6月4日、元零戦搭乗員で、5月3日に99歳で亡くなられた原田要さんの「お別れの会」が、長野市の善光寺忠霊殿で執り行われ、多くの人が集った。
私はNPO法人零戦の会の役員らと7名で長野に。
弔辞(謝辞)を読ませていただいた。
いろいろ思うところの多い一日。
以下、当日、私が読んだ長い長い謝辞を転載する。
謝辞
二十一年前、初めてお会いした時には、原田さんの生涯の終焉にあたって、まさか私が、原田さんが大切にされていた戦友会の会長として、感謝の言葉を読み奉るという大役を仰せつかるとは想像もしておりませんでした。と同時に、こんなに長くお付き合いをいただき、お世話をいただくことになるとも、思いもよらないことでございました。
原田さんとの出会いは、ふとした偶然からでした。
戦後五十年を迎えた平成七年夏、神田神保町の古書店で、たまたま手に取った海軍関係の名簿にお名前を見つけ、インタビューを申し込んだのが最初でございます。
原田さんからいただいたお返事によると、生まれ故郷の長野市で幼稚園を経営されているとのことで、勇猛果敢な零戦搭乗員が、いまは子供たちに囲まれて暮らしているという、そのコントラストにまず心を惹かれました。
原田さんとの出会いがなければ、私がその後、零戦搭乗員の戦中、戦後の人生を綴ろうと思うことはなかったかと存じます。
それまで私は、報道カメラマンとして、それなりの経験を積んできたとはいえ、自分の著書などなく、自分でいわば勝手に企画した原田さんの取材を、記事や本にする成算など、はじめから持っておりませんでした。率直に申しますと、原田家の呼び鈴を鳴らすまで、不安でいっぱいでした。しかし、
「いらっしゃい。はじめまして」
なんの屈託もなく迎えてくれた原田さんのお顔を見た瞬間、私はそんな不安がスッと消えてゆくのを感じたものでございます。当時七十九歳。やさしさが年輪となって刻まれているような表情でした。
深い慈愛をたたえた瞳が印象的でしたが、この瞳に、どれほど凄惨な光景が映ってきたのだろうと、ふと想いました。挨拶が終わらないうちに、玄関に顔を出した奥様の精さんが、
「まあまあ、遠くからご苦労様ですね。どうぞお上がりください」
と、声をかけてくださり、私は早くも原田さんご夫妻の温かさに包まれたような気がして、
「大丈夫だ。この取材はなんとかなる」
と確信したのを、昨日のことのように憶えております。
「戦争のことは思い出したくもないから、これまでほとんど人に話してこなかった」
と仰る原田さんが、私のインタビューに応えてくださったのは、戦後五十年の節目ということが一つと、もう一つは、平成三年年一月に勃発した湾岸戦争のニュース映像を見た若い人が、
「ミサイルが飛び交うのが花火のようできれい」とか、「まるでゲームのようだ」と感想を漏らすのを聞き、
「冗談じゃない、あのミサイルの先には人間がいる。このままでは戦争に対する感覚が麻痺して、ふたたび悲劇を繰り返してしまうのではないか」
と危機感を持ち、なんらかの形で戦争体験を語り伝えないといけない、と意識が変わったからだということでした。そのとき、原田さんは仰いました。
「私は戦争中、死を覚悟したことが三度ありました。最初はセイロン島コロンボ空襲で、敵機を追うことに夢中になり、味方機とはぐれて母艦の位置がわからなくなったとき。二度めはミッドウェー海戦で、母艦が被弾して、やむなく海面に不時着、フカの泳ぐ海を漂流したとき。そして三度めは、ガダルカナル島上空の空戦で被弾、重傷を負い、椰子林に不時着してジャングルをさまよったとき。
相手を倒さなければ、自分がやられてしまうのが戦争です。私は敵機と幾度も空戦をやり、何機も撃墜しました。撃墜した直後は、自分がやられなくてよかったという安堵感と、技倆で勝ったという優越感が湧いてきます。しかしそれも長くは続かず、相手も死にたくなかっただろうな、家族は困るだろうな、という思いがこみ上げてきて、なんとも言えない虚しさだけが残ります。私はいまも、この気持ちをひきずって生きているのです」
と。
原田さんは、大正五年、長野県に生まれ。昭和八年、水兵として横須賀海兵団に入団。昭和十二年二月、第三十五期操縦練習生を首席で卒業。同年十月、第十二航空隊の一員として中国大陸・中支戦線に出動。昭和十六年九月、空母「蒼龍」乗組となり、真珠湾作戦では母艦の上空哨戒に従事、その後、ウエーク島攻略、印度洋作戦に参加。昭和十七年六月、ミッドウェー海戦で母艦を失い、海面に不時着水、九死に一生を得て生還されました。同年七月、空母「飛鷹」乗組となり、十月十七日、ガダルカナル島上空の空戦で敵戦闘機と刺し違えて被弾、重傷を負われました。
奇跡的に生還され、内地に帰還の後は教官配置に就き、霞ケ浦海軍航空隊千歳分遣隊(北海道千歳基地)で終戦を迎えられました。協同、不確実をふくめ、十四機の敵機を撃墜した記録が残っております。総飛行時間は約二千時間。
近年、刊行された原田さんの本には、撃墜機数十九機、滞空時間八千時間と書かれたものもございますが、これは、残された記録とも、私が七十歳代だった原田さんからお聞きした数字とも違う、全くの間違いでございます。最終階級は海軍中尉でした。
戦後は郷里で自治会長などを務めたのち、託児所、次いでひかり幼稚園を設立。平成二十二年に園長を退任するまで、幼児教育に情熱を注がれました。
原田さんとはその後、ハワイ・真珠湾にもご一緒しましたし、毎年、温泉旅行もご一緒させていただきました。ご自宅にお邪魔した回数は数えきれず、東京で行われる戦友会の慰霊祭や忘年会にも欠かさずいらしていましたし、お孫様のご結婚の記念写真を私がお撮りしたこともございます。原田さんの九十九年の生涯はもとより、私のこの二十一年の想い出だけでも、ここで語り尽すことなど到底不可能です。そこで、私の心に特に印象深く残っているエピソードをご紹介したいと存じます。
私がはじめて原田さんとお会いした翌年の平成八年、原田さんは満八十歳を迎えられました。長野県下の幼稚園の園長のなかで、とび抜けて最年長でいらしたそうです。
「園長の会合に出ても、自分だけ年をとってて、なんだか恥ずかしくなって。そろそろ引退しようかと思ってるんです」
と、原田さんは仰いました。そこで私は、昭和七年の第一次上海事変で、日本で初となる敵機撃墜を果たした海軍兵学校出身の戦闘機乗りで、当時、千葉県船橋市で三つの保育園を経営されていた、九十三歳の生田乃木次さんという方のお話をしました。すると、
「戦闘機の大先輩にそんな人がいることを全然知らなかった。こんど紹介してください」
ということで、平成九年一月、私は原田さんご夫妻とともに、生田さんの「あけぼの保育園」を訪ねました。生田さんと原田さんとは、同じ海軍の戦闘機乗りで、戦後は幼児教育に身を投じた者として、互いに通じ合うものがあるように思えました。
「こういう人がいるんじゃ、俺も負けてられないな」
辞去するとき、原田さんがそうつぶやいたのを、私は憶えております。原田さんが引退の意思を撤回されたのは、その後のことでした。
生田さんという人は海軍兵学校出身のエリート士官でしたが、その生田さんが、九十歳を過ぎてなお、現役でいる姿をまのあたりにして、水兵から叩き上げた操縦練習生出身搭乗員としての意地に火がついたのかもしれません。原田さんは、お優しいなかにも、非常に負けん気の強い方でした。
原田さんはその後も園長として子供たちの敬愛を集め、平成二十二年、九十四歳の年に引退されるまで幼児教育を全うされたことは、皆様よくご存知の通りです。
原田さんを語る上では、七十年近く連れ添われた奥様の精さんに触れないわけには参りません。精さんは、原田さんが園長を退任されたのと同じ年、平成二十二年十一月に、八十七歳で永眠されました。
戦中は明日をも知れぬ戦闘機乗りの妻として、戦後は一転、「戦犯」呼ばわりをされ、公職追放に遭い職を転々とする夫を支え、激動の昭和を生きてきた精さんは、ご夫婦で幼稚園を設立してからはずっと、子供たちをやさしく見守ってこられました。
「こんど生まれ変わったら、もっと楽な人と一緒になりたいわ」
などと仰りながら、原田さんのことを思うお気持ちは、いつもひしひしと伝わってきたものでございます。
私が最初に上梓した、零戦搭乗員の証言集『零戦の20世紀』という本で初めて原田さんの戦中戦後の人生航跡を紹介して以来、「零戦搭乗員で幼稚園の園長になった人がいる」ということが広く知れ渡り、各種メディアの取材が引きも切らなくなりました。
原田さんは人を選ばず、来るものは拒まず、取材した側は喜んで帰っていくのですが、あるとき精さんに、
「主人はああ見えて、戦争の話をした晩は夜通し、苦しそうにうなされるんですよ。見ていてとっても辛くて。年も年だし、紹介してくれというお話はお断りいただけると助かります・・・・・・」
と言われてハッとしたこともございます。 そんな精さんに、原田さんは、
「生まれ変わっても、家内と一緒になりたい」
と、かねがね仰っていました。精さんあってこその原田さんだったと、私は信じております。
実は、この長寿社会にあっても、日本海軍の戦闘機搭乗員だった人で、百歳までご存命であった人は一人もいらっしゃいません。
原田さんこそが、その記念すべき第一号になられると誰もが疑わなかったのですが、満百歳まで三ヵ月を残して、残念ながらご生涯を閉じてしまわれました。
原田さんは、昨年、戦後七十年で注目を集められたことで、心身共にかなり参っておられたと仄聞いたしております。戦争体験を伝えることに熱意を持ってあたられた原田さんでしたが、それゆえお体に負担を掛けた感は否めません。
このような事態に立ち至ったこと、最初に原田さんの戦中戦後を本にした者として慚愧にたえず、深くお詫びを申し上げるものでございます。
戦争体験を伝えるということはどういうことなのか。伝えるためにはご本人を苦しめ続けてもいいのか。それが正義なのか。原田さんとの最後のお別れに当たり、自問自答をしているところでございますが、その答えはいまだ見つかっておりません。
原田さんのご生涯は、零戦搭乗員としての戦歴もさることながら、戦後、第二の人生で悉く失敗、五十歳を過ぎて始めた、第三の人生とも言える幼稚園園長を四十数年も続けられ、多くの子供たちを育てたこと、そして、実体験に基づき、子供たちに平和の大切さを身をもって教え続けたことこそが真骨頂なのではないかと存じます。
「まず物は大事にしなさい、どんな物でもその物の身になって、けっして無駄には使わない、それが自分の命を守ることにつながるんだよ」
――原田さんの左腕には、ガダルカナル島上空で負ったすさまじい銃創が残っていました。そんな実体験に裏打ちされた言葉は、限りなく重いものでございました。平和を希求する原田さんの思いは、子供たちにもきっと伝わっていたに違いないと存じます。
「軍隊や戦争のことでいい思い出なんて一つもない」と仰る原田さんでしたが、一方で、つねに亡き戦友たちへの哀悼、追慕の念、そして海軍の戦闘機乗りとしての誇りを胸に秘めておられました。
ある年の八月十五日、靖国神社に参拝をご一緒した際、不躾にマイクを向けてきたテレビのレポーターに「A級戦犯合祀をどう思いますか。どうして参拝されるんですか」と聞かれ、「友達に会いに来てるんだ。それのどこが悪い」とめずらしく声を荒げて憮然とされていたのを思い出します。
そのレポーターには理解できなかったようでしたが、平和を願う気持ちと、靖国神社に詣で、そこに祀られている戦友の御霊に首を垂れる気持ちは矛盾しません。靖国神社で、あるいは戦友会で、そんな思いの一端にも触れてきた者としては、原田さんのご生涯を、最晩年の短時間のお話だけをもとに、一部新聞記事にあったような「平和活動に熱心だった元零戦搭乗員」という、薄っぺらいレッテルで括ってほしくはありません。
思い出は尽きませんが、あまりに長くなりましたので、以上をもって、私の感謝の言葉とさせていただきます。
原田さんとお会いできて、私は幸せ者でございました。これは、ここに会された皆様も同じお気持ちであろうと存じます。
原田さん、日本のために戦ってくださり、また私ども戦後世代を親身にお導きくださってほんとうにありがとうございました。安らかにお眠りください。
平成二十八年六月四日
特定非営利活動法人「零戦の会」会長 神立尚紀