどな、と。宮嶋さんは本人の役で出ていましたが、何か現場シーンでいちばん素人っぽい動きだったのは、「演技」に不慣れってことでしょうね。
実際、宮嶋さんが、現場であんなにヌケた動きをするはずがないですから。
さらにエンドロールを見ると、スチールに同じくフライデーの先輩、敏腕カメラマンの藤内さんの名が。
これはリアリティが出せるはずだわ。

今はデジタルで超高感度も自由自在、オートフォーカス、自動露出で新人記者でもシャッター押せば写る、しかも撮ってすぐにモニターで見られる。それと較べれば、我々世代が全手動のフィルムカメラでやってたことは、無形民俗文化財級の神業なのかも。

しかし……86年の「たけし事件」以前の写真週刊誌全盛期を経験した者としては、実売部数20万とか30万とか35万とかで大喜びする編集部のシーンは、なんかなぁ、と寂しく感じましたね。かつては毎週160万とか180万とか言ってて、一時は200万を窺う勢い、電車に乗っても同じ車両に数人は必ずフライデーを読んでる人がいましたから。たけし事件のあと、それが半減し、90年頃には、100万部の夢をもう一度、なんて言ってたものですが。そんな感想を持つこと自体、時代におくれてしまってるんでしょうね。

いまはスマホに喰われてるんですかね。

『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』講談社+α文庫 11月18日発売 見本出来

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『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』(講談社+α文庫)の見本が出来しました。

 

 

11月18日発売です。

予約受付中!

 

 

 

 

 

ちなみに表紙画像は、右から、昭和15年、零戦の初空戦に参加、平成10年、その時撃墜した中華民国空軍パイロットと奇跡の再会を果たした三上一禧さん(終戦時28歳、少尉)。第一線の空母零戦隊の指揮官で、戦後は私のインタビューに応えるまで頑なに沈黙を守り続けた日高盛康さん(少佐。終戦時28)。真珠湾攻撃、アリューシャン作戦、南太平洋海戦と空母零戦隊を率い、テストパイロットとして紫電改を実用化、大戦末期、三四三空飛行長として米軍に一矢を報いたのち、戦後は皇統護持の秘密作戦に従事した志賀淑雄さん(少佐。終戦時31)、志賀さんも私に会うまではほぼ沈黙を守っていました。そして、オーストラリア本土上空でイギリスの誇る名機スピットファイアを圧倒、その後も各地を転戦し、終戦の日、関東上空に来襲した敵艦上機と空戦、日本海軍最後の撃墜を果たした吉田勝義さん(飛行兵曹長。終戦時22)。

 

ほか、登場人物は、支那事変初期、「パネー号事件」に関わり、真珠湾作戦以来、機動部隊で転戦、ミッドウェー海戦で母艦を失い漂流、ガダルカナル島上空で敵戦闘機と刺し違え重傷を負い、戦後は幼稚園の園長を務めて今年99歳で亡くなった原田要さん(中尉。終戦時29)、支那事変以来、海軍有数の名パイロットとして知られ、台南空で、米軍の大型爆撃機B-17を何機も撃墜した田中國義さん(少尉。終戦時28)、真珠湾以来、空母零戦隊で転戦し、ラバウル、トラックでも活躍、昭和20年8月18日、日本海軍最後の空戦にも参加、戦後は釘の行商から身を起こしてビルオーナーになった小町定さん(飛曹長。終戦時25)、三四三空分隊長で戦後は航空自衛隊に入り、東京オリンピック開会式でブルーインパルスを地上指揮、航空幕僚長まで勤めた山田良市さん。

 

以前に上梓した著書と被る登場人物もいますが、新たな書き起しで、内容はより充実しています。

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

発売中!!『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』講談社+α文庫

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拙著『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』講談社+α文庫、発売中です!

 

 

 

 

講談社+α文庫の表紙は少し変わっていて、大型のオビに画像が入るので、オビをつけた状態でAmazonの画像、外せば楽天の画像の形になるのですが。

 

この場合、オビが表紙と言って差し支えないので、解説すると、表紙画像は、右から、三上一禧さん(終戦時28歳、少尉)、日高盛康さん(少佐。終戦時28)。志賀淑雄さん(少佐。終戦時31)、吉田勝義さん(飛行兵曹長。終戦時22)。

 

ほか、登場人物は、今年99歳で亡くなった原田要さん(中尉。終戦時29)、田中國義さん(少尉。終戦時28)、小町定さん(飛曹長。終戦時25)、山田良市さん。

 

以前に上梓した著書と被る登場人物もいますが、新たな書き起しで、大幅にエピソードも増え、内容はより充実しています。

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

   *

 

また、零戦搭乗員会が発行していた会報「零戦」に掲載されていた当事者の手記を集め、2004年、私と文藝春秋の小林昇さんが監修して文春ネスコから発売されたものの、長らく絶版状態になっていた『零戦、かく戦えり!』が一部内容を変更の上、文春文庫で再登場、12月1日発売予定です。

いまとなっては貴重な記事ばかりですが、なかでもソロモンの空で戦死した二五一空分隊長・大野竹好中尉の陣中日誌は、さまざまな書籍で紹介されていますが、なぜか改変が加えられていて、この本ではもっともオリジナルに近い形で収載されています。それだけでも価値ある本になっているかと思います。

こちらも併せてぜひお読みください。

 

 

 

 

 

 

 

真珠湾攻撃75周年

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12月4日、NPO法人零戦の会の慰霊祭を挙行した。

元搭乗員10名、ご遺族、会員各位、海自教育航空集団司令官はじめ陸海空の現役自衛官、自衛隊OBもご参加くださり、盛会のうちに終了。

 

12月8日は真珠湾攻撃75年。
 
今年は、安倍総理の真珠湾訪問が発表されたこともあり、それなりに話題になっているが、15年前、ハワイで行われた真珠湾攻撃60周年記念式典に、参加搭乗員らと出席した時、日本から来たジャーナリストは私だけだった。
 
これはその時の写真。
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カネオヘ基地、飯田房太大尉慰霊碑。弔辞を読む岩下邦雄氏(元大尉、平成13年当時零戦搭乗員会会長)。
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爆弾の痕。
{78563752-7E1F-4B47-9C81-F183982520FF:01}
 
原田要氏と、アメリカの元搭乗員。
{88C77E1A-814D-449D-A34B-72EE657127F0:01}
 
 
こんなふうに、現地では既に日米和解の流れが営々と続いてる訳で。60周年の時も日本の元搭乗員の人気は凄じく、行く先々でサインを求める長い列が出来た。原田要氏はミッドウェーで零戦に撃墜された米搭乗員と意気投合。そんな流れの総決算として意義ある訪問になるのではないか。
 
この作戦に攻撃隊として参加した搭乗員は、零戦、九九艦爆、九七艦攻合わせて770名。そのうち終戦まで生き残ったのは148名。
 
60周年の平成13年にはそれが30数名になり、この10数年で、殆どが鬼籍に入られた。
 
写真は、第二次発進部隊制空隊指揮官・進藤三郎大尉(のち少佐、戦後山口マツダ常務取締役)が保管していた、真珠湾作戦の軍機書類。
 
{9ADF0343-6453-4896-9DC5-B3F91F4E773B:01}
 
進藤さんは赤城第八分隊長(戦闘機)。
 
 
{D29D544D-E93D-4B7E-91C6-AC2DCBDF747D:01}
 
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{55740284-5CCF-4D8C-B675-729BAC357C7B:01}
 
{C9BCA0E0-6DB2-41EF-9DD3-46D59F09E41B:01}
 
{9763E0B5-8FA3-455F-BB72-7D75FEE24575:01}

 
 
拙著『祖父たちの零戦』(講談社文庫)の冒頭に出てくる書類である。
 
進藤さんが亡くなり、ほどなくご長男も病没され、いまは託されて私の手元にある。
 
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